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22 袋の鼠?

 気持ち悪い男――アリスへの印象はその一言に尽きた。気味の悪い感覚が胸に起こる度、エマは舌打ちをしてしまう。


 門の前に再集合した時、エマは正直、わくわくしていた。

 アリスはどんな顔で現れるのだろう? どんな罵声を吐いてやろう?

 ――しかし、門にやってきたアリスは平然とした顔をしていた。


「大好きな兄の仇に利用されて可哀想に」


 エマが吐き捨てるように言っても、アリスは眉一つ動かさなかった。ただ、無表情で答えた。


「正義の為だから」


 ――気持ち悪い。


 正義の為、とほざくくせに、その目に正義の光など微塵もない。正義などというものの持つ特有の熱に、エマは敏感だった。しかし、アリスの目はどこまでも虚無で、正義を語る人間のものとは思えない。まるで機械のようだった。



「エマ、昨日から舌打ちしすぎじゃない?」


 二日目。この間、アリスが駆け戻った地点を越え、さらに歩いていた時、後ろにいたリルベルが怪訝そうに言った。


「禁断症状でも出てるの? いい加減、麻薬止めなさいよ」


 こいつはうるさい。非常にうるさい。口うるさい。何様のつもりなのか、次から次へと注意をしてくる。こういう常識に囚われた人間がどうしてで自分たちと行動を共にしているのだろう。特区の中でのうのうと暮らしているのがお似合いだ。返事の代わりに溜息を吐けば、彼女はエマの心中を察したように顔色を曇らせる。


「あたしは当たり前のことを言ってるだけよ。それは特区の中と外で変わる訳じゃないでしょ」

「なら屍人ゾンビにも教えてやれよ。人を噛むな、当たり前だろって」

「あなたの為を思って言ってるのよ。屍人ゾンビなんかどうでもいい」


 リルベルが口を尖らせた。あなたの為……エマはその言葉が嫌いだ。そういう人間は大抵、自分の事しか考えていない。


「麻薬をやってる奴と一緒にいるのは怖いか? 同感だよ」


 吐き捨てるように言えば、ガツン、と殴られた。ぎろりと睨めば、隣を歩いていたジャックがもう一発、軽く頭を殴ってくる。


「次、殴ったら殺す」


 むき出しの殺意を向ければ、ジャックは手を引っ込める。しかしその様子が赤子をあやすように見えて、エマはさらに苛立ちを感じた。舌打ちすれば、ジャックは溜息を吐く。


「仲間が麻薬漬けなのを心配してくれてるんだよ、リルベルは」

「心配? 自分に危害が及ぶのが怖いっていう心配だろ」

「そうだな」


 ジャックが頷く。エマはやっぱり、と思った。リルベルが反射的に何か言おうとしたが、彼女が反論する前に、ジャックが穏やかな声で言った。


「仲間が麻薬で破滅したら、悲しいからな。悲しいっつーことは、心が傷つくってことだ。お前が破滅したら、リルベルの心が傷つくんだよ。リルベルはそれが怖いんだ」

「何でリルベルが傷つくんだ?」


 エマは思わず素直に問い返してしまい、そんな自分に嫌気が差した。素を見せるのは嫌いだった。ジャックが笑う。


「お前はほんとに、優しさを知らねぇなァ……」

「は?」


 殺すぞ、とエマはジャックを睨む。彼は肩を竦め、少しだけエマと距離を取る。前方を歩いていたクラウドが、切れ長の黒目をこちらに向けた。


「馬鹿だな。俺様が愛を教えてやろうか?」

「へぇ、面白いな。お返しにお前の頭と胴体を二つに切り分けてやる」

「エマ、そういうことを言わないの」


 リルベルが溜息交じりに叱咤した。

 クラウドの横をのそのそと歩いているロバートが、焦点のちゃんとあった目で振り返る。


「いや、そこは色男の俺が教えてやろう」

「二人とも殺す」


 エマが睨めば、二人ともそろって前方を向いた。からかわれていることに、エマは気付いていない。苛立ちを抱いたまま、横を歩くアリスを何となく見た。

 そして、また気持ち悪さを感じた。


 アリスはどこまでも無表情だ。会話が聞こえているのか、いないのか、定かでないほど、無であった。この表情を、エマは知っている。麻薬をやって、トんでいる時の顔。この世から精神が吹っ飛び、別次元にいっている時の顔。しかし、アリスはちゃんとここにいるのだ。


