六韜三略
朝の眩しすぎる光が、容赦なく瞳を刺す。
否、朝と言うべきか?
「起きたか」
「……すみません…少し疲れていたみた……え?」
私は寝起きの、あまり回らない頭で、必死に状況整理を試みた。
しかし、望ましい答は出て来ない。
「あの…どうして晴明様が…」
昨晩、挨拶も程々にすぐに部屋へと案内された。
通された部屋は、調度品などは殆どない、簡素で、だだっ広い御座敷。
しかし、座敷自体の造りやそこから望める庭の風景、それから一つだけ掛かっていた掛け軸に、晴明様のこだわりを見たような気がした。
非常に好みの部屋であったが為に、私の喜び様は、一通りではなかったのだが…。
『確か、あのあと紅葉さんが床の用意をしに来て下さって…すぐに眠ってしまったはず…』
何故この屋敷の主が自分の枕元に座しているのかが、わからない。
「それに…いつからおられたのですか…?」
私の慌てふためく姿を面白そうに眺めていた晴明様が、ついに声を立てて笑い出した。
「安心しろ、何もしていないさ。先程紅葉に『何度起こしても起きない』と呼ばれてな」
求めていた答が返ってきたにもかかわらず、私の意識は全く別の方向へ向いていた。
『ときには…こんな笑い方もなさるのか…』
ずっと平淡な微笑を浮かべている晴明様の笑い顔は、驚く程に新鮮であった。
「どうかしたか?」
どうやら、顔に出ていたようだ。
私は、今更自らの顔の緩みに気がついた。
「いえ、ただ、そんなふうに笑われることもあるのだな、と思いまして。私は、そちらの笑顔のほうが良いと思いますよ」
一瞬、晴明様の顔からは先程の笑い顔どころか、いつもの微笑までもが消えてしまった。
しかし、それはあまりにも一瞬の出来事であったため、私は僅かな違和感を覚えただけであった。
いつも通りの晴明様は片膝をついて立ち上がると、出口へ向かって歩きだした。
「今日はこれから京の町を案内するぞ。早めに支度を済ませておけ」
出ざまに、振り返ることもなく、そう言った。
晴明様と私が供の者もつけずに門前に出た頃には、太陽は既に頭上でぼんやりと輝いていた。
「今日はあまり遠出は出来ぬな」
「…すみません」
「まぁ良いさ。それは次の機会にしよう」
そう言うと、晴明様はすたすたと歩き始めた。
「徒歩で行くのですか?」
「遠出はしないと言ったではないか」
『いくら近場だと言っても、こんな身分の方が徒歩で町をうろついていて…本当に大丈夫なのだろうか…』
私の案じ事など露知らず、晴明様はどんどん先へと進んで行く。
「あ、待って下さい!」
私は急いでその後を追った。
七九四年、当時奈良にあった都が此処、京都へ遷都された。
理由としては様々なものがあったようだが、最も一般的な見方としては、桓武天皇が僧侶の政治干渉を嫌った為らしい。
そのような事実も、今となっては随分昔の出来事となってしまっている。
まだ若い私にとっては、まるで民話を聞いているかのような気分だ。
本当に、今自分の生きている世界でそのようなことが起こったのか…と。
現在、此処京は村上天皇により治められている。
村上天皇の治める今のこの世は「天暦の治」と呼ばれており、かの醍醐天皇在世の世と並び「聖代」と言われる程に平和な世の中なのだ。
貴族中心の文化であるために、寺院の造りから町の景観まで、何もかも雅で豪奢。
唐の都、長安を参考にしたと言われている、この碁盤の目のような町並みは、まさに京の象徴と言えた。
「綺麗ですね。流石、花の都です」
行き交う華やかな外装の牛車や、町のあちらこちらに植わっている、紅く色づく紅葉に感嘆の意を示した。
私の家もけして田舎ではない為、自然、私も田舎者というわけではない。
しかし、やはりその故郷も京の都には遠く及びもしなかった。
「…この時期はちょうど紅葉が見頃だからな」
そのため、同意はするのだが、どことなく歯切れの悪い晴明様の反応が、何とも無しに気になる。
『晴明様は見慣れておられるから…』
結局そのように、安易な自己完結をするしかなかった。
それから、随分歩いた。
距離にしてみれば、さほど歩いてはいない。
しかし、様々な所へ立ち寄り、よろずのものを見て回っていたため、流石の私も、若干の疲れを感じてきていた。
