Pluviophile
ある日の旧校舎を、枯淡の雨が覆っていた。
淀んだ色の雲は群れを成し、光を遮って、真昼を陰らせていた。
大雨警報が発令され、学校が大雨に見舞われることが予期された午後。
そのため、今日の授業は三時限目までとなった。
生徒たちは安全な下校が出来るうちに、次々と帰宅していった。
傘の波を歩いて、校門に向かう。
そんな中、日向は道を逸れて、ふらりと旧校舎へ立ち寄った。
他の人間にバレないよう、旧校舎に生えっぱなしの茂みの道を通り、水滴に塗れて進む。
「なにが警報だ、いつもより濡れるだけだろうが……」
反抗心を漲らせて、彼は旧校舎の扉を開いた。
昼食も無くなった都合上、ここに藤村が居るとは限らない。
大人しい彼女なら、教師のいうことを聞いて、大人しく帰る可能性もある。
しかし、そう考えつつも、日向には旧校舎へ立ち入らない理由がない。
湿気の増した蜘蛛の巣の壁を、いつも通りに抜けていく。
そして、今日も藤村が待っているであろう一室へ、意気揚々と足を運んだ。
そんな彼の期待は、裏切られることはない。
水を張ったバケツに雑巾を掛け、箒で床を掃く藤村が、確かにそこに居た。
椅子の上へ避難させた鞄には、やはり短編小説が乗っかっていた。
「藤村、邪魔か?」
「あっ、先輩……! いえ、どうぞ!」
彼女は日向の顔を見ると、明るい笑みを見せて、部屋の中央から逃げる。
そんな彼女の仕草に、日向はニヤリと口角を上げながら、窓の近くの椅子に座った。
「キレイ好きだよな、お前」
「そ、そうですか? やることもないので、お掃除を……」
「いいことだ。へへっ」
壁の近くに寄った藤村は、改めて日向のほうへ歩み寄りながら、照れ笑いを浮かべる。
窓側に残しておいた椅子に、ちゃんと日向が座ってくれて、些細なことながら嬉しかったのだ。
彼女は箒を両手で握ったまま、掃除の手を止めた。
日向は窓越しの雨を眺め、その中を歩く色とりどりの傘を見て、柄になく思案に暮れる。
さっきまで自分もあの中に混ざっていたのだと、ふと直感した。
そして、おもむろに椅子から立ち上がった。
「藤村。お前、なんでここに来たんだ?」
「へ?」
彼は思ったままに質問して、窓の縁に手を掛けた。
唐突な質問に、藤村は少しだけ戸惑ったものの、改めて考えてみる。
右手で髪を弄ぶまでもなく、結論はすぐに出た。
特に考えはなく、ただ染み付いた癖のように、ここへ歩いてきただけだった。
無論、日向に会えることを楽しみにしながら。
それを素直に言うと、自分の気持ちが悟られるかもしれないと、彼女は考えた。
そのために、少し伏せた言い方を選ぶ。
「えっと……いつも来てるから、なんとなく来ちゃいました」
同時に、彼女は期待していた。
日向が自分の気持ちを悟ってくれないかと。
起こり得ない奇跡だと、半ば以上に自覚していながらも。
予想した通り、日向はなんの気なしに振り向いて、藤村のほうへ眼を向ける。
「だよな。俺もだ」
ふと彼が浮かべた笑みは、藤村の予想以上だった。
日向は純粋に、藤村と同じ気持ちだったことが嬉しかったのである。
そうして、彼はまた窓の外へ目線を投げると、ある景色を指差した。
「こっち来いよ。おもしれーぞ」
「あ、はい!……なんですか?」
藤村は赤面を隠しながら、慌てて日向のほうへ駆け寄る。
そっと覗いた窓には、校門の前で手を振る、何人かの生徒の姿があった。
声は聞こえないものの、彼らはどこか名残惜しそうに、それぞれの帰路に着く。
その別れていく姿を見ながら、日向はおもむろに笑った。
「あいつら、旧校舎のこと知らねーんだぜ。そのせいで下校しちまうんだ」
「あ……そっか、そうですね」
もしも旧校舎の存在を知っていれば、教師に隠れて、まだ友達と遊んでいられる。
大雨が降ると脅されても、なんら平気でいられるだろう。
外が雨に曝されている間、ここで雑談に興じることもできる。
現に日向はそうしているし、藤村も下校せずに、ここへ足を運んだ。
それどころか藤村は、わざわざ掃除用具まで持参して、平和な時間を過ごしていた。
次々と学校から去っていく、寂しそうな生徒たちの姿を見て、日向は少し昂っていた。
自分と藤村だけが抜け穴を知っていて、警報を無視してしまえる――そんな優越感に、ニヤニヤが止まらない。
