41 隠された傷跡
今日の午前中に前話40 緩やかな始動を更新しています。
未読の方は、そちらからお読みください。
――本日、午後六時から、約十五分間、特区庁による重要放送がなされます。繰り返します。本日、午後六時から――
ヴェロニカがラジオのボタンを押し、電源を落とした。騒音が消え去ると、しん、という音が聞こえてくるような錯覚がする。ユースは溜息を吐き、チェアの背もたれに身を預けた。
「……準備は整いました」ヴェロニカが真っ赤な唇を歪めて笑う。「あとは、特区の方々が、『神の子』を信じてくれるか、ですわね」
「それは問題ないよ。儀式が済めば、屍人は絶滅する。否が応でも信じるさ。問題はその後、だな」
「あのう……」
ユースとヴェロニカの視点が一人の男に集中する。ひどく肥えた、中年の男だ。彼は額に溢れる汗を手巾で拭きながら、ニタニタと微笑みを浮かべている。
「もちろん、私の地位も……」
「それはもう、私が特区長になった暁には、副長にまで上げて差し上げましょう。あなたの金銭的援助のおかげで、私はここまでこれたんですから。ねぇ、秘書?」
「左様でございますわ」
ヴェロニカは両目を細めて微笑む。彼女が男の隣に腰を下ろせば、男はすぐに顔を赤くした。目を見開き、にやにやと下卑な笑みを浮かべながら、美しいヴェロニカをじろじろ見つめている。ヴェロニカはその視線に応えるようにくすくすと笑うと、細い指で男の首筋を撫でた。
「あら、こんなところに埃がついていますわよ」
「ははぁ、いやぁ、どうも……」
男はしどろもどろになりつつ、嬉しそうに笑っている。ヴェロニカはにっこりと一段深い笑みを浮かべた。
「いやぁ……楽しみですな」男は咳払いをし、ソファーから立ちあがった。「では、私も予定がありますので、一旦失礼致します」
「あぁ、お忙しいところ済みません。ヴェロニカ」
ユースに名前を呼ばれ、ヴェロニカも返事をして立ちあがる。彼女が「お見送り致しますわ」と微笑めば、男はすっかり鼻の下を伸ばしながら、何度も頷いた。
二人が副長室を出て、扉が閉められる。
ユースは貼り付けていた笑みをすぐに消すと、また溜息を吐いた。
――特区長の秘書が、あの娼婦然とした女ではまずい気がする。いくらでもおかしな噂が立ちそうだ。
彼女の腕は、そこらの者よりもずっと巧みだ。何せ、手段を選ばない。けれども、いずれは消さないといけないだろう。特区長の秘書にするわけにはいかない。
そんなことを考えていれば、当のヴェロニカが戻ってきた。
彼女はニコニコと笑みを浮かべたまま部屋に入り、後ろ手で扉を閉めた途端、真剣な面持ちになった。
「……首尾は?」
ユースが尋ねれば、彼女はにやりと片方の口角を上げる。
「屍人が絶滅した後の、夜のデートのお約束をしたわよ。彼も生きがいがあるでしょうね」
「流石」ユースは笑い、肩を揺らす。「それで? どこまで付き合ってあげるの?」
「屍人が消えた後の、姫初めがあの男なのは解せないわ。夢だけプレゼントしてあげて、そのまま醒めない夢に落ちてもらおうかしら」
「そっか」
ヴェロニカは、元・娼婦であり、『寝首を掻く』プロだ。
「でも、いいの? これから先も利用できそうな、良いお財布じゃない」
「彼の金の源は?」
「麻薬」
さらりと答えた後、ヴェロニカは大仰に両手を広げた。
「麻薬商人たちを抹殺するつもりなの? 悪は殺しても殺しても湧いて出てくるものよ。上手く利用した方が……」
「僕はね、平和な世界を作りたいんだ。弱者が零れ落ちない、優しい世界を。その世界を作る為に麻薬は必要かもしれないけど、その世界に麻薬は要らない」
「そう」
ヴェロニカは曖昧に肩を竦めた。自分の信条を理解することは出来ないらしいが、それでも大いに役に立ってくれるのだから、ありがたい存在だとユースは思う。
