Voiceless Addict
この作品に対するリアクション、めちゃ嬉しいです。
ありがとうございます。
四時限目、授業中の教室にて、藤村の手は止まった。
(あの人、またスマホ弄ってる……)
気になったのは、彼女の隣席に座る男子。
彼は手元を机の下に隠して、携帯を操作していた。
藤村がしばらく観察していると、男子はいきなり携帯をポケットにしまう。
どうやら教師にバレたらしい。
「おい、鈴木。授業中にスマホを弄るな」
「え? いや、弄ってないっすよ」
「後で職員室に来い」
「えーっ、なんで!? 意味分かんね!」
授業中のスマホの操作は、校則によって禁止されている。
それをわざわざ破り、無意味な罰を受ける。
生意気ぶる男子生徒の姿は、藤村の目には些か滑稽に映った。
(なにがしたいんだろう?)
周りがクスクスと笑う中、その男子生徒は私語を積極的に放ち、自らの生意気さを誇示する。
その様子を見て、後方の女子生徒数人がヒソヒソと話し始める。
彼女たちもまた、半端に制服を着崩し、規則の範囲内でヘアスタイルを極めていた。
ある生徒は、授業中に眠っていた。
それは眠っているフリをしているだけのことだ。
ある生徒は、授業を行う教師の顔を、悪意を持って模写していた。
顔の描き方は参考にしている教本の通りであった。
藤村はふと気付いた。
この教室に存在する人間が、なんとかして授業を破壊しようとしていることに。
真面目に授業を聞いている者など、誰一人として居ない。
(委員長だったら……)
彼女はクラス委員長を見た。
クラス一の優等生であるはずの少女は、ノートを睨みながらも、不満そうにシャーペンを回す。
授業の進行速度が遅いために、クラスメイトと教師に苛立っているのだった。
「いいか、お前たち。授業を真面目に受けないと、将来困るのは――」
教師は説教をするが、彼に耳を傾ける生徒は三分の二ほど。
残り数人はわざと顔を背け、他の生徒と話したり、窓の外を退屈そうに眺める。
そういう状態に愛想を尽かし、教師自身もまた、溜め息を吐くのだった。
藤村は黒板の上部を仰ぎ、時計を確認した。
長針は授業が終わる十分前にある。
そのことに満足して、彼女は教師の話を聞いているフリをした。
(あともう少しで先輩に逢える!)
彼女の心の大半は、日向と過ごす時間への期待に独占されていた。
この場に居る誰も、授業の時間を望んではいない。
しかし、一人一人の意志は、敷かれた決まりから逸脱しきれず、学校のルールを破壊し尽くすに及ばない。
時間が過ぎるまでは、みな定位置に座って、黙って規則に従うのだった。
~~~~~~~~
光の溢れる校庭に、浮雲の淡い影が散らばる。
藤村はその合間を軽やかに縫って、急いで旧校舎へ向かった。
彼女の足取りは忙しない。
ひと目を忍んでグラウンドを横切り、花壇が分別する茂みの無法地帯を抜け、朽ちた扉に手をかけた。
歓迎する蜘蛛の巣のゲートを、軋む床の音に合わせて進めば、やがて彼女は辿り着いた。
「日向先輩!」
廊下の角を曲がって、好きな人の名前を呼ぶ。
彼女の目線は彼を探す。
埃の無い部屋に、窓から小さく差しこむ、スポットライトのような白光。
それを避けるかのように、日向は影の隅に座っていた。
「……先輩?」
返事がないことを不思議に思った藤村は、もう一度だけ呼びかける。
日向がそれに反応しなかったため、彼女は少し心配げに歩み寄った。
旧校舎は局所的に日当たりが悪い。
悪天候の日や雲の厚い日には、部屋の中でも明暗が大きく異なる。
隅のほうは近付かなければ見えないほどに。
日向は眠っていた。
椅子の上で脚を組み、なにか難しそうに腕を組んで、不安定に頭を揺らしていた。
(先輩、寝ちゃってる……疲れてるのかも)
藤村はハッと立ち止まって、眠りを妨げないように口を塞ぐ。
その後に気付いた。
日向の頬に、新たな赤い線が引かれていることを。
(先輩、またケンカしたのかな……)
なにか思うより先に鞄を下ろして、そっと膝を屈める藤村。
