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48 後悔の選択

  ――アリスは街に飛び出していた。


  太陽は沈みかけ、西の空が赤く赤く染まっている。それはアリスに兄の最期を思い出させ、心臓を強く締め付けた。


  街行く人はほとんどいない。がらんと広がった路地の端に、打ち捨てられたように人々が倒れている。それは屍人ゾンビに噛まれた上で、頭を何者かによって潰された死体であったり、あるいは逃走時に人々に踏み潰された死体であったりした。とんでもない死臭があたりから漂ってきている。どこからか、つんざくような悲鳴や泣き声が聞こえてくる。


 ――誰のせい?


  僕のせいだ。頭の中に響く、誰かの声に、アリスは答える。心がずしりと重く、沈んでいく。アリスは路地を駆けた。どこまで行っても死体が見える。あちこちで人々が倒れ、それに生きた人間が縋り、泣いている。


  自分の『選択』のせいで、屍人ゾンビを特区内に連れ込むことになってしまった。その結果、こうして、たくさんの人間が死んでいる。それでも、被害はまだ始まったばかりなのだと、アリスは分かっている。


  悪党だ。特区にとんでもない災害をもたらした、とんでもない悪党だ。


  自分のせいで、特区の人々は傷つき、死んでいく。もう少しで、ロザリーが穴に飛び込んでしまえば、屍人ゾンビの脅威から救われたはずの人々が、救いの手のひらから零れ落ちていく。無残に死んでいく。無意味に死んでいく。


  みんなを助けるために、人々のために、世界を助けるために――正義の為に、自分は特区の外へもう一度踏み出したのに。それが回り回って、この島の最後の砦にとどめをさそうとしている。


  ――『選択』なんてくそくらえだ。


  自分には選ぶ権利なんかない。『選択』なんかするべきではなかった。


  アリスは泣き叫びたい気持ちだった。どこへ向かっているのかもわからないまま、特区の惨状を見つめながら、路地を駆け抜けていた。



「――兄さん!」


 そんな悲鳴を、初め、アリスは自分の声かと錯覚した。しかし、それは確かに自分の鼓膜を震わせているのだった。


  路地の先、どこかの洒落たレストランの――そこの硝子戸にはべったりと血が付いてしまっているけど――の前で、二人が揉み合っていた。


 一人は、すでに屍人ゾンビ化しているようだった。ウーウーという声と、その肌の緑色がそう告げている。もう一人は、その屍人ゾンビに組み敷かれ、今にも食べられそうになっていた。まだ幼い少年だった。


「兄さん! やめて! 兄さん! 兄さん!」


 叫んでいるのは、その幼い少年だった。


  アリスはその場から動けなくなった。自身の手には拳銃がある。けれども、その屍人ゾンビを射殺することは出来なかった。そういう『選択』がアリスの頭からは抜け落ちていた。


 ヤメテーーッとどこか劇々しく、滑稽に、少年は叫ぶ。

 その震える喉に、『兄』は食らいつく。

 悲鳴が空気と変わり、音を生み出していた喉から血の噴水が沸き上がる。屍人ゾンビが返り血を浴びる。それでも彼は美味しそうに、首から、肩へと唇を動かす。鎖骨の上に顔を埋め、がぶがぶと美味しそうに食べ始めた。少年はパクパクと唇を動かした後、白目を向き、動かなくなった。抵抗する為、『兄』の身体へ回されていた手が、地面に落ちる。赤い水たまりに手が落ち、ぺしゃりと音を立てる。『兄』はそれを聞きとり、少年の手を両手で掴むと、むしゃむしゃと食べ始めた。骨を噛み千切るほどの力はなく、指を噛んでは、乱暴に肉を啜っている。


  あの少年も、すぐに屍人ゾンビになるだろう。


  アリスはそう、思った。


  屍人ゾンビ屍人ゾンビの肉を食わない。だから、あの少年がたちまち屍人ゾンビになれば、『兄』は少年を食べるのを止めて、また新たな獲物を探しに出かける。きっと、少年もその『兄』に続いて、また二人で歩き出す。


  アリスは絶叫した。


  なんて幸せなのだろう(・・・・・・・・・・)


 自分だって、兄と一緒に屍人ゾンビになりたかった。兄だけが死んでしまって、この世界に、自分だけで生きていくくらいならば、兄と一緒に屍人ゾンビになっている方が、ずっと幸せだった。


  兄と一緒に屍人ゾンビになっていたら、正義や、選択や、そんなわけのわからないものに振り回されることもなかった。よくわからないものに、悩まされることもなかった。


  ただ、今まで通り、何にも考えず、ただ兄の大きな背中を追いかけていくだけで済んだのに。ただ、兄だけを見ていれば、それで済んだのに。


  もう嫌だ。アリスは思った。絶叫は止まらない。両手で頭を抱え、アリスはその場にしゃがみ込んだ。膝を着き、額を地面に付け、両耳を抑え、叫び続ける。


  殺してくれ。もういい。兄さんがいるところに行く。こんな世界、生きて行く理由もない。


 ふと、声が聞こえた気がした。きっと屍人ゾンビの声だろうと思った。少年を食べるのを止めて、アリスを食べに来たのだろうと。ありがたい話だ。――いや、でも、駄目か、とアリスは思い直した。兄は死んだのだ。アリスは屍人ゾンビになってはいけない。ちゃんと死ななければ、兄と同じ場所に行けない。


