Chapter.01 「妹探して、森の中(前編)」
蝉の大合唱が盛大に鼓膜を震わし、濃い緑の匂いが鼻をツンと刺激してくる。
今、俺は森の中にいた。
言わずもがな、妹の咲良を探している最中である。
辺り一面に草木が青々としているが、道はしっかりと舗装されており、ここは森といっても森林公園で、中でも『一万歩コース』と呼ばれているウォーキングやジョギングの人気スポットらしい。
まだ歩き始めて十分ほどだが、もう背中には汗が滝のように流れている。
日差しは木々たちが阻んでくれているのでまだマシだが――、それにしても暑い。
今日は七月最終日。
俺は冬の三倍、夏が嫌いだ。
道場はサウナ状態になるし、何より防具類が臭くなる。小手とかもうヤバイ。もちろん俺は自分専用の防具を一式揃えているが、練習終わりの小手が放つあの臭いは絶対に俺のではないと思う。俺の汗があんなにもショッキングな臭いをしているなんて認めたくない。
そんな現実を打ち消すように、今朝も朝練終了後にたっぷり消臭剤を撒いておいた。ファ○リーズって偉大。剣道家の必需品。
そんなわけで今は俺の高校生活最後となる夏休み中なわけだが、我が校の剣道部は男女揃って、八月に入ってすぐの全国大会に向けての追い込みの為、合宿に来ていた。
なんと、今年の夏合宿開催場所は学校ではない。
校長曰く、
『前年度、華々しい成績を収めた剣道部は我が校の誇りである』
らしく、三泊四日の遠征合宿が実施されたのだ。
太っ腹にも道場を施設に持つ旅館が貸し切られ、更には練習相手としてこの近隣で最も強い高校の剣道部まで招待されている。
至れり尽くせりとはこのことで、それだけ我が剣道部が期待されているのはわかる。
でも、男子部員三人しかいないんですが……いいの?
まぁそれでも、前年度の華々しい成績とやらは事実といえば事実だ。
『第○△回 高校剣道全国大会 男子個人戦 優勝 武蔵野有馬』
『第○△回 高校剣道全国大会 女子個人戦 優勝 武蔵野咲良』
こう刻まれた二本のトロフィーが今も校長室の前で燦然と輝いているはずだろう。ちなみに俺は二年連続で優勝しており、この夏の大会で三連覇がかかっている。
もし達成されれば前人未到らしいが……、あまり興味はない。
なにせ俺は咲良の連覇にこそ期待と興味を抱いており、それは世間様も同様だ。
端正な顔立ちと艶やかな長い黒髪、それに実力まで兼ね備えている咲良はまさに向かうところ敵なし。
ある剣道雑誌では、
『桜花絢爛』
という二つ名まで頂いており、高校剣道界のスーパーアイドルとして扱われていた。
俺なんか、
『桜花絢爛の兄』
としてちょこっと取材を受けたに過ぎない。
言っておくが、それについて悔しいとかは一切ない。むしろ何よりも誇らしく、自分のこと以上に胸を張れる。
その雑誌も十冊買ったし、そのうち一冊は綺麗にばらして妹の記事ページだけをラミネート加工し、部屋に飾ってある。
だが、それを見る度にふと思ってしまうのだ。
咲良が遠い存在になってしまいそうで怖い。このまま人気が出て芸能人とかになったらどうしよう。グラビアで水着撮影、女優デビューでキスシーン……。
いいや、そんなのは認めない。断じて認めるわけがないし。
「ちょ、キミ……、顔が気持ち悪いのだよ?
もっと真面目に咲良さんを探したまえ」
真面目に妹のことを考えているこの俺に向かって、横に並んだいけ好かない男が妙に馴れ馴れしく、ウザったらしい口調でそう言ってきた。
「うるせぇバカ。暑苦しいから半径五〇キロ以内に近付くな」
「フッ、何を言う?
夏は暑いから夏なのだよ」
肩まで伸ばした髪をファサッとかき上げたその男。
名を小金城小次郎といい、今回の合宿に招待されたこの近くの高校剣道部の主将である。
小次郎は『小金城フェンサーズ』というフェンシング用品の製造販売を取り扱う会社を経営する家に生まれた長男らしい。
伸ばした髪は何とも剣道家らしからぬ風貌であるが、それは本人曰く、フェンシングのイメージを体現しているとの事だそうだ。
コイツがフェンシングに対してどんなイメージを持っているのか全く持って理解不能だが――、それを知りたいとは思わない。
コイツの情報に脳のリソースを割くくらいなら一枚でも多く咲良との思い出画像を保存するね。
「つか、なんでお前ついてくんの?
