こんなにつまらない本がなぜ心をざわつかせるんだろう
ドラマチックな恋も素敵だけど、始まりがいつだったのか分からないような染み入るような恋も素敵。
本なんて好きじゃない。なのになぜこの本を手に取ったのか、そんな疑問すら持たない位何も考えずに、その本の最初のページを開いた。
(今日からこのアパートで一人暮らし。荷物もすぐに片付けたし、お隣へご挨拶もした。近くのコンビニで買って来たビールはやっぱり苦い。いつか美味しく飲めるのかな。一人暮らしをしたら、お酒を飲んで1日のお疲れ様会を自分にしたり…なんて。店員のお兄さんの愛想は悪いけど、近くにコンビニがあるなんて最高!)
…なにこれ。日記?私はプチテラスの花壇のヘリに座りながら、さっき古本屋で買った本を読んだ。
本当に、気まぐれで買った本だった。ふっと何かの気配を感じた気がしてそちらを見ると、古本屋の前のワゴンセールの中から、この深い青色の表紙の本が浮き出て見えた。浮き出て見えるなんて、それならもう手に取る運命ということだと思って、私は本のタイトルも確認せずに購入した。
この、淡いピンク色に充ちた世界では、目を閉じるよりも深い暗さの青色が異質にも見えた。
私の生きるこの世界は、ちょっと不思議。空は青いのに「空は青い」と意識しなければ青さに気がつかない位、光は淡いピンク色。一年通してほとんど寒くも暑くも無いのに、春には柔らかな光と優しい花の香り、夏にはギラギラと眩しさを感じ、秋には土の香りと日の陰る気配、冬には刺さるような光の強さを感じる。確か、光には温度があって、私はそれを知っているはずなのに、この町ではそれがどんなものだったのか思い出せない位、どの季節も快適だった。私の住む家の近くには、素敵な商店街がある。古い看板建築のお店や新しい中層ビル、こぢんまりとしたカフェなんかもあったり、歩いていて行きたい所を頭に浮かべれば、お店の方から目の前に姿を現す便利な商店街だ。だから、車や電車に乗るのは、よっぽどの都心に出るときだけで、私は乗った事がない。近くに車も通る大きな道路もあるけれど、車に乗る人達は一体どこまで行くのだろうとすら思う。
商店街の中には、憩いの場として小さなテラスがある。ベンチが幾つかと花が咲いている植え込みだけの小さなスペースで、チューリップの植え込みのヘリに座って、さっき買った本を読み出した。
内容は、短大を出たばかりの普通の女の子が、本屋さんに就職をして、それを機に独り暮らしを始めたという日常をただつらつらと書いた、本当に普通の、普通以上に何も無い平和な話だった。今日入荷の本は面白そうだの、本の運びすぎで筋肉痛だ、とか、学生さんに専門書の事を聞かれたのに上手く答えられず、必死に探していたけど、結局お客様である学生さんが見つけて自己嫌悪…だったり、最近ビールの美味しさが分かってきたとか、読んでいる途中で何でこの本を買ったんだろう?と思う程、どうって事の無い内容だった。
「何か、つまんない子。」
彼女は、初めての一人暮らしを始めたというのに、家と職場の本屋さんと、スーパーで買い物する毎日で、何処かへ出かける様子も無かった。唯一の趣味と言えるものが、近くのコンビニの限定スナックを、時々ご褒美として食べているくらい。
何か、新しい生活を始めた主人公って、気になる男の人が現れたり、新しい自分と出会ったり、もう少しキラキラしているものじゃないのかな?
