13 ホール・オブ・ザ・ドーナツ
気が付けば、目の前に畑が広がっていた。どうやら農業地区に入り込んだらしい。アリスは辺りを見渡しながら、畑の間を縫うようにして作られている土道をのんびりと歩いていた。陽光の暖かみを乗せた穏やかな風に、緑が揺れている。その風が、誰かの歌う声も運んでくる。特区の町はすっかり小さく見えた。
ここが特区の生活を支えているんだ、とアリスは感慨深く思いながら、畑の中に作られた道を進んでいく。ちらほらと農作業をしている人々の姿も目に入ったが、町で生活する人たちよりもずっと貧しい格好をしていた。体つきも細く見える。それは厳しい農作業のせいなのか、それとも格差が激しいのか。都市で生活をしないアリスにはわからない。けれども、けっして不幸そうには見えなかった。さらけだされた手足に、きらきらと輝く汗が伝っていくのが、やけに清々しく見えた。
それに、死臭の混ざらない緑の匂いは、非常に心地よい。
久々に気分が明るくなるのを感じながら、しばらく歩いていくと、ふと、前方に見える小屋の方から騒ぎ声が聞こえてきた。何だろう、と思いつつ、のんびりと歩を進めていけば、その騒ぎ声はどんどん明確に聞こえ始める。
「お前はもっと働け、余計なことを考えるな!」
ガミガミと説教しているのは、若い男の声だ。対して――
「余計なことじゃないもんっ!」
反発するように返事をしたのは、少女の声だった。その後、何かを叩きつけるような音が聞こえ、少女の僅かな悲鳴が上がる。アリスはぎょっとして走り出し、その騒ぎ声が聞こえる方――小屋の後ろへと回った。
ちょうど太陽を小屋に遮られ、影になっているそこでは、声の主であろう、男と少女がいた。少女は男の足元で倒れ込んでおり、真っ赤になった頬を抑え、眼を充血させている。男の方は拳を振り下ろした格好で、肩で息をしていた。
「お前にとやかく言われる筋合いはない!」
二人とも、アリスには気が付いていないようだった。睨み合いながら、男が威圧的に叫ぶ。すると少女は顔を真っ赤にし、今にも泣き出しそうな声で言い返した。
「私にだって、色々言わせてもらう権利ぐらいあるわよ! いつも誰が助けてあげてると思ってるの!」
「権利とはまた馬鹿な言葉を覚えたもんだな!」
「馬鹿はあんたでしょ! そんなだから叔父さんに追い出されるのよ!」
「何だと……!」
痛いところを突かれたのか、男が拳を振り上げた。少女はさっと身を固くする。
それを見て、アリスは咄嗟に地面を蹴り、男と少女の間に割り込んだ。振り下ろされた男の拳を掴み、その勢いを利用するように、そのまま受け流す。同時に、彼の軸足に鋭く蹴りを入れて払えば、彼は斜め前へと勢いよく転んだ。アリスは彼の腕を捻りあげながら、その背中に片膝を下ろし、男を地面に抑えつけた。
「――意味のない暴力はいけないよ」
アリスが至って冷静な声で言えば、それがかえって恐ろしかったのか、男は抵抗することもなく、ハッと息を呑んで制止した。アリスは彼を抑えつけたまま、ぽかんとしている少女へと視線を向けた。
「大丈夫?」
瞳の大きな女の子だった。黒髪が肩上くらいで切られていて、その短さが、余計に顔のパーツの可愛らしさを目立たせている。服装も、農作業をしている人たちと変わらない、布を継ぎはぎしたようなもので、そこから伸びる手足も、骨が浮き出そうなほど細かった。けれど、日に焼けていて、ソフィーよりはずっと健康的に見えた。
「あなたは……?」
驚いたように尋ねる声が、鈴を転がしたような音をしている。
「僕が……何?」
アリスは何を尋ねられているのかわからず、素直に聞き返した。その動揺が伝わったのか、抑えつけていた男が、アリスを突き飛ばして逃げようとした。アリスも、その男を抑えつけるのがそこまで重要とも思えなかったから、あっさりと拘束を解いてやった。バタバタと四つん這いで動いてから、慌てて立ちあがった男は、アリスを一瞥することもなく、青い顔をして逃げていく。みるみる小さくなっていくその背中を、アリスはぼんやりと眺めた。
そんなアリスの腕に、少女の腕が絡みついてくる。
「お名前は!?」
その天真爛漫な声に、アリスはびっくりした。振り返れば、少女はアリスの腕をがっしりと掴みながら、きらきらと輝く目を向けてきている。
「あぁ、先にあたしが名乗らなくっちゃね。あたし、ミーシャっていうの。あなたは何て名前?」
