咳唾成珠
「こちらにて、お待ちください」
そうして待たされること早一刻。
私達は、清涼殿昼御座前に控え、天子様のご登場を今か今かと待ち構えている。
いや、正確には、構えているのは私だけかもしれない。
「…おい、晴明。あやつは何をもたもたしておるのだ」
「…知るか。お前が確かめて来れば良いだろう」
かの天子様をまさかの「あやつ」呼ばわりとは…
…私はこの場を全力で離れてしまいたかった。
しかし…
『千代様…どうか、晴明様を…』
紅葉さんのあの切ない顔を思い出すだけで、ぎゅっと胸が締め付けられた。
手首に光る数珠にそっと触れる。
どうやら晴明様達はこの数珠には気づいておられないようだ。
袖が少し長めであるため、手首まですっぽり覆われてしまうからであろう。
気づかれて困るものではないのだろうが、わざわざ自分から話す程のことでもない。
この数珠が何なのかは少し気になるが、それも、無事帰り、紅葉さんに直接尋ねれば良いだけの話だ。
そんなことより、少し気になったのは、晴明様の口調のことだった。
日頃は、どんなに身分の低い者に対しても、決して礼節を忘れることはない晴明様が、「知るか」と突き放し、「お前」とお呼びになる芦屋道満が少し引っかかったのだ。
『二人は一体どういったご関係なのだろう…』
私が気になるのも無理からぬ話であった。
今この場で尋ねるのは少し憚られるが、気になって仕方が無い。
それに、この機を逃しては、再び尋ねる機会も得られそうにない。
少しだけ…
「あ、あの…晴明様…その、道摩法師とはどういったご関係…」
そのときだった。
--スパンッッ!
目の前の障子が勢いよく開かれ、
「すまぬ!晴明!道満!寝坊した!」
一人の男が、現れた。
透き通る程に色が白く、瞳も髪も真っ黒で、それらが日の光によってきらきらと輝いている。
衣装は文官束帯なのだが、そこらの役人の着ているものとは、似ても似つかぬ品々であった。
しかし、そのような美しい優雅な佇まいとは対照的に、額には汗が滲んでおり、息が少し乱れているようだ。
まさか、このお方が…?
「…遅いではないか」
「…寝坊とは?」
どうやら間違いないらしい。
二人の陰陽師の不機嫌そうな視線を一身に受けるこの方こそ、今上天皇その人であった。
『しかし、この様子を見る限りだと、天子様はここまで走って来られたのか…』
唯一絶対の天子様を走らせるとは…本当に、この二人は何者なのだろう…。
それにしても、
『なんと美しい方だろう…』
見れば見るほど、天子様のお姿はこの世のものとも思われない程に優美であった。
供の一人も付けずお一人で駆けて来るという、非常識ともとれる振る舞いをなさっているにも関わらず、見苦しいとは全く思われない。
行動の一つ一つが洗練されているかのような、ただ私たちの前に座すという動作一つを取っても、目が離せなかった。
私は場違いなのではないだろうか、とそんなふうに思えてしまう。
そんな私の不躾な視線を感じたのか、天子様の目が私に向けられた。
「彼女は?」
一瞬、自分のことを言われているのだと気づけなかった。
何と返せば良いのかもわからない。
そのとき、そっと晴明様の手が、私の手に添えられた。
そのまま、優しく握られる。
大丈夫だ、とそう言われているようで、肩に入っていた力が一気に抜けていくのが感じられた。
「私は、先日、こちらの晴明様の弟子と相成りました、天崎千代と申します。
若輩者故、至らぬ点も多々御座いますでしょうが、どうか、お許しくださいませ」
そうして、ゆっくりと頭を下げた。
いつの間にか、晴明様の手は、離されていた。
もう大丈夫だ、と判断していただけたのだろうか。
…それならば、とても嬉しい。
「まぁ、そう固くなるな。
そうか、お主が千代であったか。
宜しく頼むぞ」
私の不十分な返答にも、天子様は気さくに答えてくださり、あろうことか、手を差し出された。
これは…
「なんだ?
