表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

サブリミナルシティ

作者: 青木道路

リプレイではありません

左手の親指がフリックして言葉の蛇口が緩やかに開いていく。短文で伝えたい残像、簡単な繁忙、先端な干渉、観覧は全貌、魂胆は万能、尋常な近況。


昨日と今日だけでも結構景色が違う。片目ずつ閉じてみる景色はそれぞれで距離感と角度が違い、左手と右手が感触として捉える世界もいつも違う。明日と明後日もまた当然違うと思うし、今も未来も、これから訪れる時間の中でその時既に訪れた事のある、認識としての知っている場所にはいるかもしれないけれど、その知っているという観念の為に狭まる感覚がどこか見えにくい隙間にふと存在している様な気がする。


いつも通っている道や、訪ねた事がある場所だとか、見たことのある景色を単純に物理的な捉え方として「知っている」と片付けられずに、いつもつい含み笑いしながら自分で自分に向けて疑問を投げかける。

「それはどうかな?」

全てが溶け合って1秒ごとに混ざり合う比率は変わり、厳密には全てがいつも違って新しいはず。


自分自身の事だって、記憶という思い込みがあるからこそ当然のように昨日より1日歳をとったような気でいるけれど、昨日と今日の境目を越える時、意識を眠らせた後起きる時にどうやって自分としてまた戻って来たのか説明する事が少なくとも僕は出来ない。


ガタガタ言ってみても、まあそれでも当然のように今日も昨日と同じ自分として、意識を操って体を起こしてシャワーを浴びて一日が始まっていき、電車に乗って対価を貰うべく会社という組織の中で割り振られた自分の役割をこなす為に、誰かに納得してもらったり同意してもらう事で気づかぬうちに達成感を感じたり、理解を得られず何故か悔しい思いをしたりする為に、とにかく寝て起きてから移動していつもの場所に行ってそこで椅子に座ったり立ち上がったりしながら誰かと話したり何かをして、日が落ちて逆向きの電車に乗って家に向かいながら、いつも大体同じような事を考えて帰って食事して、少し外に出たり出なかったりして、次の朝は大体また同じように起きてシャワーを浴びて電車に乗る。


個人的なケースの場合、繰り返し繰り返し流れ続ける景色はそんな感じである事が多い


例えばそういう、あらかじめ説明できるような行動のパターンは自分の場合いくつかあって、そういうふと流れていく時間のペースを意図的に変えて、パターンからわざとはみ出して、直前の行動との関係性を少しズラしてバスドラがドタつくような繋ぎ方をする。自分の中の前例に当てはまらないように意図すれば、極端にピッチやムードを変える事も出来る。

そういう可能性について考えたり、いつもの大切なルーティンにたとえほんの少しだけだとしても新しいスパイスを加えた時、何か自分の感覚が拡がって新しい事が出来そうな気がしてとても気分がいい。


毎日の電車に乗って会社に着いてもう一度電車に乗って帰るまでの間、ずっと建物の中に居る事も出来るけれど、少ない時間でも外に出てみると、時期によって変わる湿度が違う空気の中で季節の変わり目を感じながら自分の感覚を一緒に移ろわせる事も出来る。その時々で変わる外の匂いが当たり前の毎日にそっとヒントをくれる事もある。この国のその年ごとに少し違うペースで流れていく四季の中で、それぞれの年のその季節でしか出来ないやり方で物思いに耽る事が好きだ。


一年という区切りが終わり、新しく月と日を一からまた数え始める頃、また新しく最初から数えられると思うだけで何故かワクワクして力が湧いて、その新しい一年の中で自分が出来る事がいくらでもあるような錯覚に陥る事がある。本当に数日だけ。

毎年寒い時期から始まって桜が咲いて、Tシャツ一枚で夜中まで外で遊んで、長袖のシャツを着て気分が上がって夜中まで遊んで、少しずつ洋服の枚数が多くなって最後はダウンジャケットを着て夜中まで外で遊んで、その間も一年中電車に乗って電車に乗って、季節が流れて同じように年を区切るタイミングがやってくる。

繰り返して繰り返して流れて行く中で一体どれだけの事を頭の中に入れては整理してみたりまとめたりしながら、何かをまるで吐き出すように、自分なりに産み出す事が今まで出来てきただろう。


僕の部屋の押入れの奥にしまってある細々とした、出すと片付けるのが面倒なあのガラクタ達のようなものばかりだとしても、もし何かを産み出せるのなら、それがそこに自分の匂いが少しでも宿った何かだとしたら、同じようにもっともっと沢山出す必要がある


いつからか油絵を描きたいと思うようになって、想うだけで習う事もしないままで何年か経った。形式にこだわる必要は無いと理解していても行動に移すまでに随分時間がかかった。水彩画と版画をする妻が出来た。結婚してから2回目の誕生日に万年筆を買って貰った。少しずつ、ようやく自分が頭に思い描く概念を身近な万年筆で良く知りもしないまま、めいいっぱい素直に線や文章で描いてみればいいんだと思えるようになった。素直に正直にぶつかって色々と試してみて、自分がいったい何をしたかった何者なのかを考えて考え続けてみればいい。とにかく考えているのなら、どんな形であれどんな方法であれ頭の中から外に出す事で整理されて見えてくるものが必ずあるはずだ。

