表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/12

Ⅴ 詐病

 小さな窓に鉄格子が嵌められている。


 私の母、隱郷かくれざとナノカはその夜、格子の間から薄月を眺めていた。

 東京の郊外にある精神病院の閉鎖病棟は、海の底のように静まり返っていた。武蔵野の、落葉樹の林に囲まれ、白い外壁の建物群が敷地内に点在する。敷地の北端にひときわ高い塔が屹立するが、そこはもっとも重症な患者が収容されることになっていた。

 塔の最上階の病室の窓に女の影が浮かぶ。


「今夜は、淡い月がどこか儚げですな。お嬢様」

 背後から年老いた男の嗄れ声がした。執事のエドガワだ。腰が曲がり、片目の視力はほとんど失われていたが、老いてもなお頭脳は明晰だった。

「ええ……。あと三日もすれば満月ね」

 隱郷ナノカは長い黒髪を無造作に肩の後ろに払い、振り向いた。絹のように柔らかな黒髪は、月の光を浴び、妖しく輝く。それはまた、左耳朶からゆれるドロップイヤリングの蒼色、ウルトラマリンブルー を際立たせる。

「もうすぐですよ、ナノカお嬢様。お嬢様の失われた記憶がお戻りになりさえすれば、こんな収容所じみた場所から解放されるのです」

 ナノカは淋しそうに微笑む。

 目を細めると、目尻に小さな皺ができた。執事のエドガワは幾年月もずっと彼女に侍しているので、その淋しげな笑みの意味が痛いほど理解できた。お可哀想に、とついうっかり口から漏れそうになるが、主の、幼女のみぎりから厳格にふるまってきた老執事はぐっと堪える。

 〈その時〉が来たら、自分は命を棄てる覚悟だった。


「没落華族の成れの果てなんて、こんなものかしら?」

 ナノカは自分の蒼白い頰にそっと触れる。

「そんなこと、仰るものではありませんよ。私は鷺ノ宮家の先々代からお使いしておりますが、立派な御血統であらせられる。血と知の結合こそが、やがてこの世界の最終的な安寧をもたらすのだと、今は亡き先代は仰ってました」

「やめて!」

 ナイフのような鋭い視線が、老執事を射抜く。

「立派な御血統⁈ はっ、嗤わせないでよ。その、前時代的な感覚が、鷺ノ宮家を没落させたのよ! 本当は、私は医学になんて興味がなかったし、普通に恋をして、好きな人と普通の生活がしたかっただけなのに……」

 鈍い音が、ベッドと剥き出しの便器しかない、無機質な部屋に響く。監視カメラの赤いランプが点滅する。

「お、おやめなさい、お嬢様!」

 白い壁にナノカはひたいを打ち付けたのだ。

 精神的に不安定になると自傷行為を始めるのは、満月の夜が近づいているからでもあった。

 二回目に打ち付けた時、皮膚が割れ、紅い鮮血が滴る。

「な、の、に、お父様は、私と彼を引き離そうとした。そして、たった一人の娘までも……。私は狂ってなんかいない。返して、ねえ、返してよエドガワ。娘のアリスを返してよ‼︎」

 塩化ビニルの床と、ナノカの薄桃色の患者衣ガウンに、紅い斑点が散る。それはまるで、前衛絵画のドリッピングのように、鮮やかに散る。

「だ、誰か! 誰か、来てくれ」

 エドガワが監視カメラに向かって叫ぶや否や、屈強な男達が分厚い扉を開け、現れる。

 看護師たちはすぐに患者をベッドに押さえつけ、拘束具を装着した。後から白衣の中年医師が走り寄り、無言で注射器の準備をする。馴れた手つきだ。手際がいい。


「や、やめてよっ! 私はマトモなのよ。そんなことしたって、なんの意味も……ウグゥ……」

 猿轡さるぐつわを嵌められたナノカは、涙をいっぱいに溜め、天井を見つめる。まるで神を呪うように、その瞳は大きく開き、白目を剥いた。患者が失禁した後の処理も手際よくすすめられ、やがて病室には誰もいなくなった。患者以外は……。

 

  ✳︎

 

「やれやれ、エドガワ先生も人が悪い。すっかり彼女もその気になってますねぇ⁈ 華族の末裔だなんて、作り話にその気になって……、くっくっくっくっ……」


 先刻の中年医師、富士窪エミシは堪え切れない、といった調子で意地の悪い薄笑いを浮かべた。医師控室のソファに、富士窪とエドガワが対峙した格好で座る。

「ハッハッハ……、私もついつい、患者の妄想に付き合ってしまいましてねぇ。演技をしていることすら忘れてしまいましたよ」

 エドガワは視えない片目を大きく開いて笑った。

「それで、例のモノの在り処は分かりましたかな? エドガワ先生」

 富士窪は急に真顔になり、エドガワの返答を待った。

「ああ、あれね。魔術書グリモワール『青 壱』の在り処はもうすぐ思い出すでしょう。私が予め暗示をかけておりますからね。次の満月の夜に記憶が蘇り、〈執事〉の私にすべてを打ち明けることになっているんです」

「信頼しても宜しいんですね?」

「勿論ですとも。その代わり……」

「ええ、ええ、分かっておりますとも。ちゃーんと、組織の方には伝えてありますから。貴方のような優秀な医師なら組織も大歓迎ですよ」

「よかった。あの憧れの、知の殿堂である〈復活の会〉に入会できるなんて夢のようです。是非ともお力添えをお願いたい」

「こちらこそ」

 二人の医師は、互いの利益を確認してからシャンパンを開け、乾杯した。

 

  ✳︎

 

 ーー、朝が訪れる。

 塔の上の病室は海の底のように静かだ。

 隱郷ナノカはゆっくりと目を開ける。


 アリスなら大丈夫。


 もう少しだ。このまま暫く病人のふりを続ければ、奴らの策略を暴くことができる。詐病と悟られぬよう、ナノカは敵の数手先を見据え、演技の脚本を頭の中に描いていた。

【to be continued】

 

 

 

 

 

 

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