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Fingers

 日向はここ最近、穏やかになった。

 前の彼は粗暴で、尖り切っていて、およそ普通の生徒と関われるような人物ではなかった。

 しかし今では、整頓された旧校舎の一室で、壁を伝う蜘蛛にも微かに情緒めいたものを感じ取れるほど、心にゆとりが生まれていた。


「今日は藤村おせーなぁ…」


 いまや彼にとって、この旧校舎はかけがえのない居場所であった。昼休みになり、また藤村とだらだら話す時間が訪れるのだと思えば、朝も夜も満たされていた。

 珍しく藤村の到着が遅いために、日向は椅子の背もたれへ寄りかかると、窓の向こうの花壇を暇そうに眺める。緑化委員会の手入れがきちんとされているためか、花は楽しそうに風と遊んでいた。

 ふと、花から藤村を連想する。それは日向にとっても不思議なことであったが、抵抗もなく頭に浮かべた彼女は笑っていた。


「先輩、先輩って。あいつ、なんか妹みたいだよなぁ」


 日向には兄弟が居ない。そのため、特別で親密なその関係に僅かながら憧れがあった。

 彼女を例えるなら、内気で素直な兄思いの妹…と、日向はそこまで考えて、一旦思いとどまる。


「何を考えてんだ俺は。兄思いってのは妄想だろ!」


 冷静になって、一人で恥ずかしくなった彼は、これまた一人で考えを否定した。

 彼は藤村に献身的な印象を抱いている。それこそ兄思いを想起した材料なのだが、残念ながら気付くに至らない。

 ロジックを組み上げ、自らの本性を探るなどという技能は、彼には無かった。


 気怠い視線を空に預け、少々不安定な椅子を揺らしてみた。

 《ぎしぎし》と、何遍も緩やかに繰り返す。そのうち、軋みは徐々にコミカルな響きを持つ。

 それは物静かな安心を生み出すようで、かえって頭のネジを外してしまいそうな、珍妙で愚かしいものだった。


「藤村…早く来いよ。暇じゃねーか」


 暢気な顔で彼女を待つ日向。待たされることに対して、彼はなんの難色も示さない。

 このことからも、彼の物腰が柔らかくなったことが伺える。

 ただ、強いて言うなら…少し心寂しそうな面持ちではあった。


 日向は特に新たな暇つぶしを探すでもなく、少女を待つことのみにひたすら没頭した。

 しかしながら、待ち人は現れなかった。そのままチャイムが鳴り、だらしない昼休みはあっという間に終わった。


「来ない…だと…?」


 いつもの日常から逸脱した事態に、日向は一抹の不安を抱く。


「まさか輩に絡まれたとか…ちゃんと無事なのか…?」


 しかし、解消など出来るはずもない。

 空回りの懸念を暗唱しつつも、彼はそのまま旧校舎を後にした。


 ~~~~~~~~


 日向は翌日も旧校舎へやって来た。

 わざと腹を空かせ、藤村の弁当に安置されたミートボールやらハンバーグを頂くつもりで。

 しかし、昨日と同じように、藤村は顔を見せなかった。


「なんでだ…俺、藤村になんかしたか?」


 軽鬱になりかけの彼は、そう呟いてニヒルに笑う。

 当然、決して嬉しいわけではなく、笑う以外にショックを和らげる方法がないだけであった。


 昼休みも終わる。

 歩もうとした彼は、不本意に千鳥足を披露した。軽妙なステップが、無人の旧校舎へとひっそり反響していく。


「ちっ、なにしてんだ俺は…」


 孤独を強調するような虚しい音を聞いて、すぐに帰ろうとした。右足を踏み出した。そして立ち止まる。

 目の前を見て、廊下の曲がった先に続く、壁が死角となって視認できない区間。想像して、つい足音を待った。

 ちょっと待てば、ひょっとしたら、その可能性は――そう考えれば、昨日の哀れな結末をも思い出す。

