23 屍人釣り
ジャックは窓を開け、ひょいと下を覗き込み、ひええ、とわざとらしい声を上げた。
「暴れまわったせいで、下も屍人の群れだぜ、うじゃうじゃいやがる」
「扉が開かなくても逃げ場所がなくて餓死だな」
エマは笑いながらそう言い、空いている椅子に座る。朽ち果てていた椅子は大きく軋み、僅かに沈み込んだ。
「そんな冗談言ってる場合じゃないでしょ!」
怒ったのはやはり、リルベルだった。彼女は一つに縛った緑髪を振り回すように部屋の中を駆けて横切り、アリスの傍へ行く。
「何か良い案ない?」
「結局他人頼りじゃん」
「あんたも考えなさい!」
エマは口を挟めば、リルベルはそれを冷静に叱咤する。エマは肩を竦め、椅子から降りると、ジャックの傍へ行った。
「どいて」
言いながらその背中を押せば、何故か優雅に階下の景色を見ていたジャックはびくっと身体を竦ませ、飛び退ってエマと距離を取った。
「突き落とす気か! あと触るな!」
「注文が多い。……ここに排水管がある。それを昇る」
建物には大概、屋根や屋上に溜まった水を吐き出す為の管がある。それがなければ、特に屋上がある建物の場合は、屋上に溜まった水が勢いよく流れ出してしまうからだ。その排水管を壁に設置する為の道具、それが上へ昇る足場代わりになる。
「あぁ……子供の頃、よく昇ったわ」
はは、と乾いた笑いをリルベルが上げる。
エマだってもっと幼かった頃に同じようなことをした経験がある。もちろん、排水管の留め具は人間が昇るように作られているわけではない。身軽なエマでも何度か地面に落とされたし、さらには力を入れて留め具を握ると、たちまち壊れてしまったりした。
落ちた先がただの地面なら痛いだけで済むが、今は屍人の海だ。一つの間違いが、人生の終わりに繋がる。
リルベルも同じことを思っているようで、彼女の笑い声には渋っている調子が混ざっていた。けれども、エマの狙いは、彼女に排水管を昇らせることではない。
「じゃあ先行くぜ」
こういう時に真っ先に動くのはロバートだ。命知らずの彼は、抵抗もなくひょいと窓枠に昇ると、隣の排水管に足を伸ばす。そして金具に足を乗せると、そのまま上へ昇って行った。
「やだ、もう、排水管は昇る為じゃなくて流す為にあるのよ、落ちたら屍人に食われて終わりじゃないの」
リルベルが頭を抱えながら言った。それを聞きながら、エマは平然と言う。
「私たちは昇る必要ないよ。一番最初に上がった奴に、ロープ垂らして貰ったらいいんだから」
そう言えば、リルベルは緑の目を丸くし、それからキッとエマを睨んだ。
「それをわかってて、何も言わずにロバートを行かせたのね」
「悪いか?」
「良い案だわ」
溜息を吐きながら、リルベルは肩を竦める。隣でアリスが目を白黒させていた。
「ま、後はあいつが変にならなきゃいいが……」
クラウドが細い指をこめかみの横でくるくると回す。
それを見ながら、ジャックが窓の外に顔を出した。
「おい、ロープ下ろしてくれ!」
ジャックはそう言いながら、窓の縁から片足だけを出す。左半身を外に出し、ジャックは屋上を覗き込むようにして、ややあってから首を傾げた。
「ロバート!」
「ちゃんと昇れたの?」
リルベルが心配そうに尋ねる。ジャックは頷いた。
「あぁ、落ちてはねぇみたいだ。屋上に昇ったと思うんだが……ロバート!」
返事がない。
「ロバート!」
もう一度、ジャックが叫ぶが、また、返事がない。しばらく待って、ジャックは舌打ちした。
「何か聞こえるか? リル」
いきなり呼ばれ、リルベルは驚いたようにパッと目を丸くしたが、犬のように素直に窓際に駆け寄ると、そっと耳をすませた。その顔が歪む。
「……駄目、多分、幻覚見てる」
「何て言ってる」
「誰かと話してるみたいよ。一体屋上に誰がいるっていうのかしらね」
リルベルは吐き捨てるように言い、何気なく視線を下に落として、反射的に窓際から身を離した。
「誰か上に行って……悪いけど、私は途中で失神して落ちそう」
「じゃ、俺が行くさ」
笑いながらジャックが言う。思わず、といった様子でリルベルが心配そうな顔をした。しかし、すぐにその目が真剣なものに変わる。
「頼んだわ。ついでにロバート殴っておいて」
「了解」
