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39 全てが終わった、その先のこと


 ――選択しろ、と言われた。


 選択するのは兄の役目だった。

 その兄が死んでしまったのは、アリスが兄との約束を破ってしまったからだ。

 だから、アリスは兄との約束を守ることを選択した。


 けれどもみんな、アリスに選択を迫るのだ。アリスは既に選択しているのに、「選択をしろ、頭を使え」と詰め寄ってくるのだった。


 しかし、アリスは馬鹿ではない。自分の思慮が浅いのかもしれない、という考えはあった。

 もっと、考えなければいけないのかもしれない。

 慣れない義務感は胸を押し潰し、果てしない疲労感としてやってきた。しかし、兄がいないのだから、仕方ないことだった。


 アリスはそんなことを考えながら、ヴェロニカに先導されるようにして、特区庁を歩いていた。ミーシャを迎えに行くためである。ヴェロニカが歩く度、その高いヒールが床を突き、コツコツと音が響いた。あんなに高いヒールを履いて、よく転ばずに歩けるものだ。


「ここよ」


 しばらく廊下を歩いた後、ヴェロニカは一つの扉の前で立ち止まった。彼女は錆び付いた鍵を取り出すと、その扉の鍵穴を回した。そして扉を開けることはなく、踵を返して来た道を戻っていく――勝手に連れて帰れ、ということらしい。


 アリスはドアノブを回して扉を開いた。狭い部屋だった。固そうなベットが一つに、机、椅子だけで部屋がいっぱいになっている。その机に、少女が突っ伏していた。


「ミーシャ……」


 アリスが声をかけたが、少女は微動だにしない。そろそろと近づき、その肩を叩くと、ややあって、少女はゆっくりと頭をもたげた。ひどく緩慢な動作だった。体調でも悪いのかと思って心配したが――少女はふわりとあくびをした。


「なぁに? だれ……」


 不思議そうな声がぴたりと止まり、アリスを見てその黒目がまん丸に開かれる。眠気は一瞬で吹っ飛んだようだった。少女、ミーシャは以前と変わらぬ様子で、ややオーバーに驚いてみせたのち、その大きな両目からぼろぼろと涙をこぼした。


「あ、あ、アリス!」


 彼女は名前を叫ぶと、ばっと両手を広げ、そのままアリスに飛びついてきた。首を締めあげるように抱き付かれたが、不思議と嫌な心地はしなかった。その体温に僅かに安堵さえ覚えた。


「ミーシャ、無事だった?」

「うん」ミーシャは泣きながら頷いた。「思ったより、みんな、優しかった」


 そう言いながら、彼女はアリスから身を離す。ふと、その指にたくさんの絆創膏が巻かれていることに気が付き、アリスは眉をひそめた。


「怪我したの? 痛めつけられた?」

「違うの。内職で造花を作ったりしてたんだけど、手先が不器用で……」


 ミーシャは泣きながら笑い、両手をさっと背中に回して隠してしまった。


「内職?」

「うん。――働かざる者、食うべからずなんだって」


 人質相手にも労働を求めるとは。アリスは驚きあきれてしまった。


 ミーシャの身体を一通り見てみたが、特に大きな外傷はなく、変化はなさそうだった。ミーシャの言う通り、存外に丁寧に扱われていたらしい。目的の為にジルたちを易々と死なせたユースのことだから、もっと手ひどい扱いを受けているのだと思っていた。


 アリスはミーシャを連れ、特区庁の外へ出た。久々に太陽の光を浴び、風を受けたミーシャは、嬉しそうに伸びをする。相変わらず、感情がよく現れる少女だった。


「ありがとう、アリス」


 伸びをしてから、アリスを振り返り、ミーシャは笑った。太陽に照らされ、その笑顔がきらきらと輝いて見える。


「あなたは本当にあたしのヒーローだわ。初めて会った時も助けてくれたもん」

「……今回は、そのせいで君が巻き込まれちゃったじゃないか。ごめんね、変なことに巻き込んで……」

「囚われの姫気分も悪くなかった」


 にこりとミーシャは笑みを浮かべ、アリスの腕に抱き付いた。


「家まで送ってくれる?」

「うん」アリスは素直に頷いた。「もちろん」


 嬉しい! とミーシャは、嬉しさを隠そうともせず叫んだ。


 アリスはその言葉を受けて、ひどく安心する心地がした――そして何故か、ぽろりと涙が零れたのを感じて、自分でも驚いた。あまりに場違いな涙だったため、ミーシャは欠伸かと勘違いしたらしく、ぷくっと頬を膨らませ、アリスの腕を離す。それでもぴったりと寄り添い、一緒に歩き出してくれた。


