詩(私)小説 『 言葉に出来ない 』
詩(私)小説です。
詩(私)小説
『 言葉にできない 』
あるとき、私は病院へ行った。祖母の見舞いにいくために。
あるとき、私は病院へ行った。祖母の見舞いにいくために。待ち時間が膨大にあるために、私は待合室で暇を潰した。時間というのは、常に足りないか余るかのどちらかだ。
あるとき、私は病院へ行った。祖母の見舞いにいくために。祖母は死に瀕し、人生に対して疲れ果てていた。彼女は病室のベッドで眠り続け、ときおり伸びきった足の爪で、ふくらはぎを掻いた。待ち時間が膨大にあるために、私は待合室で暇を潰した。時間というのは、常に足りないか余るかのどちらかだ。いずれにせよ自分のものには永久にならない。
あるとき、私は病室へ行った。祖母の見舞いにいくために。祖母は死に瀕し、人生に疲れ果てていた。人生に疲れ果てていない人間などいるのだろうか?子供を除いて?彼女は病室のベッドで眠り続け、ときおり伸びきった足の爪で、ふくらぎを掻いた。爪は歪み、黄色く変色していた。彼女の疲れ果てた魂のように。待ち時間が膨大にあるために、私は待合室で暇を潰した。そこで待つ私はある音を耳にした。時間というのは常に足りないか余るかのどちらかだ。いずれにせよ自分のものには永久にならない。人は時間から離れて生きられないのに。
あるとき、私は病室へ行った。祖母の見舞いにいくために。祖母は死に瀕し、人生に疲れ果てていた。人生に疲れ果てていない人間などいるのだろうか?子供を除いて?私はまだ見たことがない。その日、空は晴れていた。彼女は病室のベッドで眠り続け、ときおり伸びきった足の爪で、ふくらはぎを掻いた。爪は歪み、黄色く変色していた。彼女の疲れ果てた魂のように。爪を切ろう、と私が言うと、彼女は切らなくて構わない、と言った。待ち時間が膨大にあるために、私は待合室で暇を潰した。そこで待つ私はある音を耳にした。錆びた鉄が川底で擦れるような嫌な音を。時間というのは常に足りないか余るかのどちらかだ。いずれにせよ自分のものには永久にならない。どれだけ欲しても。人は時間から離れて生きられないのに。
あるとき、私は病室へ行った。祖母の見舞いにいくために。祖母は死に瀕し、人生に疲れ果てていた。人生に疲れ果てていない人間などいるのだろうか?子供を除いて?犬や猫や、動物を除いて?私はまだ見たことがない。見たいといつも願うのに。その日、空は晴れていた。どこの病室もカーテンは閉められていた。彼女は病室のベッドで眠り続け、ときおり伸びきった足の爪で、ふくらはぎを掻いた。爪は歪み、黄色く変色していた。彼女の疲れ果てた魂のように。爪を切ろう、と私が言うと、彼女は切らなくて構わない、と言った。どうせ、もう先は長くないから、と。待ち時間が膨大にあるために、私は待合室で暇を潰した。古びた本と、古びたビデオがそこにはあった。そこで待つ私はある音を耳にした。錆びた鉄が川底で擦れるような嫌な音を。ひとりの男性がそこへやってきた。時間というのは常に足りないか余るかのどちらかだ。いずれにせよ自分のものには永久にならない。どれだけ欲しても。人は時間から離れて生きられないのに。
あるとき、私は病室へ行った。たったひとりで行った。祖母の見舞いにいくために。祖母は死に瀕し、人生に疲れ果てていた。人生に疲れ果てていない人間などいるのだろうか?子供を除いて?犬や猫や、動物を除いて?痴人や聖者を除いて?私はまだ見たことがない。見たいといつも願うのに。その日、空は晴れていた。どこの病室もカーテンは閉められていた。埃の匂いと、消毒液の匂いが廊下で漂った。彼女は病室のベッドで眠り続け、ときおり伸びきった足の爪で、ふくらはぎを掻いた。肌を擦る硬い音がした。爪は歪み、黄色く変色していた。長い年月の徴がそこにはある。彼女の疲れ果てた魂のように。爪を切ろう、と私が言うと、彼女は切らなくて構わない、と言った。どうせ、先はもう長くないから、と。こんなとき、どんな顔をすれば良い?待ち時間が膨大にあるために、私は待合室で暇を潰した。古びた本と、古びたビデオがそこにはあった。どちらも誰も触れないインテリアと化していた。そこで待つ私はある音を耳にした。錆びた鉄が川底で擦れるような嫌な音を。ひとりの男性がそこへやってきた。痩せこけた、骨と皮しかないひとりの老人が。時間というのは常に足りないか余るかのどちらかだ。いずれにせよ自分のものには永久にならない。どれだけ欲しても。人は時間から離れて生きられないのに。
あるとき、私は病室へ行った。たったひとりで行った。祖母の見舞いにいくために。祖母は死に瀕し、人生に疲れ果てていた。人生に疲れ果てていない人間などいるのだろうか?子供を除いて?犬や猫や、動物を除いて?痴人や聖者を除いて?植物や太陽や、路端に転がる石を除いて?私はまだ見たことがない。見たいといつも願うのに。その日、空は晴れていた。どこの病室もカーテンは閉められていた。埃の匂いと、消毒液の匂いが廊下で漂った。病院の匂いというのは、いつも人を憂鬱に落ち込ます。彼女は病室のベッドで眠り続け、ときおり伸びきった足の爪で、ふくらはぎを掻いた。肌を擦る硬い音がした。爪は歪み、黄色く変色していた。古びた樹木のように。長い年月の徴がそこにはある。彼女の疲れ果てた魂のように。爪を切ろう、と私が言うと、彼女は切らなくて構わない、と言った。どうせ、先はもう長くないから、と。こんなとき、どんな顔をすれば良い?なにを言えば良い?待ち時間が膨大にあるために、私は待合室で暇を潰した。古びた本と、古びたビデオがそこにはあった。どちらも誰も触れないインテリアと化していた。触れるほどの気力が彼らにはないからだ。そこで待つ私はある音を耳にした。錆びた鉄が川底で擦れるような嫌な音を。ひとりの男性がそこへやってきた。痩せこけた、骨と皮しかないひとりの老人が。彼の鼻に差し込まれた太い管のなかを、ときおり緑色をした痰が通過した。時間というのは常に足りないか余るかのどちらかだ。いずれにせよ自分のものには永久にならない。どれだけ欲しても。人は時間から離れて生きられないのに。
