54 生きる場所
村を出て、また森の中を、特区から離れていくように歩いて行った。木々が腕を伸ばし、どっしりと生えた葉っぱで空を覆っている。それでもその隙間から太陽光が漏れ、道をぽつぽつと照らしていた。その明かりを木漏れ日というらしい。子供たちが笑い声を上げるのが、葉っぱの隙間から空へと広がっていく。
地面はすっかり乾いていて、歩くたびにじゃりじゃりというような音がした。濡れている地面よりは歩きやすいけど、それでも朝からずっと歩き通しだと、足の裏が痛んでくる。
土踏まずは、土を踏まないからそういう名前なのに、どうして長時間歩いていれば、そこが一番痛むのだろう。
歩き慣れないロザリーの足はすっかりぼろぼろで、豆は出来ては潰れ、爛れるし、柔らかかった皮はずっと固くなった。
それでも、それだからこそ、生きている、という心地がした。
「ロザリーさん」
ふと、車の中から、垂れ布をたくしあげ、タッタの皺の寄った細い手がこちらを手招いた。
「ロザリーさんだけ、おいで」
彼女がそう言うので、隣を歩くエマは少しだけ不満そうな顔をした。そのさらに隣を歩いていたルイヴィスが可笑しそうに笑っている。
ロザリーはエマに微笑みかけてから、車に乗ろうとした。しかし、荷車を引いている男は止まってくれないし、籠の縁を掴みながら、ロザリーはぱたぱたと歩く羽目になる。
「飛ぶんだよ、ロザリーお姉ちゃん」
ぴょこんと跳ねるようにして隣にやってきた幼い少女が、ぱたぱたと走りながら籠の縁を掴み、おもむろに飛び上がった。腕の力で自分を持ち上げ、籠の上に片膝を乗せる。彼女は「ね?」と言いながらこちらを振り返り、今度は身軽に飛び下りた。
「そうやって走ってても、いつまでも乗れないよ」
「う、うん」
ロザリーは縁をしっかりと掴み、ぴょんとその場で飛び上がってみる。けれども動いている荷車に引っ張られるように、少しだけ前方に移動しただけで、また地面に両足を着いた。
「あ、え、ええと……」
「どんくさーい」
少女はけらけらと楽しそうに笑う。それを見て、後方を歩いていた子供たちがわっと集まってきた。人にものを教えるのが好きなのか、根が優しいのか、みんな楽しそうに笑いながら、「どんくさい」ロザリーに動く荷車への飛び上がり方を教えてくれる。
それでも、ロザリーはなかなか飛び乗れず、勢いを込めて飛んだ、と思えばお腹を籠の縁で打ち付けて、そのまま地面にひっくり返った。
「どんくさすぎー!」
子供が呆れたように笑う。
「あはは、まぁ無理はいけないや。怪我はしてないかい?」
すかさずルイヴィスがやってきて、二の腕を掴んだ。かと思えば、ぐいっと強い力で持ち上げられ、ロザリーは立ち上がっていた。
ルイヴィスはロザリーの背中を押して、荷車に近づけると、
「飛んで」
と言った。ロザリーは縁を掴み、もう一度飛んでみた。その途端、腰をぐっと両手で掴み上げられた。
「きゃっ……」
浮遊感。ルイヴィスによって無理やり持ち上げられ、ロザリーは両膝を籠の上に付いていた。へたりと前に両手をつけば、後ろでルイヴィスが両手を叩いている。
「その調子、その調子」
子供扱いされているみたいで、恥ずかしかった。ちら、とエマを見れば、彼女は呆れたような顔をしている。どんくさすぎ! と言いたそうな顔だった。
仕方ないじゃないの、とロザリーは内心でむくれた。
今まで、荷車に乗るとしても、みんな、ロザリーを待ってくれた。ロザリーこそが最大の客人だったからだ。
でも、これからは違うのだ。ロザリーは特別な存在ではなくて、少なくともしばらくの間は、このキャラバンの新入りに過ぎないのだ。
「少しずつ、外での生き方を学びなよ」
ルイヴィスが笑う。
私には、未来がある。ロザリーはそう思った。自然と笑みが零れ、子供たちがぽーっと一面に頬を桃色に染めている。ロザリーは子供たちが自らに見とれていることに気付かないまま、厚い布をくぐり、籠の中へと這って進んだ。
籠の中には老女のタッタだけが座っていた。籠の中は明かりとなる蝋燭などがないから薄暗いけれども、物見窓から、木漏れ日が差し込み、穏やかな光となっていた。
タッタは両手に編み棒を持ち、何やら衣服を縫い上げているようだった。彼女は皺の寄った目を細め、それを見つめている。
「これから寒くなるからねぇ、色々と縫って作ってあげないと」