「あら、本を読んでいるの?」
おっとりとした話し方に張りのある声が聞こえて顔をあげると、チャーミングなおばあちゃんがベンチに座ってにっこりとこちらを見下ろしていた。
「茅子さん、いらっしゃい。」
「またそんな所に座っちゃって。ベンチにちゃんと座れば良いのに。」
「だって茅子さん来ると思ってたから。ベンチじゃ離れちゃうじゃない。」
このテラスのベンチは、一人掛けのベンチの間ごとに花の植え込みを挟んだ作りになっていて、コスモス、アヤメ、スイレン、等がいつでも生き生きと花を咲かせている。茅子さんは、この永遠のチューリップの植え込みの隣のベンチが特等席だ。
「そうねぇ、私も貴女が来ているんだろうなって考えながら家を出たら、もうここに座っていたのよね。この不思議は便利なんだけど、運動不足になっちゃうわよね。」
「でも、この世界には病気なんてもの無いんだし、楽で良いじゃない。」
この世界には決定的に悪いものは不思議の力で寄せ付けない。それは、この世界の理を創った最初の人によって、そう決められたから。不思議の無い世界から不思議の世界へやって来て、この世界の最初の理を創った時に、前世界で大切なモノを失って喪失感に苛まれたその人は、この不思議の世界で怪我や病気など、悲しみに繋がるものは無くしてしまったのだ。常に快適な気候で、リラックス出来る柔らかな淡いピンクの光、車による事故なんかも起きない。遠くへ行かなくても、望めば望みの場所へ行くことが出来る不思議の商店街。散歩のつもりで歩いても、ふと「あ、あれがなかったな…」なんて考えると、もう隣にはその店がある。私は、服を買うにしてもこの商店街で間に合ってしまう。こんなに便利なシステムと、気分が上がるピンクの光の世界を造ってくれた最初の住民のセンスに感謝したい。でも、茅子さんはなるべく自分の足で行けるならばどこへでも行きたいと言う。
「いくら健康でも歩き方が不恰好じゃ、私の王子様に会った時に恥ずかしくて一緒に歩けないわ。」
茅子さんの言う、「私の王子様」とは旦那さんの事。茅子さんが前に教えてくれた。
茅子さんと旦那さんは、同じ町で生まれ育った。旦那さんは近所に住む頭が良くて好青年と評判の色白のお兄さんで、町の少女達にとって憧れの人だったそうだ。茅子さんもずっと憧れ続けて、大人になったら絶対にこの人と結婚をするんだと子供ながらに決意をしたそうだ。けど、年齢差もあったし、いつまでも近所に住む子としか見てもらえず、親しくなる事も出来ないうちに、お兄さんは大学へ進学をして何年も会えなくなってしまった。けれど、茅子さんは諦めずに思いきって手紙を送った。そうしたら、お兄さんから返事が来た。茅子さんもその返事を送り、また返事が来て…そうやって、会えない数年間を手紙のやり取りで仲を深めた。そして、お兄さんが大学を卒業したある日、茅子さんが家を出ると、お兄さんが茅子さんを迎えに来ていたそうだ。「その時の凛々しさは、王子様そのものだったわ。」と、懐かしむ笑顔は、少女のように可愛らしかった。今は大事なお仕事で旦那さんは遠くへ行っているらしい。
「私にも王子様が来てくれたら良いのになぁ。」
「ただ待っているだけじゃダメよ。ちゃんと自分で王子様を見つけたら、さりげなくガラスの靴を落とさないと。」
「茅子さんの手紙はガラスの靴って事?」
「そうね、ずっと憧れていた人だもの。自分宛の手紙をそのままにするような人じゃないことは、分かっていたしね。」
「茅子さんの王子様、早く帰って来ると良いね」
「そうね、あんまり遅くなると私もっともっとおばあちゃんになってしまって、あの人がガッカリしないか心配だわ。」
「そんなこと…」
(心配ないよ)と、言いかけたら、先に「心配無いでしょう!」
と、抑揚の無い大きな声がして見上げると、ボサボサの髪から覗く鋭い目をさらに細めて笑う背の高い男の子が立っていた。