あるとき、私は病室へ行った。たったひとりで行った。祖母の見舞いにいくために。祖母は死に瀕し、人生に疲れ果てていた。いつも眠るか、起きているときでさえ眠っているようだった。人生に疲れ果てていない人間などいるのだろうか?子供を除いて?犬や猫や、動物を除いて?痴人や聖者を除いて?植物や太陽や、路端に転がる石を除いて?私はまだ見たことがない。見たいといつも願うのに。私には、酒の空き瓶でさえ疲れているように見える、人生に。その日、空は晴れていた。どこの病室もカーテンは閉められていた。重く、湿った、ベージュのカーテンだ。埃の匂いと、消毒液の匂いが廊下で漂った。病院の匂いというのは、いつも人を憂鬱に落ち込ます。彼女は病室のベッドで眠り続け、ときおり伸びきった足の爪で、ふくらはぎを掻いた。肌を擦る硬い音がした。爪は歪み、黄色く変色していた。古びた樹木のように。長い年月の徴がそこにはある。彼女の疲れ果てた魂のように。爪を切ろう、と私が言うと、彼女は切らなくて構わない、と言った。どうせ、先はもう長くないから、と。こんなとき、どんな顔をすれば良い?なにを言えば良い?私の人生に対する困惑は、いつもどう振る舞えば良いかわからない、というところにあるように思える。待ち時間が膨大にあるために、私は待合室で暇を潰した。古びた本と、古びたビデオがそこにはあった。どちらも誰も触れないインテリアと化していた。触れるほどの気力が彼らにはないからだ。そこで待つ私はある音を耳にした。錆びた鉄が川底で擦れるような嫌な音を。ひとりの男性がそこへやってきた。痩せこけた、骨と皮しかないひとりの老人が。苦しそうに、車椅子を漕ぎながら。彼の鼻に差し込まれた太い管のなかを、ときおり緑色をした痰が通過した。彼はコポコポと音を立てて呼吸をし、長い時間をかけて私の前へやってきた。時間というのは常に足りないか余るかのどちらかだ。いずれにせよ自分のものには永久にならない。どれだけ欲しても。人は時間から離れて生きられないのに。
あるとき、私は病室へ入った。たったひとりで行った。祖母の見舞いにいくために。祖母は死に瀕し、人生に疲れ果てていた。いつも眠るか、起きているときでさえ眠っているようだった。彼女は生きたいと願うよりむしろ、死が来るのを待っていた。いつも眠るか、起きているときでさえ眠っているようだった。人生に疲れ果てていない人間などいるのだろうか?子供を除いて?犬や猫や、動物を除いて?痴人や聖者を除いて?植物や太陽や、路端に転がる石を除いて?私はまだ見たことがない。見たいといつも願うのに。私には、酒の空き瓶でさえ疲れているように見える、人生に。その日、空は晴れていた。どこの病室もカーテンは閉められていた。重く、湿った、ベージュのカーテンだ。その隙間から差し込む一筋の光が、埃を宙で揺れさせた。埃の匂いと、消毒液の匂いが廊下で漂った。病院の匂いというのは、いつも人を憂鬱に落ち込ます。あるいは、自分は部外者に過ぎないのだ、と人に思わせ、疎外する。彼女は病室のベッドで眠り続け、ときおり伸びきった足の爪で、ふくらはぎを掻いた。肌を擦る硬い音がした。爪は歪み、黄色く変色していた。古びた樹木のように。長い年月の徴がそこにはある。彼女の疲れ果てた魂のように。爪を切ろう、と私が言うと、彼女は切らなくて構わない、と言った。どうせ先はもう長くないから、と。こんなとき、どんな顔をすれば良い?なにを言えば良い?私の人生に対する困惑は、いつもどう振る舞えば良いのかわからない、というところにあるように思える。待ち時間が膨大にあるために、私は待合室で暇を潰した。古びた本と、古びたビデオがそこにはあった。どちらも誰も触れないインテリアと化していた。触れるほどの気力が彼らにはないからだ。そこで待つ私はある音を耳にした。錆びた鉄が川底で擦れるような嫌な音を。あの音がいまも耳から離れない。ひとりの男性がそこへやってきた。痩せこけた、骨と皮しかないひとりの老人が。苦しそうに、車椅子を漕ぎながら。彼は生きているというより、死にながら呼吸している。彼の鼻に差し込まれた太い管のなかを、ときおり緑色をした痰が通過した。その音を聴くと、人は自分が健康であることが恥ずかしくなる。彼はコポコポと音を立てて呼吸をし、長い時間をかけて私の前へやってきた。取り出した一冊のノートをテーブルへ乗せると、そこへ文字を書いた。時間というのは常に足りないか余るかのどちらかだ。いずれにせよ自分のものには永久にならない。どれだけ欲しても。人は時間から離れて生きられないのに。
