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42 約束と正義と選択と

 非常に良い気分だった。アリスは鼻歌でも歌いだしたい気分を噛み締めながら、草を掻き分け、特区を背に歩き出していた。


 『正義』を貫いた。ついでに、ミーシャの為になる、良いこともした。


 胸がどきどきして、僅かな高揚感を感じる。けれどもその顔は至って無表情だから、もし誰かが傍に居たとしても、アリスが喜んでいるとは夢にも思わないだろう。


 違法の出口から出たそこは、すぐ森になっていた。鬱蒼と木々が広がり、あちこちに人が通った跡がある。アリスはその跡を辿りながら進んだ。


 木々によって影になっており、昼でも太陽光が差し込まないために、数日前に降った雨の名残が土に残っている。ブーツの底が汚れていくのを眺めながら、アリスは黙々と歩いた。走れば土に滑って転びそうだった。


 頭に浮かぶのは、兄のこと。そして、ミーシャのこと。

 ミーシャとは、まだ三回しか会っていない。それなのに、彼女の姿が、心を奪い取っていく。ハッと気が付けば、またミーシャのことを考えているような有様で、アリスも自分で動揺を覚えた。


 それと同時に、ミーシャのことを考えるたび、兄の姿がどんどん薄れていく気がした。あれだけ一緒にいたのに。兄がいない世界に生きるなんて信じられなかったのに。自分はこんなにも薄情な人間だったのか。

 高揚していた気分が急降下する。アリスは溜息を吐いた。


 ――もし。


 兄と、ミーシャを天秤にかけるようなことがあったら、自分はどうするだろう。

 ミーシャを助けるのに、『正義』に背くことが必要になるとしたら? 兄との約束を破ることになったら?


 ――わからない。


 でも、もう兄はいないのだ。肌の暖かみをはっきりと伝えてくれるのは、ミーシャだ。

 そこまで考えた時、ぞっ、とする心地がした。思わず振り返るが、そこには誰もいない。当たり前だ。兄は、死んだ。死んでしまったのだ。アリスが、兄との約束を破ってしまったから。

 


 ――兄に押し倒された。いつもよりも深い接吻をされた。あれ? と思っているうちに、兄の手が服の中に入り込んできた。その指が腹に触れた時、その冷たさに驚いた。驚いた拍子に、怖くて、兄を突き飛ばした。そして逃げた――兄との約束を破った。兄に逆らわないという、一番大事な約束を破った。


 必死で逃げた。何もわからなくて、混乱していて、自分がどこへ向かっているのかもわからないまま、逃げた。そして、何かにぶつかって転んだ。それが屍人ゾンビだった。屍人ゾンビはすぐに噛みつこうとしてきたが、アリスは思考停止に陥っていて、何もできなかった。寸でのところで兄が駆けてきて、そしてアリスを庇って噛まれた。


 兄は怒らなかった。ただ、ただ、悲しそうな、けれど優しい笑みを浮かべた。

 そして、特区に行ってみようか、薬があるかもしれないから、と言った。

 あの時、兄に逆らわなかったら、兄は死ななかった。アリスはそれを確信している。


 ――けれども、兄に逆らわなかったら、ミーシャには会えなかったんだ。


 何気なくそう思って、それから、アリスは激しく自己嫌悪した。まるで、兄が死んでよかったかのような言い草ではないか。背中に気持ち悪い汗が流れるのがわかる。大好きな兄相手に、そんな不遜なことを考えてしまうなんて。


「ごめん、兄さん……」


 アリスはそう、声に出して呟いた。

 自分は、思っていたよりも、弱い人間らしい。

 兄が死んでしまった途端、色んなものに惑わされて、このザマだ。


 アリスは首を横に振り、雑念を飛ばした。後悔している暇はない。とにかく、ミーシャの兄を探し、無事に連れ帰らなければ。ミーシャの為に動くことだって、それが『正義』であれば、兄も喜んでくれるだろう。



 そのまま、一時間は歩いただろうか。あるいはもっと歩いたかもしれない。


 ようやく、目的の場所に着いた。チナットの群生地である。森が開け、そこだけ小さな野原になっていた。緩やかな斜面に、アリスの膝までありそうな草が無尽に生えている。あちこちで、アリスと似たような軽装の格好をした男たちが、その草を千切ったり、刈ったりして袋や籠の中に詰めている。鎧を着込んでいないのは、その金がないからだろう。