彼は、最近プチテラスに来るようになった、私より少し年上の男の子で、私はこれで会うのは3回目…かな?彼は最初、馴れ馴れしい感じで話しかけて来たけれど、私が彼の勢いに引いているのを感じたのか、それからはちょっと距離感を持って接してくれているみたい。茅子さんとはもともと知り合いだったようで、茅子さんとは親しげに話しをしている。
「茅子さんはいつでも綺麗で素敵なおばあちゃんですよ。」
「あら、おばあちゃんなのは否定しないのね。」
と、いたずらっ子のように茅子さんが笑うと、彼は「いや、その…。」と慌てて言葉を詰まらせてしまった。
「あっはは、いいのよ、陽太君。本当は私、おばあちゃんだからって若い頃の自分に負けているとは思って無いもの。」
陽太君はほっとした顔で「そうです。男にとって、心から好きになった人は永遠のマドンナなんです。」
と言うと、茅子さんは「そうでしょうとも。」と、余裕の笑みを浮かべた。そして私と陽太君を交互に見て意味深にふふふと短く笑った。
「あなた達、こんなおばあちゃんと商店街のテラスでおしゃべりなんて物好きね。私の孫なんて、あなた達位の年には彼女や友達と車で色々出かけていたわよ?私も時々海に連れていってもらったし、色々行ってみたくならないの?」
陽太君は頭をかきながら「車の運転はどうも苦手で…。」と答えて私をチラリと見た。
「遠くに行きたい願望無いしなぁ…。茅子さんのお孫さんみたいに、誰かと一緒に出かける目的でもあれば、違うかもね。でも、私は茅子さんとここでおしゃべりをしているのが好き。」
「ありがとう。私もここで若い人と話すのは楽しいわ。だから、ついつい長居しちゃうのよね。さて、今日はもう他へ行くから貴方はここへ座りなさい。陽太君、それじゃあね。」
茅子さんは、プチテラスから歩き出すと、キラキラとピンクの光の向こうへ消えて行った。
「…帰っちゃった。」
「茅子さん、もうすぐ王子様が帰って来てくれる気がするってこの間言っていたから、家から離れるとソワソワしちゃうんだよ。」
「やっぱり女の友情より王子様よね。」
「はは…僕は友情も悪く無いと思うけどね。」
「私は王子様に来て欲しいなぁ!」
と足をバタバタさせると、膝に乗せていた本が勢いよく落ちた。
「あれ?本なんて…嫌いって前言ってなかった?」
陽太君は落ちた本を拾い上げて、中をパラパラとめくって見た。
「ああ、さっき何だか目について買ったんだけど…すっごくつまらないの!でも、不思議と続きが気になっちゃうのよね。」
そう話す私の言葉が届いているのか分からない位に、陽太君は本の中身を真剣に読んでいるようだった。
「…どうかした?」
彼は本を読みながら、ふるふる震えて本で顔を覆った。
「ぷっ…あっはははは!」
顔を被いながら笑いが止まらない陽太君は、そのまま地べたに座り込んで、
空を仰ぎ深く「あーあ。」と息を吐いてやっと笑いが止まった。
「…そんなにその本面白い?」
笑いすぎて滲んだ涙をぬぐって陽太君は大きく首を振った。
「いいや!スッゲェ普通!何で買ったの?」
まだぷぷぷと、笑いを噛み殺しながら聞いて来た。
「だから、何となくだってば…。」
「でも俺はこの本の中の子好き。つまらない事もいちいち覚えていたり、しょげたりして、こういう子の事を゛いとおしい゛って言うんだろうな。」
そう言いながら、陽太君は本を私に差し出した。
「そんなに気に入ったなら貸そうか?」
「いいや。君がこの本を最後まで読んで。それで、どうだったか俺に教えてくれない?」
「ええ~、何それ宿題?」
「いやいや、せっかく本を読む気になったみたいだし。本が嫌いなのに読もうと思ったならぜひ読んでみたらいいよ。別に読んでも、どうって事なかったら、これっきりでも良いし。」