 試しにその足を踏んでみれば、アリスはぎょっと少しだけ目を見開き、エマを見た。


「どうしたの」


 驚いたように見えるくせに、声は淡々としている。エマは答えずに歩いた。アリスはそれ以上追及せず、また無表情になった。



 問題が起きたのは、四日目だった。


 たまに現れる屍人ゾンビを難なく撃破しながら歩いていた。そんな一行の前に現れたのは、大きな街だった。迂回しようにも、どこまでもその街は続いている。街には屍人ゾンビが多い。まだ門をくぐってさえもいないのに、ウーウーという声が聞こえていた。


 街はぐるりと外壁で覆われているようだった。しかし、それは南部特区のものよりも低い。一番難点なのが、門に扉がないところだった。アーチ状に開かれていて、誰でも通り抜けられるようになっている。普段は兵士がそこを守り、夜になれば鉄格子を下ろしたのだろうが、そんな警備ではゾンビに押し入られてしまう。現に、門は開けっ放しで、あちこちに血液や屍人ゾンビの液が飛び散っている。あれが頑丈な扉で、穴から屍人ゾンビが現れると同時に閉め切られていれば、もしかしたら、南部特区のように自治組織として存続できたかもしれない。


「誰か人がいるかな」


 リルベルが囁きながら、木々の隙間からその門を睨む。


「どうする? 街の中を進む? 屍人ゾンビはいそうだけど……」

「迂回するには広すぎる街だから、直進しよう」


 いつもそうしている、と言わんばかりの口調でアリスが言う。いつもそうしているのなら、否定するほどの材料をこちらは持ち合わせていない。エマは頷いた。

 アリスを先頭に、森を抜け出し、街の前へ行く。門の影に隠れながら、その向こうを覗いてみて、思わずげっそりした。

 そこもかしこも屍人ゾンビだらけだ。煉瓦の古い町並みが続いているが、道端には頭を食われて屍人ゾンビになれなかった死体があちこちに落ちているし、建物の間を動き回るように、屍人ゾンビが徘徊している。腐った死体をぐちゃぐちゃと食べている奴もいる。虫がそこら中を飛び回っていて、死臭に満ちていた。


 リルベルがスカーフごと口を抑え、顔を青くする。


「訂正。……人なんかいないわね」

「どうする? これ突破するのか?」


 ジャックが半ば笑いながら尋ねる。アリスは首を傾げた。


「まあ、街なんかどこもこんなものだよ」

「まじかよ」


 クラウドが吐き捨てるように言った。


「美しくない」

「お前よりはずっと見栄えが良い」


 ロバートが減らず口を叩く。今日は調子がいいらしい。


「同感だ」


 エマも頷いた。クラウドは信じられないものを見る目でこちらを振り返る。エマはその目を無視した。


「もうすぐ雨が降りそうだ」


 アリスが曇ってきた空を見上げながら言う。そろそろ日が暮れるが、あまりにも雲が多いため、すでに周囲は薄暗くなり始めていた。


「この街で一晩明かそうか。明日には雨もやむと思う」


 あっさりとアリスがそう言うので、残りは顔を見合わせた。大抵のことをやってきたエマでさえ、驚いた。


「こんなに屍人ゾンビがいる街で、寝れるの?」


 リルベルがおずおずと尋ねる。アリスは頷いた。


「うん。屋根があるから、雨が防げるしいいよ。安全そうな建物を探そう」


 ――何度も外に出て、屍人ゾンビを倒してきたとはいえ、知っている道をひたすら行き来してきたエマたちと、知らない道を切り開いて生きてきた旅人たちとの違いを、思い知った気分だった。


 『勇者御一行』なら、あそこで死んでなくても、ここで死んでたな、とエマは思った。


「いつもは兄と二人だから、いくら屍人ゾンビが多くても身を隠しながら進めるんだけど……」


 アリスはそこまで言って、口を閉じた。しばらく待ったが、それきり何も言わない。ちらと目をやれば、彼は無表情のまま、門を見ていた。


「それで? 今回は愛しのお兄さんと二人きっりって訳じゃないけど、どうするんだ」


 わざわざ先を促してやると、彼はそのまま瞳だけ動かしてこちらを見る。


「どうすればいいと思う?」

「は?」

「君は、どう思う?」


 ――丸投げか。エマは閉口した。アリスはもう自分で考えようとしていないのがわかった。それをおかしいとも感じていないらしい


「屋根伝いに進むっていうのはどう?」


 ややあって、リルベルが提案した。

 悪い案ではない。屍人ゾンビは縦の移動に弱い。歩いたり走ったりするのは、とりあえず足を前にだせば出来る。けれども、昇ったり下ったりするのは――階段を使う場合を除けば――頭を使って手足を動かさねばならない。梯子を昇る事すら、奴らには難題なのだ。