彼は微笑んで、言った。
「君もいずれは、特区長の秘書になるんだから。気持ちを引き締めてくれよ」
*
「今日はどうしたんだね、やけに熱心に祈ってるようだが」
南部特区唯一の教会で、カミリエージュの像に向かって祈っていれば、そんな声がした。顔を上げれば、もう顔見知りとなった神父が、いつも通りの優しい笑顔を浮かべて、ジャックに近づいてきていた。
「仲間が死んでね」
ジャックが肩を竦めれば、彼は憐れむように手を合わせた。
当初、ジャックが教会にやってきた時は、神父も、修道士も、引き取られている子供たちも、みな怯え、逃げまどい、あるいは彼を追い出そうと躍起になった。しかし、彼が純真な教徒であると知ると、神父を初めとして、少しずつ歩み寄ってきてくれた。話してしまえば、ジャックは見た目が怖いだけで、中身は悪い人間ではないとすぐに理解したらしく、あっという間に子供が懐いてくるようになった。
ジャックが教会にいることに気付き、神父の後を着いてきた少年二人が、笑顔を浮かべて駆けてくる。
「ジャックおじさん、こんにちはー!」
「久しぶりー!」
「おうおう、久しぶりな」
ガシガシと頭を撫でてやれば、二人とも嬉しそうに顔を見合わせている。
チビたちは可愛いなぁ、と言いながら、ジャックは立ち上がった。背の高いジャックに、少年二人はよじ登ろうと手足を伸ばしてくる。そこは容赦なく払いのけ――それでも少年たちは楽しそうに笑っている――ジャックはもう一度、カミリエージュの像を見つめた。
ロバート。冥福を祈る。
胸の前で指を組み、再び目を閉じる。
自業自得の死とはいえ、一応、仲間の死なのだから、祈らない訳にはいかなかった。そういう性分である。とはいえ、屍人も人間も、一緒にたくさん殺してきた。あいつだって、天国に行けるわけはないと思う。
ま、先に地獄がどんなもんか見といてくれや。
ジャックは内心でそう呟きながら、胸ポケットに手を伸ばそうとして――
「教会内でタバコは駄目ですよ!」
至近距離で女に怒鳴られ、飛び上がった。
咄嗟に、足元できゃいきゃい騒いでいる少年の肩を掴み、その小さな背中の後ろに縮こまる。少年越しに前を見れば、すぐそこに若い修道女が立っていた。リルベルよりも若いだろうか。初めて見る顔だ。彼女は驚いた表情でジャックを見ている。
「何をそんなにびっくりしてるんですか?」
ジャックに両肩を掴まれた少年が、キャハハハと甲高い声で笑う。
「おじさん、女の人嫌いなんだよ」
「吐くんだよぉ」
「もう、そういう嘘を吐かないの!」
修道女は怒ったようにそう言い、それから笑顔を浮かべ、さらにジャックに近づいてきた。その手が伸びてきて、少年の肩を掴んでいる、ジャックの手に触れる。
「ご気分でも悪いんですか? お顔、真っ青ですけど……」
ジャックは久々に吐いた。
「ホント済みません……」
いかにもいかつそうな男が、身体を小さくして謝っているのは何とも滑稽だ。自分でもそう思いながら、ジャックは自分が汚した床を拭き、一緒に掃除をしてくれている神父に謝った。
「初めて会う女性はとことん苦手なんですよ。特に若い人は」
「はは、大丈夫ですよ」
この教会で吐くのもこれで五度目だ。神父はすっかり慣れた顔をして笑っている。
――理性で嫌いなのではなく、本能で嫌いなのだから、これはもうどうしようもないと自分でも思う。近くにいるだけで胸がゾワゾワして、喉に大量の髪の毛が絡まったような、言いようもない気持ち悪さを覚える。触れられたら、おしまいだ。胸から喉まで髪の毛が詰まったような気持ち悪い息苦しさがして、もう吐き出すしかなくなる。何度か会っている女性ならばそこまででもないのだが、初対面だとそれが顕著だ。
「差し支えなければ、原因を聞いても?」