「最後まで読めるかなぁ…。」
そして、彼の手から本を受け取った。
その夜、ベッドの上でその青い表紙を開いた。夜の紫の暗闇の深さよりも、深く、色の濃い表紙を開くのは、昼間よりも気持ちが静かだった。
(…本が好きで、本に関わる仕事がしたかった。大学で文学を学んでも、卒業する頃に悟ったのは、私には物語は紡げないし、雑誌の編集をするだけの能力も無いということだった。そんな私が、せめて人と本の出会いの場に立ち合えたら…と、すがり付くように書店で働いていても、今日みたいに、お客さんに迷惑をかけてしまうのかもしれない。小説やマンガなんて、自分が好きだから詳しいだけだし、自分自身が新刊が出るのを楽しみにしているんだもの、案内も出来て当たり前だ。本当に人と本の出会いを思うなら、全然興味の無い分野でも、本の場所位案内出来ないと…。あの学生さん、一緒に探しているときも、じっとこっちを見ていたなぁ…。書店員の癖に、何で分からないんだよって思ったのかも…。だって結局自分で見つけていたもんね…。何だか難しそうな電子工学の本だったなぁ…。「ありがとうございます」って言ってくれたけど、目も逸らしていたし…。あぁ、情けない。
うだうだ考えながら、ちびちびと飲むビールに、この苦々しい気持ちがよく馴染む気がした。これが、美味しいって事なのかも知れない。そう思ったら、もう一本、ビールを買いにコンビニに向かっていた。本当は、コンビニでビールを買うと高くつくから、普段はスーパーで食材に紛れさせてビール飲料を買っていたけれど、今日は本物のビールを飲みたい気分だった。しかも、ふらっとビールを買いに出る状況に憧れていた事も、買いに走る要因になったと思う。
夜の10時のコンビニは静かで、店員のお兄さんの「いらっしゃいませー」がお客さんのいないコンビニの中で響く。350mlのビールと、このコンビニ限定のゴボウチップスをレジへ置くと
店員のお兄さんが袋に入れようとしたので「袋いらないです。」
と断ると、店員のお兄さんは袋に入れたビールを出しながら
「今日はありがとうございました。」
と、唐突に、抑揚の無い声で言った。
びっくりして目線を上げて顔を見てみると、長い前髪の隙間から、目と目が合った。
「あれ、電子工学専門書の…」
「やっぱり、気が付いて無かったですよね。僕も、さっき確信したんで無理無いです。」
目の鋭さとは逆に、お兄さんはずいぶんと柔らかく笑った。
「すいません!中々今日は見つけられなくて…。ずいぶんと時間を無駄にしてしまって本当にすいませんでした。」
すでにお酒が入っていたせいもあり、顔が熱かった。
「あ、いや、本当はダメ元であるか聞いたので反って申し訳無かったなと思って。だから、見つかった時は嬉しかったですけど。」
「でも、結局お客様自身で見つけられたし…。」
するとまた、お兄さんは柔らかく表情を緩めて
「今はお姉さんがお客様ですけどね。」
と言うものだから私も「ふふっ」と声が漏れた。
「本を探してもらっている間、ずっと ゛コンビニに来るお客さんじゃないかなぁ゛と思っていたんですよ。」
「それで見ていたんですね!私、てっきり頼りないなぁって思っているのかと思って…全然お兄さんの顔が見られなかったです。」
「見ていたのはバレていたのかぁ!すいません、女性をジロジロ見るなんて、失礼ですよね。」
「いやいやいや、私なんて見た所で何の目の保養にもならず、申し訳無いです。」
「何ですか、それっ。」
お兄さんはぷはっと笑って、私もつられて笑った所で、コンビニの自動ドアが開き「いらっしゃいませー。」と、お兄さんはすぐに店員さんの顔に戻った。
私はビールとゴボウチップスを持って軽く会釈をすると、お兄さんは
「ビールを買うなんて、大人っすね。」
と、にやっとした。)