 アリスは遠目から、一人、一人顔を確認していった。しかし、ミーシャの兄はどこにも見当たらない。

 まさか、もう屍人ゾンビ化してしまったのだろうか。アリスはそんなことを思ったが――その時、悲鳴が聞こえた。チナットに囲まれていた男たちがびくっと身体を震わせ、一斉に身を低くし、草の間に隠れる。


 そんなことをするより、とっとと逃げた方がいいのに――と思いながら、アリスは声がした方を見た。群生地を超えた、さらに奥の森だ。群生地を駆け抜け――途中ではいつくばっている男を蹴飛ばしてしまった――森の中に飛び込む。


 緩やかな下り斜面は続いていて、さらに傾斜を増している。アリスはぬかるんだ地面に足を滑らせるようにしながら、声がした方へと近づいていった。悲鳴はたびたび聞こえてくる。


 平地に両足で飛び降り、アリスは走る。茂みを越え、木々の間を擦り抜ければ、前方からウーウーという唸り声が聞こえてきた。拳銃に手を伸ばしながら、目を凝らす。屍人ゾンビが一体、木の隙間から見えた。また別の木の隙間から、その屍人ゾンビに怯え、腰を抜かしている男、ミーシャの兄、レオンの姿が見えた。その後ろに、もう一人男がいるらしい。彼もレオンと同じくらい怯えている。


 アリスは拳銃を引き抜き、二人を脅かしている屍人ゾンビに焦点を合わせた。距離は十五メートルほど。間違いなく、当てられる。アリスは確信していたし、外すという恐怖さえなかった。


 その場に立ち止まり、引き金を引く。弾丸は気持ちよく木々の間を擦り抜け、柔らかな屍人ゾンビのこめかみを穿つ。アリスはそれを目視し、また走った。男二人が揃って呆然としている前に、ぴょんと姿を現す。


「無事ですか?」


 アリスが声を掛ければ、レオンと、その後ろで震えていた男は同時にアリスを振り返った。驚愕が表情に浮かんだ後、レオンが先に、アッと声を上げた。


「お、お前は、こ、こないだの……」

「ミーシャに頼まれて、あなたを無事に特区まで帰すよう言われたんです」


 新鮮な屍人ゾンビの死体が目の前にあっても、アリスの声はどこまでも淡々としている。レオンたちはその声音に圧倒されたように顔を見合わせたが、敵ではないと判断したらしい。


「どうもありがとう……」


 存外に素直な礼が返ってきた。アリスは頷く。

 アリスが撃ち殺した屍人ゾンビの隣に、頭が潰れている屍人ゾンビがもう一体倒れていた。一体は何とか処理したものの、もう一体は無理だった、ということだろうか。


 アリスは二人に視線を戻す。レオンも、男も、身体全体を薄汚いマントで覆っていて、外傷のほどはわからなかった。顔は無防備に晒されているが、そこには屍人ゾンビにつけられたらしい傷はない。


「……二人とも、怪我は?」


 レオンと男は顔を見合わせた。ややあって、男が、


「ない」


 と答えた。


「レオンさんは特区まで送ります。……あなたは」

「俺も送ってくれよ」


 男は慌ててそう言った。年齢は二十か、三十くらいだろうか。胡散臭い笑みを浮かべていた。爬虫類のような顔をしていて、目が異様に細い。彼は立ち上がり、レオンを振り返っていった。


「お前さんも、もう採れるだけ採っただろ。戻ろう」

「……あぁ」

「チナットの群生地は少し前です。どうして、ここまで?」


 アリスが淡々と聞けば、男は肩のあたりをぐっと上げて見せた。全身をマントで包んでいるので、肩というより、マント自体が動いたように見える。


「この先に、さらに高価で売れる麻薬があるんでね。でもいいや、とにかく特区に戻りたい」

「そうですか」


 アリスは頷き、二人を連れて、もう一度特区への道を戻り始めた。

 二人とも動きがギクシャクしていて、どこか緊張しているようだった。たまに二人で顔を見合わせては、ひそひそと話をしている。一体何の話をしているのか、アリスには聞き取れなかったが、さして興味もなかった。



