はじまり
空が飛びたい。
いつからそんなことを思うようになったのだろう。
有名なあのロボット猫の漫画の影響だろうか。
いや、もっとずっと前。
まだ小学校にも上がる前から空を見ていた気がする。
雲の流れを見上げるのは飽きない。
夜の星空も好きだった。
春の穏やかな空。
夏の厚い雲だらけの空。
秋の雲が高い空。
冬の凛と澄み渡る空。
飛んでみたかった。
自分の身ひとつで。
自由に。
鳥のように。
そんな想いを燻らせたまま、大人になる。
現実はそんな儚い夢などありもしないといわんばかりに現実だった。
つまらなかった。
見えてしまう。
自分の行く先が。
将来に不安ばかり感じさせるニュース。
自分が社会という巨大な物の部品でしかないと感じるつらい現実。
部品は不都合が出ればすぐに取り替えられる。
その程度の存在。
希望の感じない灰色の未来。
そこで生きる人々。
数年後、お前もこうなるのだと突きつけられているようだった。
外れることはできたかもしれない。
でも、できなかった。
外れる勇気などなかった。
結局、一番当たり前な道を選ぶ。
世界はまるで壁にかけられた絵のように、どこか空虚だった。
自分のことしか考えない人間に嫌気が差していた。
たまたま自分の周りにはそんな人ばかりだったのかもしれない。
でも、それが自分の世界である以上それが全てだ。
人間が信用できなかった。
いや、まず自分が信用できなかった。
自分が嫌悪しているのは自分自身だった。
自分が自分のことしか考えていない、自分が嫌いな人間だった。
自分も誰かを助けてあげられる人間になりたかった。
自分よりも相手を優先してあげたかった。
でも、できなかった。
自分を守ることで精一杯だった。
夢を、将来を、人を諦め、ただ日々を生きていた。
いや、生きていなかった。
死んでいなかっただけだ。
そんな中、誰かのために動いたことがあった。
いや、動こうと思ったわけではなかった。
体が勝手に動いていた。
助けたかった。
誰にも手を差し伸べてもらえず、消えていく命を。
冷たい水の底に沈むしかない運命から。
それが人じゃなくても。
小さな命でも。
自分は変えられなかった。
夢を諦めた。
未来を諦めていた。
そんな自分でも変えられるかもしれない。
手を伸ばすだけで未来を創ってやれるかもしれない。
そう思ったのかもしれない。
その代償は、自分の命となった。
呼ぶ声が聞こえた。自分の名前じゃなかったけど、自分を呼んでいる。そんな気がした。
聞こえる方に手を伸ばすと、手が温かい壁に当たった。体育座りのような姿勢で狭い部屋に閉じ込められているようだ。
(なんだろう。温かい。閉じ込められてる?)
何だか壁の触り心地というか感触が不思議なものだったが、手に力を入れて押してみるとピキッという音と共に僅かな光が入ってくる。
(脆い壁……)
両手と足も動員し、更に力を込めて壁を押すと亀裂が広がり壁の一部が崩れた。それと同時に目も開けていられない程の強い光が差し込み、思わず目を眇める。
「おお。もう少しだ」
光の向こうから声がかけられる。聞いたことも無い声だったが、どこか懐かしく優しさを感じた。不意に昔、母親に朝起こされた時を思い出した。
薄らぼんやりとする視界で周囲を見渡すとごつごつとした岩場のようだった。
「よくぞ目覚めた。我が子よ」
(お? ……お? お?)
徐々にはっきりとしてくる視界に移ったそれを見て、驚愕した。
遠近感がまだはっきりとしないが、それでも見上げなければならないほどの巨大トカゲのような生き物がこちらを見下ろしていた。
竜。
そんな単語が過ぎった。
銅のような色をした体と、背中に折りたたまれた翼。鋭い牙や爪。爬虫類のような目。今まで生きてきて見たことの無い生き物だ。少なくともこんな生物がいたという覚えはないし、いたら必ず記憶に残っているだろうという圧倒的な存在感だった。
いや、恐竜とかは当てはまるか。でも実物がいたわけじゃない。
それが生きて動いている。
驚きのあまりそれを見上げたまま固まっていると、見た目とは違い、穏やかな口調で話しかけてきた。
「黒鱗……十以上も子を産んできたが、黒……」
(竜……。竜だ……。何で? 現実? どうなったの?)
夢か幻か。
だが体から伝わる感覚はそうだはないと告げているようだった。
自分を見下ろしてつぶやく竜の言葉に、ふと自分の手を見やった。
(……え?)
自分の手。
人の手じゃなかった。
硬そうな黒光りする鱗に覆われ、指は四本。
まるでナイフのような鋭い爪がにょきりと生えている。
手を動かしてみる。
やはりこれが自分の手のようだ。
触覚はやや鈍い気がするが、ちゃんと感じる。後になってから鱗なのにどうなっているんだろうと思った。
鱗に光が反射し、綺麗な虹色に煌いている。
爪はまだ柔らかいようで力を入れて手をグーパーするとグニッと曲がるが、しなやかですぐに元に戻った。
鼻の上には三角錐の黒い角が生えており、視界に入って少し邪魔だ。
首を動かして自分の体を見てみる。
足も同じような鱗で覆われ、手よりも若干太い。いわゆる西欧竜のような外見だった。首が長いから違和感が凄い。
体をぺたぺたと触ってみるが、昔動物園の体験コーナーで触ったワニの触り心地に似ている気がする。あまりガチガチに硬いわけではなかった。
後ろに目を向けると体長と同じくらいありそうな尾が生え、背中には翼膜のある翼が二枚折りたたまれている。
まるで蛹から出たばかりの蝶のようにしわしわになっていて頼りないが……。
体長は尻尾まで入れて1mくらいだろうか。背後には自分が入っていたと思しき巨大な白黒の斑模様の卵の殻が転がっている。
改めて自分の置かれた状況を噛み締めて、思わず……
(えええええええええ!)
悲鳴を上げたが、口から出たのは人の言葉ではなく「キャァー」といった鳥のような鳴き声だった。
こうして人ならざる産声と共に、竜のいる新たな世界で、竜としての人生(?)が始まった。