昨日思いの外、一気に読んでしまった本の物語を思い出していた。物語…なのだろうか。あれは…。
そんな事を考えながら、私はプチテラスに向かって歩いていた。
歩く…。目的地は決まっているのに、今日は、なかなかそこへは着かなかった。商店街へ行く途中で、大きな街道を渡らなくてはならない。割りと車通りの多い街道で、それなりに早く通り過ぎる車に、信号が変わるのを待っている足は後ろへ後ずさってしまう。
「本、読み終わった?」
はっとして振り返ると陽太君が立っていた。
「読んだよ。やっぱりつまらなかった。」
「そっか…。他には?」
「他に?」
少し、考えてから答えた。
「心がざわついた。」
それ以上、どう伝えたら良いのか解らなかった。ただ、陽太君に伝えたいものがあるのに、それをどうやって伝えたら良いのか、言葉が見つからない。
「…茅子さんだ。」
陽太君が呟き、目線を追うと、街道の反対側の道に、背が高くて色白の綺麗な男の人のエスコートで白い車から、茅子さんが降りて来て、こちらに向かって笑顔で大きく手を振った。
私も大きく手を振り、なかなか替わらない信号が青になるのを待った。
「茅子さんのお孫さんかなぁ?すごくかっこいいね!」
「いや、王子様だよ。」
陽太君は切なそうに笑い、小さく手を振り返した。
茅子さんは私達に何か言葉をかけて、男の人と笑い合った。そして、素敵な笑顔のまま車の中に戻り、男の人も私達に会釈をして、運転席に乗り込んだ。助手席の窓ガラスから、私達に微笑む茅子さんは、もうすっかり少女に戻っていた。そして、運転する男の人と楽しそうに話ながら、その白い車は私達から遠ざかって行った。
「茅子さん、わざわざ俺達にお別れを言いに来てくれたんだよ。」
私は、もう信号が替わるのを待ってはいなかった。そうだね、もう私にも分かるよ。茅子さん良かったね。…さようなら。
(私は、二人分のお弁当を持って小高い山から咲く桜を眺めていた。
「お弁当、一人で食べきれるかな…。」
出会った時から、少しずつ、少しずつ、距離を縮めては臆病さから距離を取ったり、それでもまた近づき…そして、時間をかけて愛を育んで来たと思っていた。愛してもいいんだと安心してしまったのがいけなかったのか。
一緒に暮らすようになって何年も経つのに、私は彼の事を分かっていなかったんだ。
彼は大学で、目の不自由な人の為、電気信号によって脳に直接映像を映す研究していた。
けれど、それはなかなか思うように行かず、日に日に彼が追い詰められているのも感じていて、一緒にいても、空気が重くのし掛かっていた。
彼がそこまでこの研究にのめり込んでいたのは、恐らく私のせいでもあった。私は、本が好きで好きで、毎日、文章を目で追うだけで幸せを感じる。私が勤める本屋で、店員とお客さんとして出会った彼にも、色んな物語を勧めた。その度に、彼は困ったように「じゃあ読んでみようかな。」と答えては、途中で読むのを忘れて、自分の研究に関係のある本や論文に夢中になり、私が声をかけるのをためらうほどそれらを真剣に読んでいた。でも、そんな彼を見ているのも好きだった。
けれど、そんな穏やかな日々は緩やかに失われていった。近頃光を奪われるように視界が狭くなっていた。
いずれ私の目は何も映さなくなるだろう。
そんな事を考えては落ち込み、彼への当たりも強くなっていたと思う。
今週末にお花見に行こうと、リビングで二人で話していた時、これが最後の花見かも知れないな、と、不安になり、呟いた。
「もし、このまま私の目が見えなくなったら桜の花も、本も読めないな。」
すると彼は、抑揚の無い声で
「点字の本もあるよ。」
と答えた。すうっと、私は自分でも抑えきれない程の怒りが込み上げて来た。
「点字の本を読めばいいって本気で思ってるの!?だから、大したこと無いって言いたいの!?」
「そんな事は言ってないよ。ただ、あるよって言っただけで…。」
