2 勇者誕生
「屍人についてはどれくらい知ってる?」
アリスが事情を呑み込むのを待ってから、ユースは穏やかな声でそう尋ねてきた。
質問に答えるのは、いつも兄の役目だった。慣れないことで、つい口ごもってしまうと、ユースは何かを察したように微笑んだ。
「そうだなぁ……感染する方法、とかは流石に知ってるよね?」
アリスはこくりと頷き、恐る恐る答えた。
「屍人に噛まれたり、爪で引っ掻かれたり、体液を浴びたりしたら……じきに屍人になります」
「恐ろしい話だよね。じゃあ、屍人を倒す方法は?」
「頭を潰す……」
「そうだね。脳みそを壊さないと、あいつらは永遠に動き続ける」
にこり、とユースは微笑んで頷いてくれる。アリスはほっとした気持ちになった。兄以外の誰かに問いかけられ、答えるのは初めてだった。
「うーんと……屍人がいつ、どこからやってきたのかは知ってる?」
――いつ、どこからやってきたのか?
不思議な質問だと思った。アリスが動揺しつつ首を横に振れば、ユースは僅かに目を丸くした。
「知らないのかい?」
「……どこからって……そこらへんにいますし……」
「知らないんだ」ユースは驚きの溜息を吐いた。「お兄さんも知らなかったのかな。穴のことは知ってる?」
「穴?」
「知らないみたいだね……いいんだ。君が生まれるより前の話だもの。屍人は三十年ほど前に突然現れたんだよ。島の中央に、突然、一つの街を呑み込むくらいの――実際呑み込んだんだっけな、とにかく、それくらい大きな穴が開いてね。その穴を覗き込んでもひたすらに闇が続いてるんだけど、そこから屍人が這い上がってきたんだ……今もそうだ」
島が二つあるのは知ってる? とユースは首を傾げた。アリスはこくりと頷く。
このウェステラ島から西の方角に海を進むと、エイトラ島という、よく似た島がある、らしい。現状では、この世界にはその二つの島しか見つかっていない――と兄が言っていた。
「エイトラ島でも同様のことが起こってね。向こうの穴はもう塞がってるんだけど」
「こっちの穴は塞げないんですか?」
「塞ぐつもりだよ。それに君の力を借りたい」
ユースはそう言いながら、窓に手を伸ばし、それを開けた。風が吹き込んできて、カーテンが膨らむ。吹き込む風が湿っぽいのは、雨が降った後だからなのか、それともこれから降るのか。
「……僕は何をすればいいんですか?」
「予言があってね、」
ユースの返事は、到底、質問への答えには思えなかった。アリスは眉をひそめながらユースを見上げる。彼は窓の外を眺めながら、うわごとのように続けた。
「三十年前、教会に仕える修道士たちに、いきなりお告げがきたんだ。『絶望の穴が穿たれる。混沌に落ちよ』って。修道士以外は誰も信じていなかったんだけど、結果はこんなことになった。それから、もう、十年くらい前の話になるのかな、また予言があったんだ。『神の子を穴に捧げよ。秩序を与えん』ってね。実際、エイトラ島の方では、神の子が穴に飛び込んだら、穴が閉じ、屍人は瞬く間に絶滅したんだって。信じられないけど、事実だ」
「……僕は神の子じゃないです」
首を横に振って否定すれば、どこか焦点の合わない目をしていたユースは、ぱちくりと瞬きし、それから思わずといった様子で笑い声をあげた。彼は腹を抑えながら、右手を軽く振る。
「ごめんごめん、違う、いきなり身投げしろなんて言わない。神の子は誰なのかわかってる、君じゃないよ。でもその子はここにいないんだ。だから、その子を連れてくるのに、君にも協力して欲しい」
「それは別にいいですけど……どうして僕が?」
「君は『旅人』だろ?」
「タビビト?」
確かに兄と旅をしていたが、と思いながら尋ね返せば、ユースは大きく頷いた。
「そう。ずっと探していたんだ。どこにも定住せず、自らの知識だけで外の世界を歩き回れる人物を」
僕らは門の向こうには滅多に出ないから、とユースは言う。
「今までの旅の知識を貸してほしい」
ユースはそう言い、深く頭を下げた。慇懃な態度に恐縮して、アリスは慌て、すぐに頭を上げさせようとしたが、それでも彼は首を垂れたままだった。その真摯な態度にアリスは心を打たれた。
「もちろんです。僕に出来ることなら、何でもお手伝いします」
ぺこりと頭を下げてそう言うと、ユースが安心したように微笑んだ気配があった。
「ありがとう。君は僕らの勇者だ」
「体液」というのも感染ルートの一つになります。
たとえば屍人の血の付いた布に触れてしまっただけでも感染し、個人差はありますが、即日~一週間程度で感染します。かなり特別な個体では、一カ月程度持つ場合もあります。