彼女はそれから、確かめるように、日向の頬へ触れる。
傷には触らないよう気を付けながら、その一線の近くを一度だけ撫でた。
それは刃物による傷跡だったが、刃の通りは浅く、既に血も止まっているらしい。
藤村はひとまず安心したものの、どうしてこんな傷を作ってくるのかと不満に思った。
(怖くないのかな)
そう考える時、本当に怖かったのは彼女自身だった。
思えば、たとえ刃物を使わない殴り合いであっても、絆創膏で済むくらいの傷で終わる保証はないのだ。
目の前の傷がもっと深く、日向の命まで危険に晒すものだったら、藤村にはどうしようもない。
本当は、もうケンカをするのはやめて欲しかった。
しかし、そのことを日向に伝えて、万が一にも溝が出来てしまうのは嫌だった。
無意識ではあるが、藤村はこういった思考を避ける傾向にある。
それゆえに彼女は、絆創膏によって日向の傷を隠した。
自然治癒が、時の流れが、痛みを消してくれることを願いながら。
藤村は窓辺のスポットライトを往復し、いくつか積んである椅子をひとつ持ってきて、眠る日向の隣に席を作った。
お気に入りの中編小説を鞄から取り出す――が、それを開かないまま、膝の上に安置する。
木製の栞から垂れ下がる尻尾のような紐を、指先で弄ぶ。
(先輩の横……)
彼女にとっては、その事実だけで良かった。
盗み見た日向の眠りは、今にも前のめりに倒れてしまいそうな不安定さだった。
(前に座ったほうがいいのかな)
いつでも受け止められる位置に。
けれど、ここが心地良い。
けれど、心配。
けれど、ここが心地良い。
静かな世界は精神力を高め――日向の浅い眠りの前で、藤村に出来ることは、そう多くはなかった。
しかし確かに、彼女には選択の余地があった。
それは些細なことだが、彼女にとっては天使と悪魔が争う理由に他ならない。
『君はいつも、なにか行動する時、その裏に本音を隠している。本当は後ろめたいんだろう?』
『誰かのためになるなら、それは素晴らしいこと』
『そうやって表面上の理由をそらんじても、結局は自分の欲求を満たそうとしているだけだろう?』
『たとえ動機が自分のためでも、誰かのために動けるのってステキなことのはず』
『結果に頼って正当化すれば、自分の中にある矛盾が無くなるとでも?』
『素直になるのが怖いだけ。結果を見るのに怯えてるだけ。勇気を出せばいいの』
頭の上に白黒の羽根が舞う中、藤村は首を振った。
心の中にある曖昧な感覚と、言葉による葛藤には差があった。
肝心なことを言い表せていないように感じられた。
(そんな……そんな、大きな話じゃないのに)
好きな人の前では、思考の速度は平時を超える。
その上、葛藤の原因である日向は今、それを妨げられるような状態にない。
藤村が自己の内面へのめり込むには、またとない機会だった。
もう諦めたくせに、どうして……日向先輩と一緒にいるの?
それは、日向先輩が好きだから。
だって、離れ離れになるまでは、一緒に居てもいいはずだから……
そもそも、なんのために諦めたの?
分からない。
どうして分からないの?
分からない。
きっと、ただ私が臆病だっただけ。
こんな私が、なにか望んだって……その望みで……日向先輩に迷惑を――違う。
傷付きたくない。
せっかく幸せなのに、どうして変えなきゃいけないの?
もう嫌だ。
臆病者。
どうして言葉に出来ないの?
どうして動けないの?
諦めてるってことが、まるごと嘘。
嘘つき。
どうせ、嘘をつくのなら、もっと……
でも、それこそ正当化でしょ……?
私は、日向先輩が好き。
それは嘘じゃない。
それを嘘だなんて思いたくない。
こんなに満たされた気持ちになったのは、生まれて初めてだから。
本当を言えば……先輩の近くに居たい。
本当は、諦めたくなんかない。
私なんか全然だめな子だけど、本当は、先輩と一緒に居たい。
だけど、ダメなんだ。
だって……それは……
……日向先輩なら、
そんなこと考えてどうするの?