「私が被害妄想なだけだよね!分かってるよ!子供の頃から本ばっかり読んでてメガネを掛けた暗い人間だったし!目が見えなくなって来て、焦ってて怖がっていて、下らないって思ってるんでしょ!?私だってウジウジ悩んだりしない前向きな人間になりたかったよ!生まれ変わるなら愛嬌があって、本ばっかり読んでたりしないような子になりたいよ!そうなれるならいっそ死んじゃいたい!」
そこまで言うと、彼の目の色が変わった気がした。彼は手を高く振りかざして、私はとっさに叩かれると思い身構えた。けれど、彼の手は私を通り越し、後ろの壁を何回も殴った。彼の強い怒りを初めて見た私は、怖くてその場に固まり動けなくなった。
彼は、荒くなった息をどうにか整えようとしていた。そして、落ち着ききらないうちに、服やノートパソコンなどを押し込むように鞄にしまい、簡単な荷造りをして「ごめん…。」
と、小さく呟いて私の事も見ずに玄関を出た。
それっきり、二人で暮らすこの部屋には戻って来ていない。
「お花見までには帰って来ると思ったんだけどなぁ…。」
ひょっとしたらと思い、二人で毎年行く、近くの小山の桜の木の下に立って、彼を待っていた。交通網が複雑なターミナルの側にあるこの自然豊かな小山へ登ると、まるで現代から隔離されたように草木の繁る公園と桜並木がある。このガラリと景色が変わる所が私も彼も気に入っていた。桜のだいぶ散った頃の、桜のがくの濃いピンクと葉の緑が多い桜と、風が吹く度に薄ピンクの舞う姿が好きで、毎年シーズンが終わりかけの頃の桜を見にこの小山に来ていた。今だって、桜の見頃も過ぎて、葉桜をわざわざ見に来る人は少なかった。そして、彼も来なかった。
日もだいぶ傾き暗くなって来て、昼ご飯のつもりで用意した二人分のお弁当を、いよいよ一人で食べる覚悟を固めた。小山を降りるともう現代へと戻って来ていた。見上げると、空はまだ青く、小山から桜の花びらが降り注ぎ、風に舞うピンク色の光の嵐の中、強い衝撃を感じ、バランスを崩した体は、ふわりと浮いたような感じがした。)
そうか、このピンクで淡い光の世界は、私が最後に見た色なのか。もはや、地面があるのか、ここがどこなのかもふわふわと不安定だった。
「藍。俺が分かるか…?」
「アイ…。そうだ、私の名前は藍だ…。私はつまらない自分が嫌だった。あの日、桜を見ながら、こんなピンク色の似合う、ふんわりとした可愛げのある人になりたいって思ったんだった。」
そう、陽太に言うと、彼はポロポロと涙を流して私をそっと、震える手で抱き締めた。私も、目から涙が流れるのを感じた。
あの日、ピンク色の桜の花びらを見ながら地面に落ちるまでの間「本なんて読めなくなってもいいのに。大好きな本よりも、陽太を困らせる事の方が嫌だ。」そんな事を思った事を思い出した。
「俺…なんであんなに意地になったのか…後悔した。一緒に桜を見に行っていれば、あの日、藍はあんな目に合わなかったはずだって…。」
陽太の腕に力が入って、抱かれた肩が痛かったけれど、その痛みが嬉しかった。
「でも今、会いに来てくれたじゃない…。」
そして、ハッとした。
「待って!陽太が会いに来てくれたって事は…陽太まで死んじゃったの!?」
血の気が引くような感じがして陽太に聞くと、陽太はきょとんとした顔をして、そしてすぐ笑った。
「俺は死んでないよ。そもそも、藍だって死んでいない。」
訳が分からなかった。急に色んな事を思い出して、頭も混乱気味とはいえ、この不思議な世界が私達が住む平凡な世界で無いことはよく分かるから。
「…あの事故で、藍は頭を強く打ったんだ。命は助かったけれど、それっきり、目覚める事は無かった。」
「脳死って事…?」
「…そう思われてた。」
陽太は私の頬を撫でながら話を続けた。
