Prologue 「ある日の放課後」
部活が終わり剣道場から出ると、柔らかな風が髪を撫でていった。
空はすっかり茜色に染まっているが、先日のような冷え込みはもう感じず、新学期が始まってようやく春らしくなってきたといえるだろう。
俺はとにかく寒いのが嫌いだ。
特に朝一番の道場は板床が氷のように冷え切っているし、そこで摺足すれば足の裏が霜焼けみたいに痒くなる。あれが堪らなく辛い。
やっぱり春が一番。
凍えることもなく暑さに茹だることもなく、それになにより桜が咲く。
校庭の木はまだ八分咲きだが、自宅の庭にある桜は今がまさに満開で、最近の俺はそれを眺めながら毎朝毎晩素振りをするのが日課となっている。
「主将、お疲れ様っす」
「お先に失礼っす」
一息ついていた俺の横を、早々に着替え終わった後輩部員たちがすっすすっすと足取り軽く帰っていった。
「お疲れっす」
俺もそう声を掛けつつ、剣道場の鍵を閉める。
去年、先輩たちが引退すると、次期主将にはこの俺、武蔵野有馬が選ばれた。
面倒だしガラじゃないし断りたかったのは山々だったが、なにせ、二年生部員が俺しかおらず、あとは後輩二人だけとあっては白羽の矢が立つのはあまりにも自然な流れだった。
よくよく考えれば「次の主将は誰にしようか」みたいな相談の場もなかったし、気付いた時には主将と呼ばれるようになっていたし、それを踏まえると『選ばれた』というより『されていた』といった方がまだ語弊がないだろう。
あれ……、もしかするとこれって然るべきところに訴えれば辞退できるんじゃないか?
だって主将の仕事って剣道場の戸締りくらいしかないし、そんなのに先輩も後輩も関係ない。
うん。そうしよう。俺はこの件について訴えを起こす!
「おーい武蔵野兄~、なにをそんな決意に満ちた目してんの~?」
なんだかんだ道場の戸締りを終え、鍵を返そうと職員室前までやってきた俺に声を掛ける者がいた。
女子剣道部の主将、小野さんだ。
「お、いいところにきた!
小野さん、俺と一緒に訴えを起こそう!」
先程まで同じ道場内で練習していた彼女はすでに制服へと着替え終わっているが、それは男子部と女子部で戸締りが一週間交代だからだ。しかし彼女も俺と同じ主将という立場であり、理不尽な戸締り業務を押し付けられているのには違いがない。
「主将がやりたくないって話?
もう四月になったのにまだそんなこと言ってるの?」
「いや、でも……」
「戸締りくらいで文句言わないの!」
「うっ……」
しかし、小野さんの反応は冷たかった。
「それよりさ、妹ちゃんがまた戻ってこないんだけど」
「なにっ!?
貴様っ、なぜそれを早く言わないっ!?」
俺の一つ下の妹は女子剣道部に所属しており、どうやらいつも行く校外ランニングから未だ戻ってきていないらしい。
部活終了からはそれなりに時間が経過しており、本来ならちょっとした騒ぎになってもおかしくない状況だ。高校生にもなってさすがに迷子はないが、怪我や事故、事件に巻き込まれている可能性だって考えられる。
にも拘らず、平然とそれを伝えてくる小野さんに苛立ちを感じずにはいられなかった。
「アンタがわけわかんないこと言ってるからでしょ。普段はウジウジ頭抱えてるウジ虫のくせに、妹ちゃんのことになると性格変わるんだから」
サラっと酷いこと言う小野さん。
「……俺のことはどうでもいい!
それよりも今日のランニングコースはどこだった?」
「川沿いの方」
「な……、川、だと……。溺れでもしてたら一大事だぞ!!」
「いやいや、今あそこの川って踝くらいまでしか水深ないし」
そうか。ここ最近はあまり雨が降っていなかったな。
だが!
「不良に囲まれてるかも」
「たとえ十人に絡まれても妹ちゃんの方が強いと思うけど」
ほう。小野さんは妹の実力を正しく理解しているらしい。
剣道だけでなく護身術も心得ている妹ならば、一般人が束になってかかろうと歯が立たないだろう。
ふむふむ。一理あるな。
しかし!
