I 破裂
カーテンを薄く開けると、窓から小さな公園を見渡せる。
常夜灯の薄明かりが照らす、夜露に濡れる滑り台、風に揺れるブランコの影、網の張られた丸太のアスレチック、砂場の砂紋……、それらすべての位置を俯瞰できる。逆に公園側からアパートの二階を見上げれば、光が薄く漏れているのが分かる。
男はカーテンを閉じ、ウィスキーの入ったグラスに口をつけた。
その夜は珍しく深酒をしていた。
アルコールには強い方なので、酩酊するほどではなかったが、まだ布団に入るわけにはいかなかった。
娘の帰りが遅いことで、隱郷サイガは心配と怒りが綯い交ぜになった気持ちで落ち着かなかった。
リビングの深い沈黙。
固定電話の着信音が鳴る。
「はい、隱郷です」突然鳴った機械音に、即座に反応する。「なんだ、道下先生か。どうしたんだよ、こんな時間に」
都内で高校教師をしている隱郷は、同僚教師の道下からの電話だと分かり、肩を落とした。
〈なんだ、じゃないよ隱郷、お前は俺の副担だろが。クラスの水嶋チヒロが見つかったぜ。たまたま俺が最後に校門を閉める時、水嶋が前を通りかかったんだ。なんだかぼうっとしててさ、変な感じだったからそのまま家まで送ってきたんだ。帰ったら、この時間だ〉
道下は学校では数少ない同期で、体育の教師をしていた。いつも溌剌としていた。寡黙な隱郷は倫理の教師で、学校では理知派などと揶揄されていた。というか、近寄り難い人種だと思われていたのだが、なぜか底抜けに明るい道下とだけは気が合った。
「ああ、そうか……、それは良かった。ご苦労様。明日、俺も一緒に応対するから、朝礼の後、打ち合わせしよう」
〈飲んでるのか?〉
急に道下の声音が曇る。
「まあ、大した量じゃないよ。悪いが仕事の話はこのくらいにしてくれ」
〈分かった。でも、飲みすぎるんじゃないぞ!〉
自分の体のことは自分が一番分かっている。そう言って隱郷は電話を切った。
リビングに沈黙が戻る。
アルコールに依存し始めたのは、妻の病状が悪化し精神科の措置入院が決まってからだ。あの頃はまったく事態を受け止めきれなかった。
妻のナノカは三年前、自分の父親の死をきっかけに心が壊れていった。と同時に、妙な魔術に取り憑かれていった。とくにその世界でも禁忌といわれる、死者の復活、あるいは魂の転移といったテーマに強く執着した。
もともと医学部出身の彼女にとって解剖など苦ではないし、メスで切り裂かれる対象の痛みなどは眼中になかった。
〈魂の転移〉については、始めは虫を殺して試していたようだった。蟻や揚羽蝶や飛蝗、さらには蜻蛉……。しかしそれが徐々にエスカレートし、鼠や鳥や犬や猫に関心が移っていった。
最終的に彼女の研究対象が〈人間〉に移った時、夫である隱郷サイガはまずいと思った。非合法に人間を切り刻むことは、刑法上も倫理上も赦されることではない。
今もリビングの本棚には一冊の魔術書が置かれている。
分厚いハードカバーのグリモワール。
背表紙には『青弍 着脱可能な魂の取り扱いについて』と書かれている。
着脱可能? 隱郷は今でもまったく理解できないでいる。デカルト以来の心身二元論は多くの論者に否定されているし、そもそも〈心〉だけを肉体から引き離すことなど原理的に可能なのだろうか? それとも心の本体とも呼べる〈脳〉のことを言っているのだろうか……。
想像したくないな、と隱郷はかぶりを振る。
こんな静かな夜に、窓に鉄格子を嵌められた病棟で、妻は何を思っているだろうか。
掛け時計の針はもうすぐ十二時を指そうとしている。秒針の音がわずかに響く。
ーー、眠い。
妻は黙って夜空に浮かぶ月を見ているだろう。
研修医時代の彼女はいつも伏し目がちで、美しかった。隱郷が重い喘息を患い、教壇で倒れた時、救急搬送先の病院で知り合った。
「ふふ……、変わった患者さんね」
「え?」
「だって、息が苦しくて読めないはずなのに、ずっと本を抱えてる。そんな患者さん、初めて見た」
彼女の薄い唇がゆるむ。
隱郷はなぜかプラトンの文庫本を左手に握ったままだった。教壇で、ギリシア哲学の説明をしている最中に倒れたからだ。他意はない。
二人は微笑み合った。
ーー、眠い。
「少し眠るといいわ。あなた、疲れているでしょ? ゆっくり休んで。あの子なら大丈夫だから」
「あの子? ああ、アリスのことか。そうだよな、あの子なら大丈夫だ。何があっても」
妻の声に安堵して、微睡みにゆれる。
時が、捻れ、分岐しては、縒り合わされ、引き延ばされていく。
気づいたら朝日がカーテンの隙間から漏れさしていた。いつの間にかテーブルに突っ伏したまま寝てしまった。娘が帰宅した気配はなかった。しかし根拠はないが、妻の夢を見たせいか、それほど深刻に心配することはなかった。
「大丈夫だ、たぶん」
そして鏡を見る。今朝もまだ、髭が伸びていないことを確認する。いつもと変わらない。俺はほとんど変化することはない。妻と結婚した当時と同じ姿を保ち続けているーー。大丈夫だ、たぶん。アリスは大丈夫だ。
携帯電話を持たない隱郷は、テーブルに娘宛のメモを置き、部屋を出た。
✳︎
駅からしばらく歩くと、勤務校の校門が見える。気持ちのいい朝だった。何人かの生徒が挨拶をしながら隱郷を追い越していく。
校門の前では、同僚の道下が遅刻の指導をしている。体育教師の得意とするところだ。昨日、家出から戻った女子生徒、水嶋チヒロと何か話しているようだった。
気のせいか、一瞬、水嶋チヒロの後ろ姿が陽炎のように揺れたような気がした。後ろ髪を一つ結びにした頭部が。
隱郷は道下に挨拶をしようと手を振ろうとした。
その時だった。
後ろ姿の水嶋チヒロが、マチ針のような先の尖ったものを制服のポケットから取り出した。彼女はゆっくりとそれを自分の頭に刺す。
「おい、なに、やっ……!」
爆裂音が轟く。
鼓膜を破るほどの爆裂音とともに、爆風が襲いかかる。隱郷は数メートルほど背後に吹き飛んだ。何が起こったのか、すぐには理解できなかった。しかし、確実に証言できることはあった。
水嶋チヒロが、爆発したのだ。
風船が破裂するように爆発したのだ。
【to be continued】