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Reality

 小説を読んでいる時、藤村の心は遥か彼方にあった。

 そこは地球の裏側ではない。空の向こうでもないし、海の底でもない。存在も知らぬ世界の果てですらない。そこは、彼女にしか隠れられない小さな無限だ。

 どこでもないところに住んでいた。安らかに本のページを捲りながら、その度に様々な感情を伴って、導かれるままに少しずつ歩く。辿り着く先になにがあるのか?それはいつも、彼女には分からないことだった。


 だが、絶対に把握が出来ないわけでもない。その気になれば物語を最後のページまで飛ばし、結末だけを覗くことも出来る。

 それをしないのは、単純に面白くないからだ。重要なのはラストだけではない。そこへ到達するまでの過程も大切だと、彼女は考えていた。


「日向先輩……あの、この前お薦めした小説は読みました?」


「おうよ。最後だけな」


「え?」


 そしてその考えは当然、彼女だけが持つ価値観である。他人に例外なく適応される概念ではない。


 彼女自身、それくらいは弁えているつもりだった。

 もちろん、他人が同じ楽しみ方をして、素敵な感動に出会ってくれれば嬉しい。特に、大好きな日向先輩がそうしてくれるなら、これ以上の幸福は無い。

 けれども、こんな私的なルールを他人に強制する術などない。となれば、相手がどんな風に読書を行おうが、自らがそれを律するなどおこがましいことである。


 彼女は分かっているつもりだ。

 唇に歯がゆい動きをさせた後、おずおずと口を開いた。


「な……なんでですか? それは、えっと、控え目に言いますと……サ、サイアク」


「おぉ……お前がそんな風に言うとは……」


「あ、あの! その、なんと言いますか……嫌だなって」


 日向に嫌な思いをさせないように、どうにか言葉を選ぼうと努力したものの、抱いた感情が先行してしまう。

 冷静に取り繕ったつもりの表情には、あからさまではないが、明らかに悪感情が浮き出ていた。


 鈍い日向でさえ、彼女の不服は簡単に読み取れた。自分の失敗に気付く。

 彼は小説の手法をまどろっこしいと感じていた。文字を読んでいても、頻繁に難しい漢字が表れるため、その度に読む気が失せる。

 そもそもの話、まず文字から景色を連想すること自体が回りくどい。実際に画を見た方が話は早い。とどのつまり、彼は親切な説明を理解することが面倒なのだった。

 しかし、期待気な眼差しで本を渡してきた後輩を想うと、読まずに返すのは気が引ける。その結果、結末だけ分かれば良いと、半ば開き直った。


「悪かった。自分で読むのはメンドくせーからよ、内容言ってくれ」


「それじゃあ面白くないです! ……と、私としては思うんです、ケド」


「けど?」


「け、けど……先輩がそう言うなら……要約してみます」


 謝りつつも少年のような無邪気さで笑う彼に、気弱な藤村は簡単に篭絡されてしまい、自分の主張を捨てる。

 それでも彼女は無念を抱かない。それよりも、熱心に小説のページを捲って、内容の要約に努めた。

 自分の好きな物の魅力を、言葉で伝わるように紹介するのは初めてだった。にも関わらず、彼女は難航する作業を苦に思わなかった。

 記憶を頼りにして、必要な箇所の文字を追う。やがて、頭の中で文章が出来上がっていく。拙いプレゼンを脳内シュミレーションした後、ある程度の自信を持って振り返った。


「オッケーです。先輩、ちゃんと聞いててくださいね?」


「おう」


 少し緊張しつつも、内心で自分を鼓舞する。

 きっと上手くいくはず。先輩は聞く気のありそうな姿勢で、ギコギコ椅子を揺らしてるから。きっと分かってもらえる。

 声を少しだけ震わせながら、彼女は懸命にプレゼンをした。


「この小説は、主人公の青年が美しい女性に恋をするところから始まります。懸命にアプローチをした青年は、やがて女性と仲良くなるのですが、そこから恋人にはなれません。なんとかして女性を虜にしたかった彼は、どうやって気を引こうか悩みました。そして、おもむろに先の予定を手帳に書き込み始めました。未来の行動を自分に強制して、その通りに行動しようと考えたのです」


「なんか回りくどいな」


「青年には勇気が無かったんです。だから、そうでもしないと自分を奮い立たせることは出来ませんでした。それで、最初の数日は計画を実行に移すことに成功して、順調さに思わず笑みを溢したりしていました。ですが……」