京まで、徒歩でやって来た者が疲れを感じたというのだから、よっぽどのことだろう。
しかし隣を歩く晴明様は、涼しい顔で、すいすい前へと進んでいく。
『人は見かけによらない…』
私は内心、大きなため息をついた。
すると、先程まで無言であった晴明様がふと口を開いた。
「そういえば、聞きそびれていたな」
相変わらず急な話題提起だなと呆れながらも、少なからず私はその内容が気になっていた。
「はい、何でしょうか?」
「其方は此処までの道中、どのように生活してきたのだ」
つまり、どうやって京までの旅賃を稼いでいたのか…ということだろうか。
「稼ぐ手段としましては…歌っておりました」
何でもないことのように、さらりと答えた。
「…ほう、歌を…」
対照的に、晴明様は何度も頷きながら感心しているようだ。
「其方は、歌を歌うのか」
その感心ぶりに、私は急いで付け足した。
「歌う…と言いましてもけして上手いわけでは…ただ、他に生きていく手段が無かった…というだけで…」
自ら発した言葉に傷心し、ついつい俯きがちになってしまう。
「下手なのか?」
そんな私の様子に気づいているのかいないのか、晴明様の質問は容赦がない。
「はい、どちらかと言えば…」
私は半ば自暴自棄だ。
本当に上手い人でも、自分の歌をあからさまに褒めるようなことは、滅多にないだろう。
まして、自分は素人だ。歌に自信など、あるはずがない。
それなのに、そんな質問をぶつけてくるとは…。
良い大人なのだから、少しは気を遣うということを、覚えて頂きたい。
そんな私の思考は、次の晴明様の言葉を前にして、一瞬のうちに崩れ去った。
「しかし、それで此処まで辿り着けたのだ。其方の歌に何か感じた者も、少なからずいるのではないか?」
確かに言うことは的を射ている。
自分には、此処まで食べてこられた、という実績があるのだ。
これまで、そんなふうに考えたことのなかった私は、成る程…と感心していた。
「下手だなんて…今まで聴いてくださった方々に失礼ですよね」
私は、自然と清々しい気分になった。
「…いつか、聴いてみたいものだな…」
晴明様もまた、心なしか平時より柔らかな微笑を浮かべていた。
一条堀川に差し掛かると、突然、甲高い女性の声が、辺りに響き渡った。
それまで穏やかな散歩を楽しんでいた私達であったが、そのただならぬ様子に、歩みを止めた。
「晴明様、今のは…!?」
「あちらから…だな」
言うが早いか、晴明様はふわりと走り出した。
私も一瞬遅れで、後に続く。
しかし、いくら速く走ろうとも、晴明様との距離が縮まることはなかった。
むしろ、どんどん引き離されてしまう。
まるで、雲を掴もうとするかのようだ。
私が一条戻り橋を渡り終えると、既に晴明様は、傍の小路を覗き込んでいた。
急いで駆け付け、それに倣うと、暗闇の中で、幾つかの影の動いているのが確認出来た。
「あれは…?」
そっと晴明様の横顔をのぞき見ると、微かに微笑をたたえている。
「…どうやら、対象外のようだ」
踵を返そうとした晴明様の袖を、私はしっかりと握り締めた。
「待ってください!どういうことですか?」
晴明様は軽くため息をつくと、呆れたような表情になった。
「あの女は妖しに襲われているのではない」
「はい…?」
意味がわからなかった。否、言っている意味はわかるのだ。
だがしかし、それが一体何だというのだろうか。
「妖しではない…?」
「あれはただの京童部だ」
京童部…広く京の若者を指す言葉だが、どちらかと言えば品行の宜しくない者を指すことが多い。
つまり、女性が良からぬ輩に絡まれているわけだ。
「つまり…助けぬ…ということですか?」
「言っただろう?専門外だ。あれは我々の仕事ではない」
晴明様は、またいつもの表情に戻ると、私の手をさりげなくはらった。
「戻るぞ」
「…お断りします」
そう言うと、私は返事も待たずに小路へ駆け込んだ。
『助けないと…!』
ただ、それだけが、私を動かす原動力となっていた。
一人残された晴明は、小路に背を向けた。
「困った弟子だ…」
霞みの如く消えた、晴明の残した言葉が、しんみりと辺りに響いていた。