 どうして涙が出たのだろう。悲しいわけでもないのに。


 アリスは不思議に思った。理由がまるでわからなかった。


 滲んだ視界の中で、ミーシャがぎゅっと眉を下げ、心底から辛そうな顔をした。


「アリスのこと、心配してたんだよ。特区の外に行くなんて……それもこんなに長く……。無事でよかった」


 そう言ったかと思うと、彼女はさらに深い溜息まで吐いた。


「兄さんたちはどうしてるだろう、心配だな……あの子たちも元気かな……」


 かと思えば、にこりと満面の笑みを浮かべ、アリスを見上げてくる。


「近所に可愛いチビッ子たちがいるの。アリスも会っていく? 本当に可愛いんだよ」


 彼女はくるくると表情を変える。感じたことを、そのまま顔に表し、言葉に表してくれる。


 それが嬉しいのだと、アリスは唐突に気が付いた。


 ミーシャが話せば、必死で自分を守っていた力が、するりと抜けていく気がした。兄の保護を失って、放り出され、一人で固まっていた自分が、ゆっくりと解されていく気がした。


 ミーシャの在り方は、とてもシンプルだ。アリスはそれを凄く好きだと思った。彼女ともっと話していたいと思ったし、その気持ちを伝えたくて、微笑んだ。そうするとミーシャもさらに微笑んだ。それも嬉しかった。


「君に、」


 ミーシャは次々と何かを話していたが、それを半ば遮るようにして、アリスは言った。ミーシャはぴたりと話すのを止め、不思議そうにアリスを見上げている。


「……会えてよかった」


 アリスなりに素直に気持ちを伝えたつもりだった。

 すると、ミーシャは顔をポンポンと真っ赤にし、初めて口ごもると、ぷいと視線を逸らした。


「恥ずかしいこと言わないでよ」

「どうして恥ずかしいの?」


 わからないことを、アリスは素直に尋ねてみた。ミーシャが何を感じているのか、とても気になったからだった。ミーシャはさらに顔を赤くしながら、小さな声で言った。


「君に会えてよかった、だなんて、簡単に言うことじゃないもん」

「……でも、その通りだから」

「……アリスって、何? 女の子で遊ぶの、好きなの?」


 怪訝そうな顔でミーシャが振り向く。しかし、すぐに噴き出すように笑った。


「違うみたいね」


 アリスがよっぽどきょとんとした顔をしていたのだろう。彼女は満足げに笑うと、また、アリスの腕に抱き付くようにした。遠慮を知らない素直な重みが、とても大事なものに思えた。



                  *



 特区の中心部を占める、繁華街。特区のほとんどの人が、今日は『休日』らしい。人通りが、以前通りかかった時よりもずっと多かった。壁一枚向こうには脅威が迫っているのに、どこもかしこも笑顔で溢れていて、クラウドは奇妙な心地がした。


 特区の人はまだ、『神の子』が連れてこられたことを知らない。今日か、明日くらいには正式な発表があるらしい。今回の遠征はユースの独断なので、『神の子』を無事に連れてきたことは、彼の手柄となる。それを特区の人間にも理解してもらい、いずれは特区の長にユースが就くために、政治的に上手く発表しなければならないのだとヴェロニカが言っていた。政治なんて堅苦しくて面倒だな、とクラウドは思う。


 そんなことを考えつつ、行き交う人を避けながら、ふらふらと歩いていれば、ふと、見慣れた緑髪が見えた。


「待ち合わせですか? レディ」


 わざとらしい声色を作って尋ねれば、彼女はくるりと振り返り、クラウドを認めて笑顔を浮かべた。クラウドも微笑み返すものの、彼女の雰囲気がいつもと違ったので驚いてしまった。


「なんだ、今日はやけに洒落てるな」


 彼女――リルベルは困ったように肩を竦める。


「いつもの、アレよ」


 リルベルの父は特区庁で働く、身分の高い人である。彼が一人娘の冒険を許すのは、その代わりに見合いをするという条件があるからだった。その為に、特区へ帰ってくるたび、リルベルは父くらい身分の高い人たちの息子と会っている。今日もそれらしい。


「けど、いつもより気合入ってんじゃん」


 普段は明らかにやる気のない服装であり、少なくともパンツスタイルは絶対で、服装からも態度からも「あなたと結婚するつもりはない」とアピールするのがリルベルのやり方だった。愛想のない態度を取り続け、常に向こうから縁談を断らせてきたのである。