「へへ、藤村。ここを知ってんのは、俺とお前だけ……あっ」
そんなことを考えていると、彼は急に、ある考えに囚われた。
ここから覗いていることがバレたら、自分も下校させられてしまうと。
気付いた瞬間、居ても立ってもいられなくなり、慌てて頭を伏せる。
「伏せろ、藤村!」
「え? どうしたんですか、先輩?」
「早く! 伏せろ!」
「わ、分かりました……こうですか」
日向に言われて、よく分からないながら、藤村も頭を伏せる。
すると、彼女と日向の顔は近くなる。
旧校舎の脆い壁を隔てて、少しだけ激しさを増してきた雨は、ザアザアと地面を叩いた。
さめざめと降り注ぐ音を、無意識のうちに心に刻んで、藤村はにわかにときめく。
日向は藤村を見て、いたずらっぽく笑った。
「これで見つからねぇ!」
楽しそうにそう言う彼は、自慢げに鼻をこすった。
その少年らしい動作のおかげで、藤村はある発見をした。
日向の鼻先に、小さな擦り傷が出来ている。
彼の仕草に愛らしさを感じながらも、傷を心配した藤村は、眉尻を下げた。
「先輩! その鼻の傷、どうしたんですか……?」
「あ? 傷?」
「ここのところに、擦り傷があります!」
日向は傷を負っていることに気付いていなかった。
そのため、藤村は自分の鼻先を指差して、傷の位置を教える。
彼女の指先に倣って、同じようなところを触った日向は、確かに皮が切れていることを確認した。
「なんだこれ」
「痛くないですか?」
「痛くねぇ」
日向は傷を弄ってみたが、大したことがないと分かると、すぐにそれから興味を失くす。
それと対照的に、心配で仕方ない藤村は、自分の鞄のほうへ駆け寄った。
椅子の上にある鞄を膝立ちで探り、そこから絆創膏を見つけ出すと、急いで日向のところに戻ってくる。
「これ、貼りましょう?」
箱から一枚取り出して、シール部分のテープを丁寧に剥がす。
それから、暢気な顔をした日向……の鼻に、ペタリと絆創膏を貼り付けた。
端のほうを軽く押して、無事に接着したことを確認すると、藤村は満足そうに笑う。
「はい、もう大丈夫です」
「……まったく痛くねぇけどな」
「放っておいたらダメですよ!」
「別にいいっつの……けど、まぁ、ありがとよ」
健気な応急処置を受けて、日向は頭を掻きながらも、とりあえず礼を言った。
不慣れな感情に、照れ臭さを覚えつつ。
今まで喧嘩をしてきて、擦り傷くらいは何度も作ってきた彼だが、絆創膏を貼られた経験はなかった。
放置していても傷は勝手に治るし、いちいち治しても、どうせ次の傷が出来る。
むしろ、傷を受けて立っているなら、それは闘争に勝利した勲章だとも思っていた。
勝手に応急処置などされて、『余計なことをするな』とも感じた。
けれども、献身的な藤村の笑みが、プライドを上回るほど愛らしかったのである。
彼女を突き放すよりも先に、自然と返礼が口を突いた。
(こういうのも、たまには悪くねぇかもな)
日向は頬を綻ばせながら、絆創膏を指でなぞった。
室内へと、うっすら影を落とす雨。
やがて音は大きくなり、その勢いを増した。
ふたたび窓の外を覗いた日向は、横殴りの雨に曝される、花壇の花を目撃した。
花壇に泥が跳ね、少しずつ汚れていく花。
それでも暴雨に抵抗する姿を、彼はなぜか自分と重ねた。
理想とするのは、その花のような逞しさのはずだった。
「先輩、今度はなにを見てるんですか?」
「……おう。花だ」
「あ……」
日向に続いて、楽し気に窓を覗いた藤村は、少しだけ表情を曇らせる。
そして、当然のように呟いた。
「かわいそう」
その一言に、日向は狼狽えて、瞬きの間だけ息を止めた。
今までの自分に対する、僅かな否定を読み取った。
その後に、藤村が持つ普遍的な優しさを感じた。
口を開いて、どうしていいか分からずに、彼は藤村を見る。
憂い気な藤村の眼には、雨に濡れる花が映っているのだろう。
しかし日向には、その眼差しが超越的なものに感じられた。
自分の心を見透かして、惜しみのない慈愛を注いでいるように見えた。
日向にとって、日向は『かわいそう』ではない。
そんな情けをかけられるような、頼りない存在になった覚えはない。
だとしても、藤村にはそう思われた。
過去の自分を否定されたのである。
あえて泥を被ることで、不良としての尊厳を維持していた日向。