「賛成」


 エマは頷いた。反対する者は誰もいなかった。


「とりあえず、手頃な建物の中に入って、屋上へ出るか」

「じゃあ、行くぜ」


 ジャックがライフルを握り、門をくぐる。そのすぐ後をエマは続いた。


 屍人ゾンビたちが闖入者に気付くのは早かった。徘徊していた者、死体を漁っていた者、ぼんやり立っていた者、全ての屍人ゾンビがこちらに気付き、ウーウーと唸り声を上げる。

 ジャックがひゅうと口笛を上げ、腰の位置にライフルを構えて、滅茶苦茶に前方に弾を撃つ。少なくとも前の方にいた屍人ゾンビたちはみるみるうちに蜂の巣になった。


 門からは大通りが伸びており、どこまで視線を伸ばしても一本道が続く。建物の間に脇道があるのだろうが、そこからも屍人ゾンビがいくらでも現れる。大通りの両脇には二、三階立ての大通りの建物が続いている。屋根の上、あるいは屋上に出れそうで、かつ屍人ゾンビが少なそうな建物はないか、エマは視線を巡らせながら、クラウドのすぐ後ろを駆けた。


「――ジャックの右隣の家、から、七つ奥の建物! 家じゃなくて事務所っぽい、屋上があるわ!」


 背後でリルベルが叫ぶ――リルベルは異常に五感が鋭い。


「いよっしゃ、じゃあ、そこ目指すぜ」


 ジャックが振り返りもせずに叫び返し、さらにライフルを乱射する。

 

 なかなかに地獄絵図だった。

 あちこちに蠢いている屍人ゾンビをジャックがライフルで蹴散らして進み、道を切り開く。脇からのそのそと近づいてきて手を伸ばしてくる屍人ゾンビを、クラウドとロバート、リルベルが拳銃で撃ち飛ばす。彼らに挟まれ、援護されながら、エマとアリスは走る。


 蹴散らしても蹴散らしてもどんどん前方に屍人ゾンビは集まってくる。前にいる屍人ゾンビが大通りにいっぱい、七体広がった。その後ろにもぽつぽつと屍人ゾンビがいる。ジャックによる激しい弾幕で、中央から四体倒れる。けれども左端に一体、右端に二体、倒れずに残った。ジャックは倒れた四体を飛び越えながら、両脇の屍人ゾンビの間を擦り抜け、前方に駆け抜ける。背後からの銃声は鳴りやまないが、前の三体は倒れない。後ろの三人も別の屍人ゾンビにかかりきりになっているのだろう。


 エマの目の前に二体、屍人ゾンビが飛び出してくる。走るのを止めるわけにはいかない。切り込み隊長であるジャックと距離が開いてしまえば、エマたちは全方位を屍人ゾンビに囲まれ、消耗戦を強いられる。エマたちを囲んでいる屍人ゾンビに対して、ジャックはライフルを乱射するわけにはいかない。とはいえ、目の前の二体を避けるわけにもいかない。避けるのはエマにとって、赤子の手を捻るほど簡単なことだ。けれども、そうすれば、後ろを走るリルベルが標的になる。リルベル(狙撃手)が噛まれるのは、相当な痛手だ。


 ――だから、選択肢は一つ。

 二体とも、走るのを止めないで、殺す。

 エマは懐から二つの短剣を取り出す。それを両手で握りながら、逆を走るアリスに叫んだ。アリスの目の前にも一体、ゾンビが飛びだしている。


「アリス、殺せ!」


 エマは叫びながら、地面を強く蹴る。


 まずは一体目。近くにいた屍人ゾンビの横をすり抜けながら、その額を横半分に切り分けるように刃を振る。屍人ゾンビは身体が腐っていて、バターのようによく切れる。するりと気持ちよく刃が通り、屍人ゾンビの頭が真っ二つになる――頃にはそいつの隣を通り過ぎていた。


