37 返り血の正義
――アリスは拳銃を握り締めた。すかさず銃口をロバートに向けたが、しかし、引き金を引くことは出来なかった。
人を殺さない、という兄との約束が、ロバートを殺してエマを助けようとする気持ちを押し留めた。咄嗟に銃口を逸らし、ロバートの足をめがけて引き金を引いた。弾はロバートのふくらはぎを浅く抉り、地面に突き刺さる。ふくらはぎから血が噴き出しても、ロバートは呻くだけで、エマへと短剣を向け続けた。それをクラウドが必死で押し返しているが、体格差の為に、じりじりと短剣の先はエマの首に近づいていっている。
「アリス!」
クラウドがもう一度叫ぶ。
「撃てない……」
アリスは素直にそう答えた。
「ふざけたこと抜かしてんじゃねぇ!」
クラウドが吼える。アリスはびくんと身体を震わせ――そしてロザリーの悲鳴を聞いた。
弾かれるように後ろを振り返れば、立ちすくんでいたロザリーの後ろに、いきなり屍人が出現していた。唸り声も何も聞こえなかったから驚けば、その屍人は喉をひどく損傷していた。ひゅーひゅーという風の鳴るような音がする。その屍人は草むらから飛び出してくると、ロザリーの両肩を掴んだ。
「ロザリー!」
エマが悲痛な叫び声をあげるのと、アリスが体勢を変えて銃口を屍人に向けるのはほぼ同時だった。けれども、ロザリーが自らに噛みつこうとする屍人から逃れようとしてジタバタと暴れるので、狙いが合わない。
それを睨んでいれば、背後で銃声がした。振り返れば、エマがクラウドの拳銃を握り、至近距離からロバートの額を撃ち抜いていた。クラウドが全体重をかけるようにして、ロバートを近くの茂みに投げ捨てる。
返り血を浴び、顔を真っ赤に染め上げたエマは、深く息を吸い込んで立ちあがったかと思えば、すぐさまにロザリーのところへ駆けた。アリスも再び屍人へと銃口を向けたが――遅い、と感じた。エマもアリスも間に合わない。すでに屍人は口を開け、ロザリーの真っ白な首元に食らいつこうとしている――
その時、また銃声が鳴った。屍人がビクッと震え、動きを止めた。その直後に飛び掛かったエマが屍人を突き飛ばしてロザリーから引きはがし、その屍人が体勢を崩して地面に倒れたところを、アリスが弾を打ち込んで蜂の巣にした。
「クラウド……」
最初の銃声は君か、と尋ねようと振り返ったが、クラウドはすぐに首を横に振った。
「俺じゃない」
「え……」
「ロザリー、大丈夫か!?」
エマがロザリーの背中に手を回し、身体を支えながら尋ねる。ロザリーは、そのエマの顔を見て悲鳴を上げた。かと思えば、突然声が止まり、エマに抱き着くようにして倒れ込む。アリスはロザリーが抱き着いたのだと思ったが、すぐに気を失ったのだと気が付いた。
「ロザリー……」
エマが少しだけ顔を歪める。クラウドが二人に駆け寄り、安心させるような優しい声音で言った。
「アホ、今、お前、鬼のような形相してるぞ。流石の天使でも気くらい失う」
「……あぁ」
エマはそこで初めて気が付いたらしく、自らの頬を拭い、手の甲についた血を見つめた。しかし、すぐに興味を失い、ロザリーを支える手に力を込める。しかし、小柄な彼女一人では支えきれないらしく、すぐにぷるぷると震えだした。見かねたクラウドが手を回し、ロザリーを横抱きにして抱え上げる。
「……一発目の銃声は?」
エマはぶすっとした表情をしつつ、そう尋ねる。アリスもクラウドも揃って首を横に振った時、ガサガサと草を掻き分けて進んでくる音がした。思わず身を固めたが、すぐに聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「――みんな!」
リルベルの声だ。振り向けば、ジャックとリルベルが茂みを掻き分けて歩いてきていた。
「リルベル! ジャック! 生きてたか!」
ロザリーを抱いたまま、クラウドがほっとした声を上げる。アリスも安堵を覚えた。二人とも無事だったのか。見たところ、大した外傷は見受けられない。
「そっちもな。とにかく生きてて良かったぜ」
「本当にね。とにかく、生きてはいるみたいね」
二人も安心したような笑みを浮かべつつ、しかし目は警戒をして辺りをぎょろぎょろと見つめていた。
「さっき、屍人を撃ったのは……」
エマが聞けば、ジャックが無言でリルベルを指差す。示されたリルベルは、ちょうど茂みの中で死んでいるロバートを踏みつけてしまい、真っ青な顔をして足を引っ込めていた。
