3 仲間
時間も気にせず、ひたすらベットで横になっているのは、想像より気持ちが良かった。
そもそもベットで横になれること自体が、今まで少なかった。
住民の消え失せた廃墟の町で、朽ちていないベットがあれば、兄と交代で眠った。けれども、いつ屍人がやってくるかわからなかったから、常に浅い眠りだった。町には屍人が多い。彼らの呻き声を聞きながらベッドで眠るよりも、大木の洞に潜って眠る方がよく休めた。
この南部特区――兄曰く、この島で唯一の自治区域では、屍人の声が聞こえない。そればかりか廊下を歩いてゆく人間の足音や囁きが聞こえてきて、それにどうしようもなく安心させられる。奇妙な心地がした。
ベットの上で何度目かの寝返りを打つと、ふと複数の足音が聞こえてきた。こちらに近づいてくる。
ユースだろうかと思いながら上半身を起こせば、ノックもなく扉が開かれた。
「失礼する」
そう言いながら真っ先に部屋に入ってきたのは、屈強そうで、まだ若い、二十代くらいの男性だった。風になびく金髪は獅子のようで、深い灰色の目に野生的な光が宿っている。肌は褐色に焼けており、それが彼の勇猛なイメージを強めていた。
「ノックくらいしなさいよバカ……」
低い声で悪態を吐きながら、彼に続いたのは女性だった。墨のように真っ黒な髪が腰まで伸び、前髪も長く、目がすっかり隠れている。髪の隙間から覗く肌色はどこか青色じみていて、ひどく顔色が悪い。体つきも細く、叩いたら折れそうで、不健康そうに見えた。
「起きてたからいいじゃないの。気にしない、気にしない」
アッハッハと大声を上げて笑いながら、その次にオレンジの髪の女性が飛び込んでくる。やたら派手な髪色だ。根元が茶色いので、わざわざオレンジ色に染めているのだと見当がついた。
オレンジ色の髪の彼女は、不健康そうな女性の背中を、バシバシと勢いよく叩いている。叩かれた女性は相当痛そうに顔をしかめ、悲痛な声を上げた。
「やめなさいよ、この馬鹿力! 間違えて人に生まれてきたんなら、せめて人らしく理性的に振る舞いなさいよ!」
「はぁ? 間違えてって何よ。何と間違えて人に生まれたのよ」
「猿」
「何それ。猿と人間間違えるって、わりと似ててつまらないじゃない。いっそのこと、ミジンコとかと間違えた方が面白くない? あ~、あたし、ミジンコじゃなくて人間に生まれてこれて良かった」
「そういう話じゃないわよ」
もういい、と吐き捨て、黒髪の女性は首を振る。
「まぁまぁ……初対面の子の前でそんな風に言い合いしないでくれよ……」
困ったように、最後の一人が部屋に入ってきた。緑色の短髪と、緑色の目をした男性だ。大柄で、身長が誰よりも高い。そんな彼が少し背中を曲げ、女性二人の間に手を軽く振りながら割り込んでいるのは何だか奇妙な光景に思えた。しかし、それがいつものことなのか、先頭で入ってきた獅子のような男が、呆れたように三人を振り返る。
「リュートの言う通りだ。こういう場面くらい、仲良くしろ」
「もとはと言えば、あんたが悪いのよ」
黒髪の女性が悪態を吐く。獅子のような男はそれを無視し、アリスに深灰の瞳を向けた。
「騒がしくて済まない。――俺はジル。よろしく頼む」
何をよろしくするんだろうか。アリスが返事を詰まらせていると、オレンジ色の髪の女が飛び跳ねるようにしながら言った。
「あたしはレンダ! こっちの根暗がソフィーよ」
「誰が根暗よ!」
「誰とは言ってないわよ」
「いや、言ったわよ。あんた、人間に生まれたくせに、脳味噌はミジンコレベルね!」
ソフィー、と呼ばれた黒髪の女性は髪を振り乱しながら叫ぶ。レンダというオレンジ色の髪の女性は、あれ? と言いながら首を傾げた。あまり考えずに発言をしているらしい。そこにまた「まぁまぁ」と押し入りながら、緑髪の男性が微笑む。
