Ⅴ 詐病
小さな窓に鉄格子が嵌められている。
私の母、隱郷ナノカはその夜、格子の間から薄月を眺めていた。
東京の郊外にある精神病院の閉鎖病棟は、海の底のように静まり返っていた。武蔵野の、落葉樹の林に囲まれ、白い外壁の建物群が敷地内に点在する。敷地の北端にひときわ高い塔が屹立するが、そこはもっとも重症な患者が収容されることになっていた。
塔の最上階の病室の窓に女の影が浮かぶ。
「今夜は、淡い月がどこか儚げですな。お嬢様」
背後から年老いた男の嗄れ声がした。執事のエドガワだ。腰が曲がり、片目の視力はほとんど失われていたが、老いてもなお頭脳は明晰だった。
「ええ……。あと三日もすれば満月ね」
隱郷ナノカは長い黒髪を無造作に肩の後ろに払い、振り向いた。絹のように柔らかな黒髪は、月の光を浴び、妖しく輝く。それはまた、左耳朶からゆれるドロップイヤリングの蒼色、ウルトラマリンブルー を際立たせる。
「もうすぐですよ、ナノカお嬢様。お嬢様の失われた記憶がお戻りになりさえすれば、こんな収容所じみた場所から解放されるのです」
ナノカは淋しそうに微笑む。
目を細めると、目尻に小さな皺ができた。執事のエドガワは幾年月もずっと彼女に侍しているので、その淋しげな笑みの意味が痛いほど理解できた。お可哀想に、とついうっかり口から漏れそうになるが、主の、幼女の砌から厳格にふるまってきた老執事はぐっと堪える。
〈その時〉が来たら、自分は命を棄てる覚悟だった。
「没落華族の成れの果てなんて、こんなものかしら?」
ナノカは自分の蒼白い頰にそっと触れる。
「そんなこと、仰るものではありませんよ。私は鷺ノ宮家の先々代からお使いしておりますが、立派な御血統であらせられる。血と知の結合こそが、やがてこの世界の最終的な安寧をもたらすのだと、今は亡き先代は仰ってました」
「やめて!」
ナイフのような鋭い視線が、老執事を射抜く。
「立派な御血統⁈ はっ、嗤わせないでよ。その、前時代的な感覚が、鷺ノ宮家を没落させたのよ! 本当は、私は医学になんて興味がなかったし、普通に恋をして、好きな人と普通の生活がしたかっただけなのに……」
鈍い音が、ベッドと剥き出しの便器しかない、無機質な部屋に響く。監視カメラの赤いランプが点滅する。
「お、おやめなさい、お嬢様!」
白い壁にナノカはひたいを打ち付けたのだ。
精神的に不安定になると自傷行為を始めるのは、満月の夜が近づいているからでもあった。
二回目に打ち付けた時、皮膚が割れ、紅い鮮血が滴る。
「な、の、に、お父様は、私と彼を引き離そうとした。そして、たった一人の娘までも……。私は狂ってなんかいない。返して、ねえ、返してよエドガワ。娘のアリスを返してよ‼︎」
塩化ビニルの床と、ナノカの薄桃色の患者衣に、紅い斑点が散る。それはまるで、前衛絵画のドリッピングのように、鮮やかに散る。
「だ、誰か! 誰か、来てくれ」
エドガワが監視カメラに向かって叫ぶや否や、屈強な男達が分厚い扉を開け、現れる。
看護師たちはすぐに患者をベッドに押さえつけ、拘束具を装着した。後から白衣の中年医師が走り寄り、無言で注射器の準備をする。馴れた手つきだ。手際がいい。
「や、やめてよっ! 私はマトモなのよ。そんなことしたって、なんの意味も……ウグゥ……」
猿轡を嵌められたナノカは、涙をいっぱいに溜め、天井を見つめる。まるで神を呪うように、その瞳は大きく開き、白目を剥いた。患者が失禁した後の処理も手際よくすすめられ、やがて病室には誰もいなくなった。患者以外は……。
✳︎
「やれやれ、エドガワ先生も人が悪い。すっかり彼女もその気になってますねぇ⁈ 華族の末裔だなんて、作り話にその気になって……、くっくっくっくっ……」
先刻の中年医師、富士窪エミシは堪え切れない、といった調子で意地の悪い薄笑いを浮かべた。医師控室のソファに、富士窪とエドガワが対峙した格好で座る。
「ハッハッハ……、私もついつい、患者の妄想に付き合ってしまいましてねぇ。演技をしていることすら忘れてしまいましたよ」
エドガワは視えない片目を大きく開いて笑った。
「それで、例のモノの在り処は分かりましたかな? エドガワ先生」
富士窪は急に真顔になり、エドガワの返答を待った。
「ああ、あれね。魔術書『青 壱』の在り処はもうすぐ思い出すでしょう。私が予め暗示をかけておりますからね。次の満月の夜に記憶が蘇り、〈執事〉の私にすべてを打ち明けることになっているんです」
「信頼しても宜しいんですね?」
「勿論ですとも。その代わり……」
「ええ、ええ、分かっておりますとも。ちゃーんと、組織の方には伝えてありますから。貴方のような優秀な医師なら組織も大歓迎ですよ」
「よかった。あの憧れの、知の殿堂である〈復活の会〉に入会できるなんて夢のようです。是非ともお力添えをお願いたい」
「こちらこそ」
二人の医師は、互いの利益を確認してからシャンパンを開け、乾杯した。
✳︎
ーー、朝が訪れる。
塔の上の病室は海の底のように静かだ。
隱郷ナノカはゆっくりと目を開ける。
アリスなら大丈夫。
もう少しだ。このまま暫く病人のふりを続ければ、奴らの策略を暴くことができる。詐病と悟られぬよう、ナノカは敵の数手先を見据え、演技の脚本を頭の中に描いていた。
【to be continued】