  ――全く、お前は本当に、一人だと何も出来ないんだなぁ。兄さんに付いておいで。兄さんが、何でも決めてあげるから。


  優しい声が蘇る。


  うん、行くよ。遅くなって、ごめんね。


  アリスは蹲ったまま、腰のホルスターから拳銃を引き抜いた。その銃口をこめかみに押し当てて――


「アリス!」


 手を離した方の耳が、その声を捉えた。アリスがハッとするのと、銃を持った腕が無理やり引っ張られたのは同時だった。銃口はあらぬ方向を向き、発射された弾はどこぞのビルの壁に撃ち込まれる。


「何してるの! 逃げるよ!」


 ――ミーシャだった。今にも恐怖で死にそうな顔をしたミーシャが、アリスの腕を抱き着くようにして握り締めていた。彼女はそのままアリスの腕を引き、走り出す。彼女の力は強くはなく、抵抗は容易そうだった。けれどもアリスは、とんでもなく大きな力に突き動かされるようにして、ミーシャの後に続いた。


  ミーシャはがむしゃらに走り続ける。そして細い路地を見つけ、その中に飛び込んだ。

 建物と建物の間の、人ひとり通るのがやっとくらいの狭い路地だ。奥には入り組んだ、同じくらい細い路地が続いている。明かりがなく、ひどく暗く、湿っていた。腐った生ごみや、まだ中身の残った酒瓶、半壊した樽などで散らかっていた。死臭は消えたけれど、この世の終わりのような、最悪の臭いでアリスは顔をしかめた。けれどもそこには、人はおろか、死体も、屍人ゾンビも、誰もいなかった。


 前を走っていたミーシャが急に立ち止まる。そして振り返ったかと思えば、いきなり、アリスの頬を叩いた。


「勝手に死のうとしないで!」


 絶叫が壁に反響する。彼女の両目から涙が零れる。ミーシャはまた何か言おうとして、さらに涙を流した。顔を真っ赤にし、怒ったように泣きながら、彼女は細い腕を伸ばし、アリスの胸に飛びついてくる。その手が強くアリスの服を掴む。


「だって……僕のせいで……こんな……」

「アリスのせいじゃない。私のせい。私がアリスに無茶なお願いしたからよ。お兄ちゃんを絶対連れ帰ってだなんてお願いしたからよ。お兄ちゃんなんて、お兄ちゃんなんて、ほっとけばよかったんだよ……そしたらこんなことにならなかった。私のせいなの。ごめんね、アリス。アリスに、つらい思いさせて、本当にごめんなさい。私が馬鹿なの」


 ミーシャはアリスの胸に、縋り、泣いている。その額がアリスを胸を打つ。


「お願いだから死のうとしないで。私も死にたくなる」

「死なないで」


 思わずアリスはそう答えていた。ミーシャはさらに腕に力を込めた。


「じゃあ、アリスも死なないで」


 アリスは拳銃を取り落とした。そして、両腕をこわごわと伸ばした。ミーシャの背中を少しだけ抱きしめた。細すぎる身体だった。弱すぎる身体だった。


  二人は、途方に暮れていた。ゴミ溜めの中で、『選択』を失って、ひたすら息をひそめていた。ただ、「死なないでくれ」という願いだけを交わし合って、そこに立っていた。

 


「……アリス? 何してんの?」


 ――そんな二人に、冷たい声が響いた。


  アリスが顔を上げれば、路地の先に、ぴょこんと高い位置で結ばれたツインテールの少女――エマが立っていた。彼女と固く手を結んで、ロザリーもすぐ傍に立っている。


「エマ……」


 アリスは涸れた声で彼女の名前を呼んだ。彼女は怪訝そうに眉をひそめる。


「……『選択』なんかするんじゃなかった」


 責めるような声でアリスは言った。自分が『選択』なんてしたから、こんな事態になったのだ。エマたちが、『選択』をしろだなんて愚かなことを、自分に進めたから。


  すると、エマはさらに眉間に皺を寄せ、吐き捨てるように言った。


「は? 『選択』? あんたが? 笑わせるなよ」

「したんだよ」


 アリスは溜息と共に答えた。しかし、エマは毅然と首を横に振った。


「何をしたのか知らないけど、あんたのそれは『選択』じゃない――どけ」


 エマはアリスたちを壁に突き飛ばすようにして、無理やり横を通り抜けようとする。アリスはミーシャの身体を抱きしめたまま、薄汚れた壁に肩をぶつけた。遅れてこめかみを壁で打つ。脳味噌が揺れた。


