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インビジブル・ラブ  作者: BUTAPENN
エピローグ
41/48

epilogue

 東京駅の東北新幹線ホームに、大型のトローリーバッグを片手に、ひとりの女性がたたずんでいた。

 黒い、つぶらな瞳。先をチョンとピンセットでつまんだような可愛い鼻。豊かなバストとすらりと細い手足。黙って立っていれば誰もが振り返る、絶世の美女……なのだが。

「うわああ。パスポートや切符、全部忘れちゃったよーっ」

「お、落ち着け。乗車券はここにある。国内なのにパスポートはいらんだろう」

「あ、そ、そうでした」

 彼女の隣に立っていた縁なし眼鏡の男性は、苦笑しながら乗車券を差し出した。

「本当に、きみは相変わらずだな。小潟くん」

「すみません。都築警部」

「まさか、冗談だと思っていたが、本当に行ってしまうとは」

「わがままを言ってすみません。せっかく捜査一課への転任の話を進めてくださっていたのに」

 ぺこりと頭を下げる。

「ああ、バレていたか」

「はい。佐内署長が、内緒で教えてくれました」

 そう言って、その女性――愛海は微笑んだ。


 南原署の渡良瀬署長と署員ふたりが、十七年にわたって四人を殺害した容疑で逮捕されてから、半年が経った。

 署ぐるみの犯罪という、かってない不祥事に、しばらく南原署には嵐が吹き荒れた。

 捜査の指揮を執った佐内刑事課長は、そのまま署長代理となって、署内の大改革に乗り出した。

 加賀美係長など多くの署員が、事実を知りながら隠蔽にかかわったということで、降格や訓告処分を受け、そのほとんどが退任あるいは転任していった。

 マスコミは連日、その不祥事を書き立て、愛海もその餌食となって、満足に外出もできない日々が続いた。

「南原署にいるのは、きみもつらいと思ったんだよ」

 都築は、愛海から目をそらし、向かいのホームの看板に焦点を合わせる。

 あの頃の愛海は、恐怖の思い出にさいなまれ、手が震えて字が書けないときもあった。それでも、歯を食いしばって出勤し続けた。ひとことも弱音を吐かなかった。

「やめようと何度も思いました。でも、ある人と約束したんです」

 愛海も、ホームから青空をまぶしそうに仰ぎ見た。「絶対に刑事をやめるなって。刑事を続けて、もっとたくさんの人間を助けろって」

「そうか」

 その、すがすがしく澄んだ瞳を見れば、どんな鈍い男でもわかる。そう諭したのは、愛海が愛している、この世界でただひとりの男性なのだということを。

「その約束が、今度の決断につながっているんだね」

「はい」

 署内が一応の落ち着きを見せ始めたころ、愛海は異動願いを出した。地方警察との人事交流制度を利用して、岩手県への出向を願い出たのだ。

 都築が差し出した手は、心地よいほど見事に振りはらわれたわけだ。

「そうだ。きみに渡すものがある」

 都築はふところから、一通の封筒を取り出した。

「木下に面会に行ったときに、手渡されたんだ」

「木下さん?」

 愛海のパートナーだった木下警部補は、去年のクリスマスの明け方に意識を取り戻したあと、自分たちのおかした犯罪について、病床で克明に供述を始めたのだ。

 宇佐美昌造を殺したのは、渡良瀬元署長だったこと。

 水主宏平に罪を着せ、留置場で三人がかりで首を吊らせたこと。

 淳平を後ろから刺したのは、赤塚だったこと。

 そして、証人の黒田智也を正面から刺したのは、木下自身だったこと。

 その証言がきっかけとなって、渡良瀬と赤塚はついにすべてを自供し、殺人容疑で再逮捕された。


「小潟。

いろいろ、すまなかったな。怖い思いをさせた。

おまえは本当によくやったよ。そばで見ていて、俺はずっとおまえがこわかった。いつか俺の罪まで暴いてしまうのではないかと。

本当に、そうなってしまったな。

だが、今は感謝している。十七年間、ぐっすり眠ったことがなかった。今は拘置所のせんべい布団の上で、夢も見ずに寝ている。

今のほうが、よほど人間らしい生活だ。

水主淳平が二度、俺の夢枕に立ったんだ。

一度目は、俺が階段で撃たれた直後。蒼く光るやつが出てきて、『愛海を助けてくれてありがとう』と言った。

二度目は、病院で死にかけていたとき。そいつがもう一度現われて、何かを手渡した。それを受け取ったとき、俺はすぐにこん睡から目覚めた。

