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46 女の子と騎士

 

 ―誰かにぎゅっ、と抱きしめられた。そんな気がした。まさか屍人ゾンビが、と思った途端、至近距離で発砲音がした。乾いた音が一発。同時にハァ、という僅かな溜息が額に掛かる。溜息に混じった声で、それが誰なのかをリルベルは目を開けなくても理解した。


  ぎゅう、と心臓が締め付けられた。苦しい。息が出来ない。かぁっと顔が赤くなった気がする。締め付けられた心臓が、あまりの締め付けに耐えきれなくなったかのように、どくんと飛び跳ねる。そして暴れ始めた。やめてやめて。静かにして。お願い。そう思いながら、リルベルはぎゅっと目を閉じ続ける。顔を上げるのが、恥ずかしかった。


「……何してんだ?」


 聞き慣れた声が、頭上で笑う。背中に回されていた手が、そのまま背中を一叩きする。そこまでされて堪えているわけにもいかず、リルベルはそっと瞼を開けた。


  目の前に、ジャックがいた。


  リルベルを片腕で抱きしめ、もう一方の腕で屍人ゾンビに拳銃の銃口を向けていた。頭を零距離で撃ち抜かれたらしい屍人ゾンビは、ひっくりかえったまま、もう動かない。返り血は、全部ジャックの背中が受けとめてくれたらしかった。彼は革のジャケットを着ており、血を受けても肌に付くことはなさそうだった。地面に倒れた屍人ゾンビの血が広がる。ジャックはそれを見て、おっと、と呟くと――


「ちょいと失礼」


 と言って、いきなりリルベルの膝下に片手を差し込んだ。


「ひゃっ……」

「何でお前、素足晒してんだよ」


 ジャックは半ば笑いながら、リルベルをひょいと抱き上げた。思わず彼の胸元を引っ張りながら、リルベルは目を白黒させる。どうやら、地面を流れてきた血から、リルベルを庇ってくれたらしい。


  リルベルが違う意味で死にそうになっていることには気付かず、ジャックは屍人ゾンビの亡骸から離れると、まだ動けないでいた少女の近くに、リルベルを下ろした。リルベルは両足を地面に着くなり、へなへなと腰を抜かしてしまう。


「おい、大丈夫か? 情けねぇな」


 ジャックは白い歯を見せて笑う。


  ――ずるい。


  どうしていつも、こんなにタイミング良く、助けてくれるんだろう。地面に両膝を付きながら、リルベルはそんなことを思った。


 

  初めてジャックと会った時。


  リルベルはまだ十代で、ずっと若く、幼かった。特区の中を父親と歩いていたら、たまたま『悪党』と呼ばれるような、柄の悪い連中に出会った。今では怖くもなんともないが、当時のリルベルは社会の綺麗な部分だけを見て育ってきた、いわゆる箱入りの、しかもお金持ちのお嬢様だった。目の前で下卑た笑顔で、父に金と、自分自身リルベルを要求する『悪党』どもが恐ろしくて堪らなかった。そして自分の無力さを嘆いた。


  自分には何もできない。


  大好きな父が『悪党』に抵抗して殴られていても、自分はただ、震えて、泣いて、それを眺めているだけだった。『悪党』に腕を掴まれ、どこかへ引きずられていきそうになった時も、ただ泣いていた。どこまでも無力な女の子だった。自分の運命を変える力もない、そんな女の子だった。


  そこにたまたま通りかかったのが、ジャックだ。彼は『悪党』を蹴散らし、泣いているリルベルを――その時はたまたまショートカットで、男の子のような恰好をしていたから――男の子だと思い込み、優しく頭を撫で、気絶している父親を背負って病院まで連れて行ってくれた。


  人生を自分で切り開いてる。


  リルベルは、ジャックを見て、そう思った。何て格好いい生き方なんだろうと思った。

  それから、自分に対し微笑みかけ、「大丈夫だ」と頭を撫でてくれた男に、心臓を奪われた。

 