下卑た男達の笑い声が、狭い路に谺している。
晴明様の言っていた通り、一人の女性が数人の男に囲まれていた。
女性の頬は、既に涙で濡れている。
『なんて酷いことを…!』
私は、怒りで頭が真っ白になりそうだった。
実際、殆ど何も考えていられなかった。
『何としてでも、助けないと…!』
その想いに突き動かされるのみ。
「たった一人の女性相手に、一体何をしているんですか!!」
気がつくと、傍に積み上げてあった角材を片手に、声を上げていた。
驚いたのは、男達だ。
人気のないこの通路で、よもや誰かに見つかってしまうとは、予想だにしていなかった。
焦る男達の視線が、私を捉えた。
すると、その瞬間、その表情が明らかな安堵の意を示した。
「なんだ…女かよ」
「よかったじゃねーか。獲物が増えたわけだしよ」
「よかねぇよ、俺らが狙うのは上玉だけだ」
言いながら、男達は着実に私のほうへ向かってきている。
『…今のうちに…!』
「早く!逃げてください!!」
しかし、その女性はその場に座り込んで動こうとはしなかった。
ただぼんやりと私を見つめている。
『駄目だ…反応してもらえない…どうしよう…。とりあえず、この人達を何とかしないと…!』
ぎゅっと角材を握り締めた。
「何だ?やる気か?」
その様子を見ていた一人の男が、ずかずかと私の眼前へと進み出て、角材の先端を掴んだ。
「こんな物騒なもん、捨てちまいな。俺らと来いよ。悪いようにはしねぇさ」
「誰が…!!」
私は、男の手を振り払い、持っていた角材を思い切り振り上げようとした。
だがしかし、そこは男と女の力の差。
すぐに奪われ、放り投げられてしまった。
それでも、私は、男を睨みつけることをやめなかった。
「ちっ…気の強い女だな。面白味のかけらもねぇよ。…なぁ、こいつ少々傷物にしても構わねぇよな」
「あぁ、その程度の女、構わねぇさ」
男は仲間に確認を取ると、卑しい笑いを浮かべながら、その拳を振り上げた。
「その目が気に入らねぇんだよ!」
私は反射的にその瞳を閉じた。
瞬間、辺りに鈍い音が響き渡った。
私は後方に飛ばされ、そのまま倒れてしまった。
…だがしかし、妙だ。
『痛く…ない…?』
確かに飛ばされたはずなのだ。
しかし、全くと言っていい程、頬への痛みを感じない。
私は、恐る恐る前方へと視線を向けた。
「…え…!?」
声を出さずにはいられなかった。
「どうして…?」
先程まで私に絡んでいた男は、その場にうずくまり、悶えている。
そして、それ以上に…
「…本当に世話のかかる弟子だ」
困ったような何とも言えない表情をした晴明様が、こちらに視線を送っていた。
「晴明様…!?」
慌てて立ち上がろうとしたが、どうやら足首をひねったようだ。
上手く立ち上がれない。
「…まぁ、そこで大人しくしておくことだ」
そう言うと、晴明様はまた男達に向かい合った。
「おい、貴様ら。引き際というものは心得ているか」
いつも以上に感情の読めない平淡な声だった。
「何だ?てめぇ…俺らを誰だと…」
「それは、こちらの台詞だな」
「ぬかせ!!」
いかにも気の短そうな一人が晴明様に殴り掛かった。
だが、晴明様は動こうとはしない。
平然としている。
「あ、危ない!晴明様!」
しかし、その拳は晴明様に届くことはなく…宙を、殴った。
言葉通り、宙を殴ったのだ。
男は痛むのか、その拳を抑えてうずくまっている。
「何だ?何が起こったんだ…?」
「…見たいか?」
晴明様は怪しげに笑うと、僅かにその唇を動かした。
すると…
「な、なんだありゃあ…」
一同、凍りついてしまった。
私までも、唖然としている。
晴明様はそんな男達を嘲笑すると、
「堀川一条橋に隠してある式神だ」
何でもないことのように説明を入れた。
「式神!?」
「まさか…安倍晴明!?」
可哀相に、男達は傍目に見ても不様な程に、目の色を変えて逃げ出した。
後に残されたのは、私と晴明様、そして全ての原因となった、あの女性。
式神は、いつの間にやら消えていた。
まるで、先程までのことが、全て嘘であったかのよう。
ただ、漸く正気に返った、かの女性だけが、この事件の全てを物語っていた。