俺の生命を助けてくれたんだな。あとでよく考えたら、あれが、おまえの言う水主淳平の幽霊だったんだ。

おまえの手紙を最初に読んだときは信じられなかったが、今は本当だと信じられる。

小潟、すまない。俺を赦すと言ってくれて、うれしかった。

これから、俺のできるせいいっぱいのことをして、罪をつぐなうつもりだ」


「木下さん……」

 愛海は丁寧に手紙を折りたたんで、封筒にしまった。その目には大粒の涙が浮かんでいる。

 都築警部はぽつりと言った。

「僕も、本当は今でも信じられないよ。水主淳平の幽霊がずっと君のそばにいたことなど」

「はい」

「でも……信じざるをえないんだろうな。きみの、その涙を見ていると」

 ホームには、新幹線の到着時刻を告げる、女性の柔らかいアナウンスが響いている。

 それを切り裂くような甲高い声がエスカレーターを駆け上がってきた。

「愛海!」

「由香里!」

 少年課の石崎由香利だった。彼女は小さなガーベラのブーケを振りまわして、愛海に抱きつくと大声で泣き始めた。

「行っちゃうんだ……本当に」

「うん、向こうに着いたら手紙書くよ」

「うそつき。あんたが手紙なんか書くわけないじゃん」

「あはは。バレたか」

 ふたりは抱き合って、おんおん泣きながら、そんな会話を交わした。

「……ごめんね。愛海。裏切ってごめんね」

「いつまで同じこと言ってるの、由香利。しつこいよ」

 由香利も、ほかの南原署の同僚たちも、仲間である愛海を疑い、銃口を向けてしまったことを今でもひどく悔やんでいる。

 愛海を見るたびに心を刺されているらしい。東京を離れようと決意したのは、それも理由のひとつだった。

「お土産は、盛岡冷麺と南部せんべいだからね」

「はいはい」

「岩手のイケメン見つけたら、写真送るのよ」

「それよか、休みが取れたら、由香利のほうが遊びにおいでよ」

 ホームにメロディが流れ、「はやて」の美しい白い車両がすべりこんできた。

「愛海、いってらっしゃい」

「元気でな。小潟」

 見送りの人々に、もう一度にっこり笑うと、愛海はトローリーを引いて、車両に乗り込もうとした。

 そのとき、ひとりの男が近寄ってきて、さっと愛海の腕をつかんだ。

「あ、あなたは」

 愛海が振り返ったままの姿勢で固まっていると、男は「お久しぶりです」と頭を下げた。

 アラタカ心霊調査事務所の荒高所長だった。

「小潟さんに、どうしてもお伝えしておきたいことがあります」

 男は愛海の耳元で声を低く落とした。「水主淳平さんは、まだこの世にいますよ」

「え?」

 愛海は手に持っていたバッグを落とし、その拍子に、中に入っていた財布や化粧道具や手帳をあたりにぶちまけてしまった。

 由香利と都築警部があわてて、落ちた中身を拾い集める。

「淳平が……どこに?」

「どこかはわかりません。会ってもおそらく、一目では見分けられないでしょう」

「どういうこと? ちゃんと説明して!」

 歯を剥きだしてつかみかからんばかりの愛海に危険を感じたのか、中年の所長はささっと素早く退いた。

「あの人は消滅する直前に、自分の霊力のすべてを、瀕死の人間に分け与えました。その数は三十人以上に及んでいます」

「木下さんも、そんなこと言ってた――」

「ところが、その中にひとり、生命維持装置で肉体だけを生かされていた男がいたのです。霊魂はすでに天界に旅立っていました。水主さんの霊は、その虚ろな体の中に吸い込まれてしまった」

「吸い込まれた?」

「めったに起こらぬ偶然です。よほど肉体と霊魂の波長が合っていたのでしょうね。今はその人間になりきって暮らしているそうです」

「どんな人なの。せめて年齢とか特徴とか」

「残念ながら」

 彼は、ゆっくりと首を振った。「わかりません。たとえわかっていたとしても、教えることができないのです。本来ならば、霊魂の行方は、天界の秘中の秘。絶対に人間に他言してはならぬと定められている掟です。こうやって教えることさえ、固く禁じられている」

「どうやったら、会えるの?」

「捜しなさい。相手はあなたのこともすべて忘れています。姿形も変わっています。浜辺から一粒の砂を捜すようなもの。一生めぐり会えずに終わるかもしれません。たとえめぐり会っても、昔のような情は抱けぬかもしれません。だが、もし本当にあなたたちが引き合っているのなら――希望はあります」

