切歯扼腕
「誠に…助かりました…ありがとうございました…」
藍と名乗ったその女性は、そう言って慇懃に頭を下げた。
あれからすぐに場所を移そうということになり、今私達はその女性の実家だという薬屋に招かれている。
私達がその家の敷居を跨ぐと、気の強そうな初老の男性が、驚きを隠せない様子で出てきた。
その男性は事の顛末を聞くとすぐに座敷の用意をし、私達を中へ案内した。
どうやら彼女の父親のようだ。
その女性、藍は現在、父親と二人暮らしなのだと言う。
なんでも、母親が数年前に突然姿をくらましてしまったらしい。
父親は未だに彼女を必死で探しているらしいが、消息は掴めていないそうだ。
「是非お礼を」と、招かれたのだが、いつの間にやら父子揃っての不幸自慢になりつつある。
私はこっそり嘆息し、ちらりと隣の晴明様を盗み見た。
相も変わらずいつも通りの微笑を浮かべており、実際、きちんと相手の話を聞いているのか、かなり怪しかった。
そのため、その口から…
「それならば、私どもが調べてみましょうか」
…などという言葉が飛び出してくるとは、全く予想だにしていなかった。
「晴明様、一体…?」
私は思わずそう言って、怪訝な視線を清明様に送ったのだが、晴明様はといえば私に少し視線を向けると、黙っていろとばかりに微笑みかけるだけだった。
「本当ですか!?」
対照的に、藍の父は喜色満面、喜びを隠そうともしていない。
まだ見つかったというわけでもないのに。
まぁ、わからないでもない。
これまでどれ程孤独に愛する妻を探し続けてきたことか。
変人扱い、奇人扱いもされてきたことだろう。
妻に逃げられた憐れな男だと後ろ指を指されることだって決して少なくなかったはずだ。
私としても、何とかしてあげたいとは思った。
しかし、ただ単純に奥方が結婚生活に嫌気がさし、出て行っただけ、という可能性が一番高いのも、また事実であった。
それこそ、通りすがりの陰陽師とその弟子の出る幕ではない。
『どういうおつもりなのだろう…』
事細かに当時の状況や事の顛末を語る藍さんの父親の話に耳を傾けながらも、私の意識は始終、晴明様に集中していたのだった。
「どうしていきなり協力を申し出たりなさったのですか?」
私達は現在、土御門の邸への帰路を比較的足速に進んでいた。
「まぁ、何となく、だな」
これまでは比較的体力には自信があったのだが、今日でその自信はすっかり打ち砕かれてしまった。
疲労が全身にのしかかり、足は鉛のように重い。
それを晴明様に合わせて無理に動かしているのだから、今にも筋肉がちぎれてしまいそうだ。
言うまでもなく、晴明様の顔には全く疲労の色が見られない。
『本当に、この方は何者なのだろう…』
内心愚痴を漏らしながらも、私はきちんと晴明様に応答をする。
「何となく、ですか。つまり、根拠はないと?」
言葉尻は少々刺々しくなってしまっていたが。
しかし、晴明様はどこ吹く風で
「ないことはないのだが」
と微笑している。
私は軽く溜息をついて、
「では、その根拠とやらを早く教えては頂けませんか?」
と頼んでみた。
「まぁ、そう急かすな」
とかわされてしまったが。
全くこの方は、何を考えてらっしゃるのか本当にわからない。
私はその場に座り込んで、頭を抱えてしまいたかった。
勿論、人目も気にせずそんなことが出来る程、愚か者ではなかったが。
しかし、自分をこのような人物のところへ送り込んだ祖父への腹立たしさは増す一方だ。
『孫が可愛くないのか!』などとは思わない。
決まりきっている。可愛いはずがないのだから。
可愛い子には旅をさせろとは良く聞く諺だが、少なくとも可愛い子に旅をさせるときは、最低限の旅賃と手荷物と確かな目的を聞かせてからさせるものだろう。
絶対にわけのわからないまま、何も持たされずに放り出されるようなことはないはずだ。
しかし、このような仕打ちを受ける程のことを自分がしたとも思えない。
『せめてもう少し、常識と良識を兼ね備えた方の下へ送ってくださればよかったものを…いや、せめてもう少しだけでも、人の話を聞いてくださる方ならば…』
―…私は案外、苦労人なのかもしれない。
私はまた一つ、今度は深い溜息を漏らした。
屋敷に到着すると、私はすぐにあてがわれた部屋に向かい、縁の際に座り込んだ。
幸いなことに、私の疲労の一番の原因になりうる晴明様は、玄関を入るとすぐに紅葉さんを呼び、何処かへ行ってしまった。
本当に、幸いなことだ。
しかし、晴明様は、何故あの男性に協力しようとしているのだろう。
藍さんが絡まれているときは、あっさり見捨てようとしていたのに。
その償いのつもりなのだろうか。
どう考えても、私達の出る幕ではなさそうなものなのに。
『本当に、わからない…』
いい加減足も痺れてきたので、その場に横になることにした。
世の女性が見たら唖然とすること必須の体勢だ。
ひょっとしたら男性も開いた口が塞がらないかもしれない。
だが、この屋敷には晴明様以外の人の気配はしないし、このような屋敷に詰めて来るような方がそうそういるとも思えなかった。
『静かだな…』
大胆に寝転びながら、私は庭を眺めた。