彼女はそう微笑み、そしてもう一度、手招きした。
「こっちへおいで。これを縫ってくれないかね」
彼女が差し出したものは、子供用のシャツらしかった。長袖のシャツらしいが、袖の肩口がほつれ、今にも取れそうになってしまっている。
「裁縫は出来るかい?」
「それなりに出来ますけど……」
ロザリーは膝を擦って進み、タッタと向かい合うようにして座ると、そのシャツと、渡された針と糸とを掴み上げた。それを膝の上に置きながら、タッタの方を見る。
「どうして私に?」
「働かざる者、食うべからずだよ」
タッタは微笑みを浮かべながらも、厳しい口調でそう言った。
「エマさんは私たちの護衛として優秀だ。働いてくれる。でもあんたはそういうわけにはいかないだろう? 彼女とは違うところで、働いて貰わなきゃ。キャラバンの人間はそうやって助け合ってるんだからね。あんただけ特別というわけにはいかない」
「……が、頑張ります」
ロザリーはきゅっと肩を縮めた。
そうだ。自分が特別ではないということは、特別に守ってもらったり、甘やかしてもらえるということがなくなるのだ。ちゃんと、みんなの役に立たないと。
――みんなの役に立つ、か。
ロザリーはそう思いながら、苦いものを覚えた。役に立つ、というのは、ロザリーにとって、死ぬ、と同義だった。
そんなことを思いながら、ロザリーは針と糸を使って、シャツのほつれを縫い直していく。もともと、裁縫は得意な方だった。村から出してもらえず、外で遊ぶことも、怪我をしてはいけないからときつく制限されていたから、ロザリーはほとんど屋内で過ごしていたのである。家の中で出来る遊びや読書をやりつくし、片っ端から飽きていった彼女だが、編み物だけは飽きなかった。
自分の手で何かを生み出せる、というのが、楽しかったのだ。出来たものを、親や、村の子にあげると喜んでもらえた。ロザリーが『神の子』に囚われずに人と交流出来た、唯一の手段でもあった。
「……ハサミありますか?」
物思いに耽っているうちに、手は作業を終わらせていた。きゅっ、ときつく玉止めをして、伸びた糸を切ろうと顔を上げれば、タッタがじっとこちらを見ていた。
彼女は皺だらけの手で、ロザリーの膝の上に置いていたそのシャツを引き寄せた。そして、ロザリーが縫い合わせた箇所をじぃと見つめると、錆びつきかけのハサミで、余った糸をぱちりと切った。
「あの……」
「上出来だね」ふと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。「とっても上手だよ。いやぁ、良かったわ」
ふふ、と彼女は笑う。
「うちのキャラバンは、ルイヴィスも他の子も不器用な奴が多くてねぇ。私が死んじまった後は、誰がみんなの服を縫うのかと思って心配してたんだけど、あんたがいてくれたら大丈夫だね。あんた、服とか、マフラーとかも編めるかい?」
タッタは言いながら、自分が手に持っていた編み棒を差し出してくる。ロザリーはその編み目をちらりと見て、受け取ると、その続きをすいすいと縫ってみた。途端、タッタは子供の様に笑い、両手を打って喜んだ。
「こりゃあいい。私らの方から頼まなきゃいけないねぇ、どうかこのキャラバンにいておくれ」
彼女はくすくすと身体全身を震わせて笑っている。不安が解れたのか、両目を細くしながら、彼女は楽しそうに言葉を続けた。
「本当に誰もかれもが不器用でねぇ、教えても教えても上手くなりゃしないし。タッタがいるから大丈夫よ、だなんて言うもんだしね。こっちの気も知らないで」
あぁ、よかった、と彼女は息を吐く。それから、その皺だらけの手を伸ばして、ロザリーの手を包み込むように握った。
薄くとも、年季の入った手だった。年よりの手だった。皮膚を通じて、その幾本もの皺をロザリーは感じた。ざらざらとした感覚が、彼女の人生を語っている。
「お礼を言わなくちゃいけないね。ここに来てくれて、ありがとうね……」
彼女はにこにこと微笑みながらそう言った。
ありがとうね。
ここに来てくれて、ありがとうね。
ロザリーは涙腺が熱くなるのを感じた。
特別じゃない、『神の子』じゃない自分が、誰かに必要とされている。存在を認められ、お礼さえ言われている。
「私、ここで、生きていて、いいのね」
ロザリーは必死で涙を堪えながら尋ねた。彼女は頷いた。
「もちろんだよ」
――嬉しかった。