 発車のベルが空気を裂いて鳴り響いた。「愛海」と由香利がバッグとブーケをぎゅっと胸元に押しつけた。「出発しちゃうよ」

 愛海は、後ずさって車内に乗り込んだ。ひどく心もとない表情でホームの友人たちを見つめる。やがてドアが閉まった。

 東北新幹線は、すべるように走りだした。

 踵を返して歩き出した荒高所長は、ホームの端まで来ると、誰にも見られぬまま柱の向こうに身を隠した。

「あれでよかったの?」

 若い女の声が聞こえてくる。

「さあね」

「愛海さんを苦しめるだけじゃないかしら。一生会えない可能性のほうが多いのよ」

「さて、本当にそうかのう」

 今度は、しわがれた老婆の声。

「たまたま霊力を分け与えようと近づいたら、生きている骸の中に吸い込まれた……できすぎた話だとは思わぬか。わしには初めから、仕組まれていたとしか思えぬぞよ」

「……なるほど」

 言葉に合わせて、ふわりふわりと九本の白い尻尾が揺れる。

 九尾の狐は、白い狩衣姿の貴公子に姿を変えると、舞扇の陰で微笑んだ。

「水主淳平が最期になした善行に、天界の慈悲が下され、今一度、人生のやりなおしの機会が与えられた。だとすれば、ふたりの出会いは存外、すぐ訪れるかもしれぬな」

 そのまま、彼の姿は幾千の氷片となって消えていき、舞扇だけが、ひらひらとホームの床に落ちた。


 自分の席に着くと、愛海はトローリーの上に積んでいた荷物をはずした。小型のペット用ゲージだ。

「フニちゃん、ニ時間ちょっとの辛抱だからね」と声をかけると、太った三毛猫はあわれっぽい声で「ぶみゃー」と鳴いた。

 ビニール袋には、キオスクで買った駅弁とお茶と冷凍みかんが入っていた。

「この前乗ったときは、淳平がいたんだね……」

 みかんを手に取り、愛海はぼんやりとつぶやいた。

 あのとき出会った山緑館の女将、三橋さゆりは、南原署のニュースを見て心配して何度も連絡をくれた。岩手県への転勤を知らせると、『無料にするから、ぜひ温泉に入りに来て』とまで言ってくれた。

 高見リカコも工藤麻季も、ピオッティ涼香も佐田亜希子も、その他、淳平の捜査で知り合ったたくさんの女性たちが、愛海を励まし続けてくれた。

「淳平。どこにいるのよ。この世にいるなら、どうして会いに来てくれないの。ずっとそばにいるって約束したくせに。嘘つき。詐欺師」

 みかんを剥いて、がぶりと一口かじると、愛海の目から、はらはらと涙がこぼれ落ちた。

「もしかして、赤ちゃんとかお爺ちゃんの体に入っちゃったの? さすがに年の差三十歳の恋人なんてイヤだよお」

 東京を離れるにつれて、車窓の外を流れる夏の緑が、どんどん濃くなって、目に痛い。

「私のこと、忘れちゃった? いっしょに暮らした二年間の楽しかったことも、全部忘れちゃったの? もしかして、もう別の恋人がそばにいるの?」

 いったん抱いてしまった希望は、たちまち大きな不安に取って代わる。まるで涙線が決壊してしまったかのように、愛海は新幹線の車中でずっと泣いていた。泣きながら、駅弁とみかんと、車内販売で買ったお菓子を食べ続けた。

 盛岡駅に降り立ったときは、目は真赤に充血し、満腹でふらふらだった。

 改札を出ると、愛海は両手を額にかざして空を見上げ、東京とはまったく違う澄み切った空気を思い切り吸い込んだ。

 荷物をガラガラ引いてバスターミナルのほうに向かいながら、街路樹の並ぶ駅前通りをきょろきょろ眺めていると、「小潟刑事?」という声がした。

 軽自動車から降り立ったばかりの、ひとりの若い男だった。カジュアルなシャツにジーンズ。まだ二十歳そこそこに見える。

 彼はとまどったように口を開きかけたが、すぐに表情を固めて敬礼した。

「盛岡南署の水月みづきと言います。お迎えにあがりました」

「あ、御苦労さまです」

 愛海もあわてて返礼する。

(さっそく、由香利にイケメン写真が送れるかな)

