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インビジブル・ラブ  作者: BUTAPENN
chapter 1 幽霊と刑事
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chapter1-1

 うらぶれた街のうらぶれた路地で、俺は死んだ。


 待ち合わせている女が、その日に限って時間に遅れた。要求した200万円、耳をそろえて持って来る約束だった。

 舌打ちをし、携帯を取り出そうとコートのポケットをさぐっているとき、背中に激痛が走った。

 ビル工事の鉄材が落ちてきて背中に当たったのかと錯覚するような、強い衝撃。鋭い刃物が体内に差し込まれただなんて、思いもしない。わけがわからないまま、ただ噴き出す血がぬめぬめと暖かかった。

 即死ではないにしても、あっと言う間の死だったろう。

 そのわずかな時間に俺は何かを考えたように思う。

 何をかって?

 普通の男は、息を引き取る間際に何を考えるものだろうな。

 愛する彼女か。家族のことか。

 少なくとも俺の場合は、思い浮かべるものは何もなかった。俺のことを待ってくれているのは、せいぜい刑務所。

 後悔というのも有りだろうな。

 もっとまともな生き方をすればよかったとか、もっと綺麗な女を抱いておけばよかった、とか。

 あるいは自分の罪深さにおののく? 地獄を恐れてお経を唱える?

 どれも違った。

 犯人は誰だろう、とか。……ああ、それはちらっと考えたかもしれないな。

 けど、別に誰が犯人でもどうでもよかった。

 そんなことじゃない。そんなことじゃ、ないんだ。

 俺はただ、こんな路地裏で誰にも見られずに死にたくなかった。

 誰でもいい。誰か俺がここにいることを知ってほしい。

 そう思った。

 そう思い続けた。心臓が止まった後も。


 誰か見つけてくれ。

 俺は、ここに、いる。



 地下鉄の階段を登りきったところにあるフラワーショップで、小潟愛海おがた・あいみは白いトルコキキョウとデルフィニウムの小さな花束を買った。

 今日は、水主淳平みずし・じゅんぺいの一周忌だ。

 確か親戚が北陸にいた。はとこか何かと言うだけだから、まともに法事をしてもらえなかったかもしれない。

 一年前、水主は繁華街の路地裏で殺された。悪人にふさわしい、ひどい死に方だった。

 いわゆる結婚詐欺師。甘いことばをもって女性に近づき、結婚をエサに女に貢がせる。金だけしぼり取って、突然姿をくらます。殺されてもいいとは言わないが、少なくとも殺されて文句は言えない、そんな男だった。

 警察に出ている被害届だけでも、片手に余る。被害届を出さずに泣き寝入りしている女性もいるはずだ。

 結局一年近く経って、捜査は完全に暗礁に乗り上げた。

 最初は160人体制が敷かれた捜査本部も縮小されて今は30人。専従捜査員は、もうすぐ定年を迎える木下警部補と、愛海のふたりだけとなっていた。

 「現場百回」が口癖の上司に連れられて、この一年で何度この現場を訪れただろうか。それでも路地裏に入るときは、いまだに一瞬ためらうのだ。

 凄惨な殺害現場。当時まだ新米刑事だった愛海には、あまりに過酷な洗礼だった。

 吐くなよ、と傍にいた木下に声をかけられたが、それよりもっとひどい醜態をさらした。

 その場で失神してしまったのだ。それも、倒れたときにスカートのすそがまくれ上がり、大勢の警察官に花柄のパンティを拝ませてしまうというオマケつきで。


 愛海にとってこの事件が特別なものに思えるのには、もうひとつ理由がある。

 被害者の水主淳平は、死ぬまぎわに路上を数メートル這った形跡があるのだ。

 当初は犯人によって引きずられたのだと見られていたが、被害者の衣服や手のひらに残っていた擦痕さっこんと、爪の間にはさまっていた石の破片から見て、本人が自力で這ったのに間違いないというのが、検案をした医師の見解だった。

 普通はこれほど深い傷を受けると、被害者はまず気を失うか、少なくとも失血性ショックでほとんど動けないはずだという。

「これだけの距離を這うために、死ぬ間際に悪魔に魂を売り渡したかもな」

 意地悪な監察医は、若い女刑事を恐がらせるように笑った。

 遺体があったところで、愛海はしゃがみこんだ。瞼には今も、あのときに見たナメクジのような血の跡が焼きついている。

 薄暗い路地裏からにぎやかな表通りへと、血の川の中でもがきながら、最後の力をふりしぼって這っていった被害者。たくさんの女性をだました悪人に違いないのに、なぜか愛海は水主をかわいそうだと思った。

 いったい、この人は最後に何を見たのだろう。何を考えたのだろう。助けを呼ぼうとしたのだろうか。悪事ばかりの一生を心から悔いて、せめて最後は明るい光の中に出たかったのだろうか。

