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インビジブル・ラブ  作者: BUTAPENN
chapter 7 女流ピアニストの檻
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chapter7-3

 それから二日ほど平穏な日々が続いた。

 涼香からは、何の音沙汰もない。こちらから連絡するのもはばかられるし、もしかすると涼香はもう、俺には会いたくないのかもしれないと思い始めた。

 愛海は、あの翌日、加賀美係長にゆうべのことを報告し、さっそく木下警部補とともに、涼香のアリバイの裏を取ることになった。

 もし涼香の言うとおりならば、俺が殺された日の前後、彼女はレコード会社のスタジオで、レコーディングの準備をしていたはずだ。

 果たして、そのことはすぐに証明された。

 スタジオの二年前の使用記録が残っていたのだ。涼香は俺の殺害された日には、スタジオで昼前から深夜まで、ずっとピアノの練習をしていたことになっている。

「ピオッティ涼香は、シロだな」

 木下警部補は、あっさりと結論づけたが、愛海は簡単には納得しなかった。

「でも、スタジオから外出するチャンスもあっただろうし、完璧とは言えません。誰か当時のことを覚えているプロデューサーや音響スタッフがいないか、もう少し捜してみましょうか」

「あ、そうだな。そうしてくれ」

 思うに、木下は俺の事件の捜査中にどんな事実が出ても、快哉を上げたり悔しがったりするのを見たことがない。淡々としているというか何というか。定年まで無難に勤めあげれば、事件など迷宮入りしてもいいと思っているのだろうか。

 署に戻ったのは、もう日がとっぷりと暮れた頃だった。秋になり、だんだんと昼が短くなっているのを感じる。

 愛海が自分の席についたとたん、携帯が鳴った。

 着信表示を見ると、涼香からだった。俺と愛海は、思わず顔を見合わせた。

「もしもし」

『小潟刑事?』

 涼香の声は、地を這うような響きがした。

『今すぐ中杉くんを、ここに連れてきてちょうだい』

「どうしたんです。何かあったんですか」

『あなたには関係ないわ。中杉くんと話があるだけ。そこにいるの?』

 愛海は眉をひそめて、俺を見た。「……はい」

「行って来る」

 俺は言った。「ケータイをそのままつなげといてくれ。電波を使って移動するから」

「淳平」

 愛海は、かすかに首を振った。まるでイヤイヤをするように。まるで、いつもの彼女らしくない。

「だいじょうぶ、すぐに帰ってくる」

 安心させるように微笑むと、俺は瞬時にケータイの中に吸い込まれた。

 ホテルの涼香の部屋に着いたとたん、俺はぞくりとした。

 部屋の中は真っ暗だった。窓のカーテンは全部開け放たれ、夜光虫のような都会の明かりを背景に、ピアノと涼香はひとつのシルエットとなり、まるで、うずくまっている巨大な生き物だった。

「幽霊って、暗いところで見ると蒼く光って見えるんだね」

 弱々しい彼女の声がした。

「そうらしいな」

「やっぱり、弾けないよ。中杉くん……。あなたがいなきゃ、そばにいてくれなきゃ、私はピアノが弾けなくなっちゃったよ」

「涼香……」

 彼女は鍵盤に突っ伏して、すすり泣いていた。

 あのプライドの高いピオッティ涼香が。子どものように泣いているのだ。

「いつも、私のピアノを聴いて、アドバイスしてくれたね。『もっとこうしたら、どうですか』とか。『今の弾き方のほうが素晴らしい』とか」

「……だけど、俺は音楽はズブの素人なんだぞ。あんなの、口から出まかせのウソ八百に決まってるじゃないか」

「それでも、あなたの言葉は私の心に染み入るようだった。自分でもわかったの。あなたと過ごした三ヶ月で、私のピアノの響きは確実に変わった。あの時がなければ、私はあれだけの賞を取ることはできなかったわ」

