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Ⅷ 奇縁

 今から三十年も昔のことだ。栗色の髪のヨナスはその日、風のように、ナノカの前に現れた。

 ーー、華奢で白い肌で、なにより不思議な少年、風のヨナス。


 森の空気が少し冷たくなったころだった。別荘からすぐ南に広がる森は自然の宝庫で、虫や鳥や小動物が楽しげに歌い戯れ、十二歳の、少女時代のナノカにとって、そこは理想郷だった。ある時、少女は逃げる野うさぎを追いかけ、森の奥まで走り回っていた。しかし、ふと気づくと、自分がどこにいるのか分からなくなっていた。どうやら道に迷ってしまったらしい。どうしよう、寒いし、寂しいし、疲れたし、なんだか怖い……。少女は靴の底が擦り切れるほど、ひたすら歩き続けた。すると突然目の前がひらけ、大きな湖が現れた。曇天の下の、灰色に光る湖面は森の深い緑と混ざり、美しかった。


「わぁ……」

 ナノカは、感嘆の声をあげた。

 その時、見知らぬ少年が、森の出口の喬木の陰からひょっこり顔を出した。ヨナスだ、風のヨナス。まるでかくれんぼをしていて、鬼に見つかっちゃった、というような照れ臭そうな表情だった。


「Es wird bald regnen」

 少年は手のひらを上にして、雨が降りそうですね、と言った。柔らかそうなフランネルの、ギンガムチェックのシャツに濃紺の半ズボンを履いている。手足はすらっとして、少年というよりも少女のように華奢な感じだった。


「えーと、ぐ、Guten Tag!」

 とナノカは答えてみたが、伝わっているのか謎だった。でも、ヨナスは微笑し、異国の言語を口にしながら人懐っこく近寄ってきた。仔犬がじゃれてくるような、くすぐったい感覚を覚えた。

 雨が、ポツリポツリと降りはじめた。


 二人はすぐに打ち解け、仲のいい友達になった。彼が何者なのか、ヨナス、という名前以外は分からなかったが、ナノカも自分のことを詳しく語った訳ではないのでお相子だと思っていた。しかしその素性よりも、何よりナノカを驚かせたのは、ヨナスの学習能力の高さだった。ナノカとの会話から、この国の言語をみるみる習得し、最後には小学校で習っている国語や歴史や地理などもナノカの語りを通じて理解していったようだった。


 それから毎日、二人は大人の目の届かない秘密の場所で、日が暮れるまで遊んだ。


「ねえ、ナノカ、今日は何して遊ぼう?」

 ハムと卵のサンドウィッチを平らげると、ヨナスは唇を舌で舐めながら訊いた。猫のように、ピンク色の薄い舌だ。バスケットの蓋を閉めながらナノカは、「うーん、そうね。せっかく目の前に大きな水溜りがあるんだから、水切りをやりましょう」と応えた。

「ハラキリ?」

「ううん、そんなゲスなサムライ用語ではなくて、水切り」

 ナノカは湖畔に落ちている平べったい小石を拾い、振りかぶった。腰を低くし、アンダースローで投げると、ビュッと、空を切る音が響く。物凄いスピードで放られた小石は、まるで生きているように何度も踊り跳ねながら対岸に向かって消えていった。


「す、すごい迫力……」

「ふふん、こんなものよ」

 素直に驚き喜んでくれるヨナスの横顔を見て、ナノカはちょっと自慢だった。だって、誰も、私のことなんて褒めてくれないんですもの、と心の中で呟く。お父様も死んだお母様も……。

 その日はよく晴れた一日で、湖面が深い緑に染まっていた。二人は競うように平たい小石を集め、競うように水切りをして遊んだ。

 

