Ⅶ 辺獄
魔術書の『青 弍』があるのに、『青 壱』が無いことに対し、父、サイガは然程疑問に思わなかったらしい。少なくとも重要な問題だとは認識していなかった。今思えば、そうしたこともすべて、母、ナノカのたくらみ、あるいは計画のリストに入っていたのではないか。そう考えれば、欠けたピースの一つくらいは埋まるような気がする。深淵なる謎、という名のジグソーパズル……。
謎に対して無自覚だったサイガは、その時、電話の向こう側で常軌を逸した説明を受け、当惑していた。
「あんたらが娘を攫ったということは理解できた。しかし、『青 壱』などという訳の分からない書物のことなど、俺は知らない。知っていればそんなもの、すぐにでもくれてやる」
話しながら、サイガの奥底から、えもいわれぬ怒りがふつふつと湧いてきた。くだらないカルト教団の勘違いが、娘を重大な危機にさらしていると考えるのも、真っ当な社会人として当然のことだった。相手も話が通じないことに当惑し、しばらく無言のまま、時間が経った。
変声機の、甲高くざらついた声が、ため息とともに再び聞こえてくる。
〈オーケー、分かりました。娘さんの命は当面保証します。こちらも手荒な真似はしたくないのでね。ただ、警察に通報するなど、くれぐれも早まらないように。頭の良いあなたのことだ、意味はお分かりになるでしょう?〉
「さあな、俺の行動は俺自身が決める。とにかく、娘は無事なんだな? 」
受話器を握る掌が、熱を帯びる。
〈ええ、私の隣でスヤスヤと眠っています。そうしましたら、本が見つかり次第、伝達者にその旨お伝えください。速やかにお願いしますよ。……、では、また〉
「ち、ちょっと待てよ! まだ、何も解決していないだろう。そもそも、メッセンジャーって、誰だ?」
一方的に電話を切られ、サイガは呆然と部屋の隅に佇む。それから、電話機の隣、サイドボードの角に置かれた木製のフォトフレームに視線を移す。
家族三人で写った、最後の写真だ。
義父の別荘がある森の梢の下で撮ったもので、サイガとナノカの間に挟まれた幼い頃のアリスが、光を浴びて微笑んでいる。初夏の頃か、ノースリーブの白いワンピースの裾が、暖かな風に揺られている。母親似のくっきりとした大きな瞳が、まっすぐこちらを見つめている。
急に、淋しさが込み上げ、気が狂れそうになった。いま、俺は、ここに、独りなんだ、な……。お、お、お、おおお、……、自分の意志とは無関係に、嗚咽のような奇妙な音が口から漏れ出てくる。おああお、お、ぐぐおあお、お、お、おお……。誰か、俺を止めてくれ。誰か、あ、おお、う、お、たれか、たれ、か。涙は出ない。テーブルの椅子に座り込み、両の腕で頭を抱え、必死に口から漏れる音を我慢した。誰か、俺を止めて、くれ。
その時だった。
来客の呼び鈴が部屋に響き渡り、それが、サイガを正気に引き戻したのだった。
✳︎
扉を開けると、そこに立っていたのは、意識が戻らないままの、道下の妻だった。
「すみません。突然お邪魔してしまって……、少しお話しがあるものですから、電話でというのも何ですし……」
化粧っ気はなく、藤色のパーカーにジーンズ、そしてスニーカーを履いた道下の妻、ハトコは、ちょっと買い物ついでに寄りました、というような出で立ちだった。実際、スーパーのレジ袋を片手に提げていた。道下夫妻には子どもがいないから、一人分の食事の材料が詰まっているのだろうか。
日が暮れようとしているなか、ようやくサイガは照明のスイッチを入れ、リビングにハトコを案内する。
「それで、お話しというのは?」
道下の容態を簡単に確認してから、サイガが切り出した。娘の誘拐のことは、まだ黙っているつもりだった。
「実は、夫のことなんですが……」
「道下先生のこと、ですか?」
「ええ、夫はあの事件に巻き込まれる前、どうも鬱ぎ込むことが多かったんです。はじめは生徒指導についての、つまり仕事上の悩みなのかな、と思っていたんです。でも、様子がちょっと違って」
「と、言いますと?」
意外だった。体育教師でいつも元気溌剌の男が、家では鬱ぎ込むことがあったなんて。でも、よく考えてみれば、当たり前か。仕事では皆、自分に与えられた役を演じているに過ぎない。飲むとよく、そんな会話を交わしていた。
ハトコは少し言い淀んでから、決心したように口を開いた。
「あの人、実は、ギャンブル依存症だったんです。お酒は弱い方だったから、仕事のストレスの解消に、競馬やパチンコをよくやりに行ってたんです」
趣味がギャンブルだということは、以前から知っていた。しかし、依存症だとは初耳だ。
「それであの人、私に黙って、相当な借金があったらしくて。返済に困って、誰かに脅されていたみたいなんです」
「水臭いな。ちょっとは俺に相談してくれれば……」
「それが、隱郷さんにだけは、相談できなかった」
「どうして?」
「ある組織が、隱郷さんの情報が欲しいって、依頼してきたんです」
「そうすれば、借金はチャラにしてやるとでも?」
なんだか刑事ドラマでも見せられているようだ、とサイガは辟易したが、確かに心当たりがあった。飲めもしないのに、一升瓶を抱えてこの部屋に上がり込んできたり、頻繁に食事に誘われたり……、でも、それは道下のキャラクターなのだと、何も疑問を抱かなかったのだ。
「ええ。それで夫は、隱郷さんを裏切ったという罪の意識に苛まれていたんです。結局、なんの収穫も得られなかったことで組織に見捨てられた夫は、命を狙われました」
嘘だろう? 茫然自失とは、このことだ。次から次へと不可解な事件に巻き込まれ、サイガは混乱を収拾できずにいた。
沈黙が小さな部屋を満たす。
ハトコは話題を変えようと、レジ袋から林檎をひとつ取り出して、食べませんか、とサイガに訊いた。言葉が上手く出なかったので、首を縦に振り、なんとか意思を示すことはできた。
それから沈黙を破るように、ハトコは果物ナイフで林檎の皮を剥きながら、妙なことを口にした。林檎の皮を円く螺旋状に剥き、途中で作業を止め、上の方の縁を指差した。
「辺獄……」
「え?」
「ダンテの『神曲』の世界観は、この、螺旋状の林檎の皮によく似ています。天国と地獄と煉獄がこうしてひとつながりになっていて、私たちはダンテのように彷徨っています。でも、天国にも地獄にも行けない、洗礼を受けなかった者はこの縁、辺獄に留め置かれます。あくまでも、神学上の仮説ですが……、あなたは、隱郷サイガさんは、辺獄の住人なのでしょうね」
「辺獄の住人……」
「ええ、それで、組織からの伝言です。〈ダンテとウェルギリウスは、常に辺獄を監視している〉とのことです」
そう言ってから、伝達者は席を立ち、淋しそうな顔をして部屋を出ていった。【to be continued】