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雪国の山中に紛れたため刻男は見つかりはしなかった。
しかし、現在の刻男には問題が二つほどある。
一つは警察が直ぐそこまで迫って来ている事だ。
ラジオの購入履歴や防犯カメラの映像、聞き込み調査等で彼が今潜んでいる街を絞り込んだという事である。
こちらの問題は刻男の方でも捨てられた新聞や外国人が経営している飲食店のテレビ、この前手に入れたラジオから流れるニュースから情報を得て把握しているが、場所を特定されかかっているとはいえ未だに捕まっていない以上大した脅威ではない。
真の問題はもう一つの方だ。
雪山が寒すぎるのである。
確かに誰も入ってこないので民間の目撃情報や警察の操作から逃れるにはうってつけではある。その上、盗んだスーツはデザインが割れているため市街では着るわけにはいかないが、グレーの物もあったので雪の中を進む際の保護色にもなってくれている。
しかし、刻男には山菜に関する知識がなく、動物を獲るほどの体力もない。そもそも、雪のせいで湿っている枝では火すら起こす事もままならないのである。
(一番怖いのは人間だとよく言われるが、あんなものはデタラメとしか思えないな。自然の脅威の前ではおままごとに過ぎない。現に俺は一番怖いはずの脅威を殺している)
そうは思っても、彼にとって警察は怖い存在には変わりない。潜伏している街を絞り込まれてしまっている以上、あまりそちらへ出向くのは良策とはいえないだろう。
仕方なく、雪山を越えて隣の県へと入る事にした。
が、雪中行軍というのは予想以上にきつかった。
吹雪いてくれば目印にしている山が見えなくなるので一旦立ち止まらざるを得ず、晴れたとしても雪に足を取られて大して進めない。
とりわけ、彼の場合は進んだという痕跡も消さなくてはならないので普通の登山以上に時間がかかってしまっている。
故に道中何度か死にかけ、事前に用意していた食料も使い切ってしまったが、奇跡的に山を越えて隣県へと入った。
県境を越えて少し進んだ森の中で刻男は面白いものを見つけた。
温泉である。
朽ち果てた看板があり、トタンの屋根で枯葉などが入らないようになっているところを見ると人の手が加わっているらしいが、交通の便が悪い故か今は殆ど使われていないらしい。維持のための寄付金入れから失敬した小銭も二十年前に製造された物が最新のものであり、それらは全て変色し始めていた。
普通であればこんなところでこんな物に入ってしまっては湯冷めしてしまう事は火を見るより明らかなので、スルーするのが無難だろう。市街地まではまだ距離もある。
しかしながら、そんなことを考える余裕すらないほどに刻男の脳も凍りついていた。
(これは……! 有難い、逃亡を始めてからというものの碌なことがなかったが、天は俺を見放してはいない)
と柄にもなくはしゃぎ、着ている物を全て脱ぎ払って湯の中へと飛び込む。
湯は雪の中を歩いて来た刻男の疲れを急速に癒した。
最初は湯に浸かりながらそれがここにあったことを感謝したが、悪くなっていた血行が改善され、頭が回り始めたせいか徐々に状況を把握することができるようになった。
その結果刻男は、
(いかんな、これは)
と思い始めたのである。
ここで初めて湯冷めの可能性と市街地までの距離に気づいたが既に遅い。
仕方がないのでどうするのが最善なのかを考える事にした。
まず湯についてだがデメリットも大きいがメリットが無いでもない。
刻男は逃げ始めてから殆ど入浴する機会を失っており、体臭が誤魔化しきれなくなっていた。悪臭というのは見た目と同等かそれ以上に目立ってしまう要素になるので、ここ最近は市街に繰り出す回数も減らしていたのだが、これで多少は問題なくなるだろう。その上、体力を回復できるし、何なら温泉という特性上、何かしらの成分が含まれているかもしれないので飲んでみてもいいかもしれない。
それらのメリットを最大限に発揮するために、刻男は洗った髪が日の光で完全に乾くまでの間、ひたすら湯に浸かり続ける事にした。
入りながら伸び放題だった髪や髭の手入れをし、鞄に入れていた枝などを使って雪中を進むためのカンジキを作成している。
温泉から上がるとここまでずっと着続けてきたグレーのスーツで身体を拭き、途中で拾って乾かしてきた枝などの燃料と一緒にそれを燃やして暖を取った。
水分を含んでいるので完全には燃え切らなかったが、適当に捨てるよりは形が崩れただけでも感謝すべきだろう。
刻男は、正義側に割れている中でもバレにくいであろうデザインのスーツを選んでそれに着替え、急ごしらえのカンジキを履くと急ぎ足で新しい街へと向かって行った。
刻男は力を振り絞って歩いた結果、常人なら二日はかかるであろう道のりを一日で踏破しきった。
しかし、彼には達成感など無く、
(努力すれば夢は叶うというのはあながち嘘ではないのかもな。もっとも、その努力して叶えた夢のおかげであんな山を越える事になったのだが……)
という雪の如き冷めた感想を思い浮かべた。
逃亡生活に終わりが見えないため仕方がない事だといえよう。
到着したとはいえ昼間に出歩くのはまずいので、木陰に身を潜め日が暮れるのを待つ。
そのまま数時間が経ち日が沈み始めた。
(そろそろいいか)
森を抜ける直前に革靴を新しいものに取り替え、カンジキはバラバラにして捨てた。
木陰から木陰に移動して、道路の様子を確認しながらそこへ近づいて行く。
そして舗装された道へ出ると、何事もなかったかのように歩き始めた。
この時、一応監視カメラのなさそうな道を歩いている。
が、その配慮故に二人組の警官に見つかってしまった。
彼らは隣の県に一家惨殺事件の犯人がいるという事を受けて、別の県ながらなるべく監視カメラが手薄な場所のパトロールをするようにしていた。
刻男と警官達の距離はどんどん縮まって行く。
一応、刻男としても街中を歩いていても目立たないスーツという服を逃走用の服装に選び、鞄は復讐を決めた当時に買ったので現在製造も販売もされていない物を使ったりと、捕まらないための努力はしているが、正直気が気ではなかった。
そのままどんどん距離が近づいて行き、やがてすれ違う。
(助かった……)
と内心胸を撫で下ろしたところで、
「すみません、お兄さん」
と背後から声をかけられた。
振り向くと、若い方の警官が彼の方へと近づいてきた。