決意
誰もいなくなり、気配も感じなくなった闘技場のような場所を一度見回した後、外に足を向ける。
外に出ると人間達の反応は元に戻っていた。ちゃんと自分を見て、そこに居ると認識してくれる。お陰で建物の前に居た衛兵の二人に、今は勝手に入ってはいけない場所だと怒られてしまった。
どうも前に聞いた御前試合をする会場のようだ。
来た道を戻りながら、少女が言っていた匂いを探ってみたのだが、やはり自分の鼻ではおかしい匂いは何も感じられなかった。それでなくても食べ物の匂いや人の生活の匂いなどで溢れかえっているのだ。犬並みの鼻でも持っていなければ分かる筈も無い。
この調子だと今回だけではなく、この先も同じように誰かの縄張りに知らず知らず入り込んでしまうこともありそうだ。気配を隠すことも真剣に考えねばならないだろう。
人の流れに乗って黙々と歩き、宿街まで戻ってきた。
そのまま泊まっている深森の木漏れ日亭まで来ると、部屋ではなくポロの居る走厩舎からアンナ達のアーティファクトの気配を感じ取った。
そちらに足を向け、ポロの居る小部屋の扉を開ける。
「!! クロさん! 大丈夫でしたか?」
「クロ。どうだった?」
「(ご無事で何より)」
三人は心配そうな表情で迎えてくれた。ここに居たのは何かあった時にいつでも動けるようポロと待機していたからのようだ。
「ただいま。入り込んでいた強い魔物と接触してちょっと話をしてきただけだよ。戦ったりはしていないから安心して」
まぁ安心はできない状況ではあるが、不安がらせる必要も無い。
「本当によかったです。どんな相手だったんですか?」
「うん。それについて大切な事を話すね」
三人に少女と話したことのあらましをざっと説明する。所々聞いておきたい部分もあったので話の後にでもメリエに聞いておこうと考えた。
「───というわけで、もし王都に居続けたいなら戦えって言われちゃった。じゃないと僕だけじゃなくて仲間も襲うって」
「それが嫌なら夜明けまでに出て行け……か。シェリア殿の件もあるから、もしかしたら戦争に関係して王都に入り込んだのかとも思ったがそれは違いそうだな」
「そうだね。僕も少しそれを考えたけど、話してみた感じでは本当に自分の都合でこの町に住んでいるみたいだったよ。人間を襲ったりもしていないみたいだし、人間と何かを企んでるっていう感じもしなかった」
会話の様子からしても誰かに使役されているといった感じは見受けられなかった。人間と結託して何かをしようとしているという線は薄いだろうと思う。
「ではどうするんだ?」
「シェリア達との約束もあるし、今王都を出て行くことはできないよ」
シェリア達は自分が協力してくれることを前提に危険を冒して動いている。今自分たちが居なくなればその努力が全て無駄になってしまうだろう。戦争も止められなくなるだろうし、信念を貫こうと思った自分の気持ちも無駄になってしまう。実力もわからない相手と戦う事になるかもしれないのは不安だが、それも嫌だった。
「じゃあその人に化けてる魔物と戦うんですか? どんな相手かもわからないし、危ないんじゃ……」
「確かに。どうも人間の魔法や古竜の星術とはまた違った術を使ってるみたいで、まだよくわからないんだよね」
「幻獣種か……有名なのは少し文献で読んだことはあるが、人間が知らない種も数多く存在しているからな」
「(ご主人。ちょっといいですか?)」
「ん? ポロ、どうかしたか?」
話に入ってきたポロが自分に近付くと、スンスンと鼻を動かす。
「(クロ殿から漂う匂い……もしかすると幻術を使う種族かもしれません)」
「どういうことだ?」
「幻術?」
「(ええ。人間が行使する直接怪我を負わせるような魔法とは違い、幻を作り出したり、相手の体や精神に働きかけて狂わせたりする術です。前に出会った幻術を使う魔物と似た匂いを感じます。私の見知っている魔物はそこまで強力な術を使うことはありませんでしたが、ご主人の言うように幻獣種だとすると更に強力なものを使うかもしれません。尤も、匂いだけでは確実とはいえませんが……)」
ポロに指摘されて自分の体をクンクンと嗅いでみたが、特に何かの匂いは感じなかった。鼻の良さでは敵わないか。
特殊な匂いを放って相手を惑わすのだろうか。
「幻獣、そして幻術か……いくつか候補はあるが……どれも確実性に欠けるな」
「メリエ、幻術って具体的にどんなの?」