「やっぱり、あいつが敵になったら、真っ先に目を抉らなきゃ」
エマはハッと鼻で笑いつつ、物騒なことを呟く。小声でもリルベルはしっかり聞き取ったらしく、困ったように肩を竦めてから、尋ねた。
「ロバートのこと、誰が殺したの?」
リルベルは死体から逃げるように茂みから抜け出してくる。アリスは心臓を握りつぶされるような気分になった。しかし、エマはあっさりと答えた。
「私だ。また意味の分からん言動をした。廃人になるか屍人になるかの末路しかなかったんだ、死んだ方がましだったろ」
「そう」
リルベルは意外にも、厳しく叱責するようなことはしなかった。代わりに、鞄の中から乾いた布を引き出すと、半ば強引にエマの顔を拭いた。さっきロザリーを気絶させてしまったからか、エマも抵抗せず、血を拭かれるままでいる。そのワンピースも煤と血とで赤黒く染まっていたが、替えの服もないから洗うわけにもいかないし、そちらはどうしようもないだろう。
「……仲間だったのに、殺すなんて」
アリスは素直にそう呟いた。仲間なのに、殺すなんて、それは悪のすることだ。兄との約束に背くことになる。正直に言って、あまり好ましくなかった。ぞわぞわとした居心地の悪い感覚を持て余していれば、急に、エマがこちらを睨んだ。彼女はリルベルを突き飛ばすようにして近づいてくると、いきなり拳を振りかぶってきた。アリスがそれを避ければ、彼女は両手でアリスの胸元を掴み、ぐいと荒っぽく引き寄せてくる。
「仲間だったのに殺すなんて、何だ? 仲間を殺すのは悪だからしちゃいけないことだって言いたいのか?」
その通りだった。アリスが頷けば、エマはゴミを見る目でアリスを見た。
「お前が殺さなかったから、ロザリーが危険な目に遭ったってこと、わかってないの?」
「え」
「間一髪、リルベルがいてくれたから助かったけど、もしこいつらがとっとと死んでたら、ロザリーは噛まれて死んで、屍人になってた。それ、わかってるか?」
「……それは、そうだったかもしれないけど、でも、兄との約束で……」
「頭を使え、糞野郎」
エマはそう吐き捨て、アリスを突き飛ばす。アリスは二、三歩後ろへとよろけた。
「お前の今の『正義』は、ロザリーを連れ帰って、人質の女を助けることだったよな? それが何だ、兄との約束がどうだの、意味が分からない。お前の兄はもう死んでるんだよ。わかるか? お前の兄はもういない。お前がいくら兄との約束を守ろうが、約束を守れて偉かったねぇって助けてくれる兄貴はどこにもいないんだよ」
そうまくし立てるように言ってから、エマは盛大に舌打ちをした。
「心ッ底から腹が立つ……これ以上、意味の分からない真似をするなら、お前も殺す」
アリスは動揺し、思わずクラウドを見た。しかし、クラウドも冷たい目でアリスを見ているだけだった――つまり、アリスの行動は間違っていた、正義ではなかったと訴えている。
――ロバートを、仲間を殺すのはいけないことだ。それは決して、正義ではない。兄との、人を殺さないという約束も、正義の心に従えという約束も、破ることになる。
けれど、ロザリーが屍人に襲われた時、アリスがロバートを撃ち殺しておかなかったせいで、クラウドもエマもロザリーをすぐに助けに行けなかったのは事実だ。
リルベルがいなければ、ロザリーは死んでいた。
ロザリーが死ぬのは、正義から大きく外れる。アリスのせいで人を死なせたことにもなるし、ミーシャを助けることすら出来ない。
アリスは困った。困り果てて、尋ねた。
「ロバートを殺しても殺さなくても、正義から外れてしまうんだけど、僕はどうすればよかったんだろう」
誰かが答えてくれる、とアリスは思っていた。しかし、誰も答えなかった。
言葉が宙に浮き続けている。アリスは息を呑む。どうして誰も答えてくれないのだろう。アリスがそのことについて重ねて尋ねようとすると、ジャックが肩を竦めた。
「正義って何だ?」
「……正しいこと。人を殺したり、傷つけないような……」
「じゃあ、ヒーローが弱い市民を守る為に、悪人を殺すのは、正義じゃないのか?」
アリスは閉口した。
兄は言っていた。人を無意味に傷つけたり、殺したりするなよ、と。それはいけないことだから、と何度も何度も教えてくれた。それは悪だから、と。だから、正義とはきっと、人を傷つけず、殺さないことだとアリスは思っていた。困っている人を助けてやったり、傷ついている人を癒したりすることだとも思っていた。