私の手は別に汚くはないぞ?」
からかっておられるのだろうか。
私の目の前で、ひらひらと手を振っておられる。
その笑顔には、どんな打算も含まれてはいなかった。
何だか、本当に固くなっていた自分が馬鹿らしい。
「はい!宜しくお願いします!」
私は遠慮なく、天子様の手を握らせていただいた。
「…そこまですることはないだろう」
見ると、不機嫌そうな晴明様の視線が、私達を捉えていた。
…やはり、握手は無礼であったか…。
「…お許しください…」
何だか恥ずかしくなってしまって、そっと天子様の手を離し、居住まいを正した。
天子様は、不思議そうに晴明様を見つめておられる。
「何も怒ることはないだろう、晴明。
千代も驚いているではないか、なぁ?」
…恐ろしくて、晴明様と目を合わせられない…。
帰ったら、きっと嫌味を言われるに違いない。
確かに、いくら気さくな方であったとはいえ、あろうことか天子様のお手を握ってしまったのは、まずかったのかもしれない。
「…怒ってなどおらぬ」
そう言う晴明様の声音は明らかに不機嫌そうだ。
「それにしても、晴明が怒りを表すとは…明日は槍が降るのではないか?」
にやにやと笑いながら、そう言った道摩法師の指摘に、私は、はっとした。
確かに、晴明様の不機嫌そうなご様子など、これまで見たこともなかった。
まさか…
「晴明様、どこかお加減でも悪いのですか?」
私のその問いに、二人は吹き出し、一人はそっと溜息をついた。
この反応は、何なのだろう。
「…いや、もう良い。気にするな」
そう言うと、晴明様は、いつもの様子にお戻りになり、
「それでは、天子様、何故我等をお呼びになったのか、お話しください」
いきなり核心へ、触れた。
「あぁ、そうだな、そうしよう」
天子様も、先程までの気さくな笑みを消し、真剣な眼差しで語り始めた。
「ことの発端は、難波の豪雨だ。
雨が降らねば民達の身は立たぬが、降り過ぎも困ったものでな。
ここ一月程、毎日土砂降りの雨が降り続いているのだ。
川が溢れ、作物の根は腐り、土砂から逃げ惑う毎日。
民達の心は荒れている。
彼らは限界だ。
それ故…ありもしない噂が立っているのだ」
「噂…ですか?」
よくある話だと思った。
天災が起これば、すぐに祟りだの何だのと結びつけて怯える。
人の心は、脆いのだから。
「あぁ、そうだ」
その雨を術で止ませろ、と仰りたいのだろう。
「それは、どのような?」
しかし、晴明様のその問いに、何故か天子様は、口籠った。
一瞬のことでは、あったけれども。
「…これは、安倍晴明と、信太の森の葛の葉の祟りだ、と」
「…え…?」
わけが、わからなかった。
「…そういうことか」
しかし、晴明様は、表情を全く崩されない。
「根も葉もない噂であることは、承知している。
だが、民達がそう噂を交わすのも頷けるのだ。
何故なら…」
「雨雲が、信太の森から生まれているから…ですね」
「その通りだ」
会話が、全く見えない。
何故、信太の森から、雨雲が…?
何故信太の森と晴明様が結び付けられてしまうのだろう…
それに…葛の葉とは…?
「お主がこの件とは無関係であることは、重々承知だ。
だが、それでは民の気が静まらぬ。
それに、とうとうその雨雲が、この京にまで、流れ込んできた。
ことは一刻を争う。
他ならぬ、お主に解決してもらわねばならぬのだ」
そこで、天子様は、一旦お言葉を切り、そして…
「…すまない、晴明…」
あろうことか、頭をお下げになったのだ。
言葉も、出てこない。
何故、天子様がかような表情をなさるのか。
聞きたかった…だが、この場では、どうしても、聞けなかった。
「分かりました。
信太の森へ向かいます」
いつも通りの晴明様に、むしろ不安を感じてしまう。
「何が起こるか分からぬ。
道満も、他方面から当たらせる。
だから…無理はしてくれるな」
天子様のお言葉に答えることなく、晴明様は、静かに、席をお立ちになった。