 それでも、どんなに無駄な気がしても、彼の足はそれ以上動こうとしなかった。ただ、日向は焦がれていた。


「…来るんだろ、藤村?今日は無理でも、明日は」


 希望的観測。もどかしい苦悩を癒すべく、繰り返す。

 そうしているうちに、昼休みは終わってしまった。本校舎の教室では次の授業が始まる。

 と、柄にもなく思案に暮れて、日向は不意に笑みを溢した。


「授業サボりてーし、そのついでに待っててやるか。もしかしたら、次の休み時間には来るかもしれねぇしな」


 そうして、どっかりと椅子に座る。彼は言葉通り、次の休み時間まで旧校舎に入り浸った。

 彼自身、本当にここで50分も過ごすことになろうとは考えもしなかった。退屈に疲れて、何度あくびをしたかも分からない。

 それなのに、チャイムの音が響いた瞬間、彼の身体は活気を取り戻し、心には焦燥が蘇る。


 ここで来ないなら、今日は本当に諦める。明日も来ないなら、ここに来ることをやめる。

 些か飛躍した、なんとも不合理な決意であるが、彼は本気である。頭の中ではっきりと念じ、腹に括った決意と共に座した。


 ――来ない。


 そもそも、昼休みを除いて、彼女が来るという保証はない。

 否、今や昼休みすらも、彼女の出現を保証してくれなくなった。

 項垂れる日向の表情に、僅かな棘があしらわれている。


 待っている間、ほんの一瞬だけ考えて、すぐに打ち消した言葉を口にした。


「あいつにとっちゃ、俺は邪魔なのかもしれない」


 そんなことを考えた自分が情けなかった。藤村に固執する惨めな陰湿さを感じ、彼は顔を歪める。

 突然、機敏な動きで窓を見る。そして、ガラスに映った腑抜けの頬を思いっきり殴ると、眉間に皺を寄せてみせた。

 しばし睨めっこに興じたのち、満足気に頷くと、旧校舎を去るため廊下へ足を向ける。


 またも立ち止まるとは、予想外であった。彼は自らの潔さに自信があったのである。

 再び頬を殴った。しかし痛みに満足できず、より大きな痛みを求めて、朽ちた教室の壁に頭突きをした。

 朽ちた壁は、《ぱらぱら》と手応えの無い音で崩れる。


「…クソッ、壁を壊しちまったら藤村に迷惑かかんだろが…クソ!!」


 発言とは裏腹に、彼は思い切り壁を殴った。先程とは別の個所で、比較的堅い壁を。

 その後、拳の痛みと確かな感触を感じ、彼はようやく冷静になる。

 派手に抉れた壁面を確認して、忌々しそうに口の端を歪めた。


「甘ったれてんじゃねぇ、テメーの住処くらいテメーで作れんだ。他人に与えられて満足してんのが間違いだったんだ」


 独り言を口走る。その時、初めて彼の胸が痛んだ。

 正確に自覚してしまい、ただならぬ苛立ちに囚われる日向。


 そうして、彼はようやく旧校舎を去った。

 行くアテなど無いが、できるだけ旧校舎を置き去りにしようと歩く。

 藤村に置き去りにされたのは自分だという事実を、受け止める余裕はなかった。


 ~~~~~~~~


 藤村が2日ぶりに旧校舎へ訪れると、教室の壁に明らかな外傷を発見した。


「…これ…日向先輩かなぁ」


 経緯は判然としないが、彼は結果として、かなり強い力で壁を殴ったのだろう。

 そう考えた後、事実については深く追及しないことにし、彼女は鞄から弁当を取り出した。

 久しぶりに日向に会えることを期待しつつ、彼女は少し不安を感じていた。


「先輩、お昼ご飯食べちゃってるかな」


 日向は毎度、腹を空かせて旧校舎にやってくる。それはつまり、藤村の持参するおかずへの期待の表れだ。

 しかし、2日間来なかったとなれば、さすがに今日は昼食を摂っているのではないか?