それならば、無神経な同情によって、著しくプライドを傷つけられたに違いなかった。
にも関わらず、怒りも悔しさも、どうしてか彼の心に沸かなかった。
「泥が跳ねないように、なにか――」
ひたすら花を守りたがる藤村は、日向の動揺には気付かない。
懸命に泥跳ね対策を考えているらしかった。
彼女のそういう姿を見ることが、日向は嬉しくて堪らなかったのである。
この大雨の中、実際に外に出て、花壇になにかを施すことは無謀だ。
緑化委員会でもない藤村が、そんな危険を冒す必要はない。
そんなふうに考えて、日向はそっと、彼女の頭を撫でた。
「心配すんな、藤村」
「わっ……せ、先輩?」
彼女は自信なさげな上目遣いで、そっと日向を見る。
ほんのり頬を赤く染める後輩へ、日向は思わず、優しく声を掛けた。
「雨が上がった後で、泥を払ってやりゃいい」
その声色はあまりにも柔らかく、発声した日向自身でさえ驚くような、別人じみた響きを持っていた。
ハッとした彼は、慌てて声色を訂正しようとしたが、なにかしようとして、すぐに訂正できないことに気付く。
そのために、反射的に口を押さえて、もう出てしまった声に封印を施した。
藤村は不思議そうな顔をして、自分を見上げている。
なんだこれ、どうにかしろ――と、誰かに助けを求めても、なにも起こらない。
自分を見失った日向の手は、咄嗟に藤村の頭から退散して、居場所を失って彷徨った。
そんな滑稽な彼の仕草に、藤村は小さく笑った。
「ふふっ、分かりました。そうします」
後輩に笑われた日向は、苦し気に頭を抱えた後に、力なく項垂る。
それから椅子に座り直して、腕を組む。
恥ずかしさを誤魔化すために、虚勢を張って「ははは!」と笑うのだった。
~~~~~~~~
しばらくすると、校内からすべての生徒が去った。
一時と比べれば、雨の勢いは弱まったものの、まだ上がる気配はない。
豪雨というほどではない、大人しい外の風景を横目に、二人はまだ旧校舎に入り浸っていた。
日向は話題の変遷に沿って、それとなく弁当のことをチラつかせた。
もしかすると、藤村なら持ってきているかと期待したのである。
その期待は裏切られることなく、彼女の鞄からはピンク色の風呂敷が現れた。
「食べてくれますか?」
「おう」
日向の食い気味な返事を聞いて、嬉しそうに結びを解く藤村。
実のところ、彼女としても、いつ出そうかと考えていたのであった。
片や野菜類や卵焼きなど、カロリーが控えめな盛り付け。
もう一方に敷き詰められているのは、唐揚げやミートボールなどの、食べ応えを重視した食材。
左右にブロック分けされた弁当箱は、お互いの嗜好に合わせて構成されている。
箸は二膳。
赤色の箸は日向、ピンク色の箸は藤村だ。
二人は手を合わせて、「いただきます」の声を揃える。
空腹に耐えかねた日向は、真っ先に唐揚げへと箸を伸ばした。
快活に口へ放り込んで、満足そうに咀嚼する。
「んめぇ!」
「ふふっ」
それが揚げただけの食材でも、美味しいと評されれば、藤村は嬉しかった。
日向が褒めてくれるからこそ、早起きして作る甲斐がある。
盛り付ける時にはいつも、食べてくれる日向の顔を想像して、浮足立っているのだ。
ふと、藤村は考えた。
この幸せがいつまで続くのだろうかと。
出来るだけ長く。否、叶うなら永遠に。
だが、すべては他愛もない妄想だった。
そう考えることで、胸が苦しくなる。
だから彼女は、なるべく考えないようにした。
終わりを頭の隅に追いやって、日向のことを見つめた。
「……雨、上がらねぇな」
ふと、日向は窓の外を見て、そう呟いた。
それを聞いた藤村は、少しだけ表情を曇らせた。
雨が上がれば、下校することになる。
いつまでも旧校舎に居るわけにはいかない。
なら、ずっと雨が上がらなければいい。
その気持ちは、彼女だけが抱えるものだった。
少なくとも、彼女にとっては。
(このまま、ずっと降ってりゃいい)
言葉にしないで、日向はそう思うのだった。
しかし、雨が降り続いては、花は泥に曝されたままだ。
藤村の優しさのために、雨は止まなければいけない。
幾度目かの指先で、絆創膏をなぞる。
「いつ上がるんでしょうね……」
待ち遠しそうな藤村の声を聞いて、日向は少し寂しく笑った。
詰め込み過ぎた感があります。
続きはやっぱり二年後かもしれません。