「そういえば、あの近くに男子校がある。変な虫が寄りついているかもしれん」
「あ~、まぁそれならあるかもね。アンタたち兄妹って性格は破滅してるけど、見た目はいい方だから」
どうせ褒めるなら、もうちょっとマシな言い方にしてくれればいいのになぁ。
つか、妹の性格は全然、これぽっちも破滅していないぞ。
俺については……知らん。別にどう思われようと構わない。
すると小野さんは、
「ていうかさ、こんなのいつものことじゃんか」
と、半ば呆れた様子でそう続けた。
確かに、こうして妹が突如として姿を消すのはいわゆる一つの『有り触れた日常』だ。
妹がこの高校に入学してから一年が経ったが、その間にも数え切れないほど今のようなことがあり、付き合いの短い小野さんですら日常と化しているのだから、ずっと同じ家で暮らしている俺からすれば呼吸に等しいほどの出来事と言えなくもないわけなのだが――。
「万が一、ってこともあるだろ」
そう。世の中何が起こるかわからない。
「……ま、そうだね。では、彼女のことはお任せしてもよろしいかしら、王子様?」
「当たり前だ!
妹を迎えに行くのは兄である俺の役目だからな!」
俺は小野さんに剣道場の鍵を押し付け、道着姿のままで飛び出す。
「ほんとシスコンなんだから」
その呟きには全くもって返す言葉もなかった。
*****
妹が初めていなくなったのは、俺が小学二年生へと上がる春休みのことだった。
家の廊下をバタバタと駆ける音。
扉をガラガラと開ける音。
そして妹の名を呼ぶ母の声。
そんな家の中の騒がしさで目を覚ました俺は、眠い目を擦りながら二段ベッドの下段を覗いた。けれどそこには愛くるしい寝顔はなく、代わりに妹のパジャマだけが脱ぎ散らかされていた。
そこへガラッと子供部屋の扉が開けられ、顔に焦りの色を浮かばせた母がやってきた。
「あ、あ、あ、有馬、たいへん!
たいへんなのよっ!」
どうやら妹がいなくなったのに気付いて家中を探し回っていたようだ。
まだ幼稚園を卒園したばかりの女の子が朝早くから、しかも黙って姿を消すなど一大事。しかもこの日は妹が小学校へ入学する日であり、母が動揺を隠せなかったのも致し方ないと思う。
だが、そんな母とは打って変わり、俺は「あ、やっぱりな」と静かに思っていた。
それは他の家族がまだ気付いていない妹の性格を、俺だけが知っていたからだ。
例えばこんな話がある。
まだ幼稚園に通っていた妹は庭に咲く桜が大好きだった。
朝起きればすぐにその桜の元へ行き、絵を描いたり、ボーっと眺めていたりと、とにかく傍を離れたがらず、食事の時などに母が注意しても全く聞かない。無理やり動かそうとすると怒涛の勢いで泣き喚き抵抗した。
ある時は夜中の内に部屋を抜け出して、桜の木の下で寝ていたこともある。
妹は幼稚園児とはとても思えないほどのバイタリティを持っていたのだ。
しかし何かに夢中になるあまり、周りのことが気にならなく、というよりも、一切見えなくなってしまう。
それまでは幼稚園児の行動範囲などたかが知れていた為、騒ぎにはならず、家族はその性格に気付けていなかった。
だいたいは興味を引かれた対象の傍にいたり、何らかの目的を叶える為に奔走していたりする。だが、納得するまでは桜の件のようにてこ(・・)でもそこから動かないし、ましてや何か目的があったならそれを達成せずに諦めることもない。
その行動を『自分勝手』と言ってしまえば短所にしか聞こえないが、俺はこれこそが妹の最大の長所だと感じている。
とにかく一つのことに真っ直ぐで、その時の行動力と集中力は常人のそれを遥かに超えた、才能といってもいい。
そして何より、そんな夢中状態の妹を俺だけは連れて帰ることができた。何に興味を示していても、いかに目的を叶える途中だったとしても、妹は俺の言葉にだけは耳を貸してくれる。
妹にとって、俺は特別な存在なのだと嬉しく思った。
迎えに行った帰り道、妹は決まってキラキラとした顔で夢中になっていたモノについての話を聞かせてくれる。桜はここがキレイで、こういうところが好き――、とかそんな感じだ。
その話を聞くことで、俺は妹が見ている世界を、時には映画のように、時にはドキュメント番組かのように楽しんでいた。
俺は妹のする話が好きだ。
だから妹には出来るならずっとこのままでいてほしいと思っているし、何か危なっかしいことがあったならそれは俺が守ると、そう決めていた。
入学式を目前に控えたあの日の朝も、その性格が発揮されて妹は姿を消した。
だがこの日、俺は妹の行き先に心当たりがあった。
母には自分が探しに行くとだけ告げ、俺がほどなくして訪れたのは妹がつい先月まで通っていた幼稚園。
前の晩、俺は妹と『ある話』をしており、その内容から想像するとここしか考えられず――、
そして、その予想は当たっていた。
門の中へ入るとすぐに、園長先生と何やら話をしている妹が目に入った。
「おーい!」
俺の呼び声に気付いた妹は、まるで飼い犬が尻尾をブンブン振っているかのように嬉々として駆け寄ってくる。いま思い出してもついついニヤけてしまうくらいに可愛かった。
「お兄っ!