  ――あの時と何も変わっていない。


  自分はいつまでも無力で泣いている女の子で、ただ助けてくれる騎士ジャックに頬を染めているだけなのだ。


「……情けない……」


 自嘲的な笑みが漏れる。力が抜けた。


  遠くから、走ってくる足音が聞こえる。リルベルが振り返れば、店の方から、ウィリアムが駆けてきていた。その顔は僅かに恐怖に固まり、きょろきょろと辺りをせわしなく眺めていたが、リルベルを見つけると、確かにこちらへ駆けてきた。


  屍人ゾンビを蹴飛ばし、死んだことを確認していたジャックが、怪訝そうに眉をひそめて、彼を振り返る。


「何だ? そこのお嬢さんの連れか? のこのこ出て来たら危ねぇのに、よくやるよ」


 リルベルは息を呑む。心臓が嫌な鼓動を刻む。

  駆けてきたウィリアムが、安心したような笑顔を浮かべ、そして叫んだ。


「――リルベル!」


 リルベルは固まった。それから、何とか笑みを浮かべた。ウィリアムはリルベルの腕を掴み、立ち上がらせる。それから、ぎゅっと両手を掴んできた。


「良かった、無事だったのか。あぁ、君も……」


 彼は震えている少女を見つけ、ほっと微笑む。それから、屍人ゾンビを見つけてゲッと顔をしかめた後、その近くにいるジャックを見た。彼と目が合い、ウィリアムはひゅっ、と息を呑んでいる。


「大丈夫よ」思わずリルベルは口を挟んだ。「私の……知り合いだから」


 ウィリアムがびっくりしたようにリルベルとジャックを見比べている。リルベルは、そこでやっと、ジャックを振り返った。


  ジャックは、いつも通りの顔をして、ウィリアムを見ていた。


「何だ、お前の連れか」


 そして、何でもないことのように、そう言った。

  心臓に何かが刺さる。今度こそ死にそうだった。


  ジャックが動揺なんか、するわけないのに。

  それどころか、男女関係を嫌う彼が、この様子を見て、引かなかっただけでもありがたいのに。


  ――まぁ、私が誰と一緒にいたって、どうでもいいんだろうな。


  わかっていたのに、そんなことを思って、リルベルはまた泣きそうになった。今まで、ジャックの背中を追いかけてきたけど、そんなもの、赤子がひっくり返ってジタバタ暴れているのと変わらない、可哀想な抵抗だったのだ。ジャックの目には入らない。自分はいつまでも、無力なまま。何もできない、女の子のまま。


「リルベル……」


 ウィリアムが、察した様な顔をした。彼が、リルベルの想いを寄せる相手だと気付いたらしい。リルベルは頷いた。


  ウィリアムはごくりと息を呑んでから、キッとジャックを睨むと、リルベルの手を強く握った。


「リルベル、」彼はジャックには聞こえないような、小さな声で言った。「店に戻ろう。この女の子を連れて、安全な場所に」

「……でも」


 まだ屍人ゾンビはいるかもしれない。屍人ゾンビと戦った経験の多い自分が引きこもっているわけにはいかないだろう。

 そんな考えを読み取ったように、ウィリアムは首を横に振った。


「駄目だよ、君は軽装なんだから。今はとにかく身の安全を第一にしよう」


 ジャックの視界の端にすら入ってないけど、ウィリアムはこんな自分を、真正面からきちんと見てくれている。

  リルベルはそんなことを思った。


  そして、ウィリアムに頷き返そうとした、その時だった。ジャックがおもむろに言った。


「リル、」


 彼が時々呼ぶ、短い愛称。反射的に振り返れば、彼はいつも通りの表情で、拳銃を投げてきた。片手で受け取れば、彼は空いた手で特区の真ん中にある高い時計塔を指差す。


「あそこの天辺には狙撃銃が置かれてるの、お前、知ってるよな?」


 ――万が一、特区内に屍人ゾンビが入ってきた時、特区の一番高い塔から狙撃が出来るように、そこには狙撃銃が置かれている。ほとんどおまじないのように置かれたらしいが、リルベルも実際、目にしたことがあった。おまじないのわりには使い勝手の良さそうな銃で、それが何となく、笑えないほど滑稽だったのを覚えている。