無知でいる事や自分から出たものの形の傾きや醜さに恐れは抱かず、方法やテクニックに振り回されず、自分が蓄えてきたものに誇りを持って向き合って、昨日を今と繋いで未来に向けて何かする事を心掛け、子供の時みたいに純粋な心でたった今この瞬間を捉えようとする事に集中ができれば、正直な感謝や感動をする事が出来そうだ。自分自身を知るための方法は他にはよく思いつかない。俺にはこれしか無い。


流れて行く景色を楽しみながら目的に向かい、途中に辿る道で存分に道草をしながら自由気ままに繋いで行けばいい。


そもそも納得をしてもらおうなんて最初から思ってないよ。

だから別に求めてはいないけれど君の事が好きだし大切にする。これは約束出来る。あとは俺のどこが嫌になるかは君次第。また正しいと思って黙っていた事が原因で怒らせた。がっかりさせた。どこまで我慢が出来るのかも君次第だと思っていたけど、どういう結末になるのかは分からないからね




母親の携帯から着信があった。同じくらいの時間に兄からマイカーローンて金利どのくらい?とメールが来ていたから、同じ件で何か話をしているのかと思って少し面倒な気分になった。家族に対して優しい気分になれない時、自分の小ささを感じて複雑な気分になる。

「ローンは他部署だから分からなくて、うちはマイカーローン取り扱いなかったと思う。」

兄にメールを返して、休憩用のリクライニングチェアに体を預けた。

また母親の携帯から着信があった。今度は電話に出た。母親ではない声で共済病院です。と名乗られた。

聞くと母親は転んで頭をぶつけて病院に運ばれたという事だった。誰かお迎えに来られますか?

今日はミーティングがあるけれど、大切かといえばそれは分からないし自分が居なくても話は進む内容ではある。母親と天秤にかければどちらが大切かなんて考える必要もない。それでも自分の事を優先してしまったのか、家族が迎えに行けるか一旦確認してからまた連絡をすると伝えて電話を切った。すぐに電話したが兄も父も電話には出ない。あとで聞いたら父は携帯を家に置いて仕事に出ていたらしい。

昔、母が携帯を家に忘れて連絡がつかなかった時、携帯を家に置いておいたら意味がないと激怒していたのに、自分の妻が救急車で運ばれた時に自分で言った文句の通り携帯を家に置いたままにしていた事になる。父のそういう理不尽なところは好きだけど何かあった時後悔しないで欲しいと思った。後悔しない人だから好きなんだけれど。とにかく病院から電話があって一度家族に確認すると言ってから30分後には観念して会社を早退した。目黒から大船に出て本郷台の共済病院に向かった。電車を乗り継いで、駅から歩いて平日の夕方に差し掛かる郊外の穏やかな時間の中病院に向かった。何だか懐かしい感覚だった。


母親は無事だった。病院に着いて、ベッドに寝ている母を見て、なんだか拍子抜けした。いつも通り口を開けて寝ていた。おでこの、生え際より上の、髪が生えている上からガーゼが当てられていた。何だか漫画のような画だった。三針縫ったという事だった。少し様子を見ていたけれど、最初に電話で病院の人間と話した時、ベッドに長い事置いておけないから迎えが必要と言っていたのを思い出した。とりあえず揺すって起こしたが、かなりろれつが回っていなかった。母親は昔脳出血で病院に運ばれてから睡眠薬を10年以上常用している事や、急激に進んでいる老化もあって、久々に会うとニュートラルな状態なのか睡眠薬が効いているのか老化したのかはっきり分からない。しきりに スマホ教室。という言葉を繰り返していた。これも後で聞いたら、スマホ教室に入会していて、残り4回ほどの受講で卒業予定だったから熱っぽい認識があったにも関わらず外に出て立ち眩んで頭を打ったらしい。なんとかして教室に行きたかったという事だった。こっちはそんな事で仕事を抜けて駆けつけないといけなかったのかと小さい怒りを覚えたがとりあえず後回しにした。

何とか起き上がらせる事が出来て、連絡が取れなかった兄から電話があり、その後車で迎えに来てくれた。

父が待つ家に連れて帰り、携帯を不所持だった父もようやく母の状況を確認して何だか色々文句を言っていた。兄は車を止められないだとかいう理由でそそくさ帰って行き、母を横にさせて父と缶ビールを飲んだ。久々の実家は相変わらず訳のわからないくらいに散らかっていて、久々にその中にいると懐かしい気持ちと何だか情けない気持ちと家族に対しての複雑なあたたかい気持ちがあった。父親がカレーを作ると言ってくれ、慌ただしく台所で色々と作業し始めた。ルーがないから半分はホワイトシチューのルーを入れてもいいか?と聞いてきた。半分白くても出来上がったのはまぎれもなくカレーだったし、色もそんなに白い印象は受けなかった。化学調味料を惜しげもなく入れる父親の料理の味がとても懐かしかったし美味しかった。

母親の事を翌日また病院へ連れて行く必要があったから、一旦帰ってまた朝に行く約束をして家を出た。バスで最寄駅まで行くはずだったが、兄からの電話に出ていてバスに乗り過ごした。次の日も朝から母親を支えて病院へ行った。


