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Ⅸ 猟奇

 回転式の拳銃、ニューナンブM60のトリガーに人差し指の腹を当て、力を込めて引く。

 

 カチッ、と硬い音が、静かな部屋に響く。

 

 津乃峰ユウはグレーの壁に向け、まるで不可視の敵に向けて撃つように、トリガーを引いた。二発、三発、四発、五発……、実弾が銃口から弾き出されるのを想像しながら、無表情に何度も撃つ。

 

 女という生き物は、身体的能力にまさる男という生き物から身を護るために、常に神経を尖らせていなければならない。無防備に見える若い女たちも、実は生存本能に従った行動を無意識に取っている。にも拘らず、時に欲深い一部の男たちの魔の手にかかるのだ。

 猟奇事件が起こるたびに、津乃峰ユウはこうして、銃の空撃ちで怒りを鎮めてきた。敵を捕らえ損ねたという自己への怒りと、絶対に奴らを逃しはしないという激しい意志が、津乃峰を駆り立てた。

 

 長雨のせいか、街は悲しみの色に染め上げられているようだ。

 朝、目醒めても、カーテンを開ければ、想像どおりに濡れそぼつ街路樹が目に入る。津乃峰は銃を仕舞い、しばらく瞼を閉じて昨日までの、事件解決への経緯を振り返る。

 テーブルの上に置かれた朝刊の一面。縦の脇見出しではあるが、太い黒帯に白抜きの文字が、事件の恐ろしさを無理に強調しているようだ。

 

 〈連続猟奇殺人事件の容疑者、逮捕〉

 

 こいつは、いわゆる〈飛ばし〉にならないギリギリの線で、警察発表をマンマ復唱しているだけだ。記者の連中もみな、事件の裏にあるきな臭さを疑っているからかもしれない。何故だろうか。当の捜査本部にいる津乃峰自身が、あまりにも出来すぎた逮捕のシナリオのように思えてならなかった。

 

 カップに注いだコーヒーを飲み、窓ガラスに映る自分の薄い翳を見つめる。

 

  ❇︎

 

 逮捕された男は、もともと、都内でも有名な大学病院のエリート医師だった。

 

「今回も、典型的な空気塞栓症ですね」

 地下の解剖室を出てすぐの控え室は妙に明るい。司法解剖を担当した法医学専門の監察医マドロミは、分厚い死亡検案書を津乃峰に渡し、遺体の状況を説明した。

 監察医は椅子に腰掛け、相手にも座るよう促したが、険しい表情の津乃峰は首を振り、立ったまま書類に目を通していた。

 マドロミは見た目よりは若いようだが、白髪が多く、毛先はあっちやこっちに飛び跳ねていた。黒縁の眼鏡の奥は、隠しきれないほどの疲労の色が滲んでいる。医師は、白衣のポケットに手を突っ込んだまま、背凭れに深く体を預けている。

 

「空気……、塞栓症か」

 津乃峰は監察医の言葉を繰り返した。

「そんなこと、医学的知識もない素人が、簡単に実行できるんですか?」

「ええ、注射器を使って相手の体に空気を注入すればいいだけですから。空気を入れる。すると、動脈や静脈のなかで、塞栓を意図的に作り出すことができます。結果、意識障害や痙攣、麻痺などが起こり、死に至ることがあるのです」

 素人の犯行だろうか……。

 現場で七人目の遺体を見たとき、なぜか人体に詳しい玄人の仕業ではないかと直感した。たしかに、殺しの手口としてはありきたりだ。看護師やマフィアがこの手法を使った事例は星の数ほどある。


「でも、犯人は、ただ殺すだけでは飽き足らなかった」

「まあ、そうでしょうね。遺体の損傷から推察するに、犯人には殺し以上の目的があったのかもしれません」

 殺し以上の目的、というマドロミの言葉に、津乃峰は引っ掛かる。

「七人の女性被害者は、すべて同じように殺されていますよね。性的暴行の痕や精液の痕跡もいっさい残されていないので、犯人は女性ではないかという捜査官もいるんです」

「しかし、遺体の損傷の激しさから考えると、男の犯行とも考えられますよ」

 いや、違う。内心、相手の言葉に反発する。

 なぜか、津乃峰の直感とは違う方向に、マドロミが持っていこうとしているかのように感じる。まさか、ミスリードというわけではないだろうが。

「遺体の損傷? マドロミさん、あれは、嗜虐性の暴行というより、なにか、人体実験のようなものではないですか? 何かを探っているような……、理知的な意図を感じる」

 マドロミの眼鏡の奥の眼光が、はじめて鋭く光る。

 人体には血管以外にも、空気を注入できる器官は山ほどある。内臓から膀胱、脳に至るまで、皮膚という表面の内側は、外側の何かから身を守るように整然と一つのかたまりを成している。人という名の袋、あるいは風船のような柔軟なゴムのようなものか。