 しかし、今日のリルベルは可愛らしかった。珍しく黒地のワンピースを着ており、それも袖口がレースになっていて、丈も膝頭ほどまでしかない。化粧もばっちりこなしているし、本人の素質の良さも相まって、なかなかに目を惹く様子だった。


「今回は何? マジなわけ?」


 そう尋ねるものの、まさかな、とクラウドは内心で思っていた。しかし、リルベルは笑いながら、僅かに頷いた。


「マジ、というか、ちょっとだけ真面目になろうと思って」

「……へぇ、意外だな。あんたはジャック一筋だと思ってたけど」


 そう言えば、リルベルはぱっと顔を赤くした。


「だ、だからそんなんじゃないのっ! 全然好きじゃないわよ!」

「いやー、今更そんなこと言われましてもね」


 どう考えてもリルベルはジャックのことが好きだ。彼女はジャックと一緒に居る為に、彼と共に銃を握り、特区の外へ出ている。当初はその生温い考え方に反感を覚えたものの、その腕の確かさを知れば、文句など付けようがなかった。


 リルベルは自らの手をぱたぱたと振り、頬の火照りを冷ましながら、怒ったように言った。


「次の遠征が成功すれば――ロザリーが穴に飛び込んでくれれば、屍人ゾンビはいなくなるでしょ。じゃあ、もう、今までみたいに、特区の外に出るっていう仕事も少なくなる。だから、そろそろ次の身の振り方を考えなくちゃいけないのかなって思ったの」

「はー、それで結婚。いいね、そういう選択肢があって」


 何気なくそんな言葉が零れた。『結婚』が選択肢として存在するのは、リルベルが特区の中で生まれ、そこに家族を持ち、生活の根っこを持っているからだ。根なし草のクラウドには、『結婚』など遠く別の世界の話だ。たとえ屍人ゾンビが消え去っても、今まで通り、危険な区域に立ち入り、様々な仕事を請け負って生きていくだろう。


「……そうね」


 不意にリルベルが俯いた。ぎゅっと唇を噛み、どこか悔しそうにしている。


「どうした?」


 クラウドが尋ねれば、彼女は首を横に振った。


「私は恵まれてるし、幸せ者なんだと思うの――でも、何だか引け目に思うわ」

「別にそんな風に思うことはないだろ」

「それはわかってるんだけど。怒らないでね? たまに、自分も特区の外で生まれていたら……特区の中で暮らせるのが当たり前じゃない境遇だったら、と思う事があるの。もしそうだったら、理由なんかいらないでしょ」

「理由?」

「そう」


 リルベルは深い溜息を吐く。長年それで悩んでいる、という様子だった。


「外に出る理由。一緒にいる理由」


 ――ジャックのことが好きじゃない、なんて言っておきながら、これだもんな。


 クラウドは笑いそうになったが、しかし、リルベルの言っていること自体は、染みるように理解することが出来た。だから、真面目な顔で頷いた。


「そうだな。……でも、幸せなのは良いことだぜ」


 ややあって、リルベルは笑った。少しだけ無理をしているようでもあった。


「そうだね」


 彼女も、自分のような境遇なら、恵まれた環境に嫉妬するだろう。けれども同時に、クラウドはエマやジャックほど自らの生い立ちが悲惨ではないことは知っていた。彼らの心情を理解し、寄り添おうとするとき、その差が壁になる。痛みを知り、励ましてやり、支えになりたいのに、その差が邪魔をする。もし自分が同じほど悲惨な生まれだったら、もっと近くで支えることが出来るのに――そう思う事は多々あった。


「わかるよ、リルベルの気持ちも」

「ありがと。これがエマ相手だったら、罵詈雑言が返ってくるだけだわ」

「いや、あいつは何を言っても罵倒しかしないから」

「……確かに」


 リルベルは肩を竦め、少しだけ舌を出す。お茶目な仕草だった。彼女は女性としてもかなり魅力的だと思う――もちろん、自分の方がずっと美しく、魅力的だけど、と胸中で付け足す。


「ていうか、本当に、ジャックと結婚しないの?」


 そう言えば、リルベルはまた否定しようとしたが、すぐに止め、代わりに溜息を吐いた。


「女嫌いにどうやってアプローチするのよ。そもそも私は女として見られてないし、女として見られたら嫌われるのよ」

「まー、難易度は高すぎだわな。だからって、他の男と結婚するのも、どうかと思うけど?」

「そうね」


 リルベルはあっさり頷き、微笑んだ。それが酷く悲しそうで、その笑顔を見ただけで、リルベルはもうすでに苦悩の渦中にいるのだとクラウドは気が付いた。彼が思う以上に、リルベルは自身の恋愛と、今後の身の振り方、父との関係など様々なことを掛け合わせて悩み、考えているのだ。