 また一時間ほど歩いていけば、どんどん、男の息が荒くなった。随分と苦しそうだ。

 特区の壁が見えてくる直前、アリスは男――名前を、ファズといった――に尋ねた。


「どうしてそんなに苦しそうなんですか?」


 流石に、怪しい。立ち止まり、答えるまで進まない、という意思を伝える。

 ファズとレオンはまた顔を見合わせた。何度も何度もこの動作をしている。流石のアリスでも無関心を貫き通せはしなかった。


 アリスは頑として動かず、じっと二人を見ていれば、ファズが諦めたように言った。


「――実は、」

「おい、ファズ、」

「俺たち、屍人ゾンビの血を被った」


 言葉を止めようとしたレオンがひゅっ、と息を呑む。

 息を呑んだのは、アリスも同じだった。


「え……」

「わかってる! わかってるよ!」


 まだ何も言っていないのに、ファズは声を荒げ、必死になって叫んだ。


「すまん、騙すつもりじゃなかった、でも言ったら、あそこで置いていかれるような気がしたんだよ。頼む、特区まで連れて行ってくれ」

「でも、そんな、屍人ゾンビを連れ込むようなことは……」

「特区には薬があるだろ!」ファズは怒鳴る様に言う。「特区に着いたら、すぐに薬を貰いに行く。それでいいだろう。こんなところで野垂れ死にたくない」


 ファズはそう言い、アリスにずいっと近づいてきた。顔が真剣なものになり、目が恐怖に見開かれている。生き延びたくて必死なのだとわかった。


 それでも、アリスは迷った。どうすればいいのか、わからなかった。

 すると、ファズはレオンの頭を掴み、ぐっ、と頭を下げさせた。


「頼む――こいつの妹の為だと思って、助けてくれ」


 ――ミーシャの為。


 ぴた、と動揺が止まった気がした。


 『選択』をしなければいけない。考えろ。

 彼らを外に放り出したままだと、ミーシャは悲しむ。

 それに、助かる可能性がある人間を見捨てていくなんて、それは『正義』に反する。

 兄を無下に殺したエマ――そしてユースの顔が浮かぶ。

 ああには、なりたくない。


「わかった」アリスは頷いた。「特区へ連れて行きます。でも、その代わり、すぐに薬をもらってください」


 ファズはほっとしたように笑った。レオンも安堵の表情になったが、しかし、すぐにサッと顔を青ざめさせた。アリスは不思議に思ったが、レオンは何も言わなかった。ただそんな微妙な顔をしながら、アリスが歩き出しても、まるで精気が無いように、半ば俯きながら後を着いてきた。奇妙な行動を取るレオンを、射殺すような眼でファズが睨んでいた。


 特区まで戻ってくる頃には、太陽はそろそろ沈もうとしていた。思ったよりもずっと早く戻ってこれた。


 レオンとファズが抜け穴を通って特区に戻ると、兵士がじろっと睨みつけた。


「おい、お前ら、身体検査を――」


 二人は揃ってビクッと身体を震わせ、今にも逃げ出そうと浮足立った。しかし、その後にアリスが抜け穴を通ると、兵士は飛び上がり、二人から離れると、アリスに向かって何故か敬礼してくれた。アリスはぺこりと軽く頭を下げて、抜け穴を通過した。


「レオン!」


 ずっとそこで待っていたらしく、穴を通った途端、叔父の声が飛び込んできた。彼はレオンを見つけるや否や、両目に涙を浮かべながら、愛息子を抱きしめる。けれども、やっぱりレオンは覇気がなかった。


 その抱擁を見ながら、ファズがにこりと笑う。


「じゃあ、レオン、薬貰いに行こうぜ」

「……あ、あぁ」


 レオンは曖昧に頷き、ファズと共に歩き出す。アリスはその後を追おうとしたが――


「ありがとう! ありがとう、アリス」


 顔を真っ赤にして喜んでいる叔父に、行く手を阻まれた。両手を握られ、ぶんぶんと強い力で振られる。感謝の言葉を連呼され、アリスは気恥ずかしい気持ちでいっぱいだったが、それでも悪い心地はしなかった。


 人助けって、本当に良いものだ。これでレオンが改心して、真面目に働くようになったら、ミーシャも喜ぶし、さらに良いことだ。そんなことを思っていた。


 ――まさか、自分の『選択』が、特区に空前絶後の危機をもたらすとは、夢にも思わなかったのだ。

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