43 背徳の選択
「――違うの!」
ロザリーはそう叫ぶと、エマを突き飛ばした。突き飛ばされたエマは、そのままひっくり返り、寄せてきた波に尻餅をつく。もう濡れるのは気にならなかった。頭の中は、ロザリーの腕に刻まれた文字でいっぱいになっていた。
ロザリーはその腕をエマから隠すように右手で抱きしめ、必死で首を横に振る。目が恐怖に見開かれているように見えた――どうして私がそんな目で見られないといけないんだ、と思うと胸がズキンと痛むのをエマは感じた。
「違うの……」
エマは何も言っていないのに、ロザリーは何度もそう繰り返すと、うっすらと青ざめ始めた唇から震えた声を発する。
「……これは私が書いたんじゃないの。聞いて、お願い、違うの」
何が違うんだ。よくわからないまま、エマは頷いた。ロザリーは、再び、じわじわと両目に涙を浮かべ、何度も息を吸い込み、酸欠に喘ぐようにしながら、早口で説明した。
「私の腕は、エイトラ島にいた、もう一人の『神の子』と繋がってるの。その子が左腕に何か書けば、それは消えて、私の腕に現れるの。本当だよ。私、それを当たり前だと思ってて、小さい頃から、彼女とずっとお話してた。ペンで文字を書いて、向こうも返してくれて、お互いの腕が真っ黒になるまで話してた。本当なの。信じて」
ロザリーは前のめりになり、半泣きで訴えてくる。その目が真っ赤に充血し、陶器のような真っ白な肌とのコントラストが異様に際立った。
「この傷も、その子が、死ぬ前に――穴に飛び込む前に、私に送ってきたメッセージなの」
ロザリーは震える声でそう言い、自らの左腕を見る。そこに書かれた『シニタクナイ』という文字は、あきらかに傷である。
「消えないの、これ」
ロザリーはくしゃ、と表情を潰して言った。その頬をぽろりと涙が伝っていく。彼女はしゃくりあげ、唇を右手で抑えながら、甲高い、どこかヒステリックな声で、訴えるように言った。
「あの子が、自分の腕に、ナイフか何かで傷つけて伝えてきたんだと思う。その、飛び込む前まで、その日の朝まで、こんなに光栄なことはないわ、って……言ってたのに……」
ロザリーはそこまで言って、ハッと口を噤んだ。慌てて両手で涙を拭い、鼻水を啜って、ぐしゃぐしゃに歪んだ顔を上げ、無理やりに微笑んだ。
似ている、とエマは思った。殺されたくない人間が、命乞いをする時に、愛想良くしようと必死に浮かべる笑顔と、よく似ている。恐怖心の塊で、あまりにも醜くて、エマの大好きな顔。エマの母親が最後に浮かべたもの。
「……だから――私は死にたくない、なんて思ってないよ」
にこ、とロザリーは笑う。少しずつ、その表情に浮かぶ恐怖が押し戻され、いつもの柔和な笑顔へと変わっていく。
エマは、ぞくぞくした。最高に興奮した。
「あんた、死にたくないんだ」
思わず口角を上げながら、そう尋ねれば、ロザリーは両肩を震わせた。目が見開き、その表情に、押し殺そうとした恐怖がまた戻ってくる。
「違う……そんなこと思ってない」
「思ってるんでしょ。隠さなくてもいいのに」
「思ってない!」
ロザリーは怒鳴るように言った。
「そんなの……そんなの、まるで、……他の人が屍人になってもいいみたいじゃない」
彼女は震える声で続ける。もはや笑顔を浮かべることは出来ないらしく、恐怖をベッタリと貼り付けたまま、口角だけが異様に上がっていた。
「駄目だよ。私は死ななきゃいけないんだもん。だって、死にたくないってことは、お母さんや、お父さんや、村長たち、村の人たちとか、もっと多くの人たちが、屍人になってもいいってことなんだよ? 私が死ななくちゃ、みんな助からないんだよ? それなのに、死にたくないだなんて、思うわけがないでしょう?」
あはは、あはは、とその唇から歪な笑い声が漏れる。
「死ぬの、凄く楽しみだよ。みんなの役に立てるんだもん。嬉しい」
恐怖に固まった顔で、笑い声を上げながら、ロザリーは言った。
「だから、安心していいよ、エマ。私はちゃんと、死ぬからね」
「……それさぁ、誰に言われたの?」
エマは打ち寄せる波の上に、胡坐を掻いて言った。その声はいつも通りで、ロザリーは面食らった様に瞬きして、ややあって、また歪に笑った。
「え? 誰にって……?」
エマはにやりと笑い、両腕を広げた。
「ロザリーが死にたくないってことはね、お母さんや、お父さんや、村長たち、村の人たちとか、もっと多くの人たちが、屍人になってもいいってことなんだよ? ロザリーが死ななくっちゃ、みんな助からないんだよ? それなのに、死にたくないだなんて、思うわけがないでしょう」
芝居ぶった声で、エマはそう繰り返した。ロザリーはぎゅっと唇を噛み締め、驚きに満ちた顔でエマを見る。そして両膝の上で拳を握り、視線を落として、まるで自らに言い聞かせるかのように言った。