家族との繋がり方はいつだって入り組んでいて複雑だけれど、改めて全然面白くないのが再確認できる。


子供の頃から何日も何日も一緒に過ごした後、ある時からは同じように見えて全然違う事についてお互いに認識出来ていないから何かズレが生まれているんじゃないかとも思う。そういう気持ち悪い状態なのかもしれない。

たまに会うから優しい気持ちで接する事が出来るけれど、ずっと一緒に居るとしたらどういう態度になるだろう。




吐き出す言葉はいくらでもあるはず。右手に持ち替えてフリックしていく。何だかわからない閉鎖感は何だ。久々に気付くどうだっていい事。思い込みで曇らす空。夜中に雨上がりの山下公園沿いの石畳の歩道を歩いて足の裏で潰す銀杏の匂いが混じった湿っぽくて生ぬるい風の中でふと考える。

一眠りしてまた満員の電車に体を詰め込んで流れていく1日の中で、どれだけのわずかな時間自分らしく居られるだろう。いくつの一瞬に満足できるか全く見当もつかない。心が前向きに高ぶる感覚をうまく乗りこなしていきたいし、寒くて凍えるような後ろ向きの感覚はどこかに置き忘れて来るべきだ。

気付くと弱音を吐くような面白くも何ともない奴にはならない様に何かを少しずつ捻じ曲げて、都合がいい様にすり替えてきた小さいモラルの呵責がほんの僅かに積もったのかもね。


くだらなくて改めて考えるだけ時間の無駄だから、明日の一つ一つに素直に感動する準備のためのシャワーを浴びて寝ようと思った。



共有した時間はたとえ離れていてお互いの体が横に無いこの瞬間も蓄積している。それぞれが別々に見るものの中にも、知り合ってしまってからはお互いの残像が刷り込まれていて、決して完全に離れている訳ではない。そうやって離れている時も近い時も一緒に居られる事をとても嬉しく思うし、会って抱き合った時は他は何も要らない。

ほんの少しだけすぐ隣に居られればいい

君もそうだと嬉しいけれど



いつも伝えたい事を明確にするべきだ。ただでさえ、どうしたって表現は抽象的になりがちだから、伝えたい事をどうやって伝えるのかはかなり工夫すべきだけれど、そもそも言いたい事は大体シンプルな事が伝えたいだけという結果に結びついていく事が多い。それも本当に基本的な。だからこそ不純物を取り除く事にはいつも価値がある。

そうだ。不純物が多く混ざっているような気分の悪さが続いてる。



新しさについて考える。

随分と久しぶりに、新しいという感覚に魅力を感じる一説を読んだ。やはり物事はたった一つのフレーズにぎゅっと詰め込んで人を大きく感動させたり突き動かす事が出来るんだと感じたし、突き動かされるような一言に出会って色々な事を思い出せた。具象抽象に関係なく自分から出たものをそのままの状態で素直に出す。多少形を整えたりする事はあるかもしれないけれど、近頃手を加える向きが自分にとって個人的な気持ち良さを追求して、少し自己満足の度合いが大きかったような気がする。結果的に細部ばかりに目がいって、そうなると手を加える事が変化というよりミクロな調整になって、結果として変化自体が単純に地味だと思う。価値はあると信じているけれど、特にその姿勢が顕著な時期が近頃あったと振り返って思う。一辺倒ではいけない事も存在する事を認識すべきだと思うから。

決して悪いことではないし、いつも繰り返して自己対話してたくさんの事を確かめ続ければいいと思うんだけれど、自分のコントロールできる範囲の中での気持ち良さの楽しみ方だけではなく、自分の中の新しい扉を開く楽しみを少し忘れて居た気がする。これは運動する時に怪我のリスクを最大限までなくしているようなイメージ。多少のリスクを取りながらでないとダイナミズムは生まれず爽快感が生まれないのかもしれない。

それは飛べるなら階段から飛び降りたいと思う。


一つ原因として自分が感じていた、新しさという言葉の印象が、速くなった時代のスピードを思い浮かべてしまい自分に合わないような、置いていかれているように感じて嫌気がさして居たけれど、それはやっぱり言い訳で、単純に老いに似た何かで、結局自分以外の誰かとの比較に左右された取るに足らない、可能性を狭めてしまう考え方だと思う。


自分が何を蓄えてきて、自分の歴史の中での一番新しい今を一番新しく価値のあるものにしようとする事は最も大切な事の一つなんだと振り返る事が出来た。


今までにない事を今まで培ってきたものを見る新しい角度と組み合わせの発想から生み出す。レコードを新しく買うより家の中を掘り返して並べる順番とその時のフィーリングを大切にして紡ぐような感覚。結局のところの自己満足だとしても、誰かにとってもしも面白かったらなんて素敵だろうと思う。


確実に自分の中に存在するミクロ主義からは逃れられないとしても前に前に


ちょっとした隙間の時間にいつもと同じようにふと今までについて考えてみてその中で何か見落としていたり初めて気が付けそうな何かに繋がりそうな、新しい事について探してみる。新しいという意味と、新しい事に対しての嫌悪感を捨てる。

