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Ⅵ 諧謔

 母の美しさは、たとえれば雪の白さの美しさに似ていた。ある寒い朝、窓を開けると小さな公園が一面雪に覆われていることがある。朝日に照らされ、積もった雪の表面はキラキラと輝いている。粉のような小さな光が舞い、息を吸うと、それは舌先におちて、すぐにとける。

 私は思う。水素結合によって形づくられた六角形の雪の結晶は、自然という彫刻家が創造したものだ。同じように、母の美しさも、人の力を超えた何者かの創造によるものではないか、と。そんな母が愛した、たった一人の男が、父、隱郷サイガだ。


 ーー、二人が始めて出逢った日の、翌日のこと。


「あら」

 気管支喘息も恢復し、退院のため支払いロビーのソファで本を読むサイガに、研修医の鷺ノ宮ナノカが声をかけた。

「哲学書を片手の、草食動物みたいなお名前の方ね」

 ナノカはスラリとした白く細長い人差し指をこめかみにあて、微かに首をかしげる。少女のような無邪気さで、ナノカは微笑む。

 普通なら失礼だと思うような物言いに、なぜか天然の諧謔ユーモアを感じて、サイガは口を緩めた。

「そう。ツノの生えた、山羊のような草食動物と一緒さ。心優しいところは僕に似ているが、一つだけ違うところがある」

「……?」

「僕は奴らと違って、ハーレムを作るような器用さを持ち合わせていない」

「まあ……。諧謔家かいぎゃくか、という意外性もお持ちなのね」」ナノカは両の掌を合わせ、頰を赤らめた。世間ズレしていない瞳は、潤んだようにゆらめき、光った。

 そんな仕草の一つ一つが、サイガにとって愛おしかった。


  ✳︎

 

 ーー、電話の着信音が鳴る。


「はいっ、津乃峰。お疲れ様でーす! ええ……、はい。いま、張り込みの最中です。今のところは、動きがありません。もうしばらく張ります」

 助手席に座る津乃峰ユウは、スマートフォンを切るとそれを後部座席に放り投げた。それから割り箸を口と片手で器用に割った。カップ蕎麦に湯を張ってから三分経ったのだ。

「本庁からですか?」

 運転席の葛城が、放物線の先を目で追いながら訊く。仕事用だが、この黒のクラウンは気に入っていたので、心無い上司の行為で傷でもつかなければいいな、という苦い顔をした。

「ああ、またあの古狸ふるだぬきだ。定期的に報告を入れろってさ。ずっと着信を無視してたから、オカンムリだ」

「そりゃ、そうっすよ。なんせ、隙を見つけりゃ元カレと逢い引きしてた、サボりの常習犯なんすから、先輩は……、って、熱っ‼︎」

 津乃峰がカップ蕎麦の揚げ玉を指で弾くと、葛城の左頬に当たった。

「元カレっつーのが余計なんだよ」

「パ、パワハラだ! 警察に訴えてやる! いや、僕自身が警察だった。なんてね」

「……、何とかならないのか、その笑えないボケツッコミは」

「僕なりの諧謔ユーモアですよ」

 ふん、先生のような、クールな諧謔家には程遠いんだよ……、と言おうとして、古い木造アパートの外階段に視線を移した。切なさで胸が押しつぶされそうになる。いまマークしているターゲットが自分の高校時代の恩師であることは、葛城にも隠していた。


 それにしても、随分と貧相なアパートに住んでいるんだな、と思った。調べたところによると、妻が精神科に入院しているとはいえ、先生はあのいけ好かない女と離婚まではしていない。医者の家系の娘なら、身持ちもいいだろうに……。しかし、分からないことを考えても詮無いと思い直し、今は張り込みに集中することにした。

 赤錆びた鉄製の外階段、薄っぺらい扉、その裏側に狭い玄関、キッチン、バス、トイレ、リビング、寝室……、刑事ならではの透視をするような目で、津乃峰ユウは恩師の部屋の方向を凝視した。超能力者のような〈透視〉とは違うが、ある程度の距離までなら目の前に鋼鉄の扉があろうと〈視る〉ことができた。

 それで何度も犯人の逮捕までこぎつけているものだから、警視庁ではエスパーなどと軽口を叩かれた。ただ、この能力にも限界があって、人の心を〈視る〉ことはからきしダメだった。


「何か、視えますか?」

「ああ、ターゲットはいま、電話を切った。それから、リビングのテーブルに腰掛けて頭を抱えている」

 先生は冷蔵庫から缶ビールを取り出そうとしたが、少し躊躇ってから、考え直すようにテーブルに着いた。そのことは黙っていた。

 先生、何があなたを苦しめてるの?

「驚いた。噂は本当だったんですね。先輩は透視ができるって、もっぱらの噂だったんですよ」

「まさか。映画じゃあるまいし……、そんな気がするだけなんだよ。たまたま、当たっていることが多いんだ」


 眼裏が妙に痛む。

 今日は何故だか、いつもより良く視える。

「あ、誰か来ましたよ。中年の……、女性だ」

 スニーカーを履いた女は、外階段を音を立てずに上っていった。

 それから少し戸惑うように辺りを見回し、隱郷の表札を確認してから、呼び鈴を押した。

 どこかで会ったことがあるような気がする。

 津乃峰は目頭を指で強く押さえながら、記憶の糸を手繰り寄せていた。

【to be continued】

 

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