「べ、別に、誰にも言われてないわ……私は死ぬんじゃなくて、ただ、神の御膝元へ行くだけだもの、怖いわけがないもの……」
ロザリーの膝に波が寄せる。波が連れてきた砂が彼女の膝に登り、その美しい膝頭を汚す。
「……言っとくけど、人間、死んだら終わりだから。死後の世界なんて、ない」
「あるわよ」ロザリーはすぐに答えた。「天国が待ってるもん」
「ないね」
エマは笑うのをやめて、はっきりと答えた。ロザリーが顔を上げる。死刑宣告を受けたような顔をしていた。
エマはしばらく考えた後、震えているロザリーに言った。
「さっきの、お母さんに言われた?」
ロザリーがびくっと身体を揺らす。その目が逸れ、波に向けられる。エマはまた笑った。
「当たりか。そうだなぁ……死ぬの怖いよ、って相談したら、鬼のように怒られ――違うか、わかった、冷たく軽蔑されたんだな?」
ロザリーは答えない。けれども見開かれたままの瞳が動かず、それがその通りだと語っていた。
「可哀想に。死にたくないって言っただけで、軽蔑されるなんてね」
「……仕方ないの」
ロザリーは俯き、言った。もう全てを諦めたような声だった。
「私の命は、誰よりも価値がないから。たくさんの価値のある人たちの為に死ぬのなら、仕方ないもの。そんな役目を与えられて、ありがたいと思わなくちゃ。そう思えないから、私は価値がないの……」
「は? 馬鹿じゃん。いや、馬鹿なのは知ってたけど。価値のある人? んなもんどこにいるの? 自分以外は無価値でしょ。他人の為に死ねって言われて、ありがたい~とか思える奴がいたら反吐が出るよ。だからあんたには散々反吐が出た」
エマはそう言い、パッと唾を海に向けて吐き出した。本心からの言葉だった。
ロザリーは顔を上げ、エマを見る。その表情にみるみる生気が戻り、彼女はズズッと鼻水を啜ると、真剣な顔でエマを見て、そして綺麗な涙をぽろりと零した。
「私、エマのこと、凄く好き」
――エマはびっくりした。ぽかんと口を開けて、何も言えなくなった。その間抜けな表情を見て、ロザリーはふふっ、と普段通りの可愛らしい、花が咲くような笑みを浮かべた。
「好きって……今の話の流れ、聞いてた?」
「うん。だから、好き。エマと話してると凄く楽になる。エマは私に優しくないから」
ふと、思い出す。そういえば、ロザリーは初めて会った頃から、「私に優しくない人は初めて」と奇妙な喜び方をしていた。
「優しさの裏にね、見えるの。どうか頼むから、死んでくれよって。……こっちはとうに死ぬつもりなのに、何で、信じてすらもらえないんだろうって思うと虚しくて。でもエマは、優しくなかった」
「だって、別に死んでもらわなくてもいいし」
エマはぽかんとした顔のまま言った。そう言えば、ロザリーは一層笑顔を深くする。
「エマに会えて良かった。本当に、大好き」
「……」
頭がくらくらとする。
好き、とか、大好き、とか、そんな言葉を誰かから言われたことがなかった。
「死にたく、ないな」
静かに、何か特別な秘密を打ち開けるように、そっとロザリーが呟く。
「エマとずっと、一緒に居たい」
どんどんと落ち始めている太陽の光が、海に反射してキラキラと輝いている。彼女はそれを見つめ、愛おしそうに微笑んだ。
「……――復讐しよう」
エマは言った。ロザリーが振り返る。金色の髪が潮風に舞う。
「え?」
「死にたくないなら死ななきゃいい。ついでに復讐しよう。あんたに全部背負わせてきた、この島の人間全部に」
どうやって、とロザリーが唇を動かす。エマは肩を竦めた。
「生きればいい。あんたが生きてる限り、屍人は人間を食らい続ける」
ロザリーが驚いた顔でエマを見つめている。エマは笑って、続けた。
「便利な能力だな。生きてるだけで復讐できるんだから」
「……でも、そんなこと、」
「死にたくないんだろ?」
「……うん」
「死にたくないなら、生きるしかないじゃん」
エマは立ち上がった。そして、ぴたりと動きを止めてしまったロザリーに、手を差し伸べた。
「私だってロザリーに生きててほしいよ」
ロザリーの両目が見開く。その目に、しかめっ面の自分が写り込んでいるのを、エマは見つめていた。
「私を好きだなんて言う馬鹿は、あんたしかいないし」
そんなことしか言えなかった。もっとたくさん言いたいことはあったような気はするけど、エマにはそれで精いっぱいだった。
しばらくして、ロザリーはそっ、とエマの手を取った。
「……私に生きててほしいだなんて言う、バカ、もあなただけだよ」
バカ、と言い辛そうに口にしてから、ロザリーは笑う。
エマは彼女の腕を引き、立ち上がらせる。涼やかな潮風が通り抜けていった。
――そして、背徳的な『選択』は行われた。