 取り立てて、どうというわけではない平凡な容姿なのに、第一印象がどこか人を惹きつける男性だ。

「荷物は、これだけですか」

「あ、はい」

 水月は、愛海のトローリーバッグを担ぎ上げ、軽自動車のトランクに入れた。口調は無愛想だが、その一連の動作には気づかいが感じられる。

「あ、そのゲージは私が持ちますから」

 愛海のことばに、ペットゲージを手にしていた水月は眉をきゅっと凝らして、小窓から中を覗き込んだ。「……ネコですか?」

「はい。東京でずっと飼ってたんです」

 彼の顔に、ほんの一瞬、笑みらしきものが浮かんだ。

「じゃあ、署に行く前に、いったん宿舎に寄らないと」

 と言いながら、水月は愛海のために助手席側のドアを開けた。「どうぞ」

 ゲージを手渡され、おずおずと乗り込む。彼の視線を受けているのを感じ、頬が火照るような気がした。

「うわあ」

 広い川に架かる橋を通るとき、愛海は歓声を上げた。北のほうに、青空を背景にくっきりと紫の山影が見えた。

「きれい。あれは、なんていう山」

「岩手山です」

「川は?」

「北上川」

 ぶっきらぼうに答えてから、水月はハンドルを右に切った。「やっぱり、少し寄り道します」

「え、どこ?」

「盛岡城跡公園。城と言っても、石垣しかありませんが」

「え、待って」

 有無を言わせず駐車場に車を停め、階段を登り始める案内人に、愛海はペットのゲージとハンドバッグをむんずとつかみ、あわてて後を追いかけた。

「観光案内をしてもらうのはうれしいですけど、あなただってお仕事が――」

「今日は非番です。それに、その泣きはらした目のままで署に挨拶に行くつもりですか」

 愛海ははっとした。振り向いた水月の顔は明らかに怒っている。

「南原署の事件は、聞いています。東京のことは俺たちには関係ないし、みな、何も知らないふりを通すつもりでいます。けど、この期に及んで、あなたがずるずると過去を引きずっているのなら、はっきり言って迷惑ですね。ここへ来られても何の役にも立たない」

 吐き捨てるように言って、木のベンチに腰をおろす。愛海は茫然と、その後ろに立ちつくした。

「……ごめんなさい」

 愛海は身を縮めて、ベンチの隅にそっと座った。

 化粧水で濡らしたティッシュを当てて、まぶたを冷やす。

 ことばは全く途切れたままだ。気まずい雰囲気で、愛海はゲージの扉を開けて、飼い猫を中から出した。

 三毛猫は窮屈なゲージから外に出されて、大あくびをし、うーんと背中を反らせて伸びをした。けれど、回りの見慣れぬ景色に怖気づいたのか、そのまま愛海のそばを離れようとしない。

「それ、オスですか?」

 突然の問いかけに、びっくりして振り向くと、水月は今までの怒りの表情をすっかり消して、いたずらっぽい笑みを浮かべていた。「三毛猫のオスだなんて、超レアものだな。高く売れますよ」

「……そうらしいですね」

「うちの署の独身寮は、民間の賃貸アパートの借り上げで、基本、ペットを飼うのは禁止です」

「ええっ。ほんとに?」

「それくらい問い合わせて来てください。まあ、なんとかしますけど」

「……すみません」

 愛海は、ますます恐縮して首をすくめた。だが体の片側に、思いのほか暖かい視線が注がれているのを感じ、ゆっくりと背筋を伸ばした。

「あの、ひとつだけ弁解させてください。私が泣いてたのは、南原署の事件のせいじゃありません」

「じゃあ、何のせいで?」

「なんていうのか……私の愛していた人が、半年前に消えてしまったんです」

「……」

「で、新幹線に乗る前に、その人が生きているって教えられたの。でも、別の人の体に入ってて、私のことも忘れてるって」

 愛海は、再びこみあげてくるものを抑えつけるために、はあと深呼吸をした。

「私はどんな体になっていても会いたい。でも、彼は別の体に入って、別の人生を歩んでるんだなって。もしかして、もしめぐり会っても、昔みたいには愛し合えないのかなって。考えてたら、どんどん涙が出てきちゃって止まらなくて」

 水月が不快げにそっぽを向いているのに気づいて、愛海は「ごめんなさい」と叫んだ。

「いきなりこんな話、信じられるわけないよね」

「……信じられますよ」

 彼は、ベンチの縁に両手をつき、顎を持ち上げて木々の梢を見上げた。

「俺、去年の夏の休暇中に、三陸の海でスキューバダイビングの事故起こしました。四か月、意識不明っていうか植物人間で、去年の暮れに意識を取り戻したときは、奇跡だって言われた」

「え?」

 去年の暮れに? 植物状態から意識を取り戻した?