なにか意味があるの?
って、怒るのかな。
本当は、私は……
私は、日向先輩が好きなんだ。
初めてだし、分からないけど、私は、絶対に……多分……絶対に!
日向先輩に、恋をしてる。
もっと先輩に近付きたい。
もっと先輩に触れたい。
それの……それのなにが悪いの?
大馬鹿。
(やっぱり、好きだもん)
今、自分がどう行動したところで、先輩には伝わらない。
その諦めの下で、ようやく勇気を振り絞る藤村。
彼女は日向の横に椅子を付けて、固く目を瞑ってから、彼の肩に自分の頭を乗せる。
それから、日向の腕組みをこっそり解いて、その片腕をぎゅっとホールドした。
日向は目覚めない。
藤村の早鐘のような鼓動に、彼は気付かない。
そのほうが、藤村にとっては良かった。
むしろ、バレないことで勢い付いた彼女は、余計に強く抱き着いたりもした。
日向の身体を引くと、藤村の耳元に寝息が近付く。
(お、起きたらどうしよう……? でも、いいのかな? バレたら……ううん、絶対に起きませんように……!)
藤村は犯行に及んだ気分だった。
その様は些か不格好で、傍から見ればしがみついているようにさえ映っただろう。
しかし、誰も見ていないのである。
完全犯罪によって、彼女は密やかに手を汚した。
彼女の膝から小説が落ち、開いたページから鍵盤模様の栞が舞った。
(こ、ここからどうすれば……? キス、とか……?)
いつもは諦めによって蓋をしている欲望が、見る間に解放されていく。
彼女は今、バレなければなにをしても良いような気がしていた。
タガが外れ、自分を抑えられないのである。
いつもは思考してから行動するのが、ほぼ逆転しかかっていた。
そんな状態だったが、かろうじてまだ理性は機能する。
いくらなんでも、寝ている相手にキスをするのは最低だと気付いた。
そもそも、キスすることが自分に正直な行動ではないと直感した。
(先輩の腕……力強いな……)
藤村の正直な行動は、今の突発的な行動がすべてであり、その先は無い。
心に従った彼女は、まずは不安を断ち切ることに成功した。
新たに芽生えたのは、身体を乗り出した後、常に状況を転がし続けなければならないような、そんな使命感だけ。
だが、束の間の安心に身を委ねているうちに、使命も身体から抜け落ちていった。
日向を拘束した藤村には、もう恐れるものがない。
全身の力を抜いて、まぶたの裏の暗闇へ落ちていく。
ゆっくり目を閉じて、温度と匂いと気配の世界へと没入した。
――暗闇の中に
空間が存在している。
それは暗闇を包括していた
が、暗闇よりも曖昧だった。
認識するたびに
揺らぎ、明確な形を
無くし
て、闇に消え去る。
再び現れる時は、
藤村
が必要とした時
だけだった。
「先輩、好きです」
藤村の独り言の告白は、今は人形のような存在の日向へ届く。
言葉に反応しない彼を感じて、藤村は心地良く思った。
彼女はずっと、自分の感情を一方的にぶつけてみたかった。
明滅する赤い線。
収縮していく青い空。
漂白されたかのように白い闇。
眠り、寄り添い、淀み、湿る。
暗闇の外の世界が曖昧になるたび、彼女の中に喜びが湧き上がっていく。
感覚に浸り続けると、感覚が分からなくなるのだと、藤村は理解した。
嫌いなものは、混濁の下に捻じ伏せてしまえた。
胸の鼓動が取る拍子に合わせ、刹那的に切り替わるフィルム。
時の制限を知らない、白昼夢の超展開。
追い付けるスピードではない。
消え、生まれ、壊れ、変わり、宿る。
暗闇の中は形を留めず、言葉も意味は無く、確かなのは自らと日向の存在のみ。
藤村が戦慄を覚える刹那には、二人は完全に同化して、限りなく永遠に近い感覚を味わった。