自分の中から生まれる新しい事は肯定する意識以外は生まれないはずだ。少なくとも僕は

初老になって階段から飛び降りて怪我をしても長い目で見たら後悔しなさそう




そう、この隙間の時間も無駄には出来ない。とにかく何でもかんでもテキストにして吐き出して保存しておく。昨日も今日も一人にはなれず隣に妻がいる。電車に乗って家に帰らないといけない。今日みたいに急に滑りに誘ってくれても外に出られないし、呑気にして居たくてもそういう訳にはいかない。色々嫌になってたった独りになりたいと思う。ずっと自分のものだと思っていた自由は確実に少なくなって、身勝手が出来ずに一緒に隣に居なければいけない事に疑問を抱く時もある。他人の事は知らないけれどきっとそういう風に感じてしまう事があるのは自分だけでは無いと思う。当然過ぎるくらい、何かを得れば何かを失うし、面倒を見る義務に囚われている事に疑問が生まれても同時に面倒を見てもらっている事を忘れているだけでもある。


人生はどうやって自分らしく、自由と安らぎと孤独のポートフォリオを組むかっていう事を考え続ける試行錯誤に許されたタイムリミットの事をそう呼ぶのかも知れない。そうやって年月とともに家族と形容する関係性が形を変えながら自分の事を包んでいる


また誰かのせいにして、と誰かの顔が思い付くなら少なくとも孤独ではないし、孤独になる事を恋しく思える位なら恵まれているっていうのも分かっているのかもしれない。人間は決して一つの状態に満足できないから

肯定すべきだよ

僕にはこれからも耐えらるのかはわからないけれど



まず社長になる

強がって吐き出した言葉

人事異動?笑わせんなよ

ヒップホップ銀行員

普通。普通。

相当下らないけど活かされてる

そもそもはどんなだった?


自分だけを磨き上げる

籍を置く群れの中でも群れない

一人見続ける目的地と連れて行かないといけない通過点まで辿り着く為に必要な123

腹立てる事も天地逆にして笑いながらラフに書き上げる殴り書きの設計図で建てる超高層ビル群の中で群を抜くスカイタワーの頂上で飲むマティーニとシガー隣にマイニガー

いつも覗くスコープで狙うスナイパー

集中力をここに

一体どこいった


擦った胡麻も残さず巻いて吸う

吐いた煙で株価ごとぶち上げる

日経平均は前日比プラス五千円

百年分動かす止まった時計の針

羊の皮被った野獣の王の父の子

隠し持ったナイフを研ぎ続けて

砥石ごと切るエクスキャリバー

子音溶けまくった新しい日本語

スムースなシュマゴラスみたい

誰か居ないと思った。おれだ。


秘密のセキュリティコードは自立走式パスワードが守る最先端現在進行形サイエンスフィクション

時の洗礼に六千年耐えて見つかった超古代文学は永い未来に向け声帯から打ち出す為シリンダーに装填される弾丸

喧騒の中に幾千存在する数えられる無限のコンクリートコミュニケーション



目指すべきはただ変化を楽しむあの天才のような天真爛漫さ。意識しないとそうやって出来ない凡人はその歯がゆさの中で足掻きもがく楽しみが与えられた特権だから、まるで瞑想する時のように、ここから離れないように留まるように意識を纏めて呼吸に集中してクリアな状態に導く

句読点で区切らない限りない発想と止まらない思いつきの連発で繰り出すフリースタイルは人生で蓄えた単語は使えどもコンビネーションで表現する事に重きを置いてフレーズはストックせず常に新しい組み合わせをその場で調合しそこに吐き出す本物のインプロヴァイズ

曇りない空に吐き出す煙と体を通り過ぎて行った たった今と過去の感覚の境界線を越え記憶の匂いと褪せた色彩をまとって揺らめく幻影を繋ぎ合わせてコラージュしてそれまで見た事もない未開の地で描く未来まで息継ぎ無しで一気に到達して即帰還する

今何か起きた?うんでも大した事じゃない

いつも達成はない。動き続けて書き続けて吐き出し続けてフリックしたりタイプしてそこに文字を出しては並べ続けるのみ。

スタートもゴールもなく気付けば始まっていてただひたすらに延々ループしてスパイラルしてバックドロップしてサッカーボールキックしてエルボードロップする自分の為の愛情表現。もう肘とか膝がいてえよー



電車のドアが閉まって走って止まってドアが開いて閉まって走って繰り返して繰り返して繰り返してただ景色は流れて行く



伝えたい事を考える

仮に時間を掛けて、言葉を練ってしっかりと伝えたい事は何だろう。言語を覚えて自分なりに解釈して幅を広げて何度も新しい感覚と隙間と隙間の間に隙間を見つけてそこから別の捉え方を見出そうとしながら何年も経ったように思うけれど、たくさん思いつきそうな中でたった一つのメッセージを選ぶとしたらどうするだろう。

とてもシンプルな事に結びつきそうな気はしている。

それは多分生きる中で何度も思う事であると思うし、その回数が多い事の方がテーマに選ぶには相応しいとも思う。生きてきた中で何度も思う事についてしっかりと向き合う事で、何かが自分の中で整理できるかもしれないし、妥協なく何かについて自分の言葉で伝えてみるのは少なくとも悪い事ではないと思う。

漠然とではあるけれど何か考え続けている訳だし

何なんだろう


ヒントを探してみる

自分にとっての楽しみを挙げてみる。大切な人と繋がることは自分にとって大切だと思っている。たった一人で同じ場所に座り込んだまま深く深く潜るよりも、街に出て仲間に会ってコンクリートの冷やっとした質感を感じていた方が心地がいい。