大きな声で、はきはきとした口調だった。さっきまで半泣きだった少女と同一人物とは思えない。アリスは若干気圧されながらも、素直に答えた。
「あ、アリス……」
「アリス? アリスっていうの?」
「うん」
「可愛い名前! え、女の子?」
そう言いながら、少女――ミーシャは急に驚いたような顔になると、手を伸ばしてアリスの胸板をペタペタと触った。アリスは胸板を撫でまわされながら、首を横に振る。
「いや、男だけど……」
「だよね。固いもん」ミーシャは白い歯を見せて笑う。「助けてくれてありがとう! あなた、勇者様ね!」
大げさだな、と思うのと同時に、アリスは複雑な心境になった。
勇者。それは、ジルたち四人に向けられた呼び名だった。彼らが勇者と呼ぶにふさわしい人間だったかどうか、アリスにはわからない。しかし、亡くなった四人を思い出すと、つい眉を寄せてしまうほどの人情はアリスにもあった。裏を返せば、アリスは彼ら四人のことを思い出しても、なんとなく眉を動かすくらいの動揺しか感じなかった。
「どうしたの」
しかし、そんな僅かな反応を、ミーシャは見逃さなかった。ニコニコと笑っていたはずの彼女は、一転して大真面目な顔になる。
「勇者って、僕の……知り合いがそう呼ばれてたみたいで……」
「そうなの」
「うん。一昨日死んだんだけど」
アリスがさらりとそう言えば、ミーシャはハッと息を呑む。彼女は顔を真っ青にし、両手で口を覆った。
「ごめんなさい」
彼女はあたふたと慌てた様子でそう言った。アリスは不思議に思って首を傾げる。
「どうして謝るの?」
「だって、嫌なこと思い出しちゃったでしょう?」
ミーシャはまるで自分が傷ついたかのように眉尻を下げ、しょんぼりとした顔をすると、両肩を落とした。
「僕は気にしてないけど……」
「優しいんだね」
彼女はしみじみと感じ入るようにそう言うと、いきなりパッと顔を明るくし、またアリスの手を掴んだ。
「そうだ。お礼と、あと謝罪も兼ねて、ドーナツでも食べない?」
「どーなつ?」
「うん!」
ミーシャは笑い、それからアリスの反応を見て目を丸くした。
「ドーナツ知らないの?」
知らない、と頷けば、彼女はええっと甲高い声を上げる。
「うっそでしょ!? それはダメだよ! もったいない! 来て来てっ」
ミーシャはぐいぐいとアリスの腕を引っ張り、すぐ近くの小屋の中へと連れていく。しかし、アリスもそうされて嫌な気持ちはしなかった。腕を引かれるまま小屋の中に入ると、何かが焼けているような良い匂いがした。
小屋の中は生活感で溢れていて、小さな台所に、大きなテーブルが一つ、置いてあった。中は二つの部屋に区切られていて、もう一方の部屋には二段ベットが三つ、所狭しと並んでいる。ベットの数を見て、こんなにも狭い小屋で六人もの人間が生活しているのかと察し、アリスは呆気にとられた。
「これこれ、これがドーナツよ。座って座って!」
テーブルの上には、白い丸皿があって、その上にパンのような色をした、輪の形のお菓子が置かれていた。ミーシャが手前の椅子を引き、アリスを手招きする。アリスがそこに座れば、ミーシャは向かいの椅子に座った。
「一つ、食べてみて! あたしがさっき揚げたのよ」
揚げ菓子なのか、と思いながら、アリスは一つ、手に取ってみた。まだ若干熱さが残っている。そのままぱくりとくわえてみれば、それは想像より固かった。しかし、歯を立てればほろりと崩れ、口の中に塊が零れ落ちてくる。僅かにミルクのような味がした。
「美味しい」
アリスが素直に言えば、ミーシャは嬉しそうに顔を輝かせた。
「ほんと? 嬉しい!」
「でもこれ……どうして輪の形にしてるの?」アリスは不思議に思って尋ねた。「普通に丸くこねたら駄目なのかな。この穴、要らないんじゃ……」
「そういうの、ブスイっていうのよ」
わかってないわねぇ、とでも言いたげに、ミーシャは肩を竦めた。
「ドーナツはその真ん中の穴が重要なの。それが美味しさのヒケツなのよ!」
「そうなんだ」
アリスが素直に感心すれば、ミーシャはにっこりと満面の笑みを浮かべながら頷く。
一つ食べ終わってから、アリスはふと思い立って尋ねた。
「そういえば、さっき、口論してた男の人は……」
「あぁ、あれ。あれはお兄ちゃん……血は繋がってないけど」
ミーシャはあっさりと答えてから、小声で付け足した。深刻そうな様子もないし、血の繋がりの有無は問題ではないのだろう、とアリスは思った。