それに身を任せ、夢の中に漂っていたいと願う彼女だった。
しかし、永遠に回り続けるフィルムなど、現実にはない。
抜け、切られ、流れ、飲み、忘れ、失い、微笑み、終わる。
断片的な映像が途切れる時、彼女は強制的に覚醒させられる。
「――……あうっ」
おかしな声を出す藤村。
目を開くと、全身麻酔が解けた後のような痛みを覚えた。
それから改めて日向を視認し、大胆な距離に赤面する。
これ以上、抱き着いていられないと思った彼女は、ある意味で冷静に腕から退散した。
「……あぁ……?」
その瞬間、日向が目を開けた。
「ふえぇ!!??」
彼の目覚めを感じ取った瞬間、藤村は素っ頓狂な声を上げて、咄嗟に椅子を離す。
相手が動き出すと、もはや冷静さなど保てず、尻尾を巻いてしまう彼女だった。
「……おう、藤村か」
「あっ、えっと、その、おはようごじゃいます、しぇんぱい……」
「ごじゃいます……? へっ」
日向の笑みに後ろめたさを感じ、照れ笑いとともに床へ視線を落とす藤村。
その逃避によって、開いたまま地べたに這いつくばる本を発見した。
背徳の痕跡を隠滅すべく、栞ともども、慌てて拾い上げる。
「ん? なんだそれ?」
「あ、いえっ、なんでもないですっ!」
「おう、なんでもねーのか……つか、なんか腕が痛ぇな……」
「い、椅子の上で寝てたせいですよ……! その、体勢が、ちょっとあの、アレだったのかもです?」
自分でもなにを言っているのか分からない藤村だったが、とにかく悟られないように喋る。
それもまた、染み付いた習性に倣っているに過ぎなかった。
彼女自身は、どこまでも逃げ腰な自分が嫌いだった。
彼女の頭の中に、先ほどまでの背徳が渦巻いていた。
口に出すことは出来ないものの、すべてを集約する短い言葉を、彼女は知っていた。
それも口に出せないことまで、既に承知していた。
「悪ぃな藤村、寝る気はなかったんだけどよ。色々あってな」
「いえ……いいんです、先輩」
臆病な藤村は、取り繕うように椅子を持つ。
窓辺を過ぎ、元あった場所にそれを積んだ。
「……ん?」
ふと、日向の指が絆創膏に触れた。
指先で確かめて、日向は小さく微笑んだ。
「大した傷じゃねーんだぜ、こんなの」
その声を聞いた藤村は、言うべきことを思い出した。
差し込む光越しに振り向いて、僅かに日向へ歩み寄る彼女。
「私が、どうして絆創膏を貼ったのか……分かりますか……?」
「ん?」
スポットライトの手前で、彼女はそれを言おうとした。
諦めという嘘の殻を、今なら破れるような気がしたのだ。
白日の下に、自分の心を曝け出せる気がしたのだ。
「それは、その、私が……先輩が傷付いてるのを、見たくないから……なんです――だって、私……私……」
彼女は日向を見つめた。
そのまま突っ込めば、決定的に運命が変わる。
口を滑らせたフリをして、もう一度だけ強かに振舞おうとした。
「日向先輩……っ!」
考えないように。
考えないように。
考えないように。
そして、藤村が一歩踏み出すと――その身体は、光と影の中間に立った。
「ケンカは、もう……しないでくださいっ」
間違いのない呂律。
それは本心だったが、本心ではなかった。
勇気を振り絞った彼女の言葉に、日向は少し驚きを示す。
彼は藤村を真剣に見た後、少し自信無さげに回答した。
「約束は出来ねーけど、覚えとく」
藤村の言葉は、伝えたかったことの一部ではあった。
それを受け取った日向も、少し踏み込んだ心配を嬉しく思った。
先ほどまで伝えられないと思っていたことは、少なくとも良く伝わった。
浮雲がゆっくり太陽を隠し、旧校舎を影で覆う。
藤村は照れ笑いを浮かべた。
その代償に冷えていく勇気を、痞えた声帯の奥に沈めた。