「ううむ……、私も詳しくないが、獣人種の一部が使う獣術に近いものとされている。ポロが言ったように姿を変えたり幻を見せたりして同士討ちや混乱をさせたり、無いものを在るように見せて惑わせたりすることができるらしい。過去の戦争で軍を丸々幻術にかけて同士討ちをさせたというものもあるそうだ」
そうか。少女の周囲の人間が自分を認識していなかったのはそれの可能性がある。周囲の人間が自分を認識できないように幻術で惑わせていたのだとしたら辻褄が合う。
話の最後に少女が消えたのも幻術でそう見せたのかもしれない。そうでなければ幻を予めあそこに出しておいたのか。
「メリエが言うように、周囲の人間が自分とその少女を見えていないように振舞っていたから、その可能性は高いかもね」
「となると幻術を使う幻獣種というのも信憑性が増すな。戦う事になるのだとしたら何か対策が打てそうか?」
「幻術を使う存在と直接対峙した経験があるわけじゃないから、これだけじゃ何とも言えないけど……」
幻術……幻、混乱させる、在りもしないものを在るように見せる……考え込んでいると、ふと思い浮かぶものがあった。それは人間だった頃に読んだ本。
それを手がかりに、ちょっと【竜憶】を検索してみる。すると幻術についての知識がいくつか見つかった。
「うーん。もしかして……」
「何か思い当たる事でもあったか?」
「絶対じゃないけど、竜の知識で調べてみたらちょっと気になることがあった。過去の竜が幻術を使う魔物と戦った記録があるんだけど、古竜に直接幻術をかけるのは難しいみたい。簡単な幻を見せられたりはしたみたいだけど、何もできなくなるほど惑わされたりはしなかったって残ってる。だから竜の姿に戻れば完全に対策はできないかもしれないけどある程度は無効化できるのかもしれない」
古竜の体は星素の影響か元々の頑強さのせいか、人間の魔法にはかなり抵抗力があるようだった。同じように他の術に対して抵抗力があるのかもしれない。しかし人間の姿ではその限りではないだろう。
もしも完全に認識を狂わされ、それを解除するすべが無かったらその時点で負けが確定する。それは避けたいところだ。いざとなれば竜の姿に戻ることで攻撃を無効化できるかもしれないとわかっただけでも収穫か。
【竜憶】で戦った竜の記録では直接幻術をかけられることは無かったらしいが、幻術で操られた他の魔物の相手が大変だったと残っている。
そして更にその情報の中に自分の知識と類似する点が見受けられる。
「何も無いよりはいいだろう。王都にはこのまま滞在しなければならないし、戦うのはもう避けられん。なら少しでも相手の手の内を考えておかねばな」
「……本当に大丈夫ですか?」
「話をしてみてそこまで残虐な相手ではないと感じたから、大丈夫だと思う。もし勝てなくて追い出されちゃったら他の手段を考えるよ」
その姿と声のせいもあったのかもしれないが、いきなり襲い掛かってきたり、気付いていたはずのアンナ達を狙ったりはしなかった。その点からもそこまで凶悪とは思えない。
追い出すという表現はしていたが、命を奪うということも言っていなかった。
もし確実に自分達を排除したいのなら、回りくどい警告などせずに背後から襲い掛かって始末すればいいはずだ。しかしあの少女は自身の姿を見られることも厭わず、わざわざ話し合いの場を設けてくれた。
無論それだけの強さがあり、余裕があるということも考えられるが……。
「無理はしないで下さいね。……もう、一人には……なりたくありません……」
「安心して。無理なら逃げてくるから。僕もまだ死にたくはないし」
不安そうに目を伏せたアンナの頭に手を置いて、優しく撫でる。それでちょっとは安心してくれたのか顔を上げてくれた。
「ではクロが戻るまで私とアンナはポロと一緒に居よう。……クロ、私も仲間を失いたくは無い。無事に戻ってきてくれ」
「わかった。まだ約束も果たしていないしね」
返事を返したが、その直後にメリエに【伝想】で意思を飛ばす。
「(だけど、もし僕が戻らなかったら、夜明け前までに三人で王都を離れて。アンナは嫌がるだろうけど無理矢理にでも連れてってね。その後のことはメリエに任せるよ)」
「(! ……わかった)」
アンナにこれを言えば戦いの場に付いて行くと言いかねない。メリエなら状況を鑑み、最善の方法を選んでくれるだろう。万が一のことは想定しておかねばならない。
「(だがな、クロ)」
「(ん?)」
「(私もアンナも、クロが戻らなかったら……いや、何でもない。忘れてくれ)」
「(……)」