「ナノカから沢山のことを教わったね。今日はお礼として、見せたいものがあるんだ」

「お礼? いいのに、そんなこと」

 そう言いながら、何を見せてくれるのか、興味津々だった。二人は手を繋いで、ぐるりと湖の対岸までまわった。その奥も森が続いていたが、すぐに小さな小屋が見つかった。


 外壁には穴が空き、補修で打ち付けられたらしい板が何枚か捲れていた。随分と見窄らしい小屋だったが、ヨナスが施錠されていない扉を開けると、中は意外に広く、薄暗い部屋の奥の床には、四角い穴が空いているのが分かった。

 その穴を覗くと、地下室への階段が延びていた。なんだか薄気味悪かった。


「大丈夫。ちょっと暗いけど、怖くないから」

 火を灯したランタンを持つヨナスの、顔の影の方が怖かった。

「オバケ、出ない?」

「なんだい、十二歳にもなって、そんなもの信じているのかい?」

 ふふ、と笑うヨナスが憎らしくて、ナノカはぷんと頰を膨らませた。地下室には大きな棚がいくつも並び、薬品のような臭いが漂っていた。

 棚の一つから、ヨナスは蓋つきの瓶を取り出し、それを差し出した。

「さあ、これだよ」

「き、キャアっ!」

 父の病院で見たことのある、ホルマリン漬けの胎児と同じものだと思い、ナノカは思わず声をあげてしまった。

「いや、ちょっと、驚きすぎだろ。よく見てよ、これ。中にあるのは、文字だよ」

「文字?」


 確かに、液体の中をゆらゆらと、水雲もずくのような黒い糸状のものが揺れている。生き物のようなそれは、よく見ると文字だった。

 ヨナスは蓋を開け、ピンセットで文字を摘んだ。それから、机上に置かれた分厚い本の表紙にそれを貼り付ける。〈ゼロ〉とそこには書かれていた。すると、文字は発光し、ランタンよりも強い光を放った。


「だ、だれ? そこにいるのは」

 部屋の隅にはベッドが置かれ、見知らぬ老人が眠っていた。少し驚いたが、なぜか怖くなかった。何故だろう、この異国の老人に親しみを感じる。ーー、この人は、私のことを知っているような気がする。


「それはね、僕の……」

「お嬢様! ご無事ですか⁈」

 ヨナスの言葉を遮るように、執事であるエドガワの怒声が響いた。エドガワは、ナノカの腕を強く引っ張り、階段を上るよう促した。

「エドガワ、待って」

 小さな抵抗はしかし、聞き入れられることはなかった。

「お嬢様、いまここで見たことは、お忘れください。そして、もう二度と、ここに来てはなりません」そう言って、ヨナスのことを、まるで汚いものでも見るように睨みつけた。


 ーー、風のヨナスは、その時、とても寂しそうな顔をしていた。

 ヨナスと会ったのはそれが最後だ。

 しばらくして、あの小屋が取り壊されたらしいと、風の噂で耳にした。

 

  ✴︎


 ーー、あれから、あっという間に三十年という時が過ぎた。


「あ、お婆さん、お疲れ様でした」

 部屋の中に、少女を連れた老婆が入ってきた。

 老婆は黙って少年の前に歩み寄り、口を開けた。少年が呪文を唱えながら前歯を一本抜くと、シュウシュウと音を立てて、老婆は縮んでいった。小さく小さく縮み行く老婆の躰は、やがて服の中に消えてしまった。

 夢でも見ているのだろうか? 少女は意識が朦朧とした状態で、ここがどこなのか、相手が誰なのか、まるで判断がつかなかった。危険な敵であることには変わりないのに、眼前のことに集中できなかった。

 ーー、とにかく、眠い。

「君が隱郷アリスさんだね? ナノカの娘さん。なんて奇縁なんだ……、はじめまして。僕の名は、ヨナス、風のヨナス。〈カラクリ屋〉にようこそ。以後どうぞ、お見知り置きの程を」

 十二歳のままのヨナスが、ソファに深く腰掛け、ニッコリと微笑んでいた。【to be continued】

 

 

 

 

 

 

 

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