ジャックは窓際に立つと、ほとんど飛び移るようにして排水管へ移動した。しばらく待っていれば、上からロープが垂れてくる。窓の近くにいたリルベルがそれを掴んだ。
「とっとと上がれ、あんまり遅いとあっちが開く」
クラウドが一階に続く扉を睨みながら言う。あの扉の向こうには、屍人の大群が押し寄せてきているのだ。扉を叩く音は収まらない。
リルベルが頷き、するすると上手く昇っていく。その次にアリスが昇った。彼が昇り終え、垂れてきたロープを見て、エマとクラウドは顔を見合わせる――その時、ドンドンドン、と一層強い音で扉が叩かれた。ハッとして二人が振り返った途端、大きな破壊音がして、扉が開いた。しかし、バリケードをしていた事務デスクに引っ掛かり、それは隙間を開けるに留まる。その隙間から、緑色や紫色をした屍人の腕が幾本も伸びていた。押し合いになった挙句、屍人に押しつぶされて死んだらしい屍人の体液がだらだらと扉の隙間から流れ込んできている。さらに強烈な死臭が部屋に漂った。
「エマ、早く昇れー―」
「お前が先に行け」
エマが蹴飛ばせば、クラウドは落ちそうな勢いで窓から半身を乗り出した。馬鹿野郎、というジャックの叱咤が上から響く。クラウドはその勢いでロープを掴み、自分の力で、というよりも、引き上げられて消えていった。
エマは窓枠に腰かけ、拳銃を構えつつ、ロープを待つ。
ガタン! と音を立て、事務デスクが破壊された。わっ、と屍人が流れ込んでくる。
エマは発砲する。前方の五体を狙い――二体の頭を打ち抜いた。残りの三体は微妙にずれ、後ろの二体が流れ弾を食らって沈む。エマは銃口を下げると、生き抜いた二体の足元を狙う。足を撃たれ、その二体も沈んだ。倒れた屍人に足を取られ、他の屍人も倒れたり、詰まったりしている。エマがホルスターに拳銃を戻す、と同時にロープが降りてきた。それを掴み、空中に身を投げ出す。
「上がってこい!」
ロープの先は屋上の柵に結び付けられており、さらにジャックがそのロープを引っ張ってくれている。エマも自らの力で壁を蹴り、ロープを昇っていく。
屋上の縁を右手が掴んだ。左手でロープを引き、右手で這い上がる。片膝を縁に乗せた時――
「うああああああああ!」
ロバートが悲鳴を上げた。
その恐怖に見開かれた目が、エマを見ている。いや、エマの方向を見ているものの、何か違うものを見ているらしい。
「ばっ、ばけもの……」
そう叫びながら、ロバートは拳銃を引き抜いた。
「馬鹿ッ」
誰がそう叫んだのだったか。制止虚しく、ロバートはエマの方に銃口を向けて引き金を引いた。エマは咄嗟に空中に身を投げ出し、ロープにしがみ付く。ずるずるずる、と手の内でロープが滑る。摩擦熱で手のひらが熱い。と同時にぞわぞわと腹の底から恐怖が沸き起こる。
「――後で殺す」
エマがロバートへの殺意を確信した時、ぐっ、と下に沈み込む感覚を覚えた。ハッとして下を見れば、二階の窓から身を乗り出した屍人が、エマの足首を掴んでいる。
「ちょっと待て……!」
ずるずる、とまた身体が沈む。足首を引き寄せた屍人は、そこに噛みつこうとした。エマは逆の足でその屍人の頭を蹴飛ばす――その屍人は足首から手を離す。ほっとしたのもつかの間、今度は蹴った方の足を、別の屍人が掴む。窓からは何体もの屍人が手を伸ばし、エマを食おうと必死になっていた。
――まるで、飢えた魚の群れの中に落とされた餌だ。
エマは悲鳴さえ上げなかったものの、今までにない絶体絶命を感じていた。
その瞬間、ぷつん、とロープが切れた。
「へ」
自分でも驚くほど、情けない声が漏れる。一瞬だけ空中に浮いた後、エマは落ちた。エマの足首を掴んでいた屍人も、そのままずるりと窓の外に連れ出され、一緒に落ちる。
尻餅を着いた。痛すぎてもんどりを打つ。けれどもたかだが一、二メートルの高さから落ちただけだ。大したことはない。エマの横に落ちた屍人は、頭から落ちたおかげで、ちょうどよく頭が潰れてしまったらしい。エマは飛ぶように立ちあがる――そして、久々に絶望した。
「やっば……」
何故か、笑いが漏れた。
エマの後ろには壁しかない。エマの前には、腕を伸ばせば届く距離から、ずっと先まで、隙間なく屍人がおしよせている。どこまでも先まで、屍人がいる。数十の屍人が幾重にもなって、エマ一人を囲んでいる。
――これは死んだ。
エマはそう確信した。