 涼香は顔を上げた。「それなのに、あなたがこの世から消えたと知ったとたん、私の中から音も消えてしまったの」

 ピアノの椅子からふらふらと立ち上がると、彼女はバランスを崩してよろめいた。

 俺はあわてて、霊指の力で抱き止めた。

「中杉くん……」

 涼香は体を強ばらせて、俺にしがみついた。

「お願い、昔みたいに私のそばにいて。あなたがいてくれたら、ピアノが恐くない。きっと弾ける」

「涼香――」

「今日、会場のピアノを弾いてみたの。相性が最悪だった。低音の肌触りがめちゃくちゃで、鳥肌が立ったわ」

「おまえ言ってたじゃないか。コンサートホールのピアノを手なずけるのは、まるでロデオで暴れ馬を乗りこなすみたいなもんだって」

「ええ、そう。最初にガツンと一発ムチを当ててやるの」

「大丈夫。おまえなら、できるに決まってる」

 涼香の体が硬く骨ばって、か細い。昔はもっとふっくらしていたはずだ。

 いったいどれだけの間、こいつはピアノの前で全身をがちがちに強ばらせて震えていたのだろう。

 俺の罪が、こいつをこんなふうに追い詰めてしまった。

(ああ、俺は――)

 涼香から離れては行けない。こいつを見捨てるなんて、できない。

「わかってるよ」

 俺は彼女の耳元でささやいた。「おまえがピアノを弾けるようになるまで、そばにいる」


「そういうわけで、しばらくこっちにいることにしたから」

 俺は涼香の携帯を借りて、愛海に電話した。

 きっと愛海は携帯を握りしめて、ずっと待っていたのだろう。ワンコールもせずに、すぐにつながった。

「涼香が自信を取り戻すためだ。いずれにせよ、リサイタルまでの話だから」

『うん……わかった』

 愛海は頼りなげな声で、それでも聞き分けよく答えた。『がんばってね。涼香さんによろしく』

「いい子にして待ってるんだぞ」

 電話を切ると、涼香がひたと俺を見ていた。

「中杉くん、やっぱり変わった」

「そうか」

「私が言ったのは、服装とか話し方じゃない。雰囲気が全然違う。あのときも優しかったけど、今ほどではなかった」

「あれは演技だったからな」

「今は、違うのね。あの――刑事さんのおかげ?」

「ああ」

 照れくさかったが、俺は素直にうなずいた。「愛海に会って、俺は本当に人を愛するとはどういうことだか、ようやくわかったんだ」

 涼香の目の中に暗い炎が走った。それは多分、嫉妬という炎だったのだろう。涼香は愛海に嫉妬している。だが、そのときの俺は、涼香の激情を軽く考えていた。

「何か、弾いてくれないか」

 涼香の肩をそっと抱いた。「久しぶりにおまえのピアノが聴きたい」

「何がいいの」

「夜だから、ゆったりした曲がいいな。ショパンの『雨だれ』はどうだ」

「初めてね。あなたからそういう曲をリクエストされるのって」

「俺は本当は、超初心者向けの有名曲が好きなんだよ」

「そんなことないわ。私もこの曲好きよ」

 ピアノの前の椅子に座りなおした涼香の両手が、しなやかに鍵盤の上に置かれた。

 数年ぶりに聴いた涼香のピアノはさすがに巧かった。

 左手の8分音符の連続は、軽やかで、それでいて揺るがない確かな響きを持ち、聞く者の耳に雨の雫を降り積もらせていくようだ。

 人目を避けるようにして、スペインのマヨルカ島へジョルジュ・サンドとともに逃れたショパン。軒先から伝い落ちる雨だれの中に、迫り来る自らの死を見つめていたのだろうか。

 絶望。恐怖。中間部のうねるような激しさの中に、涼香の味わったありったけの孤独がこめられている。

 そして嵐が過ぎ去り、すべてを包み込む優しさと温かさ。

 いつのまにか音が止み、俺は我に返った。

 涼香が、ゆらゆらと揺れる目で俺を見ている。

「おまえの音は、深みを増したよ」

 俺は言った。「やっぱりおまえは世界で最高のピアニストだ」

 涼香の口から嗚咽が漏れた。

 彼女は走り寄って、俺のいるソファに突っ伏すと、今までの苦しみすべてを洗い流すように激しく泣いた。



 次の日からレッスン用のスタジオを借りて、本格的にリサイタルの曲目の練習が始まった。

 最初は、ショパンのエチュードやリストの練習曲など、プログラムにない曲から始めて、指をほぐしていく。このあたりは、よそ見をしたり、そばにいるスタッフと雑談をしたり、余裕がある。

