初恋の思い出
『素晴らしい!君の声は、まるで朝露のしずくのように爽やかで心を癒し、僕に今までにないインスピレーションを与える。君は、僕のミューズだ!』
八年前、初めてあなたの前で歌を披露した時、歌が終わるや否やあなたは立ち上がり、わたしをこう賛辞して下さいました。
リヒッテ侯爵夫人のサロン。
わたしの歌の先生が、たまたま夫人のサロンで『歌の上手な子爵令嬢がいます』と話題に出したことから、招かれて小品を一曲歌った直後のことでした。
あなたは、名門ウルルス伯爵家の嫡男でありながら、音楽の才能でも名声を欲しいままにしている天才作曲家。気まぐれで、興が乗った時しか作品を作らないのに、発表されたものはすべて人々の心の琴線に触れ、感情をゆさぶる。
わたしは実際舞い上がっていました。
あなたの作る音楽に以前から傾倒していましたし、あなた自身が、まるで自身が創った音楽のように雄々しく、美しく、感情豊かな方であったから。
『僕のために歌ってほしい』
サロンでお会いした翌日、あなたは一枚の楽譜を携えて、我が家に突然いらっしゃいました。
ウルルス家の方をお迎えできるような家柄ではありません。
両親も、使用人も、上に下に大騒ぎしていましたけれど、あなたはそんなこと気にも留めず、我が家の小さな遊戯室にあるピアノのふたをさっと開けると、すぐさま音楽を奏で始めました。
ああ、その時の感動といったら…。
わたしの中で、目の前には無い木漏れ日や、川面のきらめき、次々落ち砕けるしずく…、きらきらするものがあっという間に膨らみ弾け、気が付けば、あなたの横に立ち、ピアノの音色に合わせて、言葉にならない歌を歌っておりました。
『レディ・マリオン!やはり君は僕がずっと探し求めていた人だ!僕は君の声無くして、曲を作れなくなりそうだ』
曲が終わった時の高揚感。没入感。そして、体験したことのない快感。
確かにわたしが、あなたを自分の半身のように感じた瞬間でした。
それからあなたはおっしゃった通りに、わたしのための歌曲だけを何作も何作も作られました。
最初は我が家の遊戯室の小さなピアノで歌っていたのが、ある時から伯爵家の大きなサロンのグランドピアノの前で歌うようになり、最近では、様々な音楽がお好きな高位貴族の方のサロンに招かれ歌うことも増えました。
我が子爵家にとっては、雲の上のような方々のお宅に招かれ歌ううち、我が兄の縁談が資産持ちの男爵令嬢との間に決まり、父の商会で取り扱っていた我が領の独特な織物の受注が増え、我が子爵家は今までにない喜びに包まれていました。
そして、わたし自身も、あなたが『ミューズ』と呼んではばからず、どこへの招待にも伴って現れることから、社交界の音楽好きの方の一部では、あなたのパートナーとして見られるようになっていました。
ただ、実際には、音楽以外のものを、あなたと共有したことはなかったのですが…。
そんなある日、とうとうわたしは王妃様が主催される音楽サロンに、あなたと招かれました。
あなたは何度も招かれたことがあったようですが、わたしは初めて。
何を着て行けば良いかすら、思い浮かびませんでした。
『僕の幼馴染の伯爵令嬢が、君の支度を手伝ってくれる』
それは、時々あなたの口からお名前が出ていた、ジュヌビエーヴ様でした。
嫌な予感はあったのです。
あなたのお屋敷で引き合わされたジュヌビエーヴ様は、社交界の評判そのままの、まるで春の女神のような方でした。
『まあ、アラン、その色はマリオン様の御髪の色に合わないわ』
あなたが選んで下さったドレスは、どれもよく見ればジュヌビエーヴ様にぴったりのもの。
くすんだ麦わら色のわたしの髪には合いません。
『女性の姿は、どれもジジのイメージで考えてしまうんだよ』
『まあ、アランの目はどこについているの。ちゃんとマリオン様をよく見て』
でも、あなたの視線は、ずっとジュヌビエーヴ様から動くことはありませんでした。
美しい彼女に、釘付けだったのです。
アラン、ジジと、仲睦まじく呼び合うお二人を見て、わたしの心は沈みます。