 きっと、ジャック以外の人間とは結ばれたくないだろう。彼の傍にいるために、死を覚悟して銃を握った女だ。けれどもついに銃を手放す日が近づいてきている。ジャックの傍に居続ける『理由』を失ってしまう。


「……ごめん、そんなこと百も承知だな」


 クラウドが素直に謝れば、リルベルは意外そうに両目を丸くした。


「ま、結婚相手を探すのは良いけど、焦り過ぎて変な男捕まえないようにな」

「じゃあ、変な男しかいなかったら、クラウドが貰ってくれる?」

「はは、悪いけど、俺には心に決めた相手がいるんでね。お前と違って家族も何もいないし、自由気ままに追い続けるとするよ」

「うん、知ってた」


 驚かせるつもりが、あっさりと頷かれ、クラウドの方がよっぽど驚いた。

 えっ、と情けない声を上げたクラウドに対し、リルベルはにっこりと微笑んで当たり前のように続ける。


「自分自身と結婚するって、どうすればいいのかしらね」

「……俺はそこまでナルシストじゃない」

「あら、そうなの? でもこの世で一番魅力的なのは、」

「それはもちろん俺だけど――」

「冗談じゃなくて真剣にそう言ってる時点で、相当なナルシストよ」


 リルベルは呆れて笑った。ふと、その顔が固まり、彼女はくるりと後ろを振り返る。少し先から、洒落たジャケットを羽織った、いかにも誠実そうな男がこちらに向けて歩いてきているのが見えた。彼はリルベルとクラウドを怪訝そうに見比べている。


「今回のお相手なの」


 リルベルが小声でそう教えてくれる。


「なかなかイイ男じゃん。俺の方が数段良いけど、ま、並より上じゃない?」


 そう答えてから、クラウドはリルベルの肩を軽く叩いた。


「じゃ、幸せにな、レディ」

「暇つぶしをありがとう、ジェントル」


 くすくすと微笑みながら、リルベルはそう返事をする。

 男がやってきて面倒なことになる前に、クラウドはリルベルから離れ、また人混みに紛れて歩き出した。



 ――バレてるのかと思った。


 ひやっとした感覚が蘇る。そこまで自分がナルシストだと思われているとは意外だったが、それで助かったようだ。


 自分だって、リルベルと同じ穴の狢なのだと教えれば、彼女は仰天するだろう。そう思うと何だか可笑しかった。


 出来るだけ傍に居たいから、銃を握り、外へ行くのだ。そう決めたのは、彼女が屍人ゾンビを殺すのを初めて見て、心を奪われた瞬間だった。


 両親の顔も知らず、ひたすら日雇いで生活を繋ぎ、成長してからは壁の外に出て、麻薬のもととなる草を採取し、麻薬商人に高値で売りさばいて生活の糧とした。そんな日々を過ごしていた頃、いつもと同じように門を越え、草むしりをしている時に、すぐ傍に屍人ゾンビがやってきた。それをクラウドは拳銃で撃ち殺そうとした。


 ――その時、木の陰から赤髪の少女が飛びだしてきた。


 無謀だと思ったし、死にたがりの娘なのだと思った。錆びかけの短剣一つで、屍人ゾンビを葬ろうとするなんて。しかし、少女はやってのけた。まるで曲芸を見せつけるみたいに、屍人ゾンビの上で踊り、その頭を切り裂いて、溢れた血液から逃げるように、近くの木の枝へと飛び移った。背中に羽根でも生えているのかと思わせるような、息を呑むほどの身軽さだった。


 芸術だ、とクラウドは思った。これほど美しく、目を奪われるような動きを見たことがないと思った。


 屍人ゾンビが息絶え、地面に倒れたのを目視した後、少女は木から飛び降りてきた。そして血が乾いたような色の目をクラウドに向けた。その頃からすでに美少年で、性別に関係なく誰からも人気だったクラウドは、彼女も自分に夢中になるだろうと思いつつ、声をかけた。


「こんなところで何をしてるんだい、小さなレディ」


 そして、少女――四年前のエマは答えた。


「は? 何だよお前、気持ち悪い。死ね」


 本当に死んで欲しそうな言い草だったので、クラウドは心底からびっくりしたのだった。


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