あるとき、私は病室へ入った。たったひとりで行った。祖母の見舞いにいくために。祖母は死に瀕し、人生に疲れ果てていた。彼女は、人生は私にはわからぁん、といつか語った。いつも眠るか、起きているときでさえ眠っているようだった。目が覚めると、わずかにまぶたを開いて私を見つめた。彼女は生きたいと願うよりむしろ、死が来るのを待っていた。はよぉ死にたい、と謝るように私へ言った。いつも眠るか、起きているときでさえ眠っているようだった。人生に疲れ果てていない人間などいるのだろうか?子供を除いて?犬や猫や、動物を除いて?痴人や聖者を除いて?植物や太陽や、路端に転がる石を除いて?私はまだ見たことがない。見たいといつも願うのに。私には、酒の空き瓶でさえ疲れているように見える、人生に。その日、空は晴れていた。どこの病室もカーテンは閉められていた。重く、湿った、ベージュのカーテンだ。その隙間から差し込む一筋の光が、埃を宙で揺れさせた。通り過ぎるとき、別の病室の寝たきりの老人と目が合った。病院の匂いというのは、いつも人を憂鬱に落ち込ます。あるいは、自分は部外者に過ぎないのだ、と人に思わせ、疎外する。祖母は病室のベッドで眠り続け、ときおり伸びきった足の爪で、ふくらはぎを掻いた。肌を擦る硬い音がした。爪は歪み、黄色く変色していた。古びた樹木のように。長い年月の徴がそこにはある。彼女の疲れ果てた魂のように。爪を切ろう、と私が言うと、彼女は切らなくて構わない、と言った。どうせ先はもう長くないから、と。こんなとき、どんな顔をすれば良い?なにを言えば良い?私の人生に対する困惑は、いつもどう振る舞えば良いのかわからない、というところにあるように思える。そもそも、正しい振る舞いというものがあるのだろうか?待ち時間が膨大にあるために、私は待合室で暇を潰した。古びた本と、古びたビデオがそこにはあった。そのうちのひとつを摘むと、指が埃でべとついた。どちらも誰も触れないインテリアと化していた。触れるほどの気力が彼らにはないからだ。そこで待つ私はある音を耳にした。錆びた鉄が川底で擦れるような嫌な音を。あの音がいまも耳から離れない。ふとした瞬間につい思い出す。ひとりの男性がそこへやってきた。痩せこけた、骨と皮しかないひとりの老人が。苦しそうに、車椅子を漕ぎながら。膝のうえにウェットティッシュの箱と、一冊の時刻表を抱えながら。彼は生きているというより、死にながら呼吸している。死というのは、黒と白のどちらかというより、むしろ実際にはグレーだ。彼の鼻に差し込まれた太い管のなかを、ときおり緑色をした痰が通過した。その音を聴くと、人は自分が健康であることが恥ずかしくなる。彼はコポコポと音を立てて呼吸をし、長い時間をかけて私の前へやってきた。なにか強い意思を持って。取り出した一冊のノートをテーブルへ乗せると、彼はそこへ文字を書いた。初めまして、と彼は書いた。時間というのは常に足りないか余るかのどちらかだ。いずれにせよ自分のものには永久にならない。どれだけ欲しても。人は時間から離れて生きられないのに。
あるとき、私は病室へ入った。たったひとりで行った。祖母の見舞いにいくために。見舞いにいく他の時間、祖母がなにをしているのか私は知らない。祖母は死に瀕し、人生に疲れ果てていた。彼女は、人生は私にはわからぁん、といつか語った。私が人生について尋ねたからだ。好奇心から出た質問だったが、祖母がつらそうに答えるのを見て私は罪悪感を抱いた。彼女はいつも眠るか、起きているときでさえ眠っているようだった。目が覚めると、わずかにまぶたを開いて私を見つめた。懇願するような視線を彼女は私へ向けた。人生に疲れ果てていない人間などいるのだろうか?子供を除いて?犬や猫や、動物を除いて?痴人や聖者を除いて?植物や太陽や、路端に転がる石を除いて?私はまだ見たことがない。見たいといつも願うのに。私には、酒の空き瓶でさえ疲れているように見える、人生に。その日、空は晴れていた。誰も見ないのに。どこの病室もカーテンは閉められていた。重く、湿った、ベージュのカーテンだ。その隙間から差し込む一筋の光が、埃を宙で揺れさせた。通り過ぎるとき、別の病室の寝たきりの老人と目が合った。老人の眼は虚ろで、黄色い“チュッパチャップス”のようだった。病院の匂いというのは、いつも人を憂鬱に落ち込ます。あるいは、自分は部外者に過ぎないのだ、と人に思わせ、疎外する。この冷たい疎外された感覚のなか、なにをすべきなのだろう?祖母は病室のベッドで眠り続け、ときおり伸びきった足の爪で、ふくらはぎを掻いた。肌を擦る硬い音がした。爪は歪み、黄色く変色していた。古びた樹木のように。長い年月の徴がそこにはある。彼女の疲れ果てた魂のように。爪を切ろう、と私が言うと、彼女は切らなくて構わない、と言った。どうせ先はもう長くないから、と。こんなとき、どんな顔をすれば良い?なにを言えば良い?私の人生に対する困惑は、いつもどう振る舞えば良いのかわからない、というところにあるように思える。そもそも、正しい振る舞いというものがあるのだろうか?待ち時間が膨大にあるために、私は待合室で暇を潰した。古びた本と、古びたビデオがそこにはあった。そのうちのひとつを摘むと、指が埃でべとついた。どちらも誰も触れないインテリアと化していた。触れるほどの気力が彼らにはないからだ。そこで待つ私はある音を耳にした。錆びた鉄が川底で擦れるような嫌な音を。あの音がいまも耳から離れない。ふとした瞬間につい思い出す。車でドライブスルーへ入ろうとする瞬間などに。ひとりの男性がそこへやってきた。痩せこけた、骨と皮しかないひとりの老人が。苦しそうに、車椅子を漕ぎながら。膝のうえにウェットティッシュの箱と、一冊の時刻表を抱えながら。なぜそれを、それほど大事そうにしているのだろう、一瞬私はそう考えた。彼は生きているというより、死にながら呼吸している。死というのは、黒と白のどちらかというより、むしろ実際にはグレーだ。曖昧な中間というものがある。彼の鼻に差し込まれた太い管のなかを、ときおり緑色をした痰が通過した。その音を聴くと、人は自分が健康であることが恥ずかしくなる。彼は生きているのだろうか?彼はコポコポと音を立てて呼吸をし、長い時間をかけて私の前へやってきた。なにか強い意思を持って。取り出した一冊のノートをテーブルへ乗せると、彼はそこへ文字を書いた。初めまして、と彼は書いた。「初めまして、お名前は?」と。時間というのは常に足りないか余るかのどちらかだ。いずれにせよ自分のものには永久にならない。どれだけ欲しても。人は時間から離れて生きられないのに。