 控え室は沈黙に満たされていた。

 

「マルティン・ハイデガー」

「え?」

 

 マドロミは急に話題を変えようとしているのだろうかと、女刑事は訝る。

「ドイツ哲学者のマルティン・ハイデガーは、戦後公表された、ある書簡の中で、〈言葉は、存在の家である〉と述べています。この世界に言葉というものが無ければ、私たち人間という名の存在者を根拠づける〈存在〉を問うことはできません」

 マドロミは眼鏡をとって、綿のハンカチでレンズを拭いた。左目が紅く充血しているのが分かる。

「先生、とんち問答なら、他でやってくださいな。私、そうした形而上学的な問答は、高校生の時に卒業してるんで」

 津乃峰は恩師であった高校教師、隱郷サイガのことを思い出していた。あの頃の、サイガ先生の問いかけの数々は新鮮だった。しかし時は過ぎ、年齢を重ねれば、誰もが現実の生活の中に埋没していく。

 現に、殺人鬼は物理的な形をとって、どこかに居るはずなのだから。

「分かりました。では、問いを変えましょう。新約聖書、『ヨハネ福音書』でも、〈はじめに言葉ありき〉とあるように、世界は、言葉によって成立したと考えられています」

「神の言葉ってやつですね。それが、何なんですか、いったい」

 

 津乃峰は苛立ちはじめていた。目の前の医師の言わんとするところが、まったく見えなかったからではない。むしろ、かなりのところまで視えてきたからだ。

 もちろん、心が視えるのではない。

 解剖室の、扉の向こうのマドロミの所作が視えていたのだ。ーー、抑えろ、抑えろ。緊張で、心拍数が上がる。

 

「何なんだ、じゃないよぉ、君! これは、解剖学アナトミーを探求する者にとって、もっとも重要な問いなんだ!」

「……」

 マドロミの、眼鏡のテンプルを持つ指先が、わなわなと震える。呼吸が荒くなり、言葉が乱れる。しかし、ハッと我に帰ると、神妙な顔つきに戻った。随分と気分にムラがあるな、と思う。

「す、すまない。つい、興奮してしまって……。不死を目指すには、生の根拠を示す必要がある。人体解剖の果てに、生命発生の根源が知りたい。そう思うのは、職業柄、自然な問いだろう? 」

「それで、何か分かったの?」

「いや、何も分からなかった」

「七人も殺したのに?」

「ああ……、いや、そうじゃなくて、あれ? 今、俺は何て言った?」

 

 津乃峰ユウは、上着の内側から黒い拳銃、ニューナンブM60を抜き出し、マドロミの額に銃口を向けた。ロックを解除する。

 

「七人も殺しておいて何も分からなかった、てか? このクソ野郎……、いまここで、死んで詫びろ」

 津乃峰の黒く短い髪が、怒りで逆立つ。グリップを握る掌は汗ばむ。


「あの女たちは、皆、生きる気力を失っていたんだ。だったら、ちょっとは人類の進歩に貢献させても、バチは当たらないだろう? 」

 眼鏡をかけ直した監察医は、被害者を嘲るように笑う。

 

「マドロミィッ!」

 

 トリガーに指を掛けた瞬間、後ろから、扉を開けて部下の葛城が飛び込んできた。津乃峰に待機を命じられていたため、扉の裏で聞き耳を立てていたのだ。

 

「つ、津乃峰さん、やめて下さい!」

 しかし上司の捜査一課係長の指は、いとも容易くトリガーを引いた。

 

 カチッ、と金属音が小さく響く。

 

 それから、身動みじろぎ一つしない殺人鬼に向け、二発、三発、四発、五発と空撃ちした。その度に撃鉄は上下し、輪胴シリンダーは虚しく回転した。

 

  ❇︎

 

 マドロミの逮捕で謎の失踪事件は解決どころか、逆に捜査官たちに多くの疑問を残してしまった。なぜなら、七人の被害者と破裂した水嶋チヒロの事件はまったく無関係だったからだ。いや、正確には関係性を実証できないだけなのだが……。

 つまり、マドロミという医師には、人の形をした袋を破裂させるだけの、知識と技術テクネーが決定的に欠けていたのだ。【to be continued 】

 

参考 ハイデガー『「ヒューマニズム」について』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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