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32 とある少女の望み

今回も長めです。

 エマはそう言いながら、肘で窓を叩き割る。そしてその外へと身を踊らせ、続くロザリーにも無理やり窓を通らせる。そのすぐ後をアリスは続いた。


 蚊を見たら逃げろ――それが兄の教えだった。屍人ゾンビと化した蚊に噛まれたら、知らない間に自分も屍人ゾンビになる。肌に乗った蚊を叩き潰すだけでも、その体液を浴びることになり、いずれは感染する。小さいが恐ろしい生物なのだ。


 アリスは窓の外へ身を投げ、両足で着地した。ぶーんという音が耳元で騒ぐ。首をひねり、駆け出して、アリスは逃げる。前方を、エマとロザリーが駆けていた。後ろを振り返る暇などない。雨が頬を叩く。まだそれほど強くないが、地面が少しずつぬかるみ始めていた。


 先の二人に続いて森に逃げ込めば――


「きゃああッ!」


 ロザリーが目の前で悲鳴を上げた。その金髪に飛び込んでしまう形で、ぶつかってしまう。二人で地面に転がった。肩を強かに地面で打ちながらも、アリスはすぐに立ち上がる。そして、目の前にいたものを見てぞっとした。


 野生の熊だ。運よく、まだ屍獣化はしていない。けれども血走った目でアリスたちを睨んでいる。その口から涎がだらだらと零れた。


「ロザリーを連れてとっとと逃げろッ!」


 どっ、と脇腹に鈍痛が入る。エマが蹴りを入れたのだ。反射的に、アリスはロザリーの腕を掴むと、とにかく森の方へと駆け出した。ロザリーの足は遅く、重い岩を引きずって走っているようだったが、それよりも焦りがアリスを前へと突き出した。心臓がバクバクと高鳴っている。


「アリス……ッ」


 引きずっている岩がさらに重くなる。アリスは踏ん張って走った。


「アリス!」


 岩はさらに重くなり、それどころか逆方向へとアリスを引っ張る。


 ――何で岩なんか引きずってるんだ。


 アリスは咄嗟に腕を離そうとして、そこで、引きずっているものが岩ではなくロザリーだと思い出した。ロザリーは必死でアリスを引き止めようとしている。


「アリス! 止まって!」


 アリスは我に返った。木の葉の間から降ってきた雫が頭を叩く。森の中だが、辺りにはもう誰もいない。蚊も、熊も、屍人ゾンビどころか、仲間の影もない。


「戻ろうよ……! あのままじゃ、エマが……」

「でも、エマはロザリーを連れて逃げろって言った」

「だけど、放っておいたらエマが死んじゃうわ。熊よ? 戻りましょう」

「……そうだね」


 必死な口調で言われ、アリスは頷いた。ロザリーの手を握りなおし、踵を返す。そこで、アリスが今まで掴んでいた腕が、真っ赤になっていることに気が付いた。力が強すぎたのだ。

 雨がパタパタと木の葉を叩く。どこからもウーウーという声は聞こえない。雨の音以外、静寂だ。


「ごめん、痛かったよね」


 アリスが謝ると、ロザリーは首を横に振った。

 その手を握り、踏み出すと、彼女は素直についてくる。アリスはそこで初めて、ぞっとした。

 ロザリーと二人きり。

 『神の子』と二人きり。

 自分が守り切らねば、世界は終わる。

 正義の為に、ロザリーを守り切らないといけない。

 ずしり、と圧迫感が胸を圧しつけてくる。

 ここに兄さんがいればいいのに、とアリスはくだらないことを願った。そう願いながら、ロザリーの細い手を掴んで、逃げてきた方向へ戻った。

 

 森はどこまで行っても同じように見える。それほど走ったような記憶はないのだけど。

 歩いているうちに雨は強くなり、次第に雷鳴が轟き始めた。空が輝き、爆発音のような雷鳴が響く度、ロザリーはびくっと身体を震わせる。ロザリーが震えると、アリスは兄がしてくれたように、振り返って微笑んでやった。自分の微笑みが下手くそで、あまり優しげに見えないことを、アリスは知らない。