あるとき、私は病室へ入った。たったひとりで行った。祖母の見舞いにいくために。いまや誰も行こうとせず、誰も彼女を心の底から気にかけてはいない。見舞いにいく他の時間、祖母がなにをしているのか私は知らない。彼女は何を好み、何を嫌うのだろう?祖母は死に瀕し、人生に疲れ果てていた。彼女は、人生は私にはわからぁん、といつか語った。私が人生について尋ねたからだ。好奇心から出た質問だったが、祖母がつらそうに答えるのを見て私は罪悪感を抱いた。その罪悪感は今も残っている。彼女はいつも眠るか、起きているときでさえ眠っているようだった。目が覚めると、わずかにまぶたを開いて私を見つめた。懇願するような視線を彼女は私へ向けた。何を求め、何を言おうとしていたのか?彼女の眼は、黄色いキャンディー、“チュッパチャップス”のようだった。人生に疲れ果てていない人間などいるのだろうか?子供を除いて?犬や猫や、動物を除いて?痴人や聖者を除いて?植物や太陽や、路端に転がる石を除いて?私はまだ見たことがない。見たいといつも願うのに。願いながら私はいつも諦めている。人というのは、いつも諦めながら願いたがる。私には、酒の空き瓶でさえ疲れているように見える、人生に。その日、空は晴れていた。誰も見ないのに。どこの病室もカーテンは閉められていた。重く、湿った、ベージュのカーテンだ。その隙間から差し込む一筋の光が、埃を宙で揺れさせた。通り過ぎるとき、別の病室の寝たきりの老人と目が合った。老人の眼は虚ろで、黄色い“チュッパチャップス”のようだった。あの視線の、その線上を通るのが嫌だった。生きているのが恥ずかしくなるからだ。病院の匂いというのは、いつも人を憂鬱に落ち込ます。あるいは、自分は部外者に過ぎないのだ、と人に思わせ、疎外する。この冷たい疎外された感覚のなか、なにをすべきなのだろう?なぜ病院で人は部外者になるのだろう?患者の親族のはずなのに。祖母は病室のベッドで眠り続け、ときおり伸びきった足の爪で、ふくらはぎを掻いた。肌を擦る硬い音がした。爪は歪み、黄色く変色していた。古びた樹木のように。長い年月の徴がそこにはある。彼女の疲れ果てた魂のように。爪を切ろう、と私が言うと、彼女は切らなくて構わない、と言った。どうせ先はもう長くないから、と。こんなとき、どんな顔をすれば良い?なにを言えば良い?私の人生に対する困惑は、いつもどう振る舞えば良いのかわからない、というところにあるように思える。そもそも、正しい振る舞いというものがあるのだろうか?待ち時間が膨大にあるために、私は待合室で暇を潰した。古びた本と、古びたビデオがそこにはあった。そのうちのひとつを摘むと、指が埃でべとついた。どちらも誰も触れないインテリアと化していた。触れるほどの気力が彼らにはないからだ。そこで待つ私はある音を耳にした。錆びた鉄が川底で擦れるような嫌な音を。あの音がいまも耳から離れない。ふとした瞬間につい思い出す。車でドライブスルーへ入ろうとする瞬間などに。ひとりの男性がそこへやってきた。痩せこけた、骨と皮しかないひとりの老人が。苦しそうに、車椅子を漕ぎながら。膝のうえにウェットティッシュの箱と、一冊の時刻表を抱えながら。なぜそれを、それほど大事そうにしているのだろう、一瞬私はそう考えた。彼は生きているというより、死にながら呼吸している。死というのは、黒と白のどちらかというより、むしろ実際にはグレーだ。曖昧な中間というものがある。彼は死んでいた、少なくとも半分は。あれを生きていると呼べるのだろうか?彼の鼻に差し込まれた太い管のなかを、ときおり緑色をした痰が通過した。その音を聴くと、人は自分が健康であることが恥ずかしくなる。彼は生きているのだろうか?生きている、と自覚しているのだろうか?彼はコポコポと音を立てて呼吸をし、長い時間をかけて私の前へやってきた。なにか強い意思を持って。取り出した一冊のノートをテーブルへ乗せると、彼はそこへ文字を書いた。ノートは方眼紙で、ページが埋まるたびに彼はそれを一枚めくった。初めまして、と彼は書いた。「初めまして、お名前は?」と。それからペンを差し出した。ペンは安っぽく、ひどい脂でべといついていた。男の指から滲み出る、しつこく不潔な脂だった。時間というのは常に足りないか余るかのどちらかだ。いずれにせよ自分のものには永久にならない。どれだけ欲しても。人は時間から離れて生きられないのに。