 彼にどれほど期待されているか、藤村にはとても推し量れない。それには、自身に対する過小評価が起因していた。


 彼女は椅子に付着した微量の埃を払い、いつも通りにそこへ座ると、日向の到着を待った。

 しばらくして、廊下の方から誰かの足音が聞こえてくる。いつもより音符の間隔が狭いが、力強い足取りに覚えがあった。

 日向の気配を察知した彼女は、俄かに頬を緩ませた。そして、開かれるであろう扉へと注目した。


 扉はすぐに開かれた。花開くような笑顔で日向を迎え入れた藤村だが、直後に彼の狼狽に気付く。

 日向は扉の前で、藤村の方を指差したまま静止した。まるで幽霊でも見てしまったかのように。


「ふ…ふ、藤村、今日は居るんだな…!!なんで来ねぇんだ、待たせやがって!!」


「ふぇ!?あ、あの、先輩?私、なんだか分からな…その、すいません…?」


「あ!?いや、謝るこたぁねーが…なんで来ねぇのか、昨日!それと一昨日!それを教えろ!」


 捲し立てる彼は、藤村の理解を補助するべきだとは考えない。

 困惑する彼女は、日向の急いている理由について質問しようとはしない。

 二人は行き違い、互いに別々の疑問を浮かべたままに、相手の様子を安易に受け止めた。


「お前、俺に隠れてなんかしてたのか?おい?」


「あぅ…あの、先輩…ご、ごめんなさい…その、なにもしてないです!」


「やっぱりなにもしてなかったか…って、おい!じゃあなんだってんだ!」


 両者の状況理解は一向に深まる兆しもなく、ただ互いにとって意味の掬えぬ言葉を交わす。

 そうこうしているうちに時間は過ぎて行った。昼休みは限りなく終わりに近づいた。

 混乱のみに視野を支配される日向と、ほとんど泣き出しそうな顔で無実の弁解を続ける藤村。明らかに自然なやり取りではないが、それに気付く者は居ない。


「だーっ、俺が聞きたいのはそういう…お前なぁ!」


「う、うぅ…先輩、ごめんなしゃい…私、バカでぇ…!」


「あ!?お前はバカじゃねー!いいか、俺の方がバカだ!小坊の頃、テストで0点取ったことあるか!?」


「な…ない、でしゅ…ぐすっ、くしゅ」


「まぁ、ちょっと落ち着け!泣かせたかったわけじゃねーし…って、藤村!なんで泣いてる、泣くな!」


「えぅあ…ひゃい、泣いちゃって…!ごめんなさい、先輩…うぅ」


 もはやきっかけなど通り越して、二人は新たな秩序により、相互理解へ近づいていく。

 それは、問うべきだった理由を必要のないものへ変化させ、両者の声と表情によってのみ疎通する、原始的なコミュニケーション。

 日向と藤村は会話の拙さゆえに回帰へと向かい、そこで邂逅を果たしたのである。


 旧校舎の屋根を頂点から打ち砕くように、遠くの方でチャイムが鳴った。

 授業開始の合図を聞くと、藤村は泣きながら焦りだした。


「先輩!もう授業が始まっちゃいましたよぉ…!どうしたらいいですか、ひぐっ」


「授業だぁ?そんなもん俺には関係ねぇし、ハンカチとか持ってねぇの?!」


「ふぇ…ハンカチなら鞄でしゅ」


「探すぞ!」


 非常事態のため、日向は藤村の鞄を無断で漁り始めた。

 滑稽なパニックに陥っていた藤村は、日向が鞄に手を出した瞬間、「だ、だめ!」と反射的に口に出した。

 他の者の言葉なら躊躇しない日向も、彼女の制止には無意識に従った。


 安らぐ時間もなく、ただ感情を表現しあっていただけの二人は、ここでようやく沈黙した。

 おもむろだが、ごく自然と眼を合わせ、互いの顔を見つめ合う。

 その一瞬、眼に涙を浮かべつつきょとんとした藤村が、日向には小動物のように見えた。


「…へっ、お前…かわいいじゃねーか」


 そう言って、日向は彼女の眼に浮かぶ涙を、己の指で拭き取ってやる。

 彼のセリフと労わりは、いたずらに藤村を赤面させた。

 途端、赤く染まった彼女の頬を見て、日向はすべてがバカらしくなって笑う。


「ははははっ、なにやってんだ俺ら!なぁ藤村?」


「…えへ、えへえへ」


 子供のように誘われて、藤村はすぐに笑みを漏らす。

 そんな彼女の頭に、日向はポンと手を置くと、思うままに撫でまわしてみた。

 その間、二人は狂ったように笑い合って、お互いに身を寄せ合った。


 優しい雰囲気が取り巻き始めて、経緯を回想し、日向は自分の話し方に非を認める。

 そして、純粋ながら不器用に笑う健気な藤村へそれを伝えた。


「ごめんな、お前の気持ちを無視してた。あんな風に言ったら誰でも恐がるよな」


「えへへへへ…あの、先輩。私は恐がってなんかないですよ?」


「あ?」


 静かに笑顔を抑え、藤村は穏やかな表情になる。

 そして――彼女は日向の労わりの手をきゅっと握って、再びそっと笑った。


「ただ、先輩に嫌われたくなかったんです」


「――…あ、んだそれ」


 誰かから好意を受けた事すら、日向にはなかった。 

 しかし今、目の前の後輩から向けられた、一途で優しい感情によって、初めて知った。

 別の人間を許して、我が心を委ねることに、大きな幸福があることを。


「…よぉ、藤村。俺は昨日、お前を散々待ってたんだぜ。1時間くらい」


「え!?ふ、普通なら帰りますよ…やっぱり、先輩は優しいですね」


「だからよ、今日はお前にも同じ気持ちを味合わせてやる」


 彼は藤村の身体を軽く押し、椅子の上へ座らせると、彼女の膝上に光の池が湧くよう移動させた。

 調整に満足してから、自らもしたり顔で椅子に座す。丁度、窓向こうの花壇が斜めに途切れる位置だ。

 いつも通りに悪ぶった笑みを浮かべた彼は、ぽかんと口を開けた藤村へ言った。


「今日はこっちで、俺とディスタンスの授業だ」


 恰好付けて、慣れない言い回しに精を出す。

 しかし、正しくはディスカッションと言うべきで、その語から会話という意味合いを伝えたかった。

 そんな彼の虚勢を見透かしていながらも、藤村は優しく微笑む。


「そう、ですね。私も…知りたいです」


 彼女の眩しい笑みが、日向の深奥をくすぐった。

 その手を再び繋ぎ直すことも、今ならば可能だった。

 逆さの不安を覚える程、恐ろしく容易い話だった。

ちょっとずつ書いてたらこうなりました。

次の投稿は2年後かもしれません。

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