えんちょうせんせーがね、『いいよ』って言ってくれたっ」
満面の笑みでそう話す妹。俺にもその嬉しさが伝染してしまい、「良かったな」と思わず頭を撫でてしまったが、妹の為にも教えてやらなければならないことがあった。
「でも俺にまでナイショで来ちゃダメだろ?
お母さん心配してたし」
俺がそう伝えると、妹は母の顔を想像したのだろう。「あっ――」という声を漏らして表情を曇らせてしまう。何とも心苦しかったが、妹のことを思ってこそと自分に言い聞かせる俺。
そこにやってきたのは園長先生だ。
「お兄ちゃんが迎えに来てくれたのね。お家に電話した方がいいかしら?」
「それは……、いい。俺が連れて帰る」
「そう、わかったわ。車に気を付けるのよ」
妹がここまで来た理由を知った園長先生は気を利かせてくれたようで、しょぼんとした妹に「お母さん、喜んでくれるといいわね」と優しい笑顔で話し掛けてくれていた。
それに頷いた妹の手には、一輪の赤いチューリップ。
茎の部分には自分で施したであろう不器用な蝶結びで細い白のリボンが飾られていた。
実はこの日、母の誕生日だったのだ。
前の晩に、母の好きなチューリップがこの幼稚園に咲いていたことを俺は妹と話していた。それでどうしてもプレゼントしたくなったのだろう。その一心でここまで一人でやってきた、というわけだ。
「ねぇねぇ、お兄……。お母さん、怒る?」
だが、その為に母に心配かけたとあっては本末転倒だろう。プレゼントを用意することに夢中になった妹は、他に気が回らなくなってしまっていた。
ここでフォローするのが兄である俺の役目。
「だいじょうぶ!
お母さんには俺が言うから、ぜったいよろこんでくれるさ」
そう言って手を繋ぐと、妹の顔からは不安の色が消えていく。
妹は、ただ母を喜ばせたかっただけ。
そんな優しい妹が、俺は誇らしかった。
*****
それから十年近く月日が流れた今、俺は高校三年、妹は高校二年となったが、未だに妹はこうしてフラッと姿を消すことがある。
これでも、小さい頃の無鉄砲さは影を潜めているといえるだろう。
成長に伴って妹自身で解決できることも増え、俺が迎えに行く機会が減ったのは、まぁ当然のこと。
しかし、それが少し寂しくもある。
周りがどう思っているかは知らないが、妹のお迎えは俺の存在意義といってもいい。
「おーい!
咲良~!」
学校を出てから十五分ほど歩いた先、ちょうど川沿いの土手に差しかかったところで妹である咲良の後ろ姿が目に入った。
咲良は小さな女の子と手を繋いで歩いている。
「あ、お兄?」
「どうした?
心配したんだぞ」
「あ、ごめんなさい。なんかね、この子の飼い猫がいなくなっちゃったんだって。だから一緒に探していたんだけど……」
女の子は目を真っ赤にさせて咲良の手をしっかりと握っている。おそらく泣きながら猫を探していたこの子を放っておけなかったのだろう。
「そっか。じゃあ俺も手伝うよ」
咲良は昔から変わらず、今も優しい。
俺はそんな妹を誇りに思うし、ずっと大切に思っている。
土手には咲き誇る桜が微笑むように揺れていた。