 リルベルが頷けば、ジャックはよし、と頷き返した。


「お前はそこに向かって、上から、他の屍人ゾンビがいないか探してくれ。俺は下から探す」


 そう言いながら、彼は、予備の拳銃を抜き出した。


「時計塔はすぐそこだし、一人で行けるな?」


 ――リルベルは返す言葉を失った。


  代わりに、ウィリアムが叫ぶ様に言った。


「何を言ってるんだ! リルベルに何をさせるつもりなんだ、あなたは……」

「何って」ジャックは驚いたように答えた。「屍人ゾンビを倒すんだよ。じゃねぇと特区が滅ぶだろ。それは困るし」

「だからって、何で彼女を……」


 すると、ジャックは白い歯を見せて笑った。


「そいつは俺が知ってる中で、一番、狙撃の腕がいいからな」


 他の奴に任せて、俺の頭撃ち抜かれても困るだろ、とジャックは続けた。


  ――私は、無力な女の子じゃない。


  女としてはもちろん見られてないけど、でも、視界にはちゃんと入っている。

  無限の力が湧いてくる気がした。憧れの人間に全幅の信頼を寄せられて、やる気にならない方がおかしいというものだ。


  リルベルは肩を竦めて、答えた。


屍人ゾンビになったら、迷いなく撃ち殺すからね」

「おぉ、怖い」


 ジャックも肩を竦め、拳銃の先をひょいとこちらに向けてくる。リルベルは自らが握った拳銃の先を、彼の持つ拳銃の先にぶつけた。それはハイタッチのような――軽い接吻のような。

  ジャックは踵を返し、振り返りもせず、路地を駆けていく。リルベルももう彼を見ず、ウィリアムに言った。


「この女の子を、さっきの店まで連れて戻ってあげて」

「え……」

「じゃあね。生きていたら、また会いましょ」


 そして、時計塔へ向けて、駆け出した。



 

 

「――ジャック」


 駆け抜けていこうとした影に声をかければ、彼はサングラス越しにこちらを見、そして「おっと」と笑いながら足を止めた。


「クラウドか。ちょうどいい、残りの屍人ゾンビを探すのに付き合ってくれや」


 彼はそう言いながら、すぐに走り出そうとする。しかし、クラウドがその顔をじっと見ていることに気付き、怪訝そうに振り返った。


「どうした? 既に感染でもしたか?」

「……若い男女の仲を裂く必要はないんじゃねーの?」


 そう言えば、ジャックは言葉を失ったように、口をぽかんと開けて静止した。その唇が酸素を求める魚のように、パクパクと開閉する。珍しい動揺っぷりだな、と思っていれば、ジャックは急に顔をしかめた。


「いきなりどうした? 若い男女の仲?」

「リル、だなんて、わざわざ呼んでさぁ」


 クラウドは肩を竦めて言った。そこでようやく、ジャックにも言いたいことが伝わったらしい。


「何だお前、聞いてたのか。さっきの話」

「まぁ、ちょっとね。耳は悪くないもんで。でも、ま、リルベルを取られたくないのはわかるけど、あぁいう意地悪な見せつけ方はどうかと思う――」

「よしてくれ」ジャックが白い歯を見せて笑う。「俺は女は苦手なんだから。そんな目でリルベルのことは見てない。それに、二十も離れてるんだぞ? そんなことはいいから、クラウド……」

「へぇ、知らなかった」


 クラウドは笑い、無理やり言葉を差し込んだ。


「ジャックって、ちゃんとリルベルを女だって認識してたんだ?」


 ジャックがほぼ反射的に押し黙る。息をつめた後、慎重に吐き出して、それから彼は首を横に振った。


「クラウド、」

「ん?」

「からかってるだろ」

「もちろん」

「そのユーモアな態度は後でじっくり味わってやるよ。特区が何とか耐えたらな」


 ジャックは別段怒った風でもなくそう言うと、拳銃を握ってまた走り出す。

 ちぇ、面白くないの、とクラウドも呟いて、走り出した。


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