 だが、本番の曲目に入ると目の色が変わった。

 ショパンのバラード第一番。生きる喜びと悲哀を鍵盤に叩きつけるような、ドラマチックな難曲だ。

 ピオッティ涼香の演奏はシンプルだ。

 リスのように跳ねる運指をすることもなく、上半身を夢見るように揺らすこともない。ただ淡々と鍵盤の上を、擦るように指を動かす。

 アジア人女性としては掌が大きく、オクターヴが難なく届く指は、生まれつきピアニストとしても恵まれている。

 ただ、弾いているときの表情は人目を惹きつける。

 唇を恍惚と開き、激しい旋律のときは怒りにもだえるよう。優しい旋律のときは愛をささやいているように見える。

 音楽神ミューズにすべてを捧げている顔だ。生身の男の入り込む余地はない。

 俺はずっとピアノの傍らにいて、聴いていた。そのくらい近くにいると、音楽は聴くのではなく、五感で感じられる。

「どうだった?」

 演奏が終わると、汗びっしょりの髪をかきあげ、涼香は俺に向かって顔をしかめてみせた。

「す、すばらしかったです」

 と、音響の若いスタッフが答えた。自分に話しかけられたと思ったのだろう。

「すごい。本当にこれでスランプだったのか」

「まだまだよ。これじゃダメ。もっともっと暴れ馬を押さえ込まなくちゃ」

「そういう闘志が湧いてくるようなら、きっとうまくいくよ」

 そんなふうに機嫌のよいときもあったが、さんざんな日もある。

「もうおしまいよ。きっとステージの上で頭が真っ白になって指が動かなくなる。観客があきれて席を立って出て行くのよ」

 わめきながら、楽譜をまき散らすのだ。

 俺にできることは、彼女を抱きとめ、静かになだめるだけ。

 そんな毎日の連続に、俺はだんだんと疲れてきた。体のない幽霊でも、へとへとに疲労困憊するものなんだな。

 愛海に会いたい。

 聞くもの見るものすべてが、愛海を思い出させる。

 涼香はホテルの部屋でカプチーノを飲み、朝食代わりにカゴに盛った果物を食べていた。

 あの寝ぼすけは、もう起きただろうか。俺がいないと、朝飯抜きで走って出勤するはめになっているかもしれない。

 愛海の髪に触れたい。あのツンと上を向いた鼻を、なめらかな頬を、たっぷりローションを含ませたコットンで拭ってやりたい。

 考えてみれば、愛海と出会ってからというもの、俺は二十四時間以上あいつと離れたことがなかったのだ。

 愛海は麻薬だ。会いたくて、禁断症状で体が融け出しそうだ。

「今日は、テレビ局に行くわ」

 不機嫌そうに髪を梳きながら、ドレッサーの前で涼香が言った。「今度のリサイタルについてのインタビューを受けるの。公演前のピアニストって、そんな雑用ばかりよ」

「じゃあ、俺はそのあいだに、ちょっと南原署に行って来ようかな」

 俺はできるだけ慎重に、切り出した。「愛海……小潟刑事に、久しぶりに捜査の進捗状況も聞きたいしな」

 涼香の肩のラインが、明らかにぴくりと強ばった。

「……彼女に会いたくなったの?」

「そういうわけじゃない」

「いいわよ。行ってきたら」

「ああ。すぐ戻ってくる。携帯、借りるぜ」

 俺は携帯で愛海の番号を押し、転送されるのを待った。

 霊体が電気信号に代わって、電波の中をとおって流れていく。

 突然、大きな衝撃を感じた。

 霊体が止まった。まるで巨大な壁が立ちはだかったように、俺は元の場所に弾き返された。

 いったい何が起こったんだ?

 俺は思わず、涼香を振り返った。

 涼香はまだ鏡の前で髪を梳いている。

 だが、その鏡に映っているのは、黒いとしか呼べない気だ。俺はその気に引き戻されて、身動きができなくなっているのだ。

「涼香……」

「あら」

 彼女は振り向いて、あっけらかんと微笑んだ。「まだ行かなかったの?」

 背筋に寒気が走った。

 こいつ自身、何も気づいていないのだ。自分がどんなに邪悪な気を出して、俺の霊体をがんじがらめに縛りつけているのか。


 テレビ局で涼香がインタビューを受けている間も、俺は何度となく、彼女から離れようとした。

 だが、無駄だった。どんなにやっても、涼香の作り出した邪悪な気の檻から抜け出すことはできなかった。

 むなしい試みの果てに、俺はようやく名案を思いついた。

(ぐっすり寝入っている真夜中なら、涼香の気も弱くなるんじゃないか?)

