20 歪
アリスは特区の門まで戻ってきた。途中で二体の屍人を殺した。
太陽が上がる前から駆けだして、門に辿り着いたのはそれが今にも沈もうとしている頃だった。走り続けた心臓は高鳴り続けている。躓いた拍子に口から吐き出してしまいそうだった。それでもアリスの頭の中は怒りに満ちていた。
門の前で立っていた兵士たちが驚いたようにアリスを見る。
「君、もしかしてまた全滅を――」
「ユースはどこにいる?」
兵士の質問を遮り、アリスは尋ねる。彼はアリスの勢いに気圧されるように、もごもごと答えた。
「ユースティア殿なら、特区庁におられると思いますが……」
「それはどこに?」
「特区の一番奥ですが……」
「わかった。門を開けて欲しい」
アリスの言葉に従い、兵士は門を開けてくれた。少し隙間が出来た途端、アリスはその間に身を滑らせる。
「あっ、戻ってきたのなら感染検査を……!」
兵士の叫び声が聞こえる。けれども、アリスは無視して駆けだした。
門を抜ければ、すぐに煉瓦の街並みが続く。大通りを駆け抜けるアリスを、道行く人が悲鳴を上げながら避けてくれる。アリスの革ジャケットにはべったりと屍人の血が付いていた。外から戻ってきた者だと、誰が見ても一目瞭然だ。
――ふと、目の前に兵士が見えた。全身に鎧を着けた兵士が三人、大通りを進むアリスの行く手を遮るように立っている。
「待ちたまえ! 門より連絡があった、違反行動により処罰を――」
アリスは走るのを止めない。兵士たちは何事かを叫びながら両手を広げ、三人でアリスを捉えに掛かった。アリスは地面を蹴り、飛び上がる。その目は兵士ではなく、その先に向けられている。アリスは高く飛び、真ん中の兵士の兜の上に飛び乗ると、それを蹴るようにしてさらに前に跳躍した。右足で飛び降りると共に地面を蹴って、左足をさらに前へと伸ばす。一切速度を落とすことがないまま、アリスは兵士の包囲を抜けて駆けていた。
そのまま駆けていくと、潮の匂いが鼻をくすぐった。先の方に、煉瓦建ての、大きな建物が見える。その前には小さな門があり、閉じていた。その門の横に、『特区庁』と書かれた石板が貼られている。
アリスは駆け抜けて、兵士を飛び越えたように、その門も飛び越えた。向こう側に着地した途端、激しい警告音が鳴り響く。それでもアリスは駆ける。
手入れされた樹木の並ぶ庭を抜ければ、薄茶色の煉瓦壁と灰色の屋根をした建物が目の前に現れる。他の建物とは比べ物にならないほど豪奢な作りであり、また、古い建物でもあった。白い窓枠にヒビが入っている。
正面の扉はアーチ型をしていて、重そうな銅色の扉が付いている。アリスは体当たりをするように扉を開けた。中に転がり込めば、玄関口にいた人々が悲鳴を上げて右往左往した。
入ったすぐそこにカウンターがあり、電話口の前に若い女性が座っていた。彼女は真っ青な顔をしてアリスを見ている。
「――ユースはどこにいる?」
「ユ、ユースティア様ですか」
彼女は震えながら、電話のボタンを押し、受話器を手に取った。それを耳に押し当てながら、その目があちこちへ泳いでいる。未だに警告音が鳴り響き続けている。アリスはうるさいな、と至極冷静な感想を抱いていた。
「あ……ユースティア様、あの、少年が……」
電話が繋がったらしく、彼女は震えながら説明しようとする。しかし、彼女が言い終わらないうちに返答があったらしく、その目が困惑の色に満ち、アリスを見た。受話器が下ろされる。
「に、二階に居られます、お上がりください」
アリスは頷き、すぐ隣にあった階段に向かった。階段にはわざわざ赤い絨毯のようなものが敷かれていて、踏み込んでも足音がしない。
アリスが二階まで駆け上がると、真っ先に目に飛び込んできたのはステンドグラスだった。色とりどりに輝きながら、長い金髪を持った美しい聖女が祈りを捧げている。アリスがその目の前で立ち止まると、声がした。
「やぁ、どうしたんだい?」
アリスは振り返る。右の廊下を進んだ先に、ユースが立っていた。いつも通りの、優しそうな笑顔を浮かべ、アリスを見ている。
「とりあえず、部屋においで」
ユースはにこりと笑みを深めると、踵を返し、アリスに背中を向けた。そこまで無防備にされると、アリスの怒りも少しだけ引っ込んだ。アリスは不思議に思いながら、その後に続く。ユースは突き当りの扉を開けると、アリスを招くように、扉を開けたまま中へ入った。その部屋には、真ん中に一人用の大きなデスクと上質なチェアが、その背に大きな窓があり、両脇の壁を本棚が覆っていた。ユースの為の、副長室だろう。
アリスは扉を閉め、ユースを睨む。ユースは溜息を吐きながら、窓を背にし、チェアに座った。
「座りなよ」
ユースはソファーにアリスをすすめる。けれどもアリスは動かなかった。
「……兄を殺せと命令したのは、あなたなんですか」
アリスは尋ねた。窓から差し込んだ夕陽が、ユースの顔に影を落とす。
「……それは誰が言ったの?」
声は明るい。動揺した様子もない。
「エマが」
答えれば、ユースは笑った。
「そうか、彼女がね。それは意外だったな」
――否定しないのか、とアリスは思った。
「それで? だからここまで帰ってきたの?」
「……ジルたちと一緒に外に出た時、エマたちもついてきてたと聞いた。ジルたちが死ぬのを見捨てた上に、リュートを殺したんだ――あなたはもとより彼らを死なせるつもりだったんでしょう」
一度声を上げれば、次々に言葉が溢れる。