「僕はリュート。よろしくね、アリス」
名前を呼ばれ、アリスは驚いて目を丸くした。ジル、という獅子のような男が肩を竦める。
「それにしても女みたいな名前だよな、アリスって」
「そうね、レンダよりは可愛い名前してるわ」
「だよね! あたしもそう思った!」
ソフィーは嫌味でそう言ったらしいが、レンダは心底から共感したように頷いている。ソフィーが悔しそうに唇を噛むのを、そっと押し留めながら、大柄の男――リュートはアリスに再び微笑みかける。
「ユースさんから聞いたんだ。僕ら、君と一緒に『神の子』を迎えにいくことになったんだよ」
よろしく、とはそういうことか。アリスはやっと合点がいき、微笑んだ。
「そうなんだ。よろしく」
「うん」リュートは頷いてから、太く凛々しい眉尻をそっと押し下げた。「……あの、君のお兄さんのこと、ごめん。助けられなくて」
「え?」
「僕、あの時、門の近くにいたんだ。ちょうど当番で……」
リュートはそう言いながら、どんどん縮こまっていくように見えた。
「……君に謝るのは卑怯かな。でも、何も出来なくてごめん……」
「……そういえば、兄さんを撃ったあいつは誰?」
リュートの謝罪への返事よりも、それが先に口をついた。そう尋ねると、リュートは肩透かしを食らった様な顔をしたが、すぐに憤るように眉を寄せた。
「あれは、エマとかいう女だよ」
――エマ。脳裏にあの目がくっきりと焼き付いている。ゴミ溜めを見るような、汚物を見るような、そんな目をして、兄さんを撃ち殺した。乾いた血のように赤茶けた色の目だった。
「……あいつは、どうしていきなり兄さんを撃ったりしたの?」
「さぁ。何を考えているかわからないから。あいつらは」
「あいつら?」
「うん。あんまり関わらない方が良い」
リュートは声をひそめた。後ろで、ソフィーもうんうんと何度も頷いている。
「こんな時代だ。力はあるけど、常識や良心に欠けた人間っていうのは、たくさんいるのさ」
「そうなんだ……」
そう言われてもあまりピンとこない。各地を転々として生きてきたせいで、まず、常識や良心を兼ね備えた人間だと胸を張って言えるのが、兄くらいしかいなかった。他の人間は損得を抜きには会話もしなかったから、彼らが常識や良心を持っていたのかどうか定かではない。
――とはいえ、いきなり射殺してはこないか、とアリスは考え直した。
「わかった。気を付ける」
そう言って頷けば、リュートはほっとしたように笑みを浮かべた。
「君とは話が通じそうで良かった」
「そうだな」ジルも微笑んだ。「門の向こうでずっと暮らしてた奴なんて、よっぽど頭がイカれてるかと思ったが、意外にちゃんとしてる」
「そういう言い方、やめなさいよ」
ソフィーがジルのふくらはぎを蹴った。しかし、ジルは微動だにせず、蹴られてから、不思議そうに彼女を見た。蹴ってみて痛かったのは彼女の方らしく、ソフィーは足を抑えながら、悔しそうにそっぽを向いた。
「門の中……というか、南部特区には、屍人は入ってこないの?」
アリスが尋ねると、ジルが僅かに顎を引いた。
「腕に自信のあるものが、いつも門を警護している。北は壁と門で塞がれているし、他は全部海に面してる。やつらは泳げないし、門から入り込ませない限りは問題がない」
「立地が良いよねー! 先祖に感謝だ!」
「少なくとも門が建ったのは三、四十年前くらいの話だから、先祖もきっとまだ生きてるわよ」
空を仰いで両手を合わせたレンダに、冷ややかな口調でソフィーは言う。それから、彼女は溜息を吐き、首を横に振った。
「……まぁ、半分は死んでるわね」
「それかウーウー言いながら徘徊する屍人になってる」