「最後のところで爆発して、『とほほ……』になったのか?」


 日向はラストシーンを読んだはずだったが、それをまともに覚えてはいなかった。というよりも、藤村の話と自分の記憶に、なんらの合致点をも見出せなかった。

 彼が愛読しているのは、少年誌に載っているギャグマンガなどであり、経験から予想できる結末もほとんどない。

 その上での発言であって、話の邪魔をしようとしたのではない。だが、真剣な藤村にとっては余計な茶々でしかなかった。


「先輩、ギャグマンガじゃないです!」


「ほとんどのやつは『とほほ……』しかありえねーだろ? またコレかよ、どうせ次の話じゃ元に戻るんだろって思うけど」


「いや、それは、ホントに違っ……とにかく、とほほではないです!」


「と、とほほじゃねぇのか!?」


 物語の終わりは『とほほ……』か『こんなはずじゃなかったのに~!』しか知らない日向にとって、彼女の言葉は革命だった。

 俄然、物語の成り行きに興味が沸いてきた彼は、思わず椅子を立ち上がる。


「藤村、その話の最後……詳しく聞かせてくれよ」


 キリっとした彼の表情から、凛々しく知的な輝きが放たれた。

 彼の奇妙な関心の寄せ方に、藤村は少しだけ可笑しくなって笑った。それと同時に、興味を持ってもらえて嬉しくもなった。

 彼女は気を取り直して、話の続きをする。


「えっと……彼は手帳通りに物事を進めていくうちに、一つだけ不安に思う事が出てきたんです」


「なんだ? なにが不安なんだ?」


「『こうして彼女に近づいていくことで、もし関係が壊れてしまったら』。そう考え始めると、昨日までと同じように、平気な顔で距離を詰めることは出来なくなってしまいました」


「そんなこと考えてどうすんだ! なんか意味あんのか!?」


「青年には重大なことだったんです。女性の傍に居られるだけで、彼は幸せでした。もしも、それすら叶わなくなってしまうなら、いっそこのままで……」


「自分で決めたことだろうが。最後までやり通せねーのかよ!」


「――………………それが出来たら、苦労はないですよ」


 語りながら無意識に、藤村は青年と自らを重ねていた。その陶酔的な感情を、意中の日向本人に砕かれた。

 どうしても堪えきれない気持ちは、ほんの僅かに溢れる。呟いた言葉は、日向には届かなかった。


「おい、藤村?」


「いいえ、なんでもないです」


 頬を染めて、自嘲気味の笑顔を浮かべて、彼に微笑みを向けた。内心では、自分の気持ちを受け入れられずにいた。

 あの時、もし告白していれば。精一杯の勇気を振り絞ってさえいれば、こんな後悔はなかったのだろうか。一歩だけ先に進めてさえいれば、距離を保とうなんて思わなければ――

 思い出される彼の笑顔は、目の前で首を傾げる彼は、今の自分に許された幸福なのだろうか。小さな棘が刺さるような胸の痛みは、罰なのだろうか。


 彼女は主人公の青年に強い共感を示した。

 仮に手帳に記したところで、自らで無理に獲得しようとした運命など、心の底からは信じられない。

 

「結局よぉ、どうなんだよ。それで終わりか?」


 彼女の気持ちも知らず、日向は結末を聞こうと急ぐ。心の中に判然としない重たさを感じつつ、藤村は結末を語った。


「青年は最後に女性の家に招かれます。複雑な心境のまま家のチャイムを鳴らしますが、彼女は出て来ません。そっと扉を開けると、部屋の奥、窓向こうの小さなテラスで、彼女は机に突っ伏して眠っていました」


「人を家に呼んだ奴が寝たらダメだろ」


「そうですね。青年にとっては、それが嬉しくも哀しくもありました。それはつまり、彼が最高の友達でしか居られないことの証でもありました」


 そう言いながら、藤村は日向の気持ちを推し量っていた。


 自分がもし、この旧校舎という繋がりの下で、彼の特別な存在であるならば。その脆い特別の形は、どう動かしても崩れてしまうのだろうか。

 旧校舎が無くなってしまったら、私と先輩を繋ぐものはなにも無くなってしまう。そしたら、すぐに会えなくなってしまう。

 私から会いに行けば――そうだ。先輩は旧校舎が気に入っているだけで、私のことなんて興味ないんだ。ただ、私はここに住んでいるだけの……亡霊みたいな子だから。ついでに構ってくれてるだけなんだ。


 考えてみて、自分が影も残らないほどに小さな存在であると知って、大いに落胆する。


「あぁ? なにが哀しいんだよ」


 彼女の語りを聞いていた日向は、一際不満を露わにした。

 青年がなにを嬉しがって、なにを哀しく思うのか、日向にはさっぱり分からない。当然のように語られる、奇怪で不条理な機微は、非常に不愉快だったのだ。

 それは性格から表れる嗜好でもあり、経験から表れる忌避でもあった。


 日向は旧校舎が好きだった。しかしそれは、藤村が居てくれるからであった。

 最初は住処として気に入っていたが、今となってはもはやこの場所さえ、日常では居場所も知らない彼女との待ち合わせ場所でしかなかった。

 故に、もしこの場所が無くなるのであれば、彼は藤村と別の待ち合わせ場所を作る。現状そうしていないのは、無くなるなどと思っていないからである。


 身も蓋もない彼の言葉で、藤村は少しだけまごついた。それが思わず表情に出かかって、誤魔化すために口を開いた。


「青年は! ……最後、眠る彼女の傍へ行きます。すると、くすぐるような風が吹いて、無防備に垂れた髪を揺らしました。そうして一瞬だけ現れた綺麗な肌が、彼にまた夢を見せたのです。幻が隠れないよう、彼はそっと艶やかな髪を持ち上げます。眠る彼女に優しく微笑みながら、その冷たい頬に触れるのでした」