あるとき、私は病室へ入った。たったひとりで行った。祖母の見舞いにいくために。いまや誰も行こうとせず、誰も彼女を心の底から気にかけてはいない。私以外には誰も行こうとしなかった。自分の最期を看取ろうとするのが、ほとんど会話もしたことのない孫だというのは、どういう気持ちなのだろう?見舞いにいく他の時間、祖母がなにをしているのか私は知らない。彼女は何を好み、何を嫌うのだろう?どう生き、どのようにしてここにいるのだろう?祖母は死に瀕し、人生に疲れ果てていた。彼女は、人生は私にはわからぁん、といつか語った。私が人生について尋ねたからだ。好奇心から出た質問だったが、祖母がつらそうに答えるのを見て私は罪悪感を抱いた。その罪悪感は今も残っている。彼女はすでに消えたのに。彼女はいつも眠るか、起きているときでさえ眠っているようだった。目が覚めると、わずかにまぶたを開いて私を見つめた。懇願するような視線を彼女は私へ向けた。何を求め、何を言おうとしていたのか?彼女の眼は、黄色いキャンディー、“チュッパチャップス”のようだった。あの眼に、なんて答えれば良い?人生に疲れ果てていない人間などいるのだろうか?子供を除いて?犬や猫や、動物を除いて?痴人や聖者を除いて?植物や太陽や、路端に転がる石を除いて?私はまだ見たことがない。見たいといつも願うのに。願いながら私はいつも諦めている。人というのは、いつも諦めながら願いたがる。私には、酒の空き瓶でさえ疲れているように見える、人生に。その日、空は晴れていた。誰も見ないのに。どこの病室もカーテンは閉められていた。重く、湿った、ベージュのカーテンだ。その隙間から差し込む一筋の光が、埃を宙で揺れさせた。通り過ぎるとき、別の病室の寝たきりの老人と目が合った。老人の眼は虚ろで、黄色い“チュッパチャップス”のようだった。あの視線の、その線上を通るのが嫌だった。生きているのが恥ずかしくなるからだ。祖母の病室へむかうあいだ、いつも私はこう願った。あの視線が廊下へ向いていないように、と。病院の匂いというのは、いつも人を憂鬱に落ち込ます。あるいは、自分は部外者に過ぎないのだ、と人に思わせ、疎外する。この冷たい疎外された感覚のなか、なにをすべきなのだろう?なぜ病院で人は部外者になるのだろう?患者の親族のはずなのに。祖母は病室のベッドで眠り続け、ときおり伸びきった足の爪で、ふくらはぎを掻いた。肌を擦る硬い音がした。爪は歪み、黄色く変色していた。古びた樹木のように。長い年月の徴がそこにはある。彼女の疲れ果てた魂のように。爪を切ろう、と私が言うと、彼女は切らなくて構わない、と言った。どうせ先はもう長くないから、と。こんなとき、どんな顔をすれば良い?なにを言えば良い?私の人生に対する困惑は、いつもどう振る舞えば良いのかわからない、というところにあるように思える。そもそも、正しい振る舞いというものがあるのだろうか?彼女は私が去ろうとするといつも、「ありがとうございます」と頭を下げた。待ち時間が膨大にあるために、私は待合室で暇を潰した。古びた本と、古びたビデオがそこにはあった。そのうちのひとつを摘むと、指が埃でべとついた。どちらも誰も触れないインテリアと化していた。触れるほどの気力が彼らにはないからだ。潰す暇などないからだ。そこで待つ私はある音を耳にした。錆びた鉄が川底で擦れるような嫌な音を。あの音がいまも耳から離れない。ふとした瞬間につい思い出す。車でドライブスルーへ入ろうとする瞬間などに。スーパーで、カゴを取ろうとしたときなどに。ひとりの男性がそこへやってきた。痩せこけた、骨と皮しかないひとりの老人が。苦しそうに、車椅子を漕ぎながら。膝のうえにウェットティッシュの箱と、一冊の時刻表を抱えながら。なぜそれを、それほど大事そうにしているのだろう、一瞬私はそう考えた。看護婦に与えられるままに、そこへ乗せ続けているのだろうか、と考えた。彼はまるで、おもちゃの骸骨だった。人間というより骨だった。生きているというより、死にながら呼吸している。死というのは、黒と白のどちらかというより、むしろ実際にはグレーだ。曖昧な中間というものがある。彼は死んでいた、少なくとも半分は。あれを生きていると呼べるのだろうか?なぜそうまでして生きなければならないのだろう?彼の鼻に差し込まれた太い管のなかを、ときおり緑色をした痰が通過した。5秒に一度、彼の鼻はゴウゴウと轟音を立てた。その音を聴くと、人は自分が健康であることが恥ずかしくなる。彼は生きているのだろうか?生きている、と自覚しているのだろうか?彼はコポコポと音を立てて呼吸をし、長い時間をかけて私の前へやってきた。なにか強い意思を持って。出来る限りの必死さで笑みを保ちながら。取り出した一冊のノートをテーブルへ乗せると、彼はそこへ文字を書いた。ノートは方眼紙で、ページが埋まるたびに彼はそれを一枚めくった。初めまして、と彼は書いた。「初めまして、お名前は?」と。それからペンを差し出した。ペンは安っぽく、ひどい脂でべといついていた。男の指から滲み出る、しつこく不潔な脂だった。私が名前を書くと、彼は笑った。時間というのは常に足りないか余るかのどちらかだ。いずれにせよ自分のものには永久にならない。どれだけ欲しても。人は時間から離れて生きられないのに。