 その日の晩、俺は涼香がベッドで眠りについたのを見計らって、ホテルの外に出ることを念じた。

 最初は全然うまくいかなかった。もうやけくそだ。無茶苦茶になって、俺はありったけの霊指の力を放出した。

 気がつくと、俺の前に立っていたのは、太公望だった。

 俺は、愛海の部屋にではなく、「はざまの世界」に戻って来てしまったらしい。

「どれどれ、女難の相が出ておるぞ」

 口調はとぼけていたが、こいつの真面目な顔にのぞきこまれたのは、俺ははじめてだ。

「じいさん、助けてくれ。俺はいったいどうなってるんだ?」

「ふむ」

 太公望は、白いあごひげを引っぱりながら考えこんだ。

「おまえさんは、厄介な思念に取り込まれてしまったようだの」

「涼香なのか?」

「そうだ。あの女人は孤独にさいなまれて、誰かの助けを必要としておった。おまえさんが現われたとき、魂の底からすがりついた。まるで赤子が母親にすがりつくようにな」

「……涼香はそこまで追いつめられていたのか」

「ところが、おまえさんは別の女性を愛しておった。彼女の嫉妬や執着心が極限に達したとき、おまえさんはクモの糸にからめとられるようにして、霊体を捕らえられてしもうた。前にも言ったが、霊体とは、むきだしの胎児のような体。他の強い思念にたやすく影響されてしまう」

「そこから逃れるために、俺はどうすればいい?」

「きつい言い方かもしれんがの」

 太公望は、白い眉の下から険しい目で俺を見た。

「すべては、おまえさんの罪の結果だ。彼女はおまえさんに昔捨てられた過去の傷が癒えておらん。もう二度と捨てられたくないという必死の念が、とめどなく邪悪な気を出させている」

 俺はがっくりと地面に座り込んだ。「そんな……」

「無理に逃げ出そうとすれば、今度こそ彼女の心は壊れてしまうかもしれんの」

「あんたは俺に、涼香のそばにいて罪をつぐなえと言うのか」

「さあ、どうかの」

「あいつを愛しているふりをして、嘘をつけというのか」

「嘘でも、一生つき続ければ真実となる」

「愛海を……あきらめろと言うのか」

「淳平。それは、自分で決めることだ」

 俺は今まで、自分が生きているときに犯した罪を、よくわかっているつもりだった。だから、それなりに懸命に罪のつぐないをしてきたつもりだった。

 俺はなんという甘ちゃんだったんだろう。本当のつぐないとは、自分の全てを捨てることだったんだ。


 いやだ。俺は愛海とは、絶対に別れられない。

 生まれて初めて、本当に心から愛した女なんだ。これからだって、ずっと愛海のそばにいたい。

 罪のつぐないなんて、どうでもいい。

 涼香がどうなったって、知るものか。俺を解放しろと、思い切り怒鳴りつけてやる。

 そんな醜いドロドロとした思いを抱えて、俺は「はざまの世界」から戻ってきた。

 いつもなら愛海のところに戻れるはずなのに、今の俺は涼香に囚われている囚人だ。

 ホテルのスイートの中は真っ暗だった。人の気配がない。

 不吉な予感がする。俺は広いスイートのあちこちを探し回った。

 涼香は、外にいた。地上三十五階のベランダ。吹き上げる夜風が信じられないほど強く冷たい。

 涼香はストレートの髪を風になぶらせながら、手すりから体を乗り出すようにして下をのぞきこんでいた。

「涼香!」

 俺はあわてて、霊指の力で彼女の腰をつかんだ。「いったい何をやってる!」

「もう生きていてもしょうがない」

 力尽きたような声で、彼女は答えた。「ピアノが私を愛してくれないの。もうだめ。何も考えたくない」

「やめてくれ、こんなこと」

 床から離れようとする足を何度も引きずり戻して、ようやく手すりから離す。

 俺は彼女の体を逃げ出さないように、しっかりと抱きしめた。

「今は何も考えるな。考えなくていいから休むんだ。俺がそばにいるから」

 やっぱり無理だ。放っておけない。こんな状態の涼香をこのまま見捨てることなんかできない。

『嘘でも、一生つき続ければ真実となる』

 という太公望のことばが、耳にこだまする。

「おまえを愛してる。涼香」


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