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51 花の名前

「さよなら」


 アリスが耳元で囁いた。


  クラウドは両手を離した。アリスが背中から滑り落ちる。彼の手が届く前にと、クラウドは腰のホルスターに手を伸ばした。そしてしかとその銃を握った――けれども、遅かった。


  それよりも早く、アリスの両手がクラウドの首を後ろから掴んでいた。


  冷たい五指が喉に食い込む。あまりの冷たさにぞっと全身が震え、その次に、息が苦しくなって、また全身が震えた。クラウドは銃を引き抜き、後方へ向けて撃とうとしたが、ホルスターから銃を抜いた途端、アリスの足が銃を蹴飛ばした。


  何が足を撃たれただ! 演技か!


  グッ、と後ろに引っ張られた。予想外の力に、そのまま仰向けに倒れ込んでしまう。アリスはその頭上すぐ近くに膝を着き、両手に全体重をそっ……と押し込めてきた。まるで願いを込めるように。


  目の前がチカチカする。息が苦しい。苦しい。アリスの手首を掴み、引きはがそうとするのに、それは頑として動かない。心臓の下がぎゅうと掴まれた気がした。あぁ、やめて、やめてやめてやめて、やめて、やめて、潰れてしまう、潰れてしまう。心臓の下が、腹のどこかが、ぐるりと潰れてひっくりかえるような、果てしない苦痛と、果てない快感が同時にやってきたような。点滅する。目の前が。息が苦しい。息が。できない。そろそろ、息が、酸素が、欲しい。酸素が。やめて。この先は、駄目だ! 駄目だ! 駄目だ! 行ってしまってはいけない場所だ。まだ。まだ!


  ――エマ。


  乾いた血の色の目がこちらを見る。常に蔑んでいる目。この世の何にも囚われない、他人の作った常識になんて縛られない、自由に羽ばたく蝶。


 エマ。


  意識がどんどんと沈んでいく。遠く、離れていく。遠く離れていく(・・・・・・・)? どこから? 何が? 遠く離れていくのは自分だ。どこから? ここから。自分だけが。いなくなる。


「……また夢で逢おう」


 アリスが囁くように言う。


  暗い、暗い、くら

 

 



                   *

 



  クラウドが動かなくなった。


  アリスは彼の首から手を離し、大きく見開かれたままの瞼をそっと閉じてやった。


  そして立ちあがり、さっき蹴り飛ばした拳銃を拾う。ふと思い立って、クラウドの服を探ってみれば、ちゃんと予備の弾倉を持っていた。アリスは残った二発でクラウドの額を撃ち抜く。後で屍人ゾンビに食われても、屍人ゾンビにならないように。


  クラウドの額に穴が二つ。だらだらと真っ赤な血が溢れ出す。それだけ見ると、まだ生きているみたいで、不思議だった。ただの亡骸になったクラウドから、生きてるみたいな、真っ赤な血が溢れ出す。変なの。


  アリスは再充填リロードして、拳銃を握り直す。


  ――拳銃が鍵だった。


  アリスは丸腰で、クラウドは拳銃を持っている。だからこそ、きっと拳銃を取られるのを一番警戒する。それ以外の攻撃手段が、クラウドの頭から消えてさえくれれば、それでよかった。


  危うく撃ち殺されそうになったけれど。クラウドが優しい人で、よかった。


  アリスは大きく息を吸い、そして吐き出した。


  泣き真似までして、下手な芝居までして、騙そうとするなんて、ユースと手口が一緒だ。忌々しい。


  アリスは拳銃を抱きしめ、その銃身にキスをしてから、前を向き直った。


  エマを殺しに行こう。ロザリーを殺す為に。そして、ミーシャを助ける為に。

 

 

                  *

 

  太陽が傾斜する。木の葉の向こうから橙色が最期の炎を燃やす。振り返れば向こうの空はもう藍色に染まっている。夜から逃げるように、エマたちは西の空へ向かって走っていた。


  掴んだ手のひらの向こうは重い。ロザリーは走り慣れていない。けれども必死に走っている。


  自分が手を引けば、ロザリーはひたすらついてくる。息を荒げ、顔を真っ赤にしながら、ついてくる。自分が手を引く先以外に、彼女が生き延びる術はないから、ただついてくる。


  生きることを選んだロザリーは、自分の汚れた手を取ってくれた。それだけで生まれてきた甲斐があったものだとエマは思った。


  この先に何があるかわからない。

  二人で死ぬかもしれない。


  それが、どうした。


「エマ……ッ、わたし、もう……!」


 ロザリーが喉を震わせて叫ぶ。もう体力も限界なのだろう。


  ふと、少し先で木々が開けているのが見えた。どこかの村にでも繋がっているのだろうか、と思いながら、エマは汗で滑るロザリーの手を強く握った。


「もう少しだけ」


 返事はない。けれども、ロザリーはエマの手をぎゅっと握り返してきた。


  速度を落としながらも走り、木々の間を擦り抜けて、エマはハッと息を呑んだ。思わず立ち止まれば、後ろからロザリーが衝突してくる。二人はそのまま前のめりに倒れ、勢いよくごろごろと転がった。そして途中で、二人とも、地面に大の字になった。