あるとき、私は病室へ入った。たったひとりで行った。祖母の見舞いにいくために。いまや誰も行こうとせず、誰も彼女を心の底から気にかけてはいない。私以外には誰も行こうとしなかった。祖母はすでに故郷を離れ、友人もいなければ、彼女を愛す家族もいない。自分の最期を看取ろうとするのが、ほとんど会話もしたことのない孫だというのは、どういう気持ちなのだろう?見舞いにいく他の時間、祖母がなにをしているのか私は知らない。彼女は何を好み、何を嫌うのだろう?どう生き、どのようにしてここにいるのだろう?彼女が長い人生のトンネルを抜けてこのベッドに眠り、私の目の前にいるというのが私には信じられない。祖母は死に瀕し、人生に疲れ果てていた。彼女は、人生は私にはわからぁん、といつか語った。私が人生について尋ねたからだ。好奇心から出た質問だったが、祖母がつらそうに答えるのを見て私は罪悪感を抱いた。その罪悪感は今も残っている。彼女はすでに消えたのに。彼女はいつも眠るか、起きているときでさえ眠っているようだった。目が覚めると、わずかにまぶたを開いて私を見つめた。懇願するような視線を彼女は私へ向けた。何を求め、何を言おうとしていたのか?彼女の眼は、黄色いキャンディー、“チュッパチャップス”のようだった。溶けかけて、濁っていた。あの眼に、なんて答えれば良い?どんな顔をすれば良い?人生に疲れ果てていない人間などいるのだろうか?子供を除いて?犬や猫や、動物を除いて?痴人や聖者を除いて?植物や太陽や、路端に転がる石を除いて?私はまだ見たことがない。見たいといつも願うのに。願いながら私はいつも諦めている。人というのは、いつも諦めながら願いたがる。私には、酒の空き瓶でさえ疲れているように見える、人生に。人は疲れ果てるために生きているように見える。その日、空は晴れていた。誰も見ないのに。どこの病室もカーテンは閉められていた。重く、湿った、ベージュのカーテンだ。その隙間から差し込む一筋の光が、埃を宙で揺れさせた。TS Eliotの詩を思い出す風景だ。通り過ぎるとき、別の病室の寝たきりの老人と目が合った。老人の眼は虚ろで、黄色い“チュッパチャップス”のようだった。溶けかけて濁っていた。あの視線の、その線上を通るのが嫌だった。生きているのが恥ずかしくなるからだ。祖母の病室へむかうあいだ、いつも私はこう願った。あの視線が廊下へ向いていないように、と。にも関わらず、彼とはいつも眼が合った。病院の匂いというのは、いつも人を憂鬱に落ち込ます。あるいは、自分は部外者に過ぎないのだ、と人に思わせ、疎外する。この冷たい疎外された感覚のなか、なにをすべきなのだろう?なぜ病院で人は部外者になるのだろう?患者の親族のはずなのに。親族は心配するフリをするか、下世話なジョークを廊下で交わすしかない。いずれにせよ私たちは疲れている。祖母は病室のベッドで眠り続け、ときおり伸びきった足の爪で、ふくらはぎを掻いた。肌を擦る硬い音がした。爪は歪み、黄色く変色していた。古びた樹木のように。長い年月の徴がそこにはある。彼女の疲れ果てた魂のように。爪を切ろう、と私が言うと、彼女は切らなくて構わない、と言った。どうせ先はもう長くないから、と。こんなとき、どんな顔をすれば良い?なにを言えば良い?私の人生に対する困惑は、いつもどう振る舞えば良いのかわからない、というところにあるように思える。そもそも、正しい振る舞いというものがあるのだろうか?生きるというのは困惑するということだ。人は常に困惑している。彼女は私が去ろうとするといつも、「ありがとうございます」と頭を下げた。まるで他人のように。彼女は看護婦とのほうに、より親密に会話する。私よるはるかに。待ち時間が膨大にあるために、私は待合室で暇を潰した。古びた本と、古びたビデオがそこにはあった。そのうちのひとつを摘むと、指が埃でべとついた。どちらも誰も触れないインテリアと化していた。触れるほどの気力が彼らにはないからだ。潰す暇などないからだ。そこで待つ私はある音を耳にした。錆びた鉄が川底で擦れるような嫌な音を。あの音がいまも耳から離れない。ふとした瞬間につい思い出す。車でドライブスルーへ入ろうとする瞬間などに。スーパーで、カゴを取ろうとしたときなどに。記憶というのは、断片化されたガラスのようなものだ。常に頭上から降りかかろうとする。ひとりの男性がそこへやってきた。痩せこけた、骨と皮しかないひとりの老人が。苦しそうに、車椅子を漕ぎながら。膝のうえにウェットティッシュの箱と、一冊の時刻表を抱えながら。なぜそれを、それほど大事そうにしているのだろう、一瞬私はそう考えた。看護婦に与えられるままに、そこへ乗せ続けているのだろうか、と考えた。なぜ人はこれほど、死にかけの老人に嫌悪感を抱くのだろう?醜いと感じるのだろう?彼はまるで、おもちゃの骸骨だった。人間というより骨だった。たった今、墓場から出てきたばかりのようだった。生きているというより、死にながら呼吸している。死というのは、黒と白のどちらかというより、むしろ実際にはグレーだ。曖昧な中間というものがある。彼は死んでいた、少なくとも半分は。あれを生きていると呼べるのだろうか?なぜ人はそうまでして生きなければならないのだろう?ここに何かから与えられた暴力の徴を感じるのは私だけだろうか?彼の鼻に差し込まれた太い管のなかを、ときおり緑色をした痰が通過した。彼の生命そのもののような、深い緑色をした痰が。5秒に一度、彼の鼻はゴウゴウと轟音を立てた。聴いたこともないような音だ。その音を聴くと、人は自分が健康であることが恥ずかしくなる。生きることが恥ずかしくなる。彼は生きているのだろうか?生きている、と自覚しているのだろうか?彼はコポコポと音を立てて呼吸をし、長い時間をかけて私の前へやってきた。なにか強い意思を持って。出来る限りの必死さで笑みを保ちながら。笑みを保つためだけで、彼の生命はへし折れてしまいそうだった。取り出した一冊のノートをテーブルへ乗せると、彼はそこへ文字を書いた。ノートは方眼紙で、ページが埋まるたびに彼はそれを一枚めくった。初めまして、と彼は書いた。「初めまして、お名前は?」と。それからペンを差し出した。ペンは安っぽく、ひどい脂でべといついていた。触りたくないほどだった。男の指から滲み出る、しつこく不潔な脂だった。私が名前を書くと、彼は笑った。それからこう書いた。「ところで、お話は変わりますが、今行きたいところはありますか?」、と時刻表を開きながら。時間というのは常に足りないか余るかのどちらかだ。いずれにせよ自分のものには永久にならない。どれだけ欲しても。人は時間から離れて生きられないのに。