年々。新しく誰かと出会う事よりも長く付き合っている友達と会って、何度もした新しい話を聞く方が楽しくなっている気もする。数人居れば割と完結するようなイメージだから、人との出会いの中で世界は広いと思ったりするような類ではないかもしれない。

それでも世界が広くて今自分がいるところが狭いのは勿論分かっているけれど、途方もなく拡がり続けて気付けばやらされる外側を目指すよりも、マイペースに内側に無限に潜れるルールの楽しみを知っただけ

そこには圧倒的に違う視点と素直さの溝はあると思う

針を落とすなら内側への拡げ方を知っている奴の作品がいい


結婚式をした

気付けば少し時間が経ったけれど。

家族と僅かな妻の友人だけを招待し、食事をしただけではあったけれど、自分が結婚式をすると思わなかった。

終わってみれば意外な程呆気なくて、たまたまカメラマンが面識があった事くらいしかサプライズはなかったし、ただ穏やかな時間が過ぎていった。 妻の姉の夫に僕達が付き合い初めて1年くらい経った頃挨拶に行った時、年齢差があって若い俺を見て、年齢差や社会的な立場とか、色々な事を考えたのだと思うけれど、とにかく今の妻と一緒に居ることに反対だった。

その後一緒に居る期間が積み重なったことや、一緒にいる相手が出来たことを妻の両親が喜んでいることもあり、彼らは結婚式に参列した。文句はなかっただろうと思う。何か否定する材料があってエネルギーが存在していて、それが少しずつほどけてどこかに行っただけ。達成感も何も無いし、家族を想ったり、ただ一緒に居たいと思ったり、ただただ人の意思はお互いに悪気なく静かに衝突しては調和してそのまま音もなく消えて行くのだと思った。

自分の両親も妻の両親も、式を行えた事をとても喜んでいた。家族は自分以外の家族の幸せを分け合って、お互いのことを家族だと認識していくんだと感じた。自宅からすぐ近くで式は行ったので、終了後自宅に荷物を置いて、妻の両親や友人の為に近所に取ったホテルに行き挨拶を終え帰る頃に、気を遣う疲れを少し感じたけれど何だか清々しかった。家に帰り横になるとすぐに眠りについた。

翌日慰労も兼ねてと言ってもらい、わざわざ遠方から出て来てくれた妻の両親と共に熱海へ一泊の旅行に出た。妻の両親は高齢にも関わらず私の親に比べとても実年齢よりも若く、良く歩きよく喋った。電車に乗り温泉街に着き、以前も四人で一緒に旅行をした際に食べた生しらすをまた昼に食べた。

こうやって小さい事が小さい歴史として積み重なって行くんだろうかとか思いながらビールを飲んでいた。


形式を踏む事で現実に前向きになる事も多い

現実は形式的な事で成り立っているとも思う



振り返るとアンビエントのような1日。普段の、何もない1日。大体の日はアンビエントと言えるかもしれない。派手に抑揚しないフレーズと単に反復していくビート。それぞれの解釈に委ねられたイージーリスニングな音楽のような景色。あとは心の持ち方一つだけで変えて行く。

また1秒後からジェットコースターのように急に加速して始まるうんざりする程何度も何度も繰り返したルーティン


何度、人生が複雑な美しさの成り立ちだと思わされたかはもう数えられない。


基本的には全て呼吸。吸う空気と吐く空気の組み合わせで全てが変わって行くだけで俺とかお前っていう風に区切ってもそんなのはそもそも何も変わっちゃいない。小さい事はクヨクヨするから気にしないふりして必要な事だけを鬼のようなスピードでこなしてこなして行く。こなれたこなし方で次々とこなして行く。人の話は基本的に何も聞かない。もちろん詳しく聞いているからこそ受け答えることができるけれど実際のところ音が鼓膜に触れた時点で跳ね返して話すことを考えているから結局のところ話し続けることがイコールで聞くことに繋がっていく。

声が届くくらいの距離で大気に吐き出した呼吸を交わして考えを繋いでお互いに繋がっていく。


フロアで飛び交うキックとハイハットとシンセの音を浴びたりかわしたりしながらその隙間で縦にスクロールするシューティングゲームで画面いっぱいに広がる弾をかわすようなアクションに似たフラフラと踊るような動きでテキストとテキストとの間や印刷物の行間の隙間みたいに並ぶ街にカメラとスケートボードを持って出かける。

ハイコントラストでカチッとして縦と横と斜めに動き回るような動きの中でも、緩やかに滑らかに艶っぽく動くような動きに惹かれる。

ぎっしりと凝縮した状態で尚且つとてつもなく大きいスケールをイメージする。その先のスケールとその先のスケールとその先のスケールとその先のスケールを想像し続けながら今目の前の一秒がまた過ぎていく。



音楽はいつ聴くか誰と聴くかどこで聴くかでいつも違う表情になる。一つ汲み取れる情報が横顔なのか背中なのかはすぐにわかるものではない。本当に複雑な事だらけで絡み合っているけれど、そうやって分からなくなるのは、あともっと少しだけでも と思う美しさに向く意識に似たようなものなのかもしれない。