エマと出会って、初めて、自分を特別扱いしない人間を知った。初めて、『神の子』ではない自分に向き合ってくれる人間を知った。そしてそのエマが、自分の手を取り、罪を背負って、ここまで連れてきてくれた。そして、ここでは、自分が『神の子』とさえ知りもしない、ただの『ロザリー』しか知らない人たちが、自分を認めてくれる。
『神の子』じゃない自分でも、生きてていいのだ。
「なぁ」
その時、籠の後ろの布をめくり、エマが顔を覗かせた。
「何してんの?」
ぶすっとした顔をして、不機嫌そうに中を覗き込んでいる。ロザリーは笑い、編み棒をよく見えるように持ち上げた。
「私に出来ること!」
エマは胡散臭そうに眉を上げ、ハッと馬鹿にしたように鼻で笑った。
「何で笑うの?」
「別に」
エマはもう一度鼻で笑う――その周りに、子供が集まってきた。
「エマー!」
きゃっきゃっと明るい声が飛び交う。エマはげっと眉を寄せながら、自分に飛びつこうとする子供たちを払っている。
「近寄るなよ。あと、何でロザリーはお姉ちゃんで、私は呼び捨てなんだよ」
「だってロザリーお姉ちゃんはお姉ちゃんだけど、エマはまだお姉ちゃんじゃないもん」
「……」
流石のエマも、子供相手に「殺すぞ」とは言えないのか。ロザリーはそう思って驚いたが、しかし、そんなことはなかった。
「出来るだけ苦しめて殺す」
エマは三白眼を光らせてそんなことを言ったが、子供たちはきゃいきゃいとはしゃぎ、その後ろで飛び回っている。誰かの殺意を感じられるほど、彼らは大人ではないのだ。そもそも、エマだって、口は悪いけれど、本気で殺すつもりではない。
「あんまり酷い言葉を使わないでくれよ。ちびっこは覚えちまうからね」
ルイヴィスが困ったように言う。エマはぎろりとそちらを睨みつけたが、ルイヴィスは呆れたように肩を竦めている。彼女にとっては、エマも厄介な子供のうちの一人なのだろう。
ここでは自分も、エマも、拒否されない。
ロザリーはほっ、と安堵する心地を覚えた。ここで生きていていいのだ。心から、そう思えた。
*
「――あぁ、その子たちなら、ちょうど北の方に進んだよ。仲間かい?」
そう尋ねられ、アリスは曖昧に頷いた。昔は仲間だったかもしれない。けれども、今は違う。アリスは彼女たちを殺そうとして追いかけ、彼女たちは生きる為に逃げている。
たまたま立ち寄った村に、エマたちも立ち寄っていたとは運がいい。しかも、キャラバンと合流したという情報まで得た。キャラバンならば、大きい村を移動して進んでいく。アリスはここから北へのルートなら、今まで兄と何度も通ったことがあった。大きな村の場所の大体の位置もわかるし、さらに、キャラバンなら荷車があるから、車輪の跡を辿れば追いつける。
感謝を言い、村を飛び出そうとしたアリスを、ふと話をしていた相手の女性が呼び止めた。
「あんた、もしかして、お兄さんと二人で旅をしていなかったかい?」
アリスは走り出そうとした足を止め、思わず振り返った。女性はまじまじとアリスの顔を見つめ、あぁ、やっぱり、と微笑む。
「随分と綺麗なお兄さんと二人で旅してただろう? 二人旅だなんて珍しいから、覚えてたんだよ。仲の良い兄弟だったしねぇ。お兄さんはどうしたの?」
――アリス、と脳裏で兄が笑う。
今日は、あの村で一泊だけさせてもらおうか。ちょうどキャラバンが通りかかっているみたいだから、面白い話や、綺麗な歌が聞けるかもしれないよ。
アリスは目を閉じた――兄との四つの約束。
その一、正義の心に従うこと――正義って、何だ?
その二、意味もなく人を傷つけないこと――意味って、何だ?
その三、人を殺さないこと――殺した。
その四、兄に逆らわないこと――逆らって、兄までも、殺した。
――全ては、兄が亡くなった、あの日に終わっていたのだ。兄との約束を破り、彼を突き飛ばして逃げようとした、彼に逆らった、あの瞬間に。自分と兄との閉鎖された世界は死んだのだ。
もうここに兄はいない。兄を慕っていた弟はいない。
ただ、亡骸が生きているだけだ。
「……誰か、他の人と勘違いしてるんじゃありませんか」
アリスはそう答えた。女性は目を丸くする。彼女が何か言う前に、アリスは頭を下げ、踵を返していた。
エマたちを追いかけなければならない。
今年最後の投稿になります。
みなさん、よいお年を。来年もどうぞ、よろしくお願いします。