 石畳の上に花束を置き、愛海は一心に手を合わせた。

「ごめんなさい。まだ犯人を見つけてあげられなくて。全力をあげて必ず逮捕しますから、もう少し待っていてくださいね」



 誰かが俺に話しかけている。

 何か答えなきゃ。

 でも、待ってくれ。目が開かない。身体が動かない。

 声すら、も、出ない、んだ。

 それだけ思考すると、俺はふたたび混沌の闇の中に沈んでいった。



 愛海が自分のマンションに帰ってきたのは、もう10時近かった。

「『被害者は行ったようだ』だと? 小潟、報告書には事実だけを書けって口を酸っぱくして言っても、おまえはまだ満足に書けねえのか!」

 刑事課全体を震わすような捜査一係長の怒鳴り声が、また鼓膜をマヒさせている。

 そのたびに部屋に漂う、熟練刑事たちの忍び笑い。やれやれという表情で頭をかいている木下警部補。

 私なんかが刑事になったことが、間違いだったのかもしれない。

 いや、違う。こんなことで負けやしない。血のにじむような努力をして、子どもの頃からの夢をやっと実現させたのだもの。

「ファイト!」

 ぐっと両手を握りしめる。愛海はマンションの玄関の階段を駆け上がると、ドアを押そうとした。

「ひ……」

 戦慄して、手を引っ込めた。男の姿が扉のガラスに映っていたからだ。頭を垂れ、愛海の肩に触れそうなほど近くに立ち尽くしている。

 思わず、肩越しに振り向いた。

 だが、そこには誰もいなかった。



 たとえて言えば、それはまるで水中に潜っていて、湖面に顔だけ突き出すような感じだった。

 完全に無となり、流れる闇と一体化した意識が、ときおり何かの拍子に元の形を取り戻す。

 そのたびに俺は必死に自我を組み立てようとするのだが、力尽きてまた全てを手放す。

 その繰り返しだった。

 だが、その中で少しずつ、意識のある時間が長くなっていったように思う。

 あるとき気づいたら、俺はどこかに立っていた。

 光とも呼べない、まどろむような明るさに、足の下の地面が照らし出されて、たえず色と形を変えていた。

 けっこう苦労を重ねて動けるようになると、ふらふらと歩き始めた。

 すると向こうに、地面の上に釣り糸を垂れた白髪の老人が見えてきた。

 遠近法で徐々に視界に入ってきた、というわけじゃない。いなかったものが、いきなりいる。この辺は、実際に死んでみないとわからない景色だろう。

「ふふん、やっと来たか」

 老人は俺のことをチラリと見ると、鼻でせせら笑った。

「素質のあるヤツだと思ったが、見込み違いだったかの。こんなにわしを待たせるとは」

「誰だ、あんたは」

 喉が渇いて焼けつくような肺で、やっとそれだけ言葉にした。本当は喉も肺もないのに、不思議な話だが。

「誰だと思う?」

「悪魔か」

「わしはそんなに物欲しげに見えるか」

「じゃあ、神様か」

「失敬な、よりによって、あんな小者といっしょにするとは!」

 とたんに機嫌悪そうに、むくれてしまう。

「あと二回だけ、回答のチャンスをやろう」

「辞退する」

 俺の体はまた、闇の中に溶け込み始めた。

「こら、待て!」

 彼はあわてて、俺を引きずりだそうとした。

「まだわしの質問に答えておらぬぞ」

「どうでもいい。……眠らせてくれ」

「おまえさんには、かなり有望な素質があると見たのだ。今はまだ、少し動くだけですべての霊力を使い果たすだろうが、それは訓練しだいで成長する」

「何の……話だ」

「あとで、ゆっくり説明してやる。とにかく、わしのことを誰だと思うか、答えてみい」

「太公望……か」

 老人は、満足げにニンマリ笑った。

「霊力を蓄えたら、また来い。待っておるぞ」



「愛海、どうしたの。その顔!」

 食堂で、少年課勤務の石崎由香利が目をまんまるに見開いて、近づいてきた。

「アタマ悪くても可愛いだけが取り柄のあんただったのに、そのぼさぼさの髪、目の下の真っ黒な隈は何?」

「幽霊に会うのよ」

 ふらふらとテーブルにつくと、

「昨夜でもう、三回目。恐くて、もうこのところ夜一睡もしてないよ」

「どんな幽霊よ。女?」

「男かな」

「男っ?」

 由香利はすっとんきょうな声を上げる。「顔はいい?」

「うつむいてるから、よくわかんない。すぐ消えるし……」

 愛海は大きなため息をつくと、涙目で同僚を非難するように見た。

「由香利。あんた、顔さえよければ、幽霊とでも付き合うの?」

「あたりまえのこと訊かないでよ」



 俺がふたたび意識を取り戻したとき、「太公望」のおっさんは待ち構えていたように、すぐ目の前で釣り糸を垂れていた。

「わりかし早かったの。感心感心」

「あれから……どれくらい経ったんだ?」

「まあ、人間の暦で言えば、一週間かの。一年待ったことに比べれば、早いもんだ」

「一年……俺が死んでから一年になるのか」