背中越しにでも、雰囲気や残った香りにすら一度触れたら本当に必要な物は頭から離れない。それはあなたがどれだけ本当に求めたかに寄る部分もある。

振り切っても振り切っても振り切れない瞬間に何が起きたのかを文章にすれば、生きる中で必要なテーマについて考えた時、自分の指針を決める為のとても重要なヒントになるから。



会社に向かい考える事は沢山ある。

今から会う人達のことや一昨日会った人の事や小学生の頃から知ってる子や、今夜会うと人達や、新しくするスケートボードの板に貼るステッカーをどうするかとか年末の忘年会の予定や夕方現像したフィルムを取りに行くのを忘れないようにとか、転職したらもう少し若い連中の中で仕事出来るけど今より面倒な事多そうだなとか、だったらもっと今のところで頑張るか。いやもっと何かを変えるために自分にできる事をもっと考えて出来る事を全力でやらないとダメなんだ。とか個人的で現実的な事をいつもみんな考えていると思う。

手が動く時はひたすらテキストにしてそこに置いて自己対話して行くようにしないと成り立たない。いつでも取りかかれる作業なのだから、それこそいつもやっているような状況にしていかないといけない。とにかく誰よりもグルグル回って回り続けて延々と続くラジオみたいにぶつ切りな文章をそこに置き続けて読み返してみたらきっとどこかで断片的な何かが見えてくると思う。作家性と匿名性に形容出来ない隙間に宿る複雑でミニマルな形容しがたいサブリミナルを文字と文字と隙間を繋いでうっすらと表現する。自分が見える画をどこまでしつこくやり込んで高い次元で再現出来るかと同時にイメージを伸ばしていく。年齢とともにイメージも再現力も鈍くなってしまいそうだだけれど、新しい感覚はいつになっても覚える事は出来るはずだ。感動を忘れないために常にそこに努力し続ける。イヤホンから音楽を流しながら目に飛び込んで来る街中に溢れる言葉を自分なりに都合よく解釈して行く。論理的に考えて、結果的に消費行動に結びつけられるなら舵をめいいっぱいきって自分に帰る。自分の普段の生活と結びつけて自分だけの為に断片を拾って行く事で誰かの吸い込む為のテクニックやトラップには乗らない。その手には乗らない。そのパイルドライバーはタイミングをずらしてかわす

起承転結せず気に入った部分だけをカットして頭にストックして自分の血と肉とするのは間違いないと信じてるからいつも転々と転転転転の5センチ弱の転がるウレタンが紡ぐ重力に支配された四輪のメロドラマ

この運動で同時代の優れた作家に沢山会えた


何を目指すのかとか、行き先は具体的な方がもちろん良いだろうけれど気にせずにただひたすらに自分の感覚だけでチョイスした物をコレクトしまくって膨大なアーカイブが作れたらそれって凄く良さそう。

うまく説明は出来ないけれど何故か確信がある、というのが一番余計な感覚がない状態の一つだと思う。

先を急ごうか



優しいっていう意味の難しさにもいつも向き合ってる。自分に対しての優しさと同時に自分以外に対してどれだけ思いやりを持って接する事が出来るかという事だとも言えるし、自分に対しての優しさの比重が大きくなると嘘をつく事に繋がっていく場合もあるから、とにかくバランスが微妙だと思う。事なかれ主義的な発想ではなくて自分が行動を起こす事で出来るだけ自分と接する人が幸せな気持ちになれるように何かする事にエネルギーを使うのが目指すべき優しさ。すぐにキャパシティを超えて裏目にでる事もしばしば。生意気にも自惚れたのかなんて思うけれど大丈夫そんなレベルにまだまだ達していないよお前は

何もしないとかあえて触れない優しさは確実にあるけれど、それは同時に踏んではいけない地雷の埋まって居る場所が分からないから歩かないのと同じということもある。踏んで爆発したら衝撃はあるけどもしかしたら一つ地雷がなくなって誰かか楽になるかも知れない。少なくとも確実に足は吹き飛ぶリスクが結局のところはポイント。いつも怪我は足の先の方

図々しく行く奴のチャーミングさにはクールなやり口で敵わない時もある。だからこそチャーミングなスタイルをクールにやりきれれば目的地の方向は少し掴める気がする



歳をとって忘年会とかいう名目でたむろすように集まって気付けばビジネスマンぶったみたいな話をしたとしても俺たちはあの時のままだよ。洗練されたテクニックの話をしたってハートを動かすような話はなかなか出来ないのが難しいところなんだよってやっぱり思ってしまう。一緒に居られる事と一緒に居られないってケタ違いだし、顔を見られただけでどれだけ価値があるのかなんて表せないしそういう為にみんなのタイミングを合わせてくれた奴は一番の功績者だから今日は本当に感謝してる。ありがとう。そしておめでとう。


時間が容赦なく流れまくって行ってその流れが早かったり遅かったり厳しかったりそうじゃなかったりしても感じ方だけで振り返れば同じ年月で、大差なくて要はどう感じたかだけなのは分かってるし、何か自信みたいなもんを持って報告しあえるかどうかだし、そのたくさんの情報は誰に伝えるでもなくてみんながそれぞれ積んだ目指すべきスタイルへの自分だけのヒントだから、活かすも殺すも自分次第だし関係があるところは自分の脳味噌に語りかけてまた明日以降に持って帰りましょう。