神父がやんわりとした口調で尋ねる。今まで聞かなかったのは気遣いだろう。この神父とも、そういう話が出来るくらい距離が縮んだな、などと思いながら、ジャックは肩を竦めて答えた。
「ケーキは甘くて美味しいでしょう」
神父は不思議そうに眉をひそめ、頷く。ジャックは続けた。
「けど、それをいくつもいくつも口に放り込まれて、もう要らないと言っても、吐いても、ひたすら詰め込まれたら、どうですか? 大嫌いになりませんか」
「……なるほど」
神父は理解したように頷く。
「……それに、もともと俺は甘いものが大嫌いなので、尚更です」
「それは難儀でしたな」
「でしょう?」
ははは、と笑いながら、ジャックは腰を上げた。バケツに二人の雑巾を入れ、汚れを洗う為に、裏へと運んでいく。なにせ五度目なので、処理の仕方だってもう覚えている。
教会の外へと出て、水道のある裏庭へと回り込みながら、ジャックは物思いに耽る。
申し訳ない、とは思う。ただ女性というだけで、距離を取らねばならないのは、ある意味差別だ。
――気が滅入る。
ジャックは、ウェステラ島生まれの人間だ。百年ほど前に、エイトラ島の人間がこの島に入り、生粋のウェステラ人を虐殺して、領地を奪い取っていったらしい。ジャックが生まれた頃、つまりは四十年ほど前には、もう生粋のウェステラ人は数少なくなっていた。エイトラ人に混ざって生活する者も多かった。両親は戦争で亡くなっていて、物心ついた頃から、カミリエージュ神を信仰する、ウェステラ人による教会にジャックは孤児として引き取られていた。
最終決戦の為に、ジャックが銃を握ったのが、三十年前、十二歳の時。嫌気が差して逃げた果てに、女たちに捕まった。そのうちに、島に穴が開いた。人間同士の紛争などあやふやになった。
カミリエージュ神は、殺人も、暴力も、姦淫も、差別も、嫌う。
けれど自分は、人を殺し、屍人を殺し、女と交わり、女を嫌って生きている。
どう足掻いても地獄行きだ。
幾度目かの溜息が空気に混じる。ジャックはバケツを下ろし、水道の栓を捻った。若干茶色染みた水が噴き出したのち、透明な色へと近づいていく。バケツの底を、勢いよく噴き出した水が叩いていく。バケツに少しずつ水が溜まり、汚れた雑巾がゆらゆらと汚い水流に、成す術もなく泳がされている。
自分とよく似ている、とジャックは思った。
そんなことを思いながら、雑巾を洗っていれば、開いた小窓から、ラジオの音が聞こえてきた。
――本日、午後六時から、約十五分間、特区庁による重要放送がなされます。繰り返します。本日、午後六時から――
バケツをひっくり返せば、汚水が勢いよく穴へと流れ落ちていった。
*
「足りないね」
――通り道を見張っていた兵士が、叔父の渡した僅かな銅貨を、地面に投げ捨てた。
麻薬中毒者がたむろする、スラムと呼ぶのがお似合いな、荒れ果てた住宅区。その近くの壁に、人が一人、通れそうなくらいの穴が開いていた。もちろん、それを特区庁が見逃すはずもなく、鎧に全身を覆った兵士が交代で見張り、屍人の侵入を防いでいるようだが――その実、賄賂さえ渡せば、誰でも外に出られる抜け道となっている。
叔父の前に外に出ようとした男は、銅貨二枚で通貨できた。しかし、叔父がおずおずと銅貨二枚を渡せば、その兵士はそれを拒否したのであった。
「足りないって、さっきの人と同じ枚数、渡してますよ」
叔父が困ったようにそう言い、銅貨を拾い上げる。兵士は兜の向こう側で笑ったようだった。
「さぁ、あんたらの見間違いじゃないか」
「……」
叔父は黙って、もう一枚、銅貨を抜き出そうとした。アリスはびっくりして、その腕を掴んで止めた。
「見間違いじゃないですよ。二枚で通ってた」
「仕方ないんだよ」