最後にメリエから気になることを言われたが、そこで話を終えた。メリエの様子から深く聞くのを躊躇われたため、追求はしなかった。
その後、夕方になるまでは時間が空いたので食堂に行ってちょっと早い夕食を済ませる。
食事後は部屋でアーティファクトの調整をしておき、幻術の対策になりそうなことを【竜憶】で更に調べておいた。
調べてみると幻術にも大まかな分類があるようだった。単純に幻を作り出して見せるものや、ポロやメリエが言ったように精神に働きかけるものなどだ。幻術を使う者と戦った記録しかないので、もしかすると他にもあるのかもしれない。
竜の記録に残っている情報を探っていくと、やはり自分の予想していることに近い気がする。完全にそうだとは言えないかもしれないが、幻術というものの理論的な部分はある程度予測することができた。
後は実際にこの目で見て判断しなければならないだろう。念のためアンナ達に渡してあるアーティファクトもその辺の対策もしておくことにする。
最悪の場合は竜の姿に戻ってしまえば何とか対抗もできそうだし、逃げるだけなら何とかなりそうだ。
そうして時間を潰していると、やがて日が地平線に近付いてくる時間になった。
「じゃあ行ってくるね。アンナ達もアーティファクトを外さないようにね」
「はい……気を付けて下さいね。クロさん」
「うん。一応もう一回説得してみるよ。ダメなら仕方ないけど……」
「クロ、その……ま、待っているからな」
「(お気を付けて)」
「ん」
不安そうな三人に見送られ、ポロの居る走厩舎を出る。三人のためにも油断せずに行こうと頬をパチンと叩いて気合を入れる。
あの少女は見張っていると言っていたので、恐らくどこかで自分のことを観察しているか気配を探っているだろう。
自分が動き出したとなれば、そのつもりなのだと悟るはず。念のため自分が居なくなった後にアンナ達を襲わないようにアーティファクトでの防備も固めてきた。何かあれば即座に知らせるようにも言ってある。
神経を緊張させながら昼間少女を追って歩いた道を辿る。
夕暮れに差し掛かる時間帯になっても昼間と同じで人々の活気は衰えない。早い時間から衛兵と思われる人が道の中央に篝火を置いて夜に備えていた。
夕焼けに染まっていく空を見上げながら思う。
……正直に言えば恐い。
手を抜いても問題なかった野盗や魔物とは違う。以前襲ってきて、始めて命を脅かされる恐怖が背中を走ったあの剣士との戦いが蘇る。今度の相手も自分の命を奪えるほどの存在かもしれない。そんなのと戦うとなれば怖気も湧くというものだ。
しかしそれでも、母上に言われ、貫きたいと思った自分の想いを裏切りたくは無い。シェリア達との約束を守るためにも、そしてアンナ達を失わないためにも、立ち向かおうと思う。
決意を新たにし、数時間前に訪れた建物の前にやってきた。
やはり衛兵の二人が立っていたが、また様子がおかしい。自分が見えていないようだ。ということは中にはもう少女が居るという事だろう。
衛兵二人の間を静かに通り過ぎ、薄暗い廊下を歩いていく。
最後の扉を開けて昼間に少女と対峙した試合場のような場所に出る。
やはり少女はそこに居た。目を閉じて静かに佇んでいる。
空に残る夕日の光に代わって、猫の目のような細い月が空の主役となり星が瞬き始めた夕暮れ時の空。その空の下で観客のいないステージに立つ少女。そして弱いスポットライトのように仄かに差し込む夕日の残光。その光に煌き風に揺れる少女の髪。
緻密に描き込まれた絵のように美しく、荘厳さを感じるその光景。
目に映ったそれは場違いな状況であるにも関らず、自分の胸を打った。
空が見えているといっても照明などは何も無いため、日が陰ればすぐに暗くなるだろう。今のところは夜目の術は必要無さそうだが、時間が経てば使う必要が出てきそうだ。
少女はゆっくりと目を見開き、視界に自分を捉えた。
「……ここに来たという事は……」
「その前にもう一度話をさせて欲しい。何十日も居座るということは無い。用事にかかるのは長くても十数日くらいだ。それまで待ってくれないか?」
「くどい。先程もう譲歩はしないと言っただろう。何故先に居を構えて穏やかに暮らしていた私が、後からやってきて勝手を言うお前の願いを聞かねばならない? 図々しい。自然の理の通り、己の意を通したければ力で押し通すのだな」
「そうか。じゃあ仕方が無い。こちらも、はいそうですかと引き下がることはできない」
「フン。では、約束通り、お互いの力で語るとしよう」