「向こうの藍は、もう何年も寝たままなんだ。でも、俺は、脳死だなんて言われても藍を諦めることが出来なかった。いつか目覚めるんじゃないかって。そんな頃に茅子さんと出会ったんだ。」
「向こうの茅子さん?」
陽太はこくりとうなずいた。
「いつも通り、藍の病院に行って、花の水を換えようと病室から出た時、茅子さんと、茅子さんの車椅子を押すお孫さんにぶつかって、スマホを落としたんだ。それを茅子さんが拾って、待受の俺と藍の写真を見て『あら、私の夢の中のお友達にそっくりだわ』って。」
茅子さんが私を友人と呼んでくれた。もう会えない事がとても寂しくなった。
「茅子さんは、その何日か前に藍の入院している病院に意識を失くして入院をしていたんだ。眠っている間に仲良くなった女の子がいて、それ以来、眠ると時々、その子と会って話をするんだって。何だか不思議な話だけど、俺その話を聞いて、藍がちゃんと生きている世界があるんだって確信したんだ。」
それから陽太は、とても長い話をした。もともと脳波を研究していた。どうにか、茅子さんや私が見ている夢に自分も入れないだろうか。夢の世界にどうすれば入れるだろうか。その世界のどこに行けばいるんだろうと。茅子さんにも協力してもらい、何年も研究をした。その間に、茅子さんは退院をしたり、研究が行き詰まったり、また茅子さんが入院したり。けれど、どうにか茅子さんと私の脳波が同じような波長で眠りについていることが解った。そして、自分もその波に乗って眠りにつけば、共通の夢の中に入れるんじゃないか、という考えに行き着いた。要約すると、こんな感じだった。
「茅子さんから、夢の中では望めばすぐにそこに行けると聞いていたんだ。藍がいる場所にさえ行ければ藍に会える。やっと、会えるって、ずっとその事だけを考えていた。」
「この世界で初めて陽太と会った時、茅子さんに連れてきてもらったの?」
「いいや。夢に入る前に、茅子さんが場所を教えたくても、気づくとそこへいるからそこへ行くための案内は出来ない。と言われたんだ。でも、聞いていた話の、その場所の様子から、あそこだなっていう確信があったから、藍に会えた。」
「私達の住む町にも、プチテラスがあるのを知っていたんだね。」
そうだ、このテラスは現実に住んでいた町の中にあるテラスに良く似ていた。でもあまりにも地域に馴染みすぎていて、テラスを意識している住民はあまり居なかった気がする。
「藍が好きそうなテラスだと思っていたんだ。なにしろ昔の小説家の堅い名前のついているプチテラスなんて、ミスマッチで面白いよな。」
そんな風に、一緒に暮らしていた時から私の事を見てくれていたのに、私は陽太の事をすっかり忘れてこの世界で漂っていた。この、望めば叶う世界で私は、陽太と出会う前の私となり、本の嫌いな、恋に夢見る、憧れの女の子に、なりたかった私になって…。
「あなたを忘れていてごめんなさい。」
ずっと続けていた研究を止めてまで、会いに来てくれたのに目の前の私は、自分の事を忘れていた。どんな気持ちだったろう。それなのに私は、忘れていたかったんだ。私が追い詰めた事なんて思い出さず、夢を夢見て忘れていたかった。
「いいや。忘れていなかっただろう?」
そう言って、私が持つ本を指差した。
「この本には俺との思い出が細かく書かれていたから。俺も覚えていない位細かい事も。藍が俺の事を ゛愛想がない ゛って思っていたなんてその本で初めて知ったよ。」
そう言って陽太が笑った。
そうだ、私は思い出した。確かに忘れていたかった。けれど、忘れるには大事な思い出がありすぎて、どんなに小さな事でも全て彼を思い出した。だから、彼を知らない年齢まで戻って、忘れたい事は全てこの本に閉じ込めたんだ。そして、再び夢の世界で、彼に会うまではそんな本の事すら忘れていた。
