8 美少女と野獣
アリスがシャッターをくぐって工場の中に戻ると、「おかえり」という声がした。顔を上げてみて――
――誰?
アリスは言葉を失った。
目の前にいたのは、ぱっちりとした大きな目が印象的の、可愛らしい顔つきの小柄な女性……というよりも少女であった。美少女、と形容してもいいほど華があり、およそこんな場所には似つかわしくない。僅かに上気した頬に紅が差し、首筋に垂れる汗を細い指が拭った。
アリスが言葉を失っていると、彼女はふん、と鼻を鳴らしながら腕を組む。その動作に見覚えがある。彼女は怪訝そうに細い柳眉を寄せながら言った。
「何をぽかんとしてるの? 屍人でもいたわけ?」
「いや……それはいなかったけど……」
「あぁ」身体を伸ばしてストレッチをしていたジルが、アリスを振り返って言った。「それはソフィーだぞ」
「えっ」
言われてみれば、確かにソフィーだ。
長い前髪で目元がすっかり覆われていたが、今はそれを後ろに掻き上げていて、真っ白な額まで晒していた。彼女は玉肌に浮かぶ汗をしきりに払いながら、不機嫌そうな顔で言った。
「何? しばらく兜被ってたからって、顔忘れちゃったわけ? 失礼ね」
「前髪がないから驚いた。いつもそうしていた方がいいんじゃない?」
「どうして? 人におでこ見られるの嫌なのよ」
ソフィーはそう言いながら、自らの右手で額を抑えた。あまり嫌そうな口ぶりには聞こえなかった。女子の考えることはよくわからないな、と思いながら、アリスは言った。
「可愛い顔が髪で隠れるもの」
――ぶっ、と噴き出したのは、兜を脱ぎ、水を飲もうとしていたリュートだった。その隣で、レンダが痙攣した様な声を上げながら息を吸ったかと思えば、天井に響くほどの大声を上げて笑い、ごろごろと床を苦しそうに転がり回った。平然としているのは鎧の手入れをしているジルだけで、ソフィーはポカンとした顔でアリスを見上げていた。
「……何かおかしなこと言った?」
げほげほと咳き込んでいるリュートに視線を投げながら言えば、今度はソフィーがハッとしたような顔になった。
「おかしなことも何も……ッ」
その顔がぽんぽんと赤くなっていく。そして彼女は上げていた前髪を乱暴に下ろし、また前のように目を隠してしまった。
「変なこと言わないでよ! そんなこと言われたって嬉しくもなんともないんだから!」
「変なこと? 僕は事実を……」
「うるさいッ」
「にゃははは! ソフィーが! 照れてる! めずらし! なははは!」
「あんたも黙りなさいッ」
ソフィーは笑い転げているレンダの脛を蹴り飛ばす。蹴られてもレンダは依然として笑い続けており、さらにソフィーは赤くなった。ふんっ、とアリスに背中を向け、自らの荷物の方へ歩いていく。
「……怒らせたのかな?」
鎧に零れた水を拭いているリュートに尋ねれば、彼は曖昧な笑顔を浮かべた。
「まぁ、怒ってはないと思うけど……」
「後で謝った方が良いかな」
「そっとしておいた方が良いと思うよ」
アリスが大真面目に聞けば、リュートは今度は可笑しそうに目を細めながらそう言った。なら、その通りにしようとアリスは思う。
「……リュートは鎧、脱がないの?」
ふと、気が付いてアリスは尋ねた。
レンダとソフィーは全部脱いでしまい、軽装になっている。ジルも兜や手甲などは外している。けれどリュートは兜しか脱いでいないし、しかもそれも自らの傍らにピッタリとくっつけて置いていた。
「うん……何かあったら怖いし」
「でも、重いし、暑くないの? 休むのも大事だよ」
「大丈夫。こうやって座ってるだけでも休めてるから」
リュートは膝を抱え、にこりと微笑んで見せる。緑色の目が穏やかに揺れた。
本人がそう言うのなら、無理強いすることもない。アリスは床に屍人の体液が付いていないことを確認してから、リュートの隣に腰を下ろした。
リュックサックを下ろし、中から乾パンの入った袋を取り出す。南部特区から、ちょうど七日分の食糧を小分けにして渡された。小さな乾パンの袋と、パンでは賄えない栄養が摂れるというサプリメント。そのような物資は、すでに穴が塞がっているもう一つの島・エイトラ島から送られてくるらしい。
いつも食べているものより、特区の乾パンは美味しく感じられた。とはいえ、そう量はなく、食べる度に空腹が際立って行くような気もするが、我慢して、サプリメントを水で流し込む。こちらは少し、苦かった。
「足りないよーっ」
泣き言を言っているのはレンダだ。ごろりと床に寝転がったまま、自らの腹を抑えている。その隣で正座をしながら乾パンを食むっていたソフィーが、自らの袋から一つ掴み取り、彼女の目先に突き出した。
「要る?」
レンダの黄色い瞳にソフィーが写る。意外にも、彼女は首を横に振った。