あるとき、私は病室へ入った。たったひとりで行った。祖母の見舞いにいくために。いまや誰も行こうとせず、誰も彼女を心の底から気にかけてはいない。祖母はすでに故郷を離れ、友人もいなければ、彼女を愛す家族もいない。自分の最期を看取ろうとするのが、ほとんど会話もしたことのない孫だというのは、どういう気持ちなのだろう?見舞いにいく他の時間、祖母がなにをしているのか私は知らない。彼女は何を好み、何を嫌うのだろう?どう生き、どのようにしてここにいるのだろう?彼女が長い人生のトンネルを抜けてこのベッドに眠り、私の目の前にいるというのが私には信じられない。祖母は死に瀕し、人生に疲れ果てていた。彼女は、人生は私にはわからぁん、といつか語った。私が人生について尋ねたからだ。好奇心から出た質問だったが、祖母がつらそうに答えるのを見て私は罪悪感を抱いた。その罪悪感は今も残っている。彼女はすでに消えたのに。彼女はいつも眠るか、起きているときでさえ眠っているようだった。目が覚めると、わずかにまぶたを開いて私を見つめた。懇願するような視線を彼女は私へ向けた。何を求め、何を言おうとしていたのか?彼女の眼は、黄色いキャンディー、“チュッパチャップス”のようだった。溶けかけて、濁っていた。あの眼に、なんて答えれば良い?どんな顔をすれば良い?人生に疲れ果てていない人間などいるのだろうか?子供を除いて?犬や猫や、動物を除いて?痴人や聖者を除いて?植物や太陽や、路端に転がる石を除いて?私はまだ見たことがない。見たいといつも願うのに。願いながら私はいつも諦めている。人というのは、いつも諦めながら願いたがる。私には、酒の空き瓶でさえ疲れているように見える、人生に。人は疲れ果てるために生きているように見える。その日、空は晴れていた。誰も見ないのに。どこの病室もカーテンは閉められていた。重く、湿った、ベージュのカーテンだ。その隙間から差し込む一筋の光が、埃を宙で揺れさせた。TS Eliotの詩を思い出す風景だ。通り過ぎるとき、別の病室の寝たきりの老人と目が合った。老人の眼は虚ろで、黄色い“チュッパチャップス”のようだった。溶けかけて濁っていた。あの視線の、その線上を通るのが嫌だった。生きているのが恥ずかしくなるからだ。祖母の病室へむかうあいだ、いつも私はこう願った。あの視線が廊下へ向いていないように、と。にも関わらず、彼とはいつも眼が合った。病院の匂いというのは、いつも人を憂鬱に落ち込ます。あるいは、自分は部外者に過ぎないのだ、と人に思わせ、疎外する。この冷たい疎外された感覚のなか、なにをすべきなのだろう?なぜ病院で人は部外者になるのだろう?患者の親族のはずなのに。親族は心配するフリをするか、下世話なジョークを廊下で交わすしかない。いずれにせよ私たちは疲れている。祖母は病室のベッドで眠り続け、ときおり伸びきった足の爪で、ふくらはぎを掻いた。肌を擦る硬い音がした。爪は歪み、黄色く変色していた。古びた樹木のように。長い年月の徴がそこにはある。彼女の疲れ果てた魂のように。爪を切ろう、と私が言うと、彼女は切らなくて構わない、と言った。どうせ先はもう長くないから、と。こんなとき、どんな顔をすれば良い?なにを言えば良い?私の人生に対する困惑は、いつもどう振る舞えば良いのかわからない、というところにあるように思える。そもそも、正しい振る舞いというものがあるのだろうか?生きるというのは困惑するということだ。人は常に困惑している。彼女は私が去ろうとするといつも、「ありがとうございます」と頭を下げた。まるで他人のように。彼女は看護婦とのほうに、より親密に会話する。私よるはるかに。待ち時間が膨大にあるために、私は待合室で暇を潰した。古びた本と、古びたビデオがそこにはあった。そのうちのひとつを摘むと、指が埃でべとついた。どちらも誰も触れないインテリアと化していた。触れるほどの気力が彼らにはないからだ。潰す暇などないからだ。そこで待つ私はある音を耳にした。錆びた鉄が川底で擦れるような嫌な音を。あの音がいまも耳から離れない。ふとした瞬間につい思い出す。車でドライブスルーへ入ろうとする瞬間などに。スーパーで、カゴを取ろうとしたときなどに。記憶というのは、断片化されたガラスのようなものだ。常に頭上から降りかかろうとする。ひとりの男性がそこへやってきた。痩せこけた、骨と皮しかないひとりの老人が。苦しそうに、車椅子を漕ぎながら。膝のうえにウェットティッシュの箱と、一冊の時刻表を抱えながら。なぜそれを、それほど大事そうにしているのだろう、一瞬私はそう考えた。看護婦に与えられるままに、そこへ乗せ続けているのだろうか、と考えた。なぜ人はこれほど、死にかけの老人に嫌悪感を抱くのだろう?醜いと感じるのだろう?彼はまるで、おもちゃの骸骨だった。人間というより骨だった。たった今、墓場から出てきたばかりのようだった。生きているというより、死にながら呼吸している。死というのは、黒と白のどちらかというより、むしろ実際にはグレーだ。