久しぶりに会えて超楽しかったぜ野郎ども。

さらばまたネクストタイム




たまにしか会えないからいいのかな。そういうこともあるのは間違いないよね。どちらにしてもいい事とそうでない事は絶対あると思う。沢山会えればいい事はあっても求める気持ちは少なくなるだろうし、そんなに会えなければもっと会いたいと思うのは当然だし、どちらにしても得るものと失うものはひとつ以上ずつあるよ。それだったらたまにしか会えない今の状況を大切に楽しみたいと思う。セックスするときもして欲しいことはちゃんと言ってね。油断していいから。

1日たくさん歩いて色々見て思いつく事とかお互いの友達の事とかを話してお酒を飲んで隣に座ってそれぞれ考え事をしてゆっくりして日常にまた戻って行くなら一緒に居る時は特別なものだと思うから、俺にとってはかけがえのない時間だし大切な1日になってる。

一緒の時間を大事にしたいんだよ。自分勝手だとしても繋がり方はそれぞれだし、幸せに感じてもらえるように出来ることをきちんとする。繋がってるっていう事だけは事実だし、いつか居なくなる時はあるだろうけどそうしたら思い出し続けるから繋がり続けるし、そういう風に考えるともしかして結局好きなのはこっちの方かも。

いつだってそうだったし



年が明けた。今年こそはと思うことが毎年ある。年末はあっという間に流れていって、会いたい人に会えて無事に年を跨いで迎えた新年を大切にして行きたい。素直に一年間でしたい事をリストアップする。今年は逃げたり言い訳せず、しっかりとコンディションを作って納得できるように滑りたい。大きく息を吸ってキチンと日々の中で大切にしたい事を見つけてきちんと文章にまとめる。一年を通じてしっかりと自分という作品を作って行く。人生を自分なりに明確に向かう方向を定めて自分の手で漕いで進んで行きたい。いつも瞬間をこぼさないようにフィルムに焼き付けられるようにする。一年が終わる頃に写真集を作る。テーマは日常に宿る美を炙り出すこと。昨日は大ゲンカした。今日は仲直りしてベタベタする。明日はまたどうなるかわからない。そんな風に代わる代わるの表情を捉えたい、並べてストーリーを語りたい。誰かのどこかに触れたい。それはおれにとってかけがえのないものの積み重ねだから、共感してほしいと素直に思うからこんな事をしているんだってふと気づく。


距離が近づいたり遠ざかったりして何かを確かめながら独りで居る私達は、独りで居ることや、独りではない事を交互に感じながら自分の事を考え過ぎて小さくなったり大きくなったり、誰かのおかげで優しい気持ちになれたり自由を剥奪されたりしながら、回り続ける映写機から流れる映画のような日々の中で藻搔いたり優雅に泳いだりしているんだ。


全ては気分次第。人の事を騙すような事はしたくないけれど、嘘はつく。自分の為といえばそうかもしれない。でもそれだけじゃない。正直に生きているだけでは全て知ることが出来ないのが人生の難しくて奥が深いところかもしれない。傷付いたり傷付けるタイミングがいつもどこにあるのかを、冷静にもう一度振り返ってみると何かが分かるかもしれない。肝心なのは決めた事を守る事とやり抜く事。憎まずに愛すこと。


今日は終わってみたら最後まで体軽かったよ

少しヘトヘトな位がもしかしたら調子良いのかもしれない

自分のしたい事をどれだけ気持ちよく出来るかが格好良いっていう美しさに繋がる事を信じて


眠いのを乗り越えて1日が流れて日も落ちて終わって行くと安心して謎に気分があがってく

電車のドアが開いて閉じて景色が横に流れてドアが開いて閉じて景色が流れて繰り返して繰り返して終わらない考え事を止めずに続けて繰り返して問い続けて懲りずに繰り返してもう数えられないくらい行ったり来たりして何度も経験した少し怠い感覚に安心した

また来週


みんな泣いている。やり場のない想い。なんだか分かった。もしかしたら誰かが言う日本語の質感が少しだけ分かったような気になった。



急に涼しくなった。今年は台風が例年に比べてとても多いらしい。観測史上でも一番と朝の忙しい時間帯に慌しく準備しながらテレビで天気予報士が言っていたような気がする。

9月に入ってもう折り返そうとしているのに、まだ8月の真夏に朝まで遊んでいる感覚が抜けない。小学生ももうとっくに始まった新学期に順応しているだろうというのに、つくづく自分が精神的に成長しないと思う。

両親に会いに実家に妻と帰ったとき俺が幼稚園に通っていた頃の写真を母親が出してきた。そんな物を取っておいてくれたことを知った。うちは思い出らしい物は何も残さない人達だと思っていたから、見た事のない自分の子供の頃の写真を見て不思議な気分だった。そうこんな子供だった。と妻に言ったけれど、なんか人の事みたいな感覚だった。


ねえあの頃からどのくらいまで自分の事掘り下げた?