 無事に語り終えてから、終わったことを報せるようなお辞儀をした。

 今の彼女には、自分の言葉で喋る自信がなかった。そのため、話が終わるや否や顔を伏せた。


「あぁ? それで終わりかよ!」


 対して、日向は納得のいかない顔をして、拒絶を示す彼女を問い詰める。

 その恋が報われるのか、もしくは散るのか――否、彼は報われなければ納得できないが――とにかく、中途半端な終わり方を認められなかった。


「終わりです。もう、終わりです」


「なんでだよ! 笑って終わればハッピーエンドじゃねえんだぞ!?」


「でも、もう終わりですからっ」


「納得いかねー! いいぜ、じゃあ俺が続きを作ってやるよ!」


「ふえぇっ?」


 彼の突発的な発言に、藤村は素っ頓狂な声を上げる。思わず顔を上げた彼女は、無謀な日向の姿を確認した。

 日向はどっかりと椅子に腰かけ、似合わない熟考の構えを取る。空想の類はそれほど得意ではないが、滾る情熱が彼の能力を向上させた。

 やがて大筋が纏まると、満足気に頷く。その後、困惑した表情の藤村に対して語ってみせた。


「いいか、青年は肌を触って思うんだ。『やっぱり愛してるぜ』とな」


「ぜ? そんな語尾でしたっけ……」


「細けーこたぁいいんだよ。そんで、女を揺さ振って起こした青年は、ガン飛ばしながら言う――『俺のスケになりな』っ! 女が黙って頷くと、二人は盗んだバイクで走り出すんだぜ」


 この顛末は、彼にとって大満足の出来であった。これでもうモヤモヤしないで済むと、大はしゃぎだった。

 聞かされた藤村にとっては、余韻ぶち壊しの結末であった。続きを想像するのも醍醐味だというのに、盗んだバイクで走り出すなんて、想像出来るわけがない。

 この瞬間、彼女は密かに悟った。繊細な物語では、日向を満足させることは叶わないのだと。


「……ふふ、先輩らしい終わり方です」


「そうだろ? 自信作だ」


「でも、強引過ぎです」


 藤村の小さな後悔は、彼女の心を薄い布のように覆う。すると、日向の笑顔は風になって、たちまちそれを吹き飛ばす。

 抱けるほど優しくもないけれど、身の竦む厳しさもない。どこまでも純粋で自然な、爽やかで少年らしい風だ。

 温もりのある、そんな親しげな肌触りが、藤村は大好きだった。


 ――旧校舎の剥がれ落ちそうだった木片が、小さな蜘蛛の体重でハラリと舞った。

 それは藤村の膝の上へと落ちてきて、風景に嵌るように馴染んだ。


「……あ」


「なんだこりゃ」


 2人は木片に注意を向けて、しばらく黙っていた。

 なにか意味があるような、なんの意味もないような、おかしな板切れの登場。分厚さのない茶色の物体は、藤村の膝に座ったまま、超然と滑稽を纏う。

 その存在感ある物質を、藤村はあえて無視して、ちょっと日向を見る。


 日向は木片をなんとなしに見ていて、その表情は自然だった。

 自然な彼を見て、藤村は安心した。彼の自然さは、藤村の頬を撫でる強かな風だった。

 そのまま、真っ直ぐに木片へと注がれる日向の視線を、藤村は吸い込まれるように見つめた。


 だが突然、藤村は思わず声を上げそうになった。


『先輩!』


 そう言ったのは心の中でだけ。口は開いたが、言葉は出ない。

 正体の分からない絶望が、彼女の心を急速に蝕んだ。なにかしなければいけない気がした。このままじゃダメなんだと、藤村はどこかでそう考えていた。

 だが、気持ちを伝えるための言葉も勇気も、彼女の中には無い。


 なにより、藤村自身が勇気を出そうと思わなかったのだ。

 逃げていく本心を見送って、彼女はホッとした。心の底から安堵した。


(余計なことをしないで良かった)


 最後にそう思うと、いつも通りの自分に戻った気がして、僅かに自嘲を浮かべた。

 その時、日向が彼女を見た。見られた瞬間に、彼女はまた正体の分からない恐怖を感じて、そっと視線を背ける。


 藤村は照れているのだと、日向は考えた。

 だから彼は、ちょっとイジワルな微笑みだけを浮かべて、藤村の膝から木片を除く。


「小説、また貸してくれよな。読むか分かんねーけど」


 そう言い残して、彼は旧校舎を出て行く。

 そろそろ昼休みが終わる頃だった。


 教室へと戻っていった彼に、絶対に届かない言葉を、藤村は呟いてみる。


「今度はもっと、面白い作品を……」


 自信を持って思い浮かべた小説は、1つもなかった。

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