レンダは屍人の真似をするように、奇妙な動きをした。
「ごめんね」すかさずリュートが口を挟んだ。「騒がしいでしょ」
「いや……別に……」
アリスが苦笑いしながら言うと、リュートはさらに苦々しそうに笑った。なかなかに苦労させられているらしい。
そこで、ぽん、とジルが手を打った。
「さ、無駄話はそれくらいにしよう。アリス、いつ出発できる?」
「……いつならいいの?」
「いつでもいいが」
「僕もいつでもいい」
ひゅう、とレンダが口笛を吹く。
「外に出るのに、いつでもいい、だなんて超クール!」
「馬鹿ね。彼は外で生活してたのよ。私たちみたいにいちいち気合入れなくてもいいのよ」
「なるほど!」
「でも……疲れてるでしょ? 休んでからでもいいんだよ」
リュートは優しく笑ったが、その横でジルが眉間に皺を寄せながら言った。
「だが、出来るだけ早く、だ」
「ジル、急かすのは……」
「この島中の誰もが、あの穴が塞がるのを待ち望んでいるんだぞ。のうのうとしてられるか。予言があってからもう十年も経ってる」
早く世界を救おう、とジルはさらりと言ってのけた。また、レンダが口笛を吹く。アリスは布団を握り締めながら、おそるおそる言った。
「本当に、僕はいつでもいいんだけど……いつがいい?」
「俺が決めるのか?」
ジルがきょとんとしたように尋ねてくる。アリスが頭を縦に振ると、彼は肩を竦めた。
「まぁ、いいだろう。そうだな、じゃあ――明日だ」
「ジル!」
リュートが咎めるように叫んだが、アリスはあっさりと頷いていた。
「わかった。明日から、君たちとどこまで行けばいいの?」
そう言えば、リュートはぎょっとしたように目を丸くしたが、ジルは満足げに微笑んでいた。
「東だ。東に進んだところに、一つの村がある。そこに『神の子』がいるんだ。歩いて一週間くらいかかるそうだが、外で暮らしていたなら苦でもないだろう?」
*
ふと、目が覚めた。何となく寝返りを打つと、そこに兄がいた。
病室の中央に立ち、アリスを優しい目で見つめている。開けっ放しだった窓から差し込む月光が彼を照らし、吹き込む風が彼の絹糸のような金の髪を揺らしていた。
生きていたのだ。兄が死ぬわけがない。アリスは嬉しかった。思わず飛び起きて、兄さん、と呼びかけようとした。しかし、不思議なことに叫びは声にならなかった。声の出し方を忘れてしまったような心地だった。
――声が出せない。
つまり、これは、夢だ。
兄は月光に照らされながら、穏やかな微笑みを浮かべてアリスを見つめている。
――兄さん、僕、世界を救うことになったよ。
心の中で呟きながら、どうしようもない寂しさが沸き上がってきていた。それを察したように、兄はゆっくりとアリスに近づき、その腕でいつものように抱きしめてくれた。彼の胸板に額を押し付け、アリスは目を閉じる。夢の中の兄は温かかった。背中に回された手に確かな質量を感じた。
兄が死んだなど、それこそ夢のように思えた。けれども兄は死んだのだ。死なないと言ってくれたくせに、死んでしまったのだ。
それでも、朝になって夢が覚めれば、穏やかな揺れと共に目覚め、自分を揺さぶり起こした兄の笑顔に出会えるのではないかと、アリスは虚しい期待を抱いていた。
兄が死んでから、まるで別世界にきてしまったような気分だった。
兄のいない世界など、滅びようが、救われようが、アリスにはどうでもよかった。そこはもう、アリスの生きてきた世界ではない。
けれども、兄は、正義に従えと、アリスにいつも言っていた。だからアリスは世界を救うことに協力できるのが嬉しかった。兄も喜んでくれるだろうと思うと、あの美しい笑顔を思い出して、わずかの間、寂しさを忘れられるのだった。