38 副長室にて
「『神の子』は本物らしいわね」
震える息を吐きながら、ヴェロニカが言う。驚きに満ちながらも、勝気な笑みを崩さないところは流石である。ユースはそんなことを思いながら、顎を引いた。
「感染源である血液を消せるのは素晴らしい奇跡だね、間違いなく『神の子』だ。あれだけ可愛らしくて性格の良い子だとは思わなかったけれどね。島の為とはいえ、死んでもらうのが勿体なく思えるよ」
本当のところ、勿体ないなど、微塵も感じていなかった。死ぬことに抵抗し、暴れまわるような『神の子』だったら難儀だと思っていたところに、扱いやすく、さらに愛想も良いか弱い乙女がのこのこやってきたのだから、これ以上ない僥倖だった。
そんなユースの考えを察しているように、ヴェロニカは「そうね」と深みのある声で返し、それから書類をめくった。
「あと、奇妙なデータが出ているけれど、エマの話は聞いた?」
「エマ?」
知らなかった。エマたちが特区に無事帰還したのは、ちょうど一昨日の話だ。昨日いっぱい身体検査を行い、今日、解放してやったところだった。一昨日からずっと、ユースは『神の子』の検査にかかりきりだったから、彼らとはろくに話も出来ていなかった。
「エマがどうかしたのか? 大きな怪我でもした?」
そう尋ねれば、ヴェロニカはふふんと口元を緩めた。そんなどうでもいい話ならわざわざ言わない、というのが言外に伝わってくる。ユースが眉をひそめれば、彼女はやっと教えてくれた。
「エマ、初潮を迎えたんですって」
――思わず、飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。気管に入った液体を吐き出そうと咳き込むと、彼女は鈴が鳴るような声で笑う。
「驚いたでしょう? それだけじゃないの。身長もこの一、二週間の間に、二、三センチほど伸びてるのよ」
ごほんと一際大きく咳き込んでから、ユースは息を吸った。
「……つまり?」
先を促せば、ヴェロニカは細い肩を竦め、妖艶に微笑む。彼女が動くたびに、艶めかしい香りがユースの鼻をくすぐった。
「エマは年齢よりずっと幼く見えるわ。顔つきも、体つきも、何もかも。それは彼女の遺伝的な問題だと思っていたけれど――実際は、ストレスのせいでそうなったのかもしれない」
「ははぁ、なるほど? じゃあ、何だ、エマはロザリーと出会って、ストレスが解消して、成長を再開したと?」
冗談のつもりかと思って、笑いながらそう言えば、ヴェロニカは真剣な面持ちで頷いた。
「私はそう考えてる」
「……君らしくもなく、突飛な意見だ」
「あなた、ロザリーと話した?」ヴェロニカが首を傾げる。「あの子と少しでも話せばわかるはずよ。それこそ『神の子』と呼ぶのにふさわしい、慈愛に満ちた子だった。いくらエマでも絆される可能性はあるんじゃないかしら」
ヴェロニカは何か言いたげに思えた。ユースは笑うのを止め、声のトーンを同じくらい真剣なものに落とし、尋ねた。
「それが僕にとっての不利益に繋がるのかい?」
「あなただって知ってるでしょ? 酷い客にばかり当たってきた娼婦は、誠実で優しい客にあっという間に溺れて、命を懸けて、二人で逃げ出そうとするのよ。永遠の愛を信じてね。……エマがそうならないとは、限らないわ。エマが本気なら、止められる人間は少ないわよ」
「その時は殺してでも止めるさ」
「誰が殺すの? なんだかんだ言って、多分、エマの仲間は、エマを殺せないわよ」
ユースもそれには頷いた。リルベルは勿論の事、ジャックもクラウドもエマを殺すことは出来ないだろう。彼らも彼ら自身の傷があり、心の傷を曝け出して生きているようなエマに対し深い同情を覚えている部分が見える――エマはそんな優しさなど理解できないし、認識もしていないが。
「優秀な駒が増えたばかりだろ? ……思ったよりも扱い辛いらしいけど」
脳裏に浮かぶのは、ただ一人。白髪と赤目の、気の弱そうな少年だ。
「あの子なら、上手く言えば、エマを殺してくれるさ。良い手駒だ」
「まぁ、恐ろしいこと」
ヴェロニカは怖がる素振りさえ見せず、わざとらしく両手を広げてそう言った。
第五章、始まりました。
これからもお付き合いくださると嬉しいです。