  森が開けた先にあったのは、花咲く野原だった。一面に緑の野が広がり、そこに雪のように白い花がちらばっている。今にも沈みかけた太陽が、その野原をきつい橙色に照らしあげる。


「ロザリー……」


 地面に両手を広げ、空を睨み、呼吸を整える。隣でロザリーはひぃひぃと激しく喘いでいた。本当に苦しそうで、そのまま死んでしまうのではないかとエマは不安を覚えた。その矢先、ロザリーは弱々しくも、はっきりと笑顔を浮かべた。


「しにそう」

「……そう簡単に、死には、しない」

「だと……いい、けど」


 ロザリーはふふと笑い、そして両目を伏せる。その薄桃色の唇が大きく開かれ、酸素を求める。胸が大きく動く。はあはあという激しい吐息は止まらない。


「……ある、こう」


 エマはげほげほと咳き込んだのち、そう言った。ロザリーがパッと目を見開き、エメラルドの瞳をこちらに向ける。


「まだ、動く、の?」

「激しく運動した、後は、止まるより、ちょっと動いた方がいい」


 エマはゆっくりと立ち上がり、ロザリーに手を伸ばした。そこがベットでもあるかのように、地面に身を預けていたロザリーは、一瞬だけ抵抗するように顔をしかめたが、すぐに真っ赤な手を伸ばした。エマはそれを掴み、彼女を引っ張り起こす。ロザリーはのろのろと立ち上がり、そしてエマの肩に手を置いてきた。彼女の方が身長が高いので、エマは自然と見上げる形になる。ロザリーは少し高い位置からエマを見て、僅かに微笑んだ。そしてそのラピズラズリの瞳がエマから離れ、周りの景色に移る。


「……わぁ」


 彼女は大きく目を見開き、たまらないとでも言いたげに笑った。まだ息は整っていないから、全身で酸素を求めているものの、その瞳は野原に釘付けだった。


「花畑ね」

「それほど立派なものじゃない」


 エマは言いながら、ロザリーの片手を取り直し、ゆっくりと野原――花畑の中を踏み出した。ロザリーはくすくすと笑いながら、手を引かれる(エスコートの)ままにエマの傍らを歩く。


  風が吹く。空にはまだらの雲が浮かぶ。西の明かりに強く照らされ、その影を形作っている。真っ白な花が緩やかな風に優しく揺れる。花を踏まないように気を付けながら、エマとロザリーはその花畑を進んでいく。


「この白い花は、なんていう名前なのかしら」


 繋いだ手の先から、相手の鼓動が聞こえてくるようだった。エマは目を伏せながら、さぁ、と呟く。その呟きは風に乗ってどこぞへと運ばれていく。


「どういう名前で呼ぶ?」


 エマは尋ねた。ロザリーはぱちぱちと大きな目を瞬かせる。


「私が決めるの?」

「うん。それを憶える」


 繋いだ手がさらに強い力で握り返してくる。彼女は微笑み、その微笑みを橙色が照らしあげた。


「そうだな……じゃあ、『ユメ』にする」

「ゆめ? これまたダサい名前だな」

「ちょ……珍しく優しいこと言ってくれて嬉しかったのに」


 ロザリーはむっとしつつも、その口元は緩んでいた。


  ユメ。安直で愚かな名前。けれど可愛らしい名前だ。


「何で、ゆめ?」

「たくさん咲いてると、嬉しいでしょ?」

「お前の言う事はよくわかんないよ」

「よくわからない私と一緒に、こんなところまで来てくれたのに」


 くすくす。笑い声。


  エマは大げさに両肩を竦める。そしてユメの間を、沈みゆく太陽に向かって歩む。


  太陽が少しずつ落ちていく。これが最後と言わんばかりに煌々と輝いている。エマはわずかに物悲しい気持ちを覚えた。どうしてそんな気持ちを覚えたのかはわからなかった。


 ――その時、ガラガラガラ、という特有の音が聞こえてきた。重い荷物を載せた車の車輪の音。車と言っても、手押し車のことだ。


  音からそう判断しつつ、エマは驚いて周囲を見渡した。そして、西の方角、また森が広がっている場所に、それを見かけた。エマが立ち止れば、ロザリーも立ち止まる。


「あれ、何?」


 ロザリーが固い声で尋ねる。エマは答えた。


「あれは、キャラバン(・・・・・)だよ」


 忌々しい記憶が蘇り、エマは心臓が握り潰されそうになった。けれども痛みがやってくる前に、ロザリーがさらに強い力で手を掴み直してくれた。

 


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