「要らない。ちゃんと食べなよ」
「あのね、私が要らないんじゃないのよ、あんたが足りないって騒ぐから、要るかどうかって聞いてるのよ」
「子供扱いしなくていいから」
レンダは頬を膨らませると、ソフィーの細い手首をガッシリと掴んだ。そして上半身を起こしながら、その手をソフィーの口まで持って行く。そのまま、ほとんど無理やりねじ込むように、乾パンを彼女の口に押し込んだ。ソフィーは思わずと言った様子でそれをくわえながら、湿度の高い目でレンダを睨む。もごもごと口を動かした後、彼女は言った。
「どっちが子供扱いよ……」
「よーく食べれました! えらいでちゅねー!」
レンダはけらけらと笑いながら、ソフィーのもう一方の手も掴み、まるで人形を操るように、彼女の手を胸の前で合わさせた。「ごちそうさまでした!」とレンダが叫ぶのを、ソフィーはさらにじとっとした目で見つめている。
「ほんとに馬鹿よね」
「馬鹿って言う方が馬鹿なんだい」
「ていうかあんたの力、強すぎて痛いのよ。離しなさいよ」
ソフィーは怒ったようにそう言い、レンダの手を振り払う。
「力加減を知らない人って本当にどうかと思うわ。あーぁ、痣になったらどうしようかしら」
ソフィーは仕返しのように、わざと粘着質な言い方でそう言った。しかしレンダには通用していなくらしく、彼女はけろりと笑っている。
「痣になっても死ぬわけじゃないし、いいじゃん!」
「あのね。あんたは死ななければ何でもいいわけ?」
「そりゃ、死ぬよりダメなことはないでしょ」
「ふーん」ソフィーが意地悪そうに笑う。「じゃあ、死ぬより屍人になった方がいいっていうのね?」
「そんなこと言ってないし!」
「言ったわよ。死ぬよりダメなことはないんでしょう?」
「それとこれは別でしょ? 屍人になる方が死ぬよりダメだもん」
レンダは笑いながら言う。ソフィーは舌打ちしながら首を横に振った。
「あんたって本当に言葉が通じないわ」
「話せてるのに!?」
「真剣に驚かないでくれる!? 言葉の綾よ!」
ソフィーはそう叫び、疲れ果てたように両肩を落とした。レンダは悪びれずにまだ笑っていて、そのまま再び横になると、ソフィーの細い膝の上に頭を下ろした。
「うわ、固い枕」
「あんたの頭、石しか詰まってないから、どこで寝ても固いわよ」
「あはは。石しか詰まってなかったら、どうやってバランス取るのよ。頭が一番重かったら動きづらいよ」
「人間は頭が一番重いのよ……」
ソフィーはそう言ってから、諦めたように息を吐く。次々と嫌味な言葉を吐いていたわりには、勝手に膝を枕にしたレンダを、無理に払いのけようとするようには見えない。それどころか、さっさと瞼を閉じてしまったレンダの前髪を撫で、僅かに微笑みさえした。
「仲良いんだね」
驚いたアリスが、リュートに囁くように言えば、彼は微笑みを浮かべて頷いた。
「幼馴染なんだって。意外だよね」
「へぇ……」
「……さて、そろそろ夜になる。交代で眠ろう」
鎧の手入れを終えたジルが、振り返って言う。彼はアリスたち四人を見比べると、ふむ、と唸ってから言った。
「まず二時間、俺が起きて様子を見る。そのあとにリュートとアリスで二時間、そのあとにソフィーとレンダで二時間、でどうだ」
「うん、いいんじゃないかな」
アリスが微笑むと、ジルは頷いた。
「じゃあ、そうしよう。興奮して眠れない奴もいるかもしれないが、無理やりにでも寝ろよ……おっと。一人、もう寝てる奴がいるな?」
言われて見てみれば、ソフィーの膝の上のレンダは、もう既に穏やかな寝息を立て始めていた。
*
――ふと瞼を開ければ、そこで眠っていたのが、リュートではなくて、兄だった。
目が合えば、至近距離にあった兄の顔が微笑む。彼はゆっくりと身体を起こすと、緩慢な動作ながら、はっきりと首を横に振った。
「駄目じゃないか、アリス。兄さんとの約束を破っちゃ」
心臓が跳ねた。
――兄さんとの約束を破った? 何だろう?
兄はまだ微笑みを浮かべている。優しい目をしていた。本気で怒っているわけではないらしい。だから、約束を破ったというのは、あの四つの約束のことではないのだろう。正義の心に従うこと。意味のない暴力を振るわないこと。人を殺さないこと。兄に逆らわないこと――この四つの約束を破ってしまった時の兄は、アリスにとってどんなものよりも恐ろしかった。
兄は微笑んだまま、工場の中心を指差した。そこには誰もいない。この夢の中では、兄とアリスしか存在しなかった。
工場の中心。『信者』たちが輪を作り、祈っていた場所。
「アリス、起きなさい」
兄は優しい声で言った。
「その重い瞼を開けて、早く逃げるんだ」
――ぞっ、とした。血液が逆流するような心地がして、アリスは現実の瞼を開けた。