「……みんな、無事かしら」


 心細そうに、ロザリーが言う。アリスには何も言えなかった。

 しばらく歩いていれば、ふと、遠くの方に小屋が見えた。もうそこまで戻ってきたのに、誰にも会わなかった。あまり小屋に近づくと、あの蚊の群れと出くわしそうで嫌だ。アリスは足を止めた。その背中にロザリーがぶつかる。


「ごめんなさい……あ」

「どうしたの?」

「あれ、見て」


 言われて、ロザリーの指差した方に目を向ければ、少し離れたところに、何かが倒れている。ロザリーをその場に残し、こわごわと近づいて見れば、それは熊だった。胸に銃弾で穴が開き、頭にも同様の穴があいている。


「熊だ」


 アリスがロザリーに声を掛ければ、彼女も草むらを踏み分けてやってきた。倒れた熊を見て眉を寄せた後、彼女はぱっと両手で口を抑える。


「血が……」


 熊の近くの地面に、真っ赤な血が広がっていた。あれは熊の血か、それとも人間の血か。

 ロザリーは顔を真っ白にさせながら、アリスの服の裾をぎゅっと掴んだ。


「みんな、大丈夫かな……」

「……とりあえず、特区の方を目指しながら、探そう」

「うん」


 ロザリーは頷く。酷く顔色が悪い。ここから離れたら、早めに休息を取った方が良いだろう。そもそも三日歩き通しで疲れているのだ。休息を取れないままに、小屋からも追い出されてしまった。

 ロザリーを連れ、特区の方角に向けて歩き出しながらも、アリスは不安だった。

 自分の選択がロザリーの生死を左右する――それがとてつもなく重圧だった。

 この選択で本当に良いのだろうか。その質問をする相手は、いない。誰でも良いから、ひょっこり現れてくれないだろうか、とアリスは心底祈った。


 ふと、足元がぬめり、転びそうになる。逆の足で踏ん張り、地面を見て、アリスは息を呑んだ。血が続いている。先を見れば、ぽつぽつと落ちた血の跡が、森の奥へと続いていた。


「……誰の血かしら」ロザリーがハッとして言う。「追いかけましょう」


 屍人ゾンビ化していたら、とアリスは思った。けれど、頷いて、その血を辿って歩き始めた。

 鉄の臭いがだんだんと強くなる。血は特区の方角へ続いているらしかった。誰もが考えることは同じなのだと思うと、アリスは少しだけほっとした。


 五分ほど歩くと、落ちている血液の量が、もはや点ではなくなってきた。そして草の間に引きずるように血が伸びていて、それを超えると、木にもたれかかる様にして、誰かが倒れている。


「エマ」


 アリスとロザリーの声が重なった。木の幹に背中を預け、胡乱な眼をしているのはエマだった。その右肩から血が流れている。彼女は今にも閉じてしまいそうに、何度も瞬きをしながら二人を見上げ、舌打ちをする。


「お前らか……」


 声に活力がなかった。ロザリーが駆け寄り、その傷口を見て顔をしかめる。


「かなり抉られてるわ……」

「血を止めないと……」

「これでいいかしら」


 ロザリーは、アリスに真っ白のハンカチを差し出してきた。アリスは頷いてそれを受け取る。エマの肩口の傷は、肉を抉られ、血が滲み出しているが、緑や紫に変色してはいない。屍人ゾンビにやられたのではなく、熊にやられたとみて間違いないだろう。

 けれど、その熊の爪に屍人ゾンビの体液が付着していて、それで攻撃されたのなら――エマはいずれ屍人ゾンビ化する。


 とにかく、出血を止める為に、アリスがハンカチでその傷口を結べば、白い顔をしたエマが震える声で尋ねた。


「あんたさ、血の中に入った、屍人ゾンビの体液とか、消せるの?」


 ロザリーは僅かに躊躇ったようで、息を呑んだ。しかし、それだけでアリスもエマも答えを察した――無理なのだ。


「わかった」


 エマは頷く。


「でも……この傷、屍人ゾンビにやられたわけじゃないんでしょう?」


 ロザリーが焦ったように尋ねる。

 ややあって、エマはもう一度頷いた。それきり、彼女は疲れたように溜息を吐くだけで、何も言わない。熊の爪から感染している恐れを口にしないのは、ロザリーを慮ってなのか、それとも出血が酷くて話すのも辛いのか。