叔父は声を低くし、アリスにだけ聞こえるような声量で言った。
「さっきの男は、多分、後ろに麻薬商人だか、何かヤバイ奴がついてるんだと思う。ただの農民はもっと払わないと通れないってことだろうよ。足元見られてるんだ。ま、背に腹は代えられないから……」
「そんなのおかしいですよ」
「そう言われても……」
叔父は両眉を寄せる。
アリスたちが何やら話しているのを見て、兵士は機嫌を悪くしたように声を荒げた。
「どうするんだ。金を払うのか、払わないのか? 早くしないと、不法外出としてしょっ引くぞ」
「済みません」
慌てて叔父は謝り、急いで銅貨四枚を手に取ると、兵士に差し出した。兵士はそれをじろじろ見て、少し悩んだ後、首を横に振った。ガチャガチャと金属の音が耳障りだ。
「足りねぇな。銀色が見たいもんだ」
すると叔父はハッと息を呑み、顔を青くした。
「そ、それは……こっちにも生活が……」
「じゃあ、しょっ引くだけだ」
「お、お願いです、これで通してくれませんか」
叔父は無理やり兵士の手に銅貨四枚を握らせ、その場に両膝を着いた。それどころか、額を、泥で汚れている地面に擦り付ける。
「外に、息子が出たんです。ほっとけば死んじまう。頼む。こっちの少年一人、通してくれればそれでいいんだ。どうか頼むよ」
そこまでして叔父が頼み込んでいるのにも関わらず、兵士はガチャガチャと首を横に振る。
――弱い者いじめだ、と思った。
アリスは驚いてその様子を見ていたが、叔父は渋々顔を上げ、手のひらに一枚、銀貨を取り出した。それをじっと見つめている顔が緊迫している。銀貨一枚あれば、貧欲のアリスなら、一カ月は食い繋げる。叔父の手が震えているのを見れば、彼らがそう裕福でないのはわかる。
ミーシャが飢えるところは、見たくない。アリスは純粋にそう思った。
目の前で兵士が動く。渡すかどうか悩んでいる叔父の手から、銀貨をもぎ取ろうと手を伸ばす――
「待った」
『選択』。銀貨を渡さない。銅貨も返してもらう。それでここを、通る。
アリスは決めた。兵士の手を両手で掴み、力いっぱい引き込んだ。不意を突かれた彼はぐらりと身体を揺らし、そのまま無様に地面に倒れ込む。アリスはすぐその上に乗った。
「何をする! 兵士に手を出すことは重罪で――」
「これは、ナイフ」
脅す方法がわからない。とりあえず、ナイフを取り出して、相手にも見えるように、兜の前に見せてやった。これで効かなかったら拳銃を取り出そうと思ったが、ナイフだけで、兵士は押し黙った。アリスは兜と鎧の間に無理やり指を差しいれ、相手の首をつっついた。それだけで兵士はビクッと身体を震わせる。恐怖の呻き声が漏れた。
「銅貨を返して。ここを通して。じゃないと、このナイフで、刺す」
「わかった! わかった!」
兵士の降参は早かった。すぐにそう言うと、さっき掴んだ銅貨四枚を叔父の方へ渡した。叔父がそれを受け取るのを見て、アリスは兵士を開放してやった。
壁に空いた穴には、一応、柵が付けられていて、簡単には開けないよう、錠もついている。
「開けて」
アリスがそう言えば、兵士はもう何も言わず、急いで開錠してくれた。アリスは穴を通り抜け、外に出て、そこから内を覗いた。ポカンとした顔のおじが、腰を抜かして地面に座り込み、こちらを見ている。
「じゃあ、行ってきます。出来るだけすぐに戻ります」
麻薬――チナットという草の群生地にミーシャの兄・レオンは向かったらしい。そこへ至る為の地図はもう預かっている。兄を探すのに手間取らなければ、夕方には帰ってこられそうな距離だった。
*
潮の匂いがする風がする。隣を歩くロザリーの、絹のような金色の髪が風に舞う。
「驚いた。こんなに簡単に抜け出せるなんて」
「いつだって逃げ道は確認してる」
「変わってるのね」
