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Ⅲ 誘拐

 二〇XX年十一月一日、私、隱郷かくれざとアリスは何者かに誘拐された。

 その時点での父は、私が誘拐されたことを知らない。この記述はまず父の物語から始めるつもりだ、と先刻述べたばかりなので、誘拐された時の様子はごく簡略に記しておく。

 急ぐ必要はない。大学ノートのページはまだ十分に残っている。市営図書館の閉館時間まで、時間も十二分にある。父の遺した萬年筆のキャップを抜き、私はまた黙々と文字を書き始める。

 

 ーー、紅く色づいた葉が雨のように舞う。

 公園を取り囲む落葉樹の下を、パリパリと音を立てながら歩く。靴の裏から枯葉を踏んだ時の柔らかな感触が伝わってくる。銀杏いちょうの葉ともみじのそれでは、柔らかさにどのくらいの差異があるのだろう。


 柔らかいもの、硬いもの。


 私の知るゴムも柔らかい。ふと、東南アジアのどこかを想像する。ゴムの木が整然と立ち並び、誰かが幹にスッと傷をつけると白い樹液が流れ落ちる。人間の腕に剃刀カミソリをあてれば、紅い血が流れるのに、ゴムの木は白い血を流す。

 その樹液ラテックスを原料として製造された、適切な硬度のゴムは、やがて風船となって小さな子どもたちを喜ばせる存在となる。

 私たちはふつう、風船を製造するという。

 彼らはふつう、風船を創造するという。

 神(そんなものがあるとすればの話だが)以外に創造できなかったはずのモノが人の手によって創造される。


 ……、先を急ぎ過ぎた。話を戻す。

 その日アパートに帰ると、父はまだ帰宅していなかった。当たり前、というわけでもないが、父の勤務校と私の通う高校は別だ。距離も意識的に離している。父は中野区、私は都下の南東京市だ。

 誰もいないリビングを見渡す。

 ーー、静かだ。

 台所にはビールの空き缶が数本転がっている。


「お父さん、また、お酒の量が増えたな」


 呟きながら、いたたまれない気持ちになる。

 エプロンをつけ、夕食の準備を始める。冷蔵庫にはロクなものが残っていなかったが、ほうれん草とベーコンがあったので、献立は和風パスタに決める。

 鼻歌を歌いながら、朝の食器を棚に戻していると、スマートフォンが鳴った。父が大嫌いなスマートフォン……。着信メロディに設定している、宮沢賢治の〈星めぐりの歌〉が流れる。


「もしもーし、フタロウ? 何よ、こんな忙しい時間に」

 フタロウは同じ高校の同級生で、目立たない存在だったけれど、不思議なところのある男の子だった。臆病な小動物みたいだが、妙に勘がよかった。

 〈アリス? あ、あのさ。今から会えない? ちょうど下の公園にいるんだ〉

「下の公園?」不自然だ。私はフタロウの微妙な声の震えから、何か良くないことがあるのではないかと推察した。「あんた、いつから私のストーカーになったのよ?」

 震えそうになる声を、グッと堪える。あくまでも平静さを装い、軽く受け流す。

「どうしよっかな〜。フタロウ、まさかイヤラシイこと、考えてないよね?」

 〈まさか。君に今すぐ会って話したいことがあるんだ。『青壱』のこと。アリス……〉

 軽い会話とは裏腹に、私の全身は緊張で研ぎ澄まされる。キッチンの灯りを消す。持っていたステンレスの三徳庖丁を握りしめ、そっと窓際に移動する。

 カーテンを薄く開け、下の公園の様子を伺う。

 どこだ、フタロウ……。

 フタロウがスマートフォンを耳に当てながら、こちらを見上げる姿を想像する。しかし、時として現実は想像を裏切るものだ。


 ーー、どこにもいない。


 アパートの向かい側、公園の東端に植えられた落葉樹の根元に、小さな矩形くけいの金属片が光る。そこだけ四角い光の穴が空いたようだ。スマートフォンが、不自然に落ちているのだ。

 公園にはほかに、腰の曲がった見慣れない老婆がその手前のベンチに腰かけている。青紫色のスカーフで頭を覆った老婆は、俯いたまま動かない。


 動悸が激しくなる。

「フタロウ、なーに黙ってるの? まさか、柄にもなく照れてるんじゃないよね?」

 考える暇はない。直感を大切にしろ。そう自分に言い聞かす。

 私は急ぎ玄関で靴を履き、外に出た。もう頭の中は真っ白だったが、一方で、友達のフタロウを守らなければならないという使命感も抱いた。

「フタロウ、どこ⁈」

 落し物のスマートフォンを拾い上げる。フタロウのものだ。不安と怒りが私の胸一杯に広がる。

 ガサガサ、と頭上の枝が揺れる。

「フタロウ‼︎ い、いやだ、フタ……」

「うう……」

 見上げると血塗れのフタロウが逆さに吊るされていた。誰がこんな酷いことをするのだろう、とその時は怒りよりも先に悲しみがこみ上げてきた。もちろん私は、すぐに彼を下ろそうとした。

 持って出た庖丁の柄を口に咥える。ロープを解くために木に登ろうとしたその時、背後の嗄れた声で動きを止められる。


「アリスさん、あなたがグリモワールの正統な相続人エレスですね? 『青壱』をあなたが所持していることは調査済みです。『青弍』を原理的に説明している書物。我々にお渡しいただけますか」

 それまで俯いていたはずの老婆が目の前に現れ、口元を歪める。彼女の節くれだった皺だらけの五本の指が、カッと広げられ、私の視界を遮る。

 ーー、虚脱。抗う力を削がれた私は、その場に崩れる。そう……、そうして私は奴らによって誘拐されたのである。

【to be continued】

 

 

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