 俺の殺された路地で、花束を持って手を合わせていた女の姿がよみがえる。あれは一周忌のつもりだったのかもしれない。

「さてと。何から説明しようかの。おまえさんは実は厳密な意味では死んでいないのだよ」

「死んでいない……? 生きているのか」

「まあ、待ちなさい。もちろんおまえさんの肉体は完全に死んだ。火葬されて骨になってしもうた。だが、おまえさんの魂は、死者のリストに書かれておらんのだ」

「……」

「つまりおまえさんは予定にない死に方をしたのだ。病死でも事故死でもない。

自殺や殺人といった人間の予期せぬ思惑によって突然の死がもたらされた場合、まれに見られる現象での。肉体は死んでおるが、魂は死者の国へ行く資格のない、いわば宙ぶらりん状態なのだ」

「……わけがわからん」

「そうじゃろうな。いきなりこんな人生の重大事を告げられても、納得するほうが難しかろう」

 それで、俺は地獄にも行かずにこんなところにいるわけか。生きているのでも死んだのでもない、宙ぶらりんの状態。まあ、俺にふさわしいか。

「いや、納得はした」

 俺はふたたび形をなくし、闇の中に沈もうとした。

「おい、どこへ行く」

「納得した。だからもう眠る」

「気の早いヤツじゃ。話はまだ終わっておらぬ」

 太公望はまた俺を引っぱり上げると、また勝手に話し始めた。

「ここからが本題だ。おまえさんの予定外の死について調査した奴らがの。ま、天使とでも言うのか、いわゆる事務方だな。そいつらが言うには、あのときのおまえさんは、とっくに死んでいたにもかかわらず、自分の身体を動かしたというのだ」

「へえ……」

 そいつは初耳だった。少し目が覚めた心地だ。

「覚えておらんと思うがの」

「て言うか、俺は自分が死んだときの状況をよく思い出せない」

「それはそうだろう。死ぬ瞬間というのは、想像を絶する苦痛を軽減するため、脳は麻薬物質を大量に放出するものだ。いわばイッチャってる状態なので、記憶はさだかでない」

 おっさんは立ち上がると、俺の顔を覗き込み、ぐいと指を突き出した。

「おまえさんは、生物学的な完全死の後に自分の身体を動かした。

それは、『霊指』という能力だ。誰にでも備わるものではない」

「『霊指』?」

「そう、おまえさんには、『霊指』の能力があると見た」

 いまだによく飲み込めないが、どうやら俺が持っている特殊な力を褒められているらしくて、それはそれで悪い気はしない。

「で、それは今の俺にどう役に立つ」

「まったく、せっかちな男だの。その性格では人生、うまくいかんぞ」

 うまく行かなかったから、こういう状態になってるわけだが。

「普通なら、霊体になった者が現世への物理的介入をすることはできない。だが、おまえさんの場合はそれができる。

初歩の『霊指』能力では、人間に自分の姿を見せたり、声を聞かせることができる。

俗に言う幽霊というヤツは、ま、たいていがこの初級『霊指』だ。

もう少し高度な『霊指』になると、ものを触ったり、動かしたりすることができる。ただし人間の体のような重い物体になると、途方もない霊力が必要となるがの」

「じゃあ、俺は……」

「その途方もない高度な『霊指』の能力の持ち主だということだ。

最高級の部類に入ると言ってよい。なにしろ、しょっぱなから自分の死体を霊力で動かしたんだからの。

ただし、それこそ死という特殊な状況での火事場の馬鹿力。自由にコントロールできるようになるためには、長くつらい訓練が必要になる」

 そこまで聞いた俺はいきなり立ち上がって、太公望に背を向けた。

「どこへ行く?」

「そんな能力、俺には必要ねえ」

 会って話をしたい現世の人間など、俺にはひとりもいなかった。罵倒され、塩を撒かれ、呪いの言葉を浴びせられるのがオチだ。

 ましてや、触れたり動かしたりしたいものなど、この世には何ひとつない。

「ほんとうに、ほんとうかぁ?」

 ネチっこく念を押すおっさんの声が、後から首を鷲づかみにするように追いかけてきた。

 その途端、俺はひとりの女の白く細い首筋を思い出した。



「ひいっ」

 愛海は椅子から飛び上がって、すっとんきょうな悲鳴を上げた。

 捜査一係の面々がいっせいに怪訝な顔で振り返る。

「あ、す、すみません」

 朝の会議中だった。

 いきなり、首筋をなでられたような触感が襲ってきたのだ。

 まさか。そんなはずは。

 気のせいだと打ち消そうとしたとき、二度目が訪れた。

 そっと優しく、暖かい指が触れたような快感に、全身がぞくりと震えて、思わず吐息が漏れる。

「あ……あん」

 係長の怒髪が天をつく。

「小潟くん! さっきから何を言っとるんだ」

「すみませんっ!」

 何が起きているというの?


 小潟愛海の受難は、まだまだ始まったばかりだった。


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