Ⅺ 人形
三年前、祖父が死んだ。
私が中学二年生の時だから、それほど昔のことではないのに、よく覚えていない。祖父の死顔がどんなだったか、装束の色彩や素材、葬儀の一連の流れ……。記憶はひどく曖昧で、思い出そうとすればするほどその実像はぼやけてしまう。ただ、柩の中の祖父の死顔を見つめる母、ナノカはあまりにも美しく、娘の私ですら息を飲むような横顔だった。黒く長い髪を後ろで結び、耳にかけた横髪がサラサラと頰に落ちる。刹那、母の紅い唇が歪んだような気がした。たぶん、気づいていたのは私だけだろう。母は悲しくて唇を歪めたのではなかった。
笑っていたのだ。
もっと言えば、その笑いは嘲笑に似た何かだった。毒のような、嗤い。虫も殺せそうにない弱々しい母が、その時ばかりは世界中の魑魅魍魎どもを薙ぎ倒せるほどの気を感じた。
もちろん今でこそ、その理由は分かっているのだけれど、当時の私は、当然ながら混乱した。しかし、あの一瞬の表情の意味を推し量る暇もなく、すぐに私は現実に引き戻された。たんたんと、悲しむべき斎場にふさわしい振る舞いを続ける必要があった。
その時の父、サイガの印象は薄い。
父はまるで人形のようだったからだ。額の札を剥がされた泥人形のゴーレムのように、グンニャリとした印象だった。
魂の転移……、人類の禁忌に触れる中世ヨーロッパ医学の影の研究が、魔術や時の権力と結びついて発展してきたのは公然の秘密だった。私の祖父、つまり鷺ノ宮ドウジの伴侶である鷺ノ宮エリスについて語ることは、この物語をすすめる上で有益であるように思える。
鷺ノ宮エリス、いや、エリス・グラナートが所有していた幻の魔術書、『青壱』が鷺ノ宮家との婚姻によってこの国に渡ってきたのは一九七七年、未だドイツは東西に分裂していた頃のことだった。
そして、そのグリモワールは、書物のかたちをしているとは限らなかった。
❇︎
「ねえ、ドウジ。私の選択は本当に正しかったのかしら?」
屋敷の大きな窓から射し込む朝の淡い光が、鷺ノ宮エリスの碧眼をさらに深い色に染めていた。エリスはベッドの上に腰掛け、臨月の腹に手を当てている。胎児(つまり、のちの母、ナノカのことだ)は順調に育っているようだった。
「正しいも何も、私たちはすでに選択してしまったのだよ。秘密警察から逃れるにはこうするしかなかった」
ドウジは立派に蓄えられたカイゼル髭の先に触れながら、溜息をついた。
「でも、アレは、ただの人形ではないわ」
「今は、その話は止そう。これから政府の要人と会わなければならない。私も忙しいのだよ、エリス。歴史ある医院を拡大するチャンスをフイにするわけにはいかない。商談がまとまって、落ち着いたらゆっくりと話し合おう」
「……、ええ、そうね」
「それに、今君にとって大切なことは、お腹の子を無事に産んでくれることだ。私は楽しみでしょうがないよ」
そう言ってドウジもエリスの腹に手を当て、妻の額に口づけした。エリスは幸せそうに微笑む。
「ドウジ、子どもの名前、ちょっと考えてみたんだけど、聞いてくれる?」
「ああ、名前は大切だ。一緒に考えよう」
「ナノカ……、鷺ノ宮ナノカ」
サイドテーブルに置かれた旧約聖書に視線を移し、エリスははっきりとその名を口にした。創造主は世界を七日間で完成させた。ナノカは世界を創造する〈時〉のシンボルだった。
その時、執事のエドガワが慌てた様子で寝室の扉をノックした。
「なんだ、こんな早くに」
ドウジはガウンを羽織り、不機嫌な顔で扉を開ける。
「旦那様、大変です! アレが眠っている地下室の様子がおかしいのです」
「なに? アレは冷凍処理を施したはずだ。機械のスイッチを切らない限り、動くことなどあり得ない」
「そ、それが、何者かが操作したのではないかと……、私めの監視不行き届きで申し訳ございません」
ドウジは蒼ざめた。
「まさか、こんなところにまで、シュタージの追っ手が? 或いは……」
エリスも不安そうにドウジとエドガワの顔を見つめている。その時、エリスの脳裏によぎったのは、シュタージよりも先に謎の革命組織、〈クロノス〉の存在だった。アレの試作品を作ったのは東ドイツ政府だが、それとの戦い方を知っているのは〈クロノス〉だけだったからだ。
〈クロノス〉の結成には、エリスの親族、グラナート家が関与していることはドウジにも詳しく話していなかった。愛する人を不必要に危険にさらすことなど考えられなかった。
ドウジのベルリン留学時代に二人は知り合い、恋に落ちた。その頃のドウジは若く、その後の彼が犯してきた悪事からは想像できないほど純粋だった。
❇︎
薄暗い部屋だった。ドウジと執事のエドガワが屋敷の地下室に入ると、ガスが漏れるような奇妙な音が響いていた。
シュウシュウと、ゴム風船から空気が抜けていくような音だった。実際、その部屋には何体ものゴム人形が置かれていて、そのいづれかの空気が抜けているようだった。穴でも空いたのだろうか。
部屋の隅に置かれた冷凍庫の扉は開いていた。
二人が覗き込むと、ミイラのように干からびた老人が仰向けに寝ており、ピクリとも動かなかった。ドウジは安堵の溜息をついて、蓋を閉めてから電源のスイッチを入れた。
「なんだ、驚かせやがって」
そう言って背後のエドガワに振り返ると、執事の怯えた表情に凍りついた。
「ひ、ひいい……、だ、旦那様、こ、子どもの人形が、こ、言葉を喋っています。何者かが、魂の転移を?」
十二歳くらいの少年の人形がぎこちなく首を回している。ギリギリと関節の軋む音がする。まぶたを開き、白目を剥いたかと思うとすぐに茶色い瞳が生まれ、二、三度瞬きしてから口を開いた。
「g ……guten ……morgen」
鷺ノ宮ドウジは眼前の理解不能な状況に慄然とした。近代医学を学んできた人間にとって、常識を超えた現象が目の前で起こっているのだ。
驚きとともに、ドウジのなかでは持ち前の好奇心がむくむくと湧き上がってきたのも事実だった。その時はじめてドウジは、被造物という言葉を意識した。
「Ich……、heiße……Jo……nas」
ぎこちなく言葉を発すると、人形は立ち上がりドウジの顔を見上げて握手を求めてきた。ドウジはそれには応えず、独り言のように呟いた。
「エドガワ……、没落華族などと嘲笑されてきた鷺ノ宮家の再興も近いぞ。俺はエリスから、いやグラナート家からとんでもない遺産を継承したのかもしれない」
しかし、鷺ノ宮ドウジの高揚感はいつまでも続かなかった。彼の妻、エリスはナノカを産み落とすと同時にその命をも落としてしまったのだ。その頃からドウジの中で深い闇が広がっていった。光の届かない、森の奥のような深い闇が。【to be continued】