――兄。アリスは自身の兄を思い出し、不意に涙腺が熱くなるのを覚えた。思わず俯けば、ミーシャが心配そうに眉を下げて顔を覗き込んでくる。
「どうしたの? また暗い顔して。ホントはドーナツ美味しくなかった?」
「ううん、美味しかったよ」
「じゃあ、どうしたの? 聞かない方がいい?」
アリスは首を横に振った。
「いや……ただ、兄の事を思い出したんだ。兄も、四日前くらいに死んでしまって……」
ミーシャは言葉を詰まらせたようだった。さっき、知人が亡くなったと話した時よりも、ずっとアリスが落ち込んでいたからだろう。彼女は言葉を選び切れずに押し黙った後、急に立ちあがり、アリスの傍らまでやってきた。そのまま、俯いているアリスの背中を優しく撫でてくれる。小さな手の感触がやけに暖かく思えた。
「お兄さんのこと、大事だったんだね」
ミーシャの言葉は、アリスにとっては、ただ事実を述べられただけに過ぎなかった。兄は大事だった。兄さえいれば、それで良かったのだから。それなのに、その言葉はアリスの胸の中にじんわりと染み込んできた。凍え死にそうな身体を、柔らかな毛布で包まれたような感覚をアリスは覚えた。
「うん……ずっと二人で生きてきたんだ」
「ずっと、二人で?」
「僕、外から来たんだ。特区の外で、兄さんと二人で、生きてきたんだよ。物心ついたときからずっとね」
「そうなの……」
ミーシャの声には驚きが含まれていた。アリスの背中を撫でる手が止まる。
「じゃあ、お兄さんは、アリスにとって唯一の家族だったんだ」
アリスは頷いた。涙腺がひたすらに熱い。けれども涙は零れなかった――アリスには何故、涙腺が熱いのかもわからない。泣いてどうにかなるものでもないのに、泣く理由がアリスにはわからない。道理の分からないことは、アリスには出来なかった。だから、俯いたまま、パチパチと瞬きをして、そのままでいた。
「……え」
そこで、アリスはふと気が付いた――隣で、ミーシャがぼろぼろと大粒の涙をこぼしている。アリスはぎょっとした。
「ど、どうしたの? どうして泣いてるの」
「ごめん、ごめんなさい、鬱陶しいよね、ごめん」
ミーシャは慌てたように謝りながら、必死で涙を拭っている。強い力で目をこする為、みるみるうちに目元が赤くなってしまった。
「悲しくて……」
「悲しい? 君が? どうして?」
「あなたが悲しそうだから」
ミーシャはそう言い、ふぇ、と情けない声を上げて、また涙を零す。彼女はそれを腕に擦り付けながら、無理やりに微笑んだ。
「ごめん、いつもこうなの、人より先に感情がコロコロ変わるから、鬱陶しい、って、よく言われるんだけど……」
いつもそうやってなじられるのだろう。言われ慣れていることを説明する口調だった。アリスは驚いたまま、ミーシャの顔をまじまじと見る。
「……どうして泣くの? 僕が悲しそうだから?」
「うん。悲しそうな人を見ると、こっちまで悲しくなっちゃって」
「でも……何で泣くの?」
「だって泣けてきちゃうんだもん」
ミーシャは目を赤く腫らしながら、にへら、と笑った。
「楽しいと笑えるでしょう? 悲しいと涙が出てくるでしょう? それだけだよ」
――それだけなんだ。
ずっと胸につかえていたものが、ストンと腹まで落ちてきた気がした。
楽しいと自然と笑ってしまうように、悲しいと涙が出るんだ。それは何も変な事じゃない、当たり前のことなのだ。兄は泣かない人だったから、わからなかった。
悲しいと涙が出る。それを理解した途端、アリスの目からぽろりと雫が溢れた。
唇に垂れてきた雫は、とても塩辛く、アリスはびっくりした。
しばらくアリスは泣き続けた。次々と涙が溢れ出して止まらなかった。泣けば泣くほど、心に固まっていたものが溶けていくような気がした。それと同時に、心に開いた穴が広がっていくような虚しさも感じた。どうすればいいのかわからないままに、アリスは泣いた。つられて、ミーシャも声を上げて泣いた。当時者であるアリスよりも、ミーシャの方がよっぽど泣いた。アリスはそれに不思議な安堵を覚えて、気が済むまで、ひたすら涙を流し続けた。
アリスが泣き疲れた頃、ミーシャはずずっと鼻を啜り、布で顔を拭くと、にっこりと笑みを浮かべた。
「ドーナツ、もっと食べる?」
涙で歪んだままの視界で、彼女の笑顔がキラキラと輝いていた。泣いた分だけ心に生まれた虚無感を、その笑顔がそっと埋めてくれるような、そんな穏やかな心地がした。