でも、ジュヌビエーヴ様がわたしに合う装いを揃えて下さって、試着してみせた時、あなたはわたしをその日初めてしっかり見て、大きな声を上げられました。
『ああ!また新しいメロディーが頭の中で奏でられた!あふれだす前に、書き留めなければ!』
急いで部屋を飛び出すあなたを見て、ジュヌビエーヴ様がおっしゃいました。
『あなたは本当にアランのミューズね』
と。
わたしの沈んでいた心は浮上しました。
王妃様のサロンでの歌の披露も、これ以上ないほどのお褒めの言葉をいただき、わたしには王宮のサロンへの出入り自由の身分が与えられました。
子爵家の人間としては初のことらしく、大層な誉となりました。
あなたも自分のことのように喜んで下さり、ジュヌビエーヴ様の前で覚えた不安は、いつしか霧散していました。
ただ、相変わらず、あなたとわたしが共有しているのは、音楽、ただそれだけでした。
しかし、そんな日々は、突然終わりを告げました。
ある日、あなたに招かれてウルルス家のサロンに足を踏み入れると、そこにはあなたとジュヌビエーヴ様がいらっしゃいました。
そして、一枚の楽譜を渡されます。
衣装合わせの日、あなたに突然舞い降りた、あの楽曲でした。
『あの日レディ・マリオンと一緒にいるジジを見ていて生まれた曲だよ』
わたしは、その言葉に一瞬心臓が止まりそうになりました。
ジュヌビエーヴ様を見て生まれた…。
麦わら色のわたしと並ぶ、春の女神のようなジュヌビエーヴ様を見て生まれた?
では、この曲のミューズは、わたしではなく、ジュヌビエーヴ様?
ふと見ると、ピアノの前に座ったあなたは、今から一緒に曲を合わせるわたしではなく、ジュヌビエーヴ様を見つめていました。
すぅーーーっと、額から、血の気が引く気がしました。
足元の感覚があやふやになり、ああ、このまま倒れてしまえば、この曲を歌わなくて済む…と思った時、目に入ったのは、ジュヌビエーヴ様の気遣わし気な表情でした。
憐れまれている…。
きっとジュヌビエーヴ様はわたしの心の内など、すべてお見通しなのです。
高位貴族の令嬢として、社交界で立派な評判を得ている方です。
こんな分かりやすい状況を読み間違えるはずがありません。
そう思った瞬間、わたしの中にちっぽけな矜持が芽生えました。
傷つこうとも、あなたに、無様な姿だけは見せまいと。
ジュヌビエーヴ様に憐れまれるだけで終わりたくはないと。
わたしはピアノに手を付き、まるで何事もなかったかのように、しっかり足を踏みしめました。
そして、いつもの発声で喉を整え、あなたの奏でるメロディーで音を合わせ、あなたとジュヌビエーヴ様のため、心をこめて歌い上げました。
多分、王妃様の前よりも必死で…。
最後の音の余韻が消えた時、ジュヌビエーヴ様は立ち上がり、あなたに手を伸ばしました。
あなたも、ジュヌビエーヴ様をしっかりと抱き締めていました。
わたしは、そこで、分かりました。
わたしは、あなたの音楽のミューズではないのだと。
わたしは、あなたの音楽のための、楽器でしかないのだと。
ただ単に、新しい楽器が、あなたの音楽にインスピレーションを与え、次々に音楽を生み出すのを助けたのだと…。
わたしはお二人に拍手をしました。
お二人はわたしにむかっても拍手を下さいました。
『素晴らしい歌をありがとう』
と。
ええ、お役に立てて良かったです…。
それからしばらくして、あなたとジュヌビエーヴ様が婚約したと、直接お手紙でお知らせいただきました。
名門貴族同志の婚約として、新聞の社交欄でも大きく取り上げられていました。
音楽好きの貴族の間では、少しだけ、わたしとの関係はなんだったのかと噂が立ったようですが、実際には何もなかったのですから、数週間経つころには、そんな話題が人の口に上ることすらなくなったようです。
わたしは今は、王妃様のサロンで見初められ熱心に求婚して下さった辺境伯の妻として、三人の子どもにも恵まれ幸せに暮らしています。
そして、あなたが以前のような傑作を生み出すことができなくなったという噂に、大切にしてもらった楽器として、すこーし心が痛んだりいたします。
ただ、歌はもう歌っていません。
子守歌以外は。