だからこそ、誰かを殺すことで成り立つ正義などというものが理解できなかった。
アリスが答えられないのを見て、ジャックが溜息を吐いた。
「ま、とりあえず特区へ向かおうや。この近く、やたらと屍人がうじゃうじゃしてやがる……それにしても、お前のその格好は何だ?」
呆れが笑いに変わったような顔で、ジャックがエマに尋ねる。エマは不機嫌さを隠そうともせず、物騒な顔つきで答えた。
「色々あったんだよ……そうだ、リルベル、ちょっといいか」
「? 何?」
「お前はとっくに来てるだろ。さっきから流れっぱなしで気持ち悪いんだ。どうすればいいか教えろ」
エマは強引にリルベルを茂みの中へ引きずっていく。ジャックが怪訝な顔で追おうとしたが、それをクラウドが声をかけて止めた。
「追いかけない方がいいぜ。特にあんたはな。それより、ロザリーちゃん持ってもらえない……って無理じゃん」
自分より体格のいいジャックに頼もうとしたのだろうが、言いながら気が付いたらしい。言われたジャックも申し訳なさそうにしつつ、しっかりと首を横に振っている。女嫌いのジャックに、女性を背負って歩けと言うのは酷だろう。
「アリス」
おもむろに、クラウドがこちらを振り返った。
「ちゃんと自分の頭で考えな」
エマにも言われたことだった。
「考えてるよ」
「いいや、お前はいつまでも、大好きなお兄様がどう考えてたか、大好きなお兄様になんて言われたか、ってことばっかり気にしてるように見えるね」
反論は出来なかった。それの何が悪いのかも、いまいちよくわからなかった。
アリスがそう感じたことを、クラウドは察したらしい、軽く肩を竦め、彼は言った。
「エマの言う通り、お兄さんはもういない。もう助けてくれないんだ。自分の行動は自分で選択して、自分で尻拭いしなきゃいけない。わからないからってぼーっと突っ立ってちゃ、死ぬだけだぜ」
ロザリーを連れて逃げた時、兄がいてくれれば、と強く感じた自分がいた。けれども、兄はいないのだ。死んでしまった。これからはアリスだけで生きて行かなければいけない――いや、今だって、そうなのだ。
選択は兄の仕事だった。兄が何でも選んでくれた。するべきこと、していいこと、してはいけないこと、全てを兄が教えてくれた。でももう兄はいない。
何をするべきで、何をするべきでないのか。
自分で選択しなければならないのだ。
重いと思った。けれども、やらねばならないとも思った。
クラウドの腕の中で、真っ青な顔をして気を失っているロザリーを見れば、その気持ちは一層に強まった。自分のせいで彼女は危険な目に遭ったのだと、それはちゃんと理解していたからだ。
「先に進もう、屍人が近づいてきている」
エマがこちらに戻ってきて言った。後ろをついてくるリルベルが目を白黒させている。
アリスは考えた。ちゃんと考えなければいけない、と自分に自分で言い聞かせた。
選択をしないと。正義を――正義というものも、よくわからなくなりつつあるが――とにかく、出来るだけ人を傷つけず、人を殺さない手段を選択しなければ。
クラウドがロザリーを背中に抱え、彼の荷物をエマが持ち、一同は移動し始めた。しばらく移動して、アリスはそれを見つけた。
「あれを見て」
指差せば、全員が立ち止まる。けれども全員が首を傾げた。
「どれを?」
代表するように、リルベルが尋ねる。アリスは高い位置の木の枝を指差した。
「木と木が結び付けてあるの、見える?」
ひゅっ、と息を呑んだのは誰だろう。見える、とリルベルが答えた。
「あれは『道』だ。通れるよ。僕が特区に一人で帰った時、ああいう『道』を通った。あそこから、ずっと先まで、木の枝同士が縄で結び付けられてるだろ」
各々が視線を動かしていくのがわかった。
「ああいう高いところだと、落ちさえしなければ屍人に襲われることもない。僕と兄さんは、よくああいう『道』を通ったし、『道』のないところには、作ったりもしたよ」
アリスがそう言い終わらないうちに、エマが尋ねた。
「どうして今まで言わなかった?」
「……聞かれなかったから」
重い溜息が返ってきた。
アリスは不安になって、尋ねた。
「選択したんだ。聞かれてないけど、言った方が、みんなが無事に進めるんじゃないかなって。これは……おかしい?」
「あぁ、おかしいね」エマが言った。「そういうことは特区を出発する時からさっさと言っておくべきだ」
やっと役に立ったな、と彼女は吐き捨てるように言った。
第四章、終わりです。