くすくすという笑い声が風に溶ける。海に近づけば近づくほど、ロザリーは饒舌になった。ちらほらと通り過ぎていく人たちを見ては、あの服はかわいいだとか、あの髪飾りが素敵だとか、とりとめもないことを次々と口にした。
「あのお店は? お洒落ね」
「レストランだよ」
「行ったことあるの?」
「私が行くような場所じゃない」
「じゃあ、誰が行くような場所なの? お年寄り?」
「お金持ちとか、裕福な人だよ」
「あら、そうなの。じゃあ、私も無理ね」
ロザリーは大真面目にそんなことを言う。何もかもが新鮮で堪らないらしい。
しばらく歩けば、今度はどんどんと口数が減っていった。怪訝に思ったエマがロザリーを振り向けば、何やら緊張した面持ちで唇を噛んでいる。
「……何してんの」
「いや、海、初めて見るから、どんなものかなぁと思って……あ!」
ロザリーはいきなり立ち止まり、素っ頓狂な声を上げる。道行く人がぎょっとして振り返った。視線を集めるのが嫌いなエマは思わず舌打ちし、ロザリーをぎろりと睨む。
「何だよ」
「私、あれやりたい」睨まれているのにも関わらず、ロザリーはうきうきとした笑顔を浮かべて言った。「目をつぶって、海の前まで連れて行ってもらって、そこで目を開ける、みたいなやつ!」
「は? めんどくさい……」
エマはそう答えたが、ロザリーはキラキラした目で見つめてくる。まさか断ったりしないだろう、という純真な確信があった。そんな目をされて、無下に断るのは、かえって面倒臭い気がした――それに、こいつはもうすぐ死ぬんだから。
最初で最後の我儘だ。許してやろう。エマはそんなことを思って、溜息を吐きながら頷いた。
――まさか、あとに大きな我儘を叶えることになるとは知らないで。
「やった、ありがとう、エマ。大好き」
大好き、と言われ、エマはびっくりした。思わず身構えたが、ロザリーは何の気なしに言ったらしい。彼女はにこにこと微笑みながら、両目を閉じ、そっと手を差し伸べた。
ややあって、エマはその手を掴む。手を引けば、ロザリーはエマに合わせて歩き出した。
気持ち悪い、とエマは感じる。ロザリーはエマを信頼しているようで、ぴったりと目を閉じたまま、手を引かれるままに歩いている。
相手は私だぞ? とエマは自分の事ながら驚いた。そう簡単に信頼していい人間じゃないし、そう簡単に身を預けて良い人間じゃない。
それでもロザリーは素直についてくる。すぐに恐怖を覚えるかと思ったが、しばらく歩いても、ずっと微笑みを浮かべたまま、疑いもせずについてくるのだ。
気持ち悪さが、くすぐったさに変わった。妙に気恥ずかしい心地もした。その柔らかい手のひらを、強く引けば、ロザリーは足を速めてついてくる。弱く引けば、ゆっくりついてくる。いきなり立ち止まれば、ロザリーはエマの背中にぶつかった。身長差のせいで、背中に柔らかいものが当たるのが悔しい。
「何? どうしたの?」
「いや」
ロザリーはそれでも楽しげな声を出す。エマはその手を引き、また歩き出した。
ふと、軽く掴んでいたロザリーの手を、ぎゅっと握ってみた。何のことはない、気まぐれだった。そうすると、ロザリーもぎゅっと握り返してきた。
暖かいな、とそんなことを思った。
ロザリーが転ばないように、足場を注意しながら、階段を降り、無事、浜辺へ降りた。階段では転ばず、慎重に降りたロザリーは、砂浜に足を着いた途端、何故かその場に崩れ落ちた。エマはロザリーの手を離さないように握ったまま、助け起こしてやった。その間も、ロザリーは目を開かなかった。
「お、驚いた。私、今、何踏んでる?」
「砂だよ。砂浜だもん」
「すな……」
ロザリーはぼんやりと繰り返しながら、ゆっくりと踏み出す。砂浜は柔らかすぎて、簡単に足を取られる。彼女はエマの腕にしがみ付くようにしながら、一歩、一歩、慎重に進んでいった。