 とはいえ、傷口の方はあまり深くなく、ハンカチできつく縛れば、出血は止まってくれた。後はこれ以上血を流さず、無事に特区まで着ければ問題ないだろう。


「……お前らは先に行け」


 絞り出すような声で、エマが言う。


「そんな。君を置いてはいけないよ」


 アリスがそう言えば、エマは舌打ちをした。


「だからお前は気持ち悪いんだよ。空っぽな台詞吐きやがって。……いいから。後で追いつく」


 エマはそう言ってから、アリスを睨んだ。


屍人ゾンビになったらどうせ死ぬ。屍人ゾンビにならなかったら追いつく。だから先に行け。お前らを連れて行くよりも、一人で追いかける方が楽だ。それに、今、物凄く、眠い」

「眠いって、そんな……」

「いいから行けよ、言っとくけど、私が屍人ゾンビ化したら、お前の手には負えないからな」


 エマはそう言い、突き飛ばすようにアリスの胸を押した。アリスはそのまま後ろに倒れ、尻餅を着く。

 エマはそれを最後に、重い瞼を閉じ、かくっ、と頭を下げた。一瞬死んだのかと思ってぞっとし、首筋に手を当てたが、脈はある。眠ったらしい。あまりにも無防備だ。先に進むとしても、木の枝に結びつけていおいた方が良いだろう。


 先に行けと言われたし(・・・・・・・・・・)行こう(・・・)。アリスはそう思い、エマを安全な場所に上げる為に、立ち上がって、手ごろな木の枝を探そうとした。すると、ロザリーがぎょっとしたように、ズボンの裾を掴んできた。


「エマを置いていくの?」


 その大きな瞳が不安で揺れている。


「……だって、エマは先に行けって……」

「でも、そしたらエマが死んでしまうかもしれないわ。寝てしまってるのに、そんな時に屍人ゾンビが来たら……」


 ロザリーはぎゅっ、とアリスの足を掴む。


「お願い、ここでエマが起きるまで待ちましょう?」

「だけど……危険だよ。君は生き延びなきゃいけないんだから……」

「……私ね、いずれ死ぬでしょう」


 おもむろに、ロザリーはそう言いながらはにかんだ。


「穴に身を投げて、この島の皆を救う為に死ぬでしょう。だからね、私一人の命が、他の一人の命よりも尊いんだって考える人がいるの。アリスはどう思う?」

「それは……他を救えるんだから、そうなんじゃない?」

「そう。じゃあ、私一人の命と、他の二人の命なら、どちらが尊いの?」

「ロザリーの方、かな」

「だったら、私一人の命と、他の百人の命なら? 私一人の命と、他の千人の命なら?」

「……」


 アリスは答えられなかった。ロザリーは目を細め、さらに笑みを深くする。


「私はね、私一人の命と、他の人の命なら、きっと他の人の命の方が尊いんだと思うの。その尊いものがたくさん集まっていて、私はそれを救う為に死ぬんだわ。ある意味、神への奉仕ね」


 彼女は親が愛する子を見つめるような目で、エマを見た。


「だから、誰か一人でも、見捨てて私が生きるというのは、ありえないの。きっと死ぬまで後悔してしまうわ、いいえ、死んでからも後悔すると思うの」


 その目がアリスに向けられる。


「もちろん、あなたもそうよ」


 アリスは、考えた。


 ロザリーにも休息は必要だ。エマも、屍人ゾンビになると決まったわけじゃない。ロザリーは旅慣れしていないし、自分ひとりで連れて帰るより、仲間がいた方がいい。ここで、エマが目覚めるのを待ちながら、ロザリーの休息も兼ねるのは良案なのではないか?