「それ以来、性格が変わったって、よく言われる。記憶とかも、ところどころ曖昧で。バカバカしいとは思うけど、誰か別人が体に入ってきたんじゃないかって考えたことも、正直、何度もありますよ」

 愛海の膝がカクカクと小さく震え始めた。

「そろそろ、行きましょう」

 立ちあがって、お構いなしにずんずん歩き始める水月に、愛海はあわててネコをゲージに入れて、小走りに後を追った。

 息を切らして、階段の途中でようやく追いついたとき、水月はぐいと愛海の手首をつかんだ。

「ピンヒールだと、歩きにくいでしょう。ゲージ持ちます」

「あ」

 この手は。

 この大きな手の感触は。

 淳平が霊指で握ってくれた感触と似ている。

 愛海は、まじまじと彼の横顔を見つめた。

「あの……水月さんは、高校時代何のクラブでした?」

 彼は不審そうな顔をして、手を離した。「サッカーですけど」

「ご家族は?」

「……両親と四歳上の姉がひとり」


『よほど肉体と霊魂の波長が合っていたのだろうな』


(だめ、だめ。先入観を持っちゃ)

 愛海は自分にそう言い聞かせながら、運転席に乗り込む水月の後ろ姿をぼんやりと眺めた。

 ふたたび車を走らせながら、ふたりはしばらく、ずっと無言だった。

「……別にいいんじゃないですか」

「え?」

「あなたの好きな人が、別人になってたって、あなたのことを忘れてたって、またもう一度最初からやり直せば。相手を思う気持ちが本当なら、不可能じゃないと思う」

「……はい」

「ま、俺には関係のない話ですけど」

 一本の道を選んで左折し、水月は車を停めた。

「着きました」

 コンクリートの三階建ての古いアパートだった。入口のところに、『水月ハイツ』と記してある。

「これ――」

「ああ、俺の爺ちゃんのアパートなんです。今女子寮に空きがないので、悪いけど当分は、ここの二階に入ってもらいます」

「あ、はい」

「ちなみに俺の部屋はあなたの真下です」

 トランクから出された荷物を、愛海はあわてて受け取った。

「ちょっと、そこにいてください」

 水月が中に入ってしまい、愛海は空の植木鉢がころがっている狭い空き地に取り残された。

 それと入れ替わるようにして、ジャージー姿の青年が出てきた。

「うわ、東京から来た刑事さんですよね」

 走り寄ってきて、「噂にたがわぬ美人だなあ」と感じ入っている。

「あ、申し遅れました。盛岡南署の交通課所属で高橋と言います。本日は夜勤明けです」

 びしっと敬礼する。「水月警部補とは、同期のサクラでして」

「け、警部補?」

「26歳で警部補ってのは、大卒ノンキャリで最短記録だそうですよ」

「26歳?」

「今27歳っす。見えないでしょう? 退院してから、服の趣味が若返るわ、行動的になるわ、女のあしらいはうまくなるわで、仲間たちには、別人の霊さ乗っ取られてるんじゃねがって、からかわれてます」

 愛海は、呼吸が荒くなるのを自覚していた。

 胸が苦しい。まさか、こんなに近くにいるなんて。でも。

「おめ、何あることねえこと、吹きこんでんだよ」

 水月が両手に皿を持って現われ、同僚を横目でにらみながら愛海のもとに来た。

「部屋の鍵と、猫にやる水持ってきました。餌はありますか?」

「は、はい」

 あたふたと、愛海はトローリーのサイドバッグをさぐり始めた。

「おおい」

 水月は地面に片膝をつくと、ゲージの扉を開けて、皿を置いた。

「出てこいよ。喉渇いてるだろ」

 しかし、三毛猫は見知らぬ男に用心して、前脚をふんばっている。

「おい、意地張ってないで出てこい。飲みたいんだろ――フー公」

 愛海の手から、ばらばらと袋の餌がこぼれ落ちた。

「え……?」

 水月は顔を上げ、いぶかしげに愛海を見つめた。

 猫はのそのそとゲージから出てきて、うれしそうに「ぶみゃー」と鳴くと、水月の手に顔をこすりつけた。


『別にいいんじゃないですか。あなたの好きな人が、別人になってたって、あなたのことを忘れてたって。またもう一度最初からやり直せば』


 ふたりは時が止まったかのように、いつまでも互いを見つめ合っていた。






   INVISIBLE LOVE .... The end and ...



   「インビジブル・ラブ」 完

これで、本編完結です。後日談を記した番外編がありますので、もう少しお付き合いください。

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