「したんだよ……」


 アリスはもう一度言い、エマを振り返って言った。エマは立ち止まらず、ロザリーの手を引いて、路地を抜けて大通りへ出ようとする――そして、人影と衝突しそうになった。


「あら」


 息を切らして走ってきたのは、リルベルだった。大通りを走っていたらしい彼女は、路地から飛び出そうとしたエマを避け、どこか安心したような笑みを浮かべた。


「よかった、無事だったのね。エマも、……って、どうしてロザリーが外にいるのよ。あぁ、アリスもいるの?」


 彼女は仕方なさそうに肩を竦め、片手に持った拳銃を振って、エマに「付いてこい」とでも言いたげな仕草をした。


「とりあえず詳しくは聞かないでおくわ。すぐそこの時計塔まで行きたいの。一緒に行かない? あの上ならロザリーも安全だと思うし」


 しかし、エマは何も答えなかった。ただ、その乾いた血の色の目をリルベルにじっと向けている。


「時計塔?」


 何も答えないエマの代わりに、ロザリーが微笑みながら尋ねた。その笑みが固く見えるのは、この危機に緊張してるからだろうか。


「えぇ。あの上には狙撃銃があるの」

「……そうか」


 ゆっくりと、詰めていたものを吐き出すように、エマが長く溜息を吐いた。ゆるゆると首を横に振り、残念そうに両肩を落とす。その拍子に、エマはロザリーの手をするりと離した。


「エマ、」

「リルベルに高い塔に狙撃銃、か。そりゃあ、特区から逃げ出そうとする屍人ゾンビでさえ、一匹残らず殺し尽くせるだろうよ」

「何それ。褒めても何も出ないわよ」


 リルベルが笑う――けれども、顔を上げたエマは決して笑ってはいなかった。


 緩やかに動いた唇は、ばいばい、と動いた。ロザリーを離したエマの手に、白銀が閃く――エマが一歩踏み出した。鋭い風切り音がして、アリスが瞬きをした頃には、血が空中を舞っていた。


 声にならない悲鳴を上げたのは、リルベルだ。彼女は拳銃を落とし、両手で自らの顔を抑える。その手のひらから、ぼたぼたと血が溢れていた。彼女は痛みに耐えかねるようにその場に両膝を付く。


「みえなぁ……あっ……あ」


  両目の位置で、顔が一閃されていた。眼孔から血が溢れ出しており、瞼を切ったのか、目玉を切ったのか定かではない。リルベルは見えない、見えない、と繰り返し、また両手で顔を覆った。噛み殺すような悲鳴が溢れた。涙を流してのたうち回りたいところだろうが、その涙を流す器官が著しく損傷している。


「……お前も、私の夢に出てきたらいいよ、あのクソ女みたいに」


 エマは溜息の残りを吐き出すように息を吐いた後、右手に握っていた短剣を血ぶりした。そして蹲って震えているリルベルを見下ろし、ふっ、と目を細めた。


「いや、あいつよりは、ましだよ、あんたの方が……」


 彼女はそう言い、短剣を持っていない方の手でロザリーの細い手首を掴んだ。そして、血の色をした目でアリスを睨んだ。


「どうせ何をしたって後悔するんだよ、アリス」


 アリスは動けない。ミーシャと互いを抱き合うように立ちすくみながら、エマを見つめていた。


「だから、『選択』っていうのはな、後悔を選ぶことなんだよ。後悔に後悔してる今のお前は、『選択』なんかしてない。ただ流されただけさ。ちゃんと、自分が死ぬまで背負っていく後悔を、『選択』しろ」


 そう叫ぶ様に言って、エマは駆け出した。


  ロザリーの青の瞳がアリスを射抜く。けれども彼女はすぐにエマの方へと視線をやると、腕を引かれるままに、駆け出してしまった。


  ――何が、いったい、どうなってるんだ。


  エマが、リルベルを、斬った?


  アリスは動揺して、不安になって、ミーシャを抱きしめようとした。けれどもその頼みの綱は、するりとアリスの腕から離れてしまった。アリスの両腕は空を抱く。いきなり虚空に投げ出されたような、とてつもない不安を覚えた。


「大丈夫ですか!?」


 ミーシャは、真っ青な顔で、リルベルに飛びついた。彼女の顔を覗き込み、さらに顔を青くしながらも、震える手で、リルベルの背中を撫でる――ミーシャは動いている。目を切られたリルベルを助けるという『選択』をしている。


  指示が欲しい。アリスは思った。何をすればいいのか教えて欲しい。兄さん。お願い。教えて。仕方ないなぁと笑って。兄さんに付いておいでと笑って。僕はもう、何も考えたくないんだ。何も背負いたくないんだ。


  ふと、その時、声が聞こえた。


「アリス! 何してんだ! 追うぞ!」


 クラウドだった。

 彼は真っ赤な顔をして走ってきて、路地を覗き込むや否やそう言った。その額に玉のような汗が浮かんでいる。彼はアリスに声をかけると、すぐにエマたちが走っていった方向に駆けだした。アリスは呼ばれるまま、その後を着いて走った。


あれやこれやとしている間に、第五章終わりです。

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