「……わかった、エマが起きるのを待とう」


 アリスが頷けば、ロザリーは表情を明るくし、嬉しそうに頷いた。そして、エマの隣に腰かけると、彼女の頭をそっと動かし、自らの両膝の上に乗せる。その細い腕が、エマの泥のこびり付いた頬を撫で、汚れを拭き取った。


「……ロザリーも眠りなよ。僕が見張りをしておくから」

「ありがとう」


 ロザリーが微笑む。

 傷ついた少女を膝に乗せ、穏やかに微笑むロザリーは、まるで聖母のようだった。

 きっと、倒れていたのがアリスであっても、彼女は先に行こうとせず、共にあろうとしてくれただろう。

 じわりと胸が熱くなる。その感情をどう呼べばいいのか、アリスは知らない。



                    *



 祖父と話したのは、あれが最後だった。


「立ち止まる訳には行かないんだよ」


 その時、自分は違う名前で呼ばれていたような気もするし、当時から、エマと呼ばれていたような気もする。どちらにせよ、記憶は曖昧だった。


 どうして? と幼い自分は問うた。皺くちゃのジジイは答えた。


「今まで流した血が無駄になるだろう」


 ――あぁ、思い出した。


 あれは、父が死んだ次の日だ。

 祖父が生きていた頃、エマがいた『キャラバン』はまだ知らない場所を旅し続けていた。誰も知らぬオアシスを探すために。

 たくさんの犠牲者が出た。その一人が、エマの父親だった。


 ――パパの死を無駄にしない為にも、旅を続けなくちゃ。


 幼いエマはそう思った。

 けれど、祖父が死んでから、その長を失ってから、『キャラバン』はもはや、見知った場所だけを進むようになった。


 エマはそれが悔しかった。父が死んだのに、もっと多くの人がオアシスの為に死んだのに、諦めてしまったら、その死が無駄になる。

 だからエマは大人たちに抗議した。


 そして死ぬのが怖い大人たちは、七歳のエマを憎んだ。

 母親も、そうだった。


 祖父も父も失ったエマにとって、唯一の家族は母親一人だった。けれども彼女は何かにとりつかれたように、ひたすらエマを苛め続けた。


 いつか母親に殺される。

 エマはそう思いながら、怯えて生きてきた。

 母親は愛を与えてくれる? エマはそう聞くたびに腹を抱えて笑ってしまう。あれが愛ならば愛なんて糞くらえだ。あれが愛ならばそんなもの必要ない。


 愛なんかなくたって生きていける。


 

 『キャラバン』に屍人ゾンビが襲い掛かり、絶滅寸前になった夜明け。

 唯一生き残ったのは、自分と母親だけだった。母親は倒れた大木の下敷きになり、遠くからどんどんと屍人ゾンビが近づいてくることに怯え、エマの助けを求めた。

 母を見捨てて逃げることも、木を動かして助けてやることも出来た。

 そして、結局、母の頭を短剣で貫き、殺して、エマは逃げた。


 ――もし、あそこで殺していなかったら?


 うつらうつらとした世界に落ちると、いつもそんな声がどこかから湧いてくる。

 自分の中に、どうしてそんな言葉が存在するのか、エマは不思議だった。そしてその言葉が浮かび上がる度、エマは一つの夢を夢想した。

 母が微笑み、優しく自分を抱きしめてくれる。

 エマが眠るまで傍に居て、エマが起きるまでそこにいる。

 そして、おはよう、と言ってくれる。


 ――ただ、それだけ。


 しかし、そんな夢の泡はすぐに破裂して消える。わかっているのだ。たとえ母を救っていたとしても、彼女は決して自分には微笑みかけてくれない。そんな夢は、叶わない。

 叶わないことを想い、後悔するなんて、馬鹿だ。


 だからエマはその感情にきつく蓋をする。蓋の下で腐ってしまえと心底から願って、重い蓋をする。

 遠い遠い夜空の下で幼い自分が泣いている。死んでしまいたいと泣いている。

 エマが今まで死ななかったのは、きっと、泡のような夢をいつまでも手放せないから。

 死ぬのも生きるのも決心がつかないから、ただ取り返しのつく方を、と思って、エマはただ麻薬を吸い、細々と生き延びる。見えないものを見ようとして。掴めないものを掴もうとしながら。