「おかしいと思ったんだ。優秀だ、勇者だと騒がれる割に、彼らは無謀なところが多かった。経験も浅かったし、明らかに未熟だった。あれが普通なのかと思ったけど、エマたちは明らかにもっと外に慣れていた。いくら正規の訓練を受けていないとはいえ、彼らの存在を知ってるのに、使わないのはおかしい。あなたはジルたちをわざと殺したんだ」
ユースは何も言わない。顔は逆光で黒に塗りつぶされている。彼は今、一体どんな顔をして、アリスの言葉を聞いているのか。
「――正義の為だと言って、真逆のことに僕を利用したんだ!」
アリスは叫ぶように言った――兄との約束を破る羽目になった。正義だと信じていたのに、まさか、利用されていたとは。許せなかった。
ややあって、ユースは溜息を吐いた。
「……君は正義を何だと思う?」
まさかそんなことを聞かれるとは思わず、アリスは咄嗟には答えられなかった。
ユースは両肘をデスクにつき、その手を顔の前で組みながら、言葉を続ける。
「誰も死なせないこと、誰も傷つけないこと……平和を目指すことだって、正義だろうね。でも、平和を目指すのと、平和的に生きるのは違うと思わないかい?」
ユースが僅かに微笑んだのが、気配で分かった。
「平和じゃない世界で、平和的に生きようとしたって、弱者が零れ落ちてゆくだけなんだよ」
だから、と彼は続ける。
「僕は平和な世界を目指す――例えその手段が平和的じゃなくてもね」
夕陽が雲に隠れたのか、彼の背後から差し込む光が急に暗くなった。それと相対して、彼の顔が浮かび上がる。彼は満面の笑みを浮かべていた。アリスがその表情に本能的な恐怖を感じた瞬間、後ろの扉が開かれた。アリスは反射的に振り返り、驚いた。
そこに立っていたのは、ミーシャと、彼女の首元にナイフを突きつけている、ヴェロニカの姿だった。
ヴェロニカに優しく肩を抱かれ、しかし、逆の手で鋭利な刃物を突き付けられているミーシャは顔を真っ青にしている。その唇までも紫になっており、本気で怯えているのがよくわかった。恐々とヴェロニカを見上げていた、その大きな瞳がアリスを見つけて、さらに大きく見開かれる。
「あなたは……」
「ミーシャ」
アリスが名前を呼ぶと、ミーシャは顔をくしゃくしゃにして、涙をこぼした。
「これ、どういうことなの? 私、何をしたの?」
「あぁん、泣かないで、可愛い子」
ヴェロニカがくすくすと微笑みながら、さらにミーシャを強く抱きしめる。ミーシャは目を白黒させながら、さらに血の気を失った。
「アリス、今すぐエマたちと合流して、『神の子』をここまで連れておいで」
ユースの言葉は優しかった――しかし、その声は低かった。脅しの色が含まれていることに、アリスは気付いた。
ヴェロニカが美しい顔に妖艶な笑みを浮かべて、ミーシャの頬を撫でる。ミーシャは驚いて、か細い悲鳴を上げた。
「……そうしないと、その可愛い子がどうなるかわかるね?」
ユースの微笑みはいつも通りで、アリスは嫌でも、それが作り笑いだったのだと気付く。ずっと作り笑いを見せられていたのだ。ユースはアリスの兄を、ジルたちを殺しながら、悲しげな顔を作り、同情の言葉を吐き、巧みにアリスを誘導したのだ。
「……わかった」
アリスは頷いた。
――ミーシャを救う為に動くのなら、それは、きっと正義だ。
アリスはそう考えた。それならば、兄との約束を破ったことにならない。きっと兄も許してくれるだろう。
アリスがあっさりと頷いたことに対し、何故かユースは驚いたようだった。片眉を跳ね上げ、それから片方の口角を吊り上げた。ずっと性格の悪そうな笑みに見えたが、それが本当の笑い方なのかもしれない。
「君は……一体何を考えてるんだい?」
「え?」
「いや、何でもない。ヴェロニカ、彼女を例の部屋に連れていけ。『神の子』を連れて戻ってくるまで、こちらで預かっているよ。なるべく早く戻っておいで」
「アリス」
ヴェロニカに連れて行かれそうになりながら、ミーシャが呼びかける。彼女は何かを言おうとしたが、言葉を見つけきれない様子で、そのままヴェロニカに連れて行かれてしまった。
ミーシャとは、一度会っただけだ。けれども、そんな彼女を救う為、危機に身を投じるということにアリスは少しの違和感も抱いていなかった。違和感を抱いていないことを、おかしいとすら思わない。
それは正義だから。か弱い少女を人質に取られ、それを救う為に動くのは、正義だから。そうアリスは考えている。だからこそ、アリスは自分が頷いたのだと考えている。
目を閉じれば、瞼の裏で彼女が微笑むこと。彼女が泣き出すこと。くるくると色んな表情を見せること。アリスの脳味噌に強烈に焼き付いた彼女という存在を、アリスはまだ処理しきれない。兄だけしかいなかったはずの世界に、鮮やかに登場した彼女への想いを、何と呼べばいいのか、アリスにはまだ、わからない。そんな想いが生まれていることに、アリスはまだ、気付かない。
ただ、正義を踏みにじるようなユースのやり方は、許せないと強く思っていた。
そのやり方に反抗する為にも、アリスは頷いたのだ。
か弱い少女を助け、世界を救い、いつかはユースを断罪する為に。
――頷いた時のアリスは、いずれ自分も同じ穴の貉に堕ちるということなど、夢にも思っていなかった。
第二章『悪党』終わりです。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。