『夕暮れ時は、人を寂しくさせる』とは、これまたよく聞く表現ではあるが、しかし、それを抜きにしてもこの場所は何とは無しに人を寂しくさせる場所だった。
世界がこの屋敷の中で閉じてしまっているような、そんな錯覚に襲われる。
『晴明様は、ここに独りきりで暮らしておられたのか…』
―…そう思うとやり切れない。
私だって決して人付き合いの多い方ではなかった。
しかし、常に家の中には誰かがいて、誰かの気配を感じながら生きていた。
正直、鬱陶しい、とも思っていた。
気遣うような視線も、哀れむような視線も御免だ、と内心辟易していた。
しかし、本当の孤独を目の当たりにしてみると、自分はなんて恵まれていたのだろう、と涙が出そうになる。
晴明様の冷たい微笑が自然と思い起こされる。
『あれは、笑っておられるのではない…』
―…泣いておられるのだ。
「……随分大胆だな」
びくっと体が震えた。
視線を上へ上げると、いつもの微笑ではなく、少し呆れ顔の晴明様がこちらを見下ろしていた。
その顔を見た瞬間、私はどうしようもなく心が乱れて、涙が止まらなくなってしまった。
晴明様はぎょっとしたようで、どうしたら良いのかわからない、といった様子が傍目からでも十分過ぎるほど良くわかった。
なので、この際涙が流れるのは仕方のないこととして諦め、
「申し訳ございません」
と、居住まいを正し、
「何かご用でしょうか?」
と、ありったけの笑顔を以て尋ねてみた。
晴明様は、また少しだけその目を見開かれ、すぐに私に背を向けて、
「今日のことで話がある。座敷で待っている」
とだけ言い置いて、私の部屋を後にしたのだった。
私が座敷に着くと、晴明様はゆったりとくつろいだ様子で、やはり顔にはいつもの微笑が浮かんでた。
私は、あえて晴明様のものとは違う種類の微笑を顔に浮かべ、
「失礼致します」
と敷居を跨ぎ、晴明様の真正面に腰を下ろした。
晴明様は「あぁ」とだけ返事をし、すぐに「あの初老の男性の話なのだが」と切り出した。
ので、私も先程のことには一切触れず「はい」とだけ返した。
晴明様は、これは先程紅葉に確認を取らせたことなのでまず間違いはないのだが、と前置きをして話を始めた。
―…今から約二十年前、京である女性が亡くなられたらしい。
恋姫と呼ばれ、人々の間では、
『一目見れば必ず恋に落ちる』
と噂される程に美しい姫君だったそうだ。
身分も上の中、和歌も琴もきちんと嗜み、物腰も柔らかな、それは立派な女性だったらしい。
そんな彼女自身も、いつしか恋に落ちていた。
きっかけは、彼女の女房(世話係)が火傷を負ってしまったとき。
薬を持ってきて、それだけではなく、毎日のようにその女房の経過を見に来ていたそうだ。
その優しさに、心底惚れ込んでしまった、と。
しかし、姫君と一商人では身分の釣り合いが取れなさ過ぎる。
恋姫は、近いうちに入内することが父親によって決められていたそうだ。
そして更に酷いことに、その男はその女房に恋をしてしまっていたのだ。
絶望に打ちひしがれた恋姫は、入内の前夜、自らの首に刃を当て、自ら命を断たれたそうだ。
「そのときの薬屋の男性が、藍殿の父上にあたり…その女房というのが、現在失踪中の母親にあたる」
そう言って、晴明様は説明を終えた。
「そんな…」
聞き終えた私は、どうしようもない脱力感に囚われた。しかし、晴明様は、
「まぁ、そう珍しい話ではない」
と本当に大したこともなさそうにそう言って、
「しかし、問題なのは恋姫が自分の女房に呪いをかけてしまったことだ」
と、苦々しげに呟いた。
「…呪い?…自分の女房にですか?…いくら恋敵とは言え…」
「いや、あれは呪いだ。何処で覚えたのかは知らないが、故意に施されたものに違いない」
晴明様は軽く溜息をつくと、
「『あの女に娘が生まれたとき、その娘が十三歳になったと同時に、あの女が薬屋の殿方とその娘のことを忘れてしまいますように』といったところだろうな」
…それは、酷く解りづらい呪いだった。
結婚したらすぐに二人とも死んでしまえ、とか、そちらのほうが余程解りやすくて、恨みが篭っているように思える。
しかし、よくよく考えれば、それは何よりも残酷な呪いだった。
女房は、愛する夫と娘のことを永遠に思い出すこともなく生きていかなければならない。
娘は、急に母親を失い、父親と二人きりでの生活を余儀なくされる。
最も哀れな薬屋の男は、愛する妻を探し続け、周囲に笑われ、後ろ指を指され続ける運命を背負わされたのだ。
「酷い…」
思わず、そう口をついて出てしまったのだが、この場合、酷いのは一体誰だろう。
恋姫?その父親?
女房?薬屋の男?
はたまた、運命、そのものか。
「どうしたら良いのでしょうか…」
そのときの私は、余程絶望的な顔をしていたのだろう。
晴明様は苦笑して、
「その女房は死んでいないのだから、まだ手は残されているさ」
と、気遣うような声音で言われた。
その声につられて顔を上げると、晴明様は立ち上がり、襖の方へと歩いて行った。
そして、こちらを振り返ると、不敵に笑い、
「どうした?さっさと仕度をしなければ、置いていくぞ」
既に筋肉が痛み始めている私に構うこともなく、襖の向こうへと消えてしまったのだった。