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25 ブラザー・コンプレックス

 ――まだいるのか。


 起こされ、見張りを交代したエマは溜息を吐く。まだ、それは扉の前からエマを見ていた。眠れば覚めるかと思ったが、この悪夢は終わらないらしい。


 幻覚を見るのが嫌なら、麻薬を止めればいい、とリルベルが言った。けれども、麻薬を吸わなければ、それはすぐに現れるのだ。暴れまわっている時に出会ったことはない。けれども一息つけば、すぐにやってくる。

 目をかっぴらき、じぃと睨み続けてくる。エマはそちらに目を向けず、窓の外だけを見つめていた。雨は止まない。窓が滲む。外の景色は滲んでよくわからない。明日、出発する前には晴れていればいいが。


 そんなことを考えていれば、バッと布をはぐような音がした。咄嗟に振り返れば、キングベットで眠っていたアリスが呆然とした顔で飛び起きたところだった。彼は青白い顔をして、額に玉のような汗を浮かべていた。無表情と僅かな微笑み以外の顔を、初めて見た気がする。


「どうした?」


 好奇心から尋ねれば、彼は驚いた目をこちらに向ける。そして息を整えた後、震える声で言った。


「……あ、悪夢を見た」

「悪夢?」

「兄が……自慢話を永遠としてきて……そんなことする人じゃなかったのに……」

「寝る前にクラウドの自慢話でも聞かされたか」


 そう尋ねると、アリスはこくりと頷いた。奴の自慢話は長い。しかも同じ話をしないところがかえって鬱陶しい。毎度毎度違う話を用意してきては永遠と自慢をしてくる。一度掴まるとなかなか逃げられない。


「せっかく、兄さんと会えたのに」アリスは不満げに言った。「あんな夢だなんて」


 アリスは溜息を吐く。

 ――たかだか夢なのに、とエマは思った。けれども、たかだか幻覚に悩まされているのだから、こちらも同じようなものかもしれない。


「お前はどこまでもブラコンだな」


 馬鹿にして言ってやれば、彼は困ったようにこちらを見る。


「ブラコン……って、何?」

「知らないのか。お前みたいなやつのことを言うんだよ」

「え?」

「ブラザー・コンプレックス。兄弟に異常な愛情がある奴のこと」

「異常な愛情?」


 アリスは瞬きをする。意図を掴めていないようだった。


「異常な愛情って……僕は兄さんに異常な愛情があるの?」

「しらない」


 鬱陶しくなって、エマは吐き捨てた。


「兄さん兄さんうるさいから、馬鹿にしてるんだよ。どうせ、兄さんと一緒だった時も、兄さん兄さんと付きまとって、全部兄さんに任せてたんだろ。死んじゃって、悲しいか? ま、殺したの、私だけどな」


 アリスはムッとしたように口を閉ざす。しかし、その目は憎悪に満ちる、ということもなく、あくまで平然としてエマを見ていた。調子が狂う。


「……ずっと二人で旅人やってきたくせに、まさか、噛まれるとはダサい兄貴だな」

「兄さんを悪く言うな」


 アリスは感情的な発言をする時も、変化するのは声の大きさだけだ。あくまでも淡々と、情報を伝える為だけに声を発する。彼は少しだけ大きな声でそう言い、寝ている人を慮るように、声音を落として続けた。


「……兄さんは僕を庇って噛まれたんだ」

「あぁ、やっぱり。あんたが足を引っ張ったんだ。自分一人じゃ何もできないんだな」

「兄さんは凄い人だ。僕が足を引っ張るのも、仕方ないことだよ。だから、兄さんも、兄さんに従っていれば大丈夫だって、いつも言ってくれたんだ」


 アリスは小さい声で、淡々と続ける。


「だから、僕は自分一人で何も出来なくて良かった――今はそういう訳には、いかなくなってしまったけど。兄さんが、死んでしまったから」


 ふっ、とその虚無に満ちた目が落ちる。彼は自らの手元を見つめながら、ぼーっとしているようだった。また、確かにここにいるはずなのに、その意識がトんでいるような様子になる。どこまでも虚無だ。


「……あんたの兄さんも相当なブラコンだな」

「そうなのかもしれない」


 アリスは虚無のまま、言った。


「僕らは世界に二人きりだったから」


 沈黙が落ちる。

 アリスは布団を握り締めたまま、しばらく動かなかった。


「……どうしてもっと早く特区にこなかったんだ?」


 エマは何となく聞いた。兄が屍人ゾンビに噛まれてしまう前に来ていれば、もっと安全に生活が出来ただろう。エマがアリスの兄を殺すこともなかった。


「兄さんが行こうとしなかったから」

「行こうとしなかった?」

「うん」

「何で?」

「知らない」

「疑問に思わなかったのか?」

「うん。兄さんは賢いから。僕が聞いても理解できないことを、たくさん考えてるもの」

「お前は、特区に行きたいと思わなかったのか」

「兄さんがいれば、それでよかったから」


 ――依存だ。


 エマが麻薬に依存しているように、アリスは兄に依存している。そして、その兄を失った。そんなことを思いながら、エマはその兄についても考えていた。


 特区の前でエマが二人を見つけた時、すでに兵士によって追い払われ、去ろうとしているところだった。ユースが、弟だけでも引き込みたい、と言うので、彼の命令通りに兄を殺したが、正直、エマは二人が去ろうとしていることに驚いていた。

 噛まれたのなら、兄は遅かれ早かれ感染し、屍人ゾンビになる。

 そんな状態で、弟と共に行動すれば、いずれは弟を食い殺してしまうではないか。弟愛のある兄ならば、弟だけでも特区に残そうとするだろう。


「……兄さんもね、」


 エマの考えを察さないまま、アリスは僅かに微笑んで言った。


「僕がいればそれでいい、ってよく言ってくれたんだ」


 エマは背筋がぞっとするのを感じた。


 ――兄さんがいれば、それでよかった。


 アリスがそう言うのは、きっと、世界に兄しかいなかったからだ。


 ――弟がいればそれでいい。


 アリスの兄は本気だった。だから、世界を二人きりにした(・・・・・・・・・・)

 エマはそこまで考えて、ゴン、と自らの頭を窓に打ち付けた。


「まぁ、どうでもいいけど……」


 はぁ、と溜息を吐けば、窓が曇る。よくよく考えれば、そういう兄弟愛の在り方が異常なのかどうか、エマにはわからないのだ。愛してくれる家族など、普通を教えてくれる家族など、エマにはいなかったのだから。


 まだ、扉の前で、殺したはずの母親がエマを見ていた。


短めで済みません。

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