 次に二体目。それは目の前にいて、あと一歩、踏み出せば抱きしめ合える距離だった。向こうはそうしたいのか、がばっと両腕を差し伸べてくる。もちろん、ご免だ。エマは高く飛び上がってそれを避けた。そのまま両足を揃え、屍人ゾンビの顔を飛び蹴る。そのまま地面に蹴倒して、頭を踏み潰した。ぴょんと飛び上がって地面に着地し直すと共に駆け出し、エマはまた最高速度へと戻る。


 横目でアリスを見た――横にはいない。顔を向けて斜め後ろを見れば、アリスはちゃんと走っていた。その後ろに頭が潰れた屍人ゾンビが倒れている。上手くやったらしい。


「飛び込むぞ!」


 目標の建物に近づき、ジャックはぐんと速度を上げた。彼がライフルを撃ち放つのに合わせ、あちこちで花火のように体液が噴き出す。建物の一階はガラス扉で、その目の前に屍人ゾンビが一体、立っている。と、エマが認識した途端、それが頭を飛散させてその場で硬直した。血液や目玉が後ろのガラス戸にべったりと吐く。


「おらよッ!」


 ジャックは荒っぽい声を上げながら、屍人ゾンビごとガラス扉を蹴破る。ガッシャンと大きな音を立て、一発でガラスが砕け散る。ジャックはそこに飛び込み、エマたちも後に続いた。


 幸いにも、すぐそこに階段があり、一階には屍人ゾンビの姿がない。ジャックが階段を駆け上がる。エマはアリスの背中を突き飛ばし、先に階段に向かわせた。彼がおろおろしながら階段を駆け上がり、その一段後ろをエマが続く。そのさらに後ろにクラウドが続いた。背後から銃声が続く。破れたガラス扉から次々に屍人ゾンビが入ってきているのだろう。


 もし、この建物に屋上への扉がなかったらどうするんだろう。

 袋の鼠だ。エマは場違いに笑う。


 ――結果としてその予感は当たらずとも遠からず、であった。


 二階に駆け上がったジャックが、ライフルを連続で撃ち放つ音がする。二階にはゾンビがいたのだろう。二階に飛び込めば、そこは広い一室だった。何かの事務所だったのだろうか。灰色に汚れた床の上に、埃を被った事務デスクが何群かに分かれて置かれていた。働く人間の代わりに、頭を失った屍人ゾンビたちがあちこちで倒れている。


「屋上への階段はどこ!?」


 しんがりで飛び込んできたリルベルが、後ろ手で扉を閉めながら言った。すぐさま、近くにいたロバートがその扉を抑え込む。扉の向こうからウーウーという唸り声が聞こえてくる。どん、どんと扉が揺れた。それほど頑丈そうには見えない。


「あれか」


 クラウドが一番に気付き、部屋の端にある扉に飛びつく。しかし、ドアノブは回っているが、開かない。クラウドが体当たりすると、老朽化していたのか、壊れるようにして扉が開く。だが、少しだけしか隙間は生まれなかった。


「あぁん?」クラウドが荒っぽく舌打ちする。「バリケードしてやがる。こりゃ開かねぇぜ」

「嘘だろ」


 ジャックが駆け寄り、扉の向こうを見て、思わずと言った様に額を抑えた。


「カミリエ……」


 ――やばい、とエマは思った。ジャックが「カミリエ」と囁く時は――それは彼の信仰する神の愛称なのだが――絶体絶命の場合だ。


「どうなってるんだ、見せろ」


 エマは叫ぶように言いながら、クラウドを押しのけて扉の向こうを見た。扉の先には、部屋の中にあったものと同じ事務デスクや椅子が滅茶苦茶に重ねられている。これでは扉を開けることが出来ない。ふと、エマはその奥に倒れた人を見つけた。酷く痩せこけた、髪の長い女が、うつ伏せに倒れている。その手は椅子を掴んでいて、彼女の後ろにも机や椅子が並んでいた。さらにその上を覗き込めば、階段の先に、開けっ放しの扉が見え、くすんだ空が見える。


「上に屍人ゾンビはいないらしい」エマは言った。「屋上に立てこもったはいいものの、餓死した女がいる」

「それは結構」


 バン、と扉を閉め、クラウドが真っ青な顔をして言った。


「どうやって屋上へ行くんだ」

「何とかしないとやべぇぞ! こっちの扉が開いちまう!」


 ロバートが叫ぶ。エマたちが屋上への扉を見て騒いでいる間に、一階へ続く扉の前には一つの事務デスクが置かれていた。しかし、それは激しく揺れており、何かの拍子に扉が開いてしまいそうだった。


ちょっと長めでした。読んでくださり、ありがとうございます!

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