「すごい……ねぇ、これ何の音? 雨なんか降ってないわよね」
「雨? ……あぁ、それ、波の音」
「波の……?」
ロザリーはそれきり何も言わなかった。何も言えなくなったのかもしれない。エマは彼女を連れ、波打ち際ぎりぎりまで近づいた。そして、ふといたずら心が芽生えて、波が引いたのち、波がまたやってくるところまで、ロザリーを進ませた。
「まだ、目を開けちゃ駄目だよ」
エマはそう言いながら、ロザリーの手を解いた。するとロザリーはぎょっとして空中を掴むような仕草を繰り返した。それでも目を閉じたままなのだから、エマは感心さえ覚えた。
「エマ? エマ? どこ行ったの?」
すぐ傍に居るけど――と思いつつ、エマが息をひそめていれば、ついに、押し返してきた波がロザリーの足首まで呑み込んだ。
「きゃあっ、冷たい!」
パッ、とロザリーが目を開け、驚いた拍子にひっくり返り、尻餅を着く。
そして、海を見た。
ロザリーはしばらく何も言わなかった。その代わりに、海のような色をした瞳がせわしなく動いた。どこを見たって海しかないのに、どこを見ても海しかないということを確認するかのようだった。
エマもその場にしゃがみ込み、ロザリーと視線の高さを合わせながら、海を見た。
どこまでも青色が広がっている。遠くへゆくほど、青色が濃くなり、そして空へと移り変わる。今日は天気が良く、空に雲一つ見当たらなかった。まるで、『神の子』が初めて海を見ることを祝福しているかのような、そんな気持ちのいい晴天だった。
何度も海を見てきたエマでさえ、その光景に見とれていれば、ふと、くぐもった声が隣から聞こえてきた。ぎょっとして振り向けば、ロザリーがぼろぼろと涙を流していて、嗚咽を噛み殺していた。
「ちょ、泣くことないだろ……」
「ご、ごめん、ごめん」
ロザリーも驚いたのか、慌てて涙を拭っている。
「感動して涙、って? 本当にあんたって変わってる」
「そう、だよね。ごめん……」
ロザリーはふふ、と笑った。笑いながら涙を拭っていたが、そのうちに、両手で顔を覆い、じっ、と俯いてしまった。
――感動して泣いてる訳じゃない、とエマはそこで気が付いた。
「……何で泣いてるの? 海、思ったより綺麗じゃなかったか?」
ロザリーは顔を覆ったまま、小さく首を横に振った。しかし、泣いている理由を言おうとしないので、エマは痺れを切らし、その手首を掴んで、顔から引きはがそうとした。けれども、ロザリーの方も必死で抵抗してきた。まるで、泣き顔を見られたくないかのようだ。
「あんたの泣き顔なんて、見たところで何ともないんだから、隠す必要ないっての……!」
エマは思い切りロザリーの腕を引っ張った。根負けしたロザリーが顔から手を離し、勢い余ったエマが尻餅を着く。ちょうど波が寄ってきているところで、ばちゃん、と大きく水が跳ねた。
「あぁ、クソ、濡れた……」
エマは悪態を吐いてから、ロザリーを見た。ロザリーはもう顔を隠さず、ひたすら涙を流しながら、エマを見つめている。エマは溜息を吐いて、尋ねた。
「で、何で泣いてるの?」
「……感動して、だよ」
ロザリーは笑った。いつも通りの、柔和な笑みに見えた。
ふと、その左腕に巻かれている包帯が、少し緩み始めていることにエマは気付いた。思わず飛びつき、包帯に手を掛ければ、彼女はサッと青ざめる。
「エマ、やめて、何してるの?」
「これ、怪我してるわけじゃないよな? 何を隠してる?」
「別に何も隠してないわ」
「なら、見せて」
ロザリーは口ごもる。エマは問答無用でテープを剥がして、無理やり包帯を解いた。包帯で隠されていた、彼女の左腕には――
「シニタクナイ……?」
シニタクナイ――死にたくない、と、真っ赤な傷跡が刻まれていた。