 暗闇の中でまどろんでいると、ふと、甘い香りがした。良い匂いだ。

 ぐらぐらと揺らぎがやってくる。世界が引きずりあげられる感覚。エマは暗闇の中で膝を抱えていたい思いと、その甘い香りに引きずられる心とで挟まれた。そして観念したように、ずるり、と意識を持ち上げた。何か柔らかい感覚がする。何かが頬を撫でた。

 

 ――そしてエマは覚醒した。


 バッ、と瞼を開ければ、目の前に美しい顔があった。彼女は花が咲いたような笑みを浮かべると、柔らかな声で言った。


「おはよう、エマ」


 エマは自らの身体が強張るのを感じた――こわい、と思った。

 誰かの膝の上で目が覚めるなんて、初めての体験だった。目が覚めて、すぐそこに優しい笑顔があることも。咄嗟にざわりとした拒否反応を覚え、エマは眉をひそめた。


「何してんの、お前」

「あなたが目覚めるのを待ってたの」

「……」


 肩の痛みが疼く。状況を思い出した。エマは上半身を上げ、相変わらずの無表情で傍に居るアリスを睨んだ。


「先に行けって言ったはずだ」

「ロザリーがどうしてもエマを待ちたいって……」


 思わずロザリーを見れば、彼女はまだ微笑んでいる。エマがちゃんと目を覚ましたのが嬉しくて堪らない、という風にも見えた。


「意味が分からない」エマは戸惑いを隠せずに言った。「どうしても待ちたい? 何で? 何度も言うけど、良い子アピールは……」

「アピールとかじゃないの」


 ロザリーは優しい声でやんわりとエマの言葉を遮った。


「私、この島の人を救う為に、いずれ死ぬんでしょう」

「そう、だから、私なんかに構う必要は……」

「なら、あなたも助けたいと思って当然でしょ」


 ロザリーはどこか怒ったように言った。エマが口を閉ざせば、彼女はまた微笑んで言った。


「あなた一人を見捨てて、他のみんなを救うなんて、おかしいわ。他の人を救うなら、あなたも助けたい」


 そうはっきりと言ってから、ロザリーは照れたように頬を染めて俯き、


「助けると言っても、ただ起きるのを待ってただけだけど……」


 と小さな声で付け加えた。


 おかしいだろ、とエマは思う。島に住む何千人の人間と、自分ひとりの命を天秤にかけ、それを平等だと考えようとしている、その思考回路が理解できない。


 けれども――無性に、嬉しかった。

 自分でも腹が立つほど、エマは喜びを感じていた。


 嬉しい。


 誰か一人とでも天秤にかけられたとき、自分を選んでくれる存在を、エマは今まで持たなかった。たとえ自分を選んでくれても、そこには他の利益があった。エマではなく、彼らは利益を選んだ。エマもそうだった。何かや誰かを選ぶとき、そこに他の利益を見た。ユースの命令に従い、ジャックたちと行動を共にするようになったのも、特区での寝食を得られるという利益を選んだからだった。


 でも、ロザリーは、ただ、エマを選んだ。


 それはきっと、エマでなくてもそうなのだろうと思う。ここに倒れていたのがアリスでも、ロザリーは見捨てられないと言い、助けようとする。それでも、エマは嬉しかった。自分が特別であることが嬉しいのではなくて、自分が特別ではないから嬉しかった。


 自分という存在が倒れていても、ロザリーは手を差し伸べてくれる。

 笑顔を向けられる価値のない存在なのに、微笑みかけてくれる。

 ロザリーは、私を拒否しない。あの母のように、拒絶したりしない。


 それが嬉しかった。他の人と同じように――愛してくれる家族や仲間を持った幸せな人たちに対するのと同じように、エマに向き合ってくれる。


 嬉しかったが、エマはありがとう、とは言えなかった。それほど素直に生きてはこなかった。それほど素直に生きてくることは不可能だった。

 彼女の喜びは、すぐにアリスへの怒りへ転化した。


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