Ⅹ 円環
白髪、それに白髭の老翁はオーク材のロッキングチェアに揺られながら、暖炉の火のゆらめきを見つめていた。膝の上には図像学の分厚い本が開いたまま置かれている。年齢のせいで瞼は弛んでいるが、わずかに覗く眼光は鋭かった。
「それで、俺にどうしろと言うんだ?」
「友人の伴侶からあなたの、この居処を教えられました」
「……、悪いが他を当たってくれないか? 俺はもう引退したんだ。この山奥で林檎農家をしながら静かに余生を過ごしたい」
「ご迷惑は承知でお願いしているのです。どうか、私に奴らとの闘い方を教えてください」
隱郷サイガは扉の前に立ったまま深く頭を下げた。横顔はやつれ果てている。
「はて、何のことかな? あんたの言うとる意味がよく分からんのだが」
「〈カラクリ屋〉はあなた方の組織、〈クロノス〉の分派ですね?」
老翁の眼が始めてハッキリと開き、サイガに視線を投げた。それから暖炉に向き直り、薪を焚べる。パチパチと火の粉が爆ぜるのを、サイガも見つめた。
「どこまで知ってる?」
「……⁈ はぐうっ!」
一瞬だった。老翁は音も立てず、気がつけばサイガの喉頸を押さえつけていた。頸動脈にシワの刻まれた太い指が食い込む。不意の出来事で焦る。そしてその焦慮が、蛇に射すくめられた小動物のように、サイガの身体を硬く動けないようにした。
「俺の眼はもうほとんど視えていない。しかし、もしお前が権力の手先であれば、容赦しない。何故なら、俺の死は俺自身のものだからだ。俺はこれまであらゆるものを奪われてきた。唯一最後に残された死は、己が自由に使うつもりだ」
「は、離してください。私もここで死ぬわけにはいかない、私も……、妻を、娘を……、沢山のものを奪われてきた……んだ!」
その言葉を聞いて、老翁の腕の力がふっと緩む。それから、何かに気づいたように手を離した。老翁の眼ははじめ、怒りで赤く充血していたが、何かに気づいてからは畏れの色に変わった。
「〈被造物〉……。お前さん、いつからだ、いつから歳をとっていない?」
サイガは咳き込み、喘ぎながらも何とか言葉を発することができた。
「な、何のことです? 」
確かに二十代後半ごろから、突然、髪や爪が伸びなくなったし、アルコール以外は食物をほとんど摂らなくてもいい身体になっていた。自分の身体の異変にはとっくに気づいていたが、誰にも相談せずにこれまで過ごしてきた。ましてや、娘に心配をかけることなどしたくなかったのだ。だから、この奇妙な症状については、眼前の老翁に簡単には打ち明けられなかった。
ーー、最後のカードに取っておこう。
そうサイガは判断し、沈黙のまま老翁に対峙した。
✳︎
数日前のことだ。
サイガは意識不明のまま入院している、同僚の道下を見舞った。
同僚の口もとを覆う酸素吸入器や腕に刺さった何本もの管を見て、近代医学に生かされているような気がした。しかし隣にいる、意識恢復への希望を抱いているだろう道下の妻、ハトコの気持ちを慮ればそんなことは口にできなかった。
「私はね……、隱郷さん、この人の意識が戻らなければいいと思っているんです」
「……、え?」
「この人、体育教師のくせに、とても気が小さいんですよ。ちょっとした物音にも敏感だし……。私まで関わることになったあの組織とこれからも付き合っていくなんて、この人にできる筈ありません。だから私……」
ハトコはこの静かな病室で音を立てずに啜り泣いた。しかし彼女は、〈カラクリ屋〉の伝達者としての役割を全うしなければならない。おそらく盗聴器が仕掛けられているからだろう、ハトコは口から発する言葉とは別のメッセージを、手にしていた林檎の表面に刻んだ。
「今夜、組織から電話があります。隱郷さんは携帯電話をお持ちではありませんので、自宅で待機していてください。二度の着信音で一度切りますので、次に掛かってきたときに受話器を取ってください」
「ああ、分かりました。その連絡を待てばいいんですね?」
「ええ、そこで次の指示がある筈です」
紅いリンゴの表面には、果物ナイフで別のメッセージが刻まれていく。まるで、紙に文字を書くように、その行為は滑らかに進んだ。赤い地に肌色の線が刻まれ、果汁が湧き出し、観る者に意味を発生させる。
〈コンヤ アパート シュウゲキ ニゲテ〉
「美味しいですよ、この林檎。長野県S村産のものです。そこに行けば〈作り方〉が分かるかもしれない」
サイガは黙って頷き、手渡された林檎を手にした。彼がそれを皮ごと丸齧りすると、シャリっという音が静かな病室に響いた。
それから自宅アパートに向かい、直ぐに書棚の本と当面必要な衣類や財布、そして妻と娘の写真をバックパックに詰め込んだ。急がなければ。時計の針の音が、妙に大きく響くような気がした。
夜八時過ぎ、ハトコの予告通り、電話が鳴った。二度、着信音が鳴り、切れる。次の音が鳴るとともに、何者かが扉を蹴破った。銃器を持った、数人の屈強な男たちが雪崩れ込み、部屋を物色する。
ーー、しかし、部屋の中はもぬけの殻だった。
数秒後、ドーン! という爆発音とともに、部屋の窓から焔が噴き出した。秋の夜空が血のように紅く染まった。この空の色が宣戦布告を意味するのだ、とサイガは街外れの丘の上から眺めていた。双眼鏡を通して見える街は、子ども騙しの玩具のように作り物じみていた。
誰かの、作=創り物……。そいつの創造主とは、いったい誰か。
✳︎
対峙する二人の男の影が、壁にゆらめく。
「クロノスとは、組織の名前というより、ある種の理念を共有する者らの運動体であり、人類の比喩だ」
「抽象的すぎて、よく分かりませんね。比喩が革命を起こすなど、論理が転倒している」
「西洋絵画の世界で、〈時の翁〉というモチーフがある」
「……?」
「時、すなわちクロノスはローマの言葉でサトゥルヌスとなり、それが悪魔と結びついていく。人類にとって忌避すべきものは何か。……、それは時だ」
「何ですか、その、堂々巡りの円環は……、それでは説明していないのと同じではないですか」
「今は分からなくていい。ただ、時は現在も未来も食い尽くす存在だ。俺たちはすべてを食い尽くし、やがて世界は一つの終わりを迎える」
「ずいぶん子どもじみた、プラトニックな革命ゴッコですね。あなた達の理念とやらが産み出したのは、結局、バケモノを創造する〈カラクリ屋〉のような犯罪者集団だった」
「バケモノだと? ふん、どの口が言うか……。まあ、いい。ここに一つのゴム風船がある。こいつを試しに膨らましてみろ」
サイガは言われるがままに赤い風船を膨らませた。老翁の顔の大きさと同じくらいになると、これでいいのかと言うように相手の眼を覗き込んだ。
「生き物はこの風船と同じように、袋のような存在だ。細胞、受精卵の卵割、桑実胚、各種臓器、それから口腔から肛門までの空間と、例を挙げればキリがないだろう」
「……」
「人は簡単には死なないが、この風船を割るにはどうしたらいい?」
老翁は机の引き出しからマチ針を取り出し、風船に刺す。
パンっ! と破裂音が鳴り、後には空気を失ったゴムの破片だけが残った。
サイガには、老翁が持つその小さく細い針が、とてつもなく不吉な、悪魔の大きな首狩鎌のように見えた。【to be continued 】
参考文献 : エルヴィン・パノフスキー『イコノロジー研究』