「この夢の中で藍と会ったとき、この姿の俺を見ても分からないのを、最初は頭を打った時のショックが、夢の中にも影響しているのかと思った。でも、次に会ったときに、茅子さんとの会話で藍は本の事を嫌いだと言っているのを聞いて、藍は向こうの自分とは違うところへ行きたいんだと思ったんだ。」
そして、現実の世界で陽太が、もう夢の中に入るのはやめた方が良いんじゃないかと悩んでいたら、茅子さんに叱られたそうだ。
「茅子さんは 『そんなことどうでも良いじゃない!』とキッパリと言ったんだ。自分が会いたいから会うのに、それ以上理由が必要なのって。藍ともう一度会いたい理由に、゛あの日、約束をすっぽかしてごめん゛って言いたいって言っていたのを覚えてて、結局、自分の事を忘れている彼女に会うのが辛いだけじゃないの。会いたいが為にここまでしたのだから、それに付き合った私を納得させる位の事をしなさい。また惚れさせるか嫌われるかする位に彼女の心を揺さぶりなさいって。」
私は、茅子さんの姿と声を思いながら、胸が熱くなった。
「茅子さん…なんてカッコいいの。私、あなたになりたい。せめて、もう一度会って大好きと伝えたい。なのに、素敵な王子様と旅立ってしまうなんてズルい。羨ましいよ…。」
気づくと私達はあのプチテラスの永遠のチューリップの植え込みのベンチに座っていた。でもベンチは、二人がけに変わっていて私と陽太は隣り合って座っていた。
恐る恐る、陽太は私を自分に引き寄せた。
「俺は、茅子さんほど藍の心を揺さぶる事は出来ないかもしれないけど…会いたくて会いたくて、出来るならもう一度、藍の気持ちを取り戻したい。」
陽太は、小さく震えて私が何を言うのか怯えているようでもあった。
「私は、これからも目を覚ます事は無いんでしょう?」
「…うん。」
「会えるのは夢の中だけなんでしょう?」
「そうだよ。」
それなのに陽太は、私の心が欲しいの?と言いかけてやめた。だったら最初からこんなところまで会いに来ないだろうから。あの日、眠る前の私だったら、聞いてしまったろう。
「私は、陽太のおかげであんなにつまらない日々が輝けたんだよ。会いに来てくれてありがとう。」
陽太は、もうしっかりと私の肩を抱いてくれていた。
「陽太って今何歳になったの?」
「うーん…ここまで来るのに時間がかかって…実は結構おじさんなんだよね…。夢の中だから、今の見た目は出会った頃の姿してるけど…。」
「えーっ?じゃぁ、私の方が年上だから…私も結構オバサンって事!?この世界じゃこんな、二十歳そこそこの姿してるのに?」
意識してか、無意識になのか、夢の中補正で、現実の私の二十歳の頃よりたぶん可愛くなっている。メガネもしていない。そんな私が現実ではもっと地味なだけでは無く、知らない間にまあまあのオバサンなのか…。いや、年を取るのに抵抗は無いし、茅子さんという、年を重ねても素敵な女性だっているのも知っているけど…複雑な気持ちはぬぐえない。陽太は、意地悪な笑顔で、私をまじまじと見ている。
「うん、若い頃の藍ってこんなにかわいいんだなって思った!」
頭にきたので軽く陽太を叩いてやった。
「…いや、今もあんまり変わってないよ、ホント。」
バツが悪そうに笑って頬を掻く姿に、この瞬間が永遠な気がして、穏やかな気持ちになれた。
「また会いに来て。」
「いつでも側にいるよ。」
「そうね。」
陽太を見つめると、陽太は目をそらさず笑顔を返してくれた。
いつでも側にいてくれて、快適な部屋で寝ている私に、部屋の窓を開けて季節が移ろう瞬間を教えてくれているのは陽太なのね。なんて愛されているんだろう。私達幸せだったのね。
いつの間にか私達は、この不思議な世界で、あの濃いピンクと緑の葉の多い桜の木の下で、淡い花びらの色を眺めていた。
お互いを大切に思える気持ちを抱く事が出来たら、それは幸せなのだと思います。