人と比べるのはもうやめた方が良いよね。精神衛生的に良くないし。意識をしっかり持つとそこに秩序立たせることはできるし、誰かのせいにしたり自分を責めたりせずに本当に必要なフォーカスすべき何かに集中出来ると思うんだよね。それが何かっていうのもかなり個人差があることだと思うから一概にはどういったことなのかは分からないけれど。 僕の場合は自分が立てた目標の為に本当はもっと俗っぽい事から解脱するために黙って考えないといけないはずなんだけれど、どうにも快楽に溺れて沢山喋ってしまうところが全然改善せずもはや少しずつ開き直ってしまってるところもあるよ。話す事が一番の喜びなんだって最近何度か言ってしまったし。でもまあそんな感じでも良いかななんていう風にも思うよ。人によっては沢山喋ることを嫌がらなかったり、中には一緒に楽しんでくれる人も居るしね。もしかしたら輪廻転生から抜け出すんじゃなくて一生ループしながらペチャクチャ喋ってたいのかもね。

開き直る感覚と背中合わせだけど、年々後ろめたいような気分で悶々と考え込むのはやめて多少力づくでも前を向いて進む力を生み出して同じ場所で足踏みをするような頭の使い方が少なくなってきた。でもまあとりあえず動くんだけど足跡だけあとで見ると随分行ったり来たりを繰り返してるのは間違いないね。でも面積は大きくなってるし、それが少ないけれど自分で分かる年を重ねた結果かな。

クヨクヨって意味ないからさ。


まだ一ヶ月も経っていないっていうのに、随分長い時間が流れたような気分になってる。多分近所すぎて、遊んでから一緒に帰る感覚がまるで一緒に家に帰って行くような錯覚に繋がってこんな喪失感を感じてしまっているのかもしれない。最初に現れたときには自分がこんな風になるなんて全然思わなかったのに。

自分以外の人の事やその人と繋がる事で何が起きるかなんていうのは本当に分からないものだね。もっと熱っぽい人で、素直な価値観で活き活きしながら生活している人かと思っていたけれど、冷静に少し離れながら静観している人だったね。改めて全ては分からない事だらけだと思ったし、一寸先は闇というよりも眩しくて辛いっていう可能性があったなんてすっかり忘れてた。信じられない位深い闇を持ってるねとか話してたけれどね。

山下公園に朝座って話した木曜日は1日時間があるから沢山話せるし、時間も長いからどんな話ができるんだろうとか、面白い話が続くかな なんていう風に思っていたけれど、日曜日の夜中にはまた山下公園に戻ってきて、もう話なんか何もしなくて良いからただ一緒に居たかったよ。

たった数日でもぎゅっと凝縮して遊んだから気持ちが盛り上がってしまっているだけなのか、出会うべくして出会うかけがえのない人なのかを測るには早過ぎるけれど、こんなに優しい音楽を聴いて沁み渡るように感じるのは久しぶりだから、今はただ隣にいた時の肩が触れ合っていた感覚を思い出し続けるよ。

また会えると思うし、その時の気持ちがお互いどこに居るかは分からないけれど、何だか久し振りにたった数日がこんなに濃密でかけがえのない時間の連続だったように感じるから、久し振りに恋をしたような気分になれた。

ありがとう。



久しぶりに画面いっぱいに引伸ばすスティッキーズ。丸をつけて区切る感覚くらいは学んだ言語学、名詞同士繋ぐ動詞と形容詞で説明する別次元の角度から見た日常。

足の裏の感覚と脹脛が張らせて具現化するイメージした流れにたどり着くまで試行錯誤する力む感覚と力の抜き差しのリズムとバランスで奏でるビート。夜のコンクリート 端の角削る群れになった体張った街の中年彫刻家連盟。今夜もふらつく行き当たりばったり手探りスイッチスタンスぐらり途中下車。日本語縛りで形容し難い景色形容し形容詞から離れられないこの感覚継承し軽量に軽量を重ね啓蒙の傾向も形骸化した経験も警棒持った警官も思わず傾聴するガーとかゴリゴリとかいうグラインドの音



たった少し書いて何か見えて満足するだけだから駄目だ。一つ見えたらその先の先の先の先の先に行くその先へ行き続ける。一つ見えたらその先にいくつ見えるかなんて分からないって事に虚しさなんて無くて限りなく続く希望の財宝探し進むたった一人単独行洞窟探検隊。


探す自分だけの文学。ここでくすぶっているはずじゃないなんていう感覚は勘違いというより決定的な間違い。ここにいる自分にしか見えない角度を理解してそこに価値を見出して人に上手く伝えられるかが大切なところなんだ。とにかくたくさんの言葉をまずは吐き出す。全体の総量を増やして大きくして行く。大きいところや小さいところを見つつ削ったり足したりしながら整えて行く。日本語の表現力を信じて自分と誰かの空想を掻き立てられるように、日々一瞬だけ見える隙間にまんまと落ちることが出来るように。

逃避よりも直視がしたい。


生きることの意味は緩やかに変わって

もう説明できないような楽しさ。


締めくくる言葉は簡単に見つからないけれど、ぶち当たる壁の抵抗を減らす為に蓄えて開発したローションを塗りたくってヌルヌル社会をすり抜けながらスタイル研究所で学んだ技で世の中のポイズンを中和してそれでも朝しっかりシャワーを浴びて明日もニヤニヤするよ。守るべきものもあるし、自分一人じゃないからね。またしっかり戦った話聞いてもらわないといけないじゃん

ワインをガバガバ飲む為にさ



短文で綴って行く散文。ヒット、アウェイ、サーチ アンド デストロイ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