そっちの部員はもう全員帰ったんだろ?」
俺は言葉にたっぷりと不満を込めた。
四日間に及ぶ合宿は今日の朝練を持って終了となっており、俺たちも昼過ぎには帰ることになっている。小次郎の部員たちはとっくに解散となっているのだ。
「ああ、それなら心配には及ばないさ。爺に迎えを寄こすように伝えてある」
別にお前のことを気遣って聞いたんじゃねぇ。
ちなみに爺とは単に、コイツのじいちゃん、祖父のことだ。
「そんなことよりも、今は姿を消した咲良さんを探すのが何よりも優先される。何かあっては一大事だろう?」
小次郎は俺の気持ちなど露知らず、さも正論ぶった言い方でそう返してくる。
確かに咲良に何かあっては困る。
よって咲良を探すのが何よりも優先される。
だが、それは兄である俺だけの役目なのだ。
俺だけに許された神聖な行為なのだ。
こんなどこぞの馬の骨みたいな馬面が同行していいレベルの案件ではない。
「でもそれ、お前には関係ないし。帰ってくれていいぞ?
いや、むしろ邪魔だから帰ってくれるかな?
つか、帰れ」
心の底からそう思っていた。
暑くて寝苦しい夜にようやく寝付けたと思った瞬間に耳元に飛んでくる蛟くらいに小次郎を邪魔に感じていた。
しかし、小次郎は「フム」と一つ頷くと、
「キミと僕とはライバルなのだよ?
関係ないはずがないさ」
と、キラリと歯を光らせて笑顔を見せる。
その顔はただでさえ妹探しを邪魔されている俺の苛立ちを一層色濃くさせてきた。
ちなみにだが、小次郎とは過去二度の全国大会でいずれも対戦している。もちろん結果は優勝した俺の二戦二勝だが、なぜかコイツは一方的に俺のことをライバルと思ったらしく、小さな大会などでも顔を合わせる度に何かと突っかかってくるのだ。
そして試合が終わるたびに、
『フェンシングなら負けないのさ、フッ』
と決まり文句のように言ってくる。堪らなくウザイ。
「俺はお前をライバルと思ったことないんだけど」
俺の呟きに小次郎は、
「えぇ!?
そうなのかい?」
と両手を広げてオーバーリアクションを取った。本当にウザイ。
「フム――、まぁいいさ。いずれキミは、僕にとってライバルではなく『兄』となる人だ。今から義兄弟関係を築いていくのも悪くないかもしれないな」
小次郎は一人でなにやら納得していた。
「ハァ、なに言ってんの?
この暑さで頭の中、沸いちゃった?」
何かとんでもないことが聞こえた気がするが。
「なにって、僕が咲良さんと結婚すれば、キミは僕にとって義兄ということになるだろう?」
「……あ?」
気のせいじゃなかった!
コイツは何を言っちゃってんだ……咲良と結婚?
はぁぁぁぁああああ?
妄言も甚だしいんですけど!
不釣り合いにもほどがあるんですけど!
これは、そうだ。
世にも美しい桜の銘木に這いつくばろうとする醜い毛虫。
俺には小次郎がそう見えた。
「お前、咲良のことが好きなのか?」
「フッ、『好き』などというチープな言葉では言い表せないさ。これはもう『愛』と呼ぶにふさわしいだろう!
僕がこの気持ちに気が付いたのは去年の『月刊剣道ライフ』四月号の二八ページに掲載された咲良さんのインタビュー記事を読んだ時。その四行目の、剣道の楽しさや魅力を語る彼女の言葉はとても美しく――」
うわぁ、なんでコイツそんな詳しく覚えてんだよ……。しかも話が長い。
「咲良と話したことすらないくせに、よくもまぁそんなこと口にするよな」
話を遮るように俺がそう言うと、小次郎は「うっ……」と絶句した。
やはりそうか。顔を合わせるのも今回の合宿が初めてのはずだし、練習も男女で別々だ。小次郎は雑誌で咲良のことを知る機会もあっただろうが、咲良の方はおそらくコイツの名前も知らないだろう。
そんな一方的な想いを拗らして結婚まで考えてしまうとは、やはりコイツの頭は沸いてしまっている。こういう輩がアイドルのストーカーになったりするんだよ。
つか、今わかった。コイツがしつこく俺につきまとってくるのは咲良が目的だったんだ!
ライバルだなんだと口にしながらも、何とか妹との接点を作ろうと必死になっていたに違いない。
毛虫の分際で恐れ多くも俺の妹に恋心を抱くとは――。
少し現実というモノを教えてやる必要がある。
「おい小次郎。ちなみにだけど、咲良は自分より強い男にしか興味を持つことはないぞ。お前、咲良に勝てるのか?」
咲良の実力は俺とほぼ互角。
試合をすれば男女の体格さと腕力で俺が勝つことが多いが、純粋な技術勝負ならわからない。少なくとも小次郎では太刀打ちできないだろう。
それはコイツも承知しているようだった。
「フェ、フェンシングなら、負けないさ、フッ」
明らかに動揺しながらそう言った。
「剣道での話な。ああ、あと髪の長い男はキモイっつってたわ」
「グハッ」
うん。これは良いダメージを与えられたみたいだ。咲良はそんなこと言ってなかったかもしれないが、まぁいい。これで迂闊に近付くようなことはないだろう。妹に集る害虫を追い払うのも兄の務めだ。
俺は倒れ込んだ小次郎を放っておき、木々に囲まれた遊歩道をひたすら歩き続けた。