曖昧な中間というものがある。彼は死んでいた、少なくとも半分は。あれを生きていると呼べるのだろうか?なぜ人はそうまでして生きなければならないのだろう?ここに何かから与えられた暴力の徴を感じるのは私だけだろうか?彼の鼻に差し込まれた太い管のなかを、ときおり緑色をした痰が通過した。彼の生命そのもののような、深い緑色をした痰が。5秒に一度、彼の鼻はゴウゴウと轟音を立てた。聴いたこともないような音だ。その音を聴くと、人は自分が健康であることが恥ずかしくなる。生きることが恥ずかしくなる。彼は生きているのだろうか?生きている、と自覚しているのだろうか?彼はコポコポと音を立てて呼吸をし、長い時間をかけて私の前へやってきた。なにか強い意思を持って。出来る限りの必死さで笑みを保ちながら。笑みを保つためだけで、彼の生命はへし折れてしまいそうだった。取り出した一冊のノートをテーブルへ乗せると、彼はそこへ文字を書いた。ノートは方眼紙で、ページが埋まるたびに彼はそれを一枚めくった。初めまして、と彼は書いた。「初めまして、お名前は?」と。それからペンを差し出した。ペンは安っぽく、ひどい脂でべといついていた。触りたくないほどだった。男の指から滲み出る、しつこく不潔な脂だった。私が名前を書くと、彼は笑った。それからこう書いた。「ところで、お話は変わりますが、今行きたいところはありますか?」、と時刻表を開きながら。そして看護婦が呼びに来た。時間というのは常に足りないか余るかのどちらかだ。いずれにせよ自分のものには永久にならない。どれだけ欲しても。人は時間から離れて生きられないのに。
あるとき、私は病室へ入った。たったひとりで行った。祖母の見舞いにいくために。いまや誰も行こうとせず、誰も彼女を心の底から気にかけてはいない。祖母はすでに故郷を離れ、友人もいなければ、彼女を愛す家族もいない。自分の最期を看取ろうとするのが、ほとんど会話もしたことのない孫だというのは、どういう気持ちなのだろう?私をどういう感情で見ているのだろう?見舞いにいく他の時間、祖母がなにをしているのか私は知らない。彼女は何を好み、何を嫌うのだろう?どう生き、どのようにしてここにいるのだろう?私は祖母についてなにも知らない。彼女が長い人生のトンネルを抜けてこのベッドに眠り、私の目の前にいるというのが私には信じられない。いったい私たちは、お互いにどんな責任があるためにここでこうしているのか?祖母は死に瀕し、人生に疲れ果てていた。彼女は、人生は私にはわからぁん、といつか語った。私が人生について尋ねたからだ。好奇心から出た質問だったが、祖母がつらそうに答えるのを見て私は罪悪感を抱いた。その罪悪感は今も残っている。彼女はすでに消えたのに。祖母は耳が聞こえない。私はいつも文字を書いて彼女と会話した。彼女はいつも眠るか、起きているときでさえ眠っているようだった。目が覚めると、わずかにまぶたを開いて私を見つめた。懇願するような視線を彼女は私へ向けた。何を求め、何を言おうとしていたのか?あの視線の訴えようとした何かが、私の頭から離れない。彼女の眼は、黄色いキャンディー、“チュッパチャップス”のようだった。溶けかけて、濁っていた。あの眼に、なんて答えれば良い?どんな顔をすれば良い?人生に疲れ果てていない人間などいるのだろうか?子供を除いて?犬や猫や、動物を除いて?痴人や聖者を除いて?植物や太陽や、路端に転がる石を除いて?私はまだ見たことがない。見たいといつも願うのに。願いながら私はいつも諦めている。人というのは、いつも諦めながら願いたがる。私には、酒の空き瓶でさえ疲れているように見える、人生に。誰の人生もその酒瓶同様に空っぽだ。人は疲れ果てるために生きているように見える。疲労こそが人生だ。その日、空は晴れていた。誰も見ないのに。誰も見ない空が晴れる理由はなんなのだろう?どこの病室もカーテンは閉められていた。重く、湿った、ベージュのカーテンだ。その隙間から差し込む一筋の光が、埃を宙で揺れさせた。TS Eliotの詩を思い出す風景だ。私の周りはいつもTS Eliot的風景で溢れている。通り過ぎるとき、別の病室の寝たきりの老人と目が合った。くたびれた雑巾のような姿で老人は寝そべっている。老人の眼は虚ろで、黄色い“チュッパチャップス”のようだった。溶けかけて濁っていた。あの視線の、その線上を通るのが嫌だった。生きているのが恥ずかしくなるからだ。祖母の病室へむかうあいだ、いつも私はこう願った。あの視線が廊下へ向いていないように、と。にも関わらず、彼とはいつも眼が合った。私が願うからだろうか?私は気づいていた。眼が合わないように願いながら、どこかで眼が合うように願っている自分に。病院の匂いというのは、いつも人を憂鬱に落ち込ます。あるいは、自分は部外者に過ぎないのだ、と人に思わせ、疎外する。この冷たい疎外された感覚のなか、なにをすべきなのだろう?なぜ病院で人は部外者になるのだろう?患者の親族のはずなのに。親族は心配するフリをするか、下世話なジョークを廊下で交わすしかない。葬式や病院や、災害の合った日になると人は必ず下世話なジョークを交わすだろう。いずれにせよ私たちは疲れている。祖母は病室のベッドで眠り続け、ときおり伸びきった足の爪で、ふくらはぎを掻いた。肌を擦る硬い音がした。爪は歪み、黄色く変色していた。古びた樹木のように。長い年月の徴がそこにはある。彼女の疲れ果てた魂のように。爪を切ろう、と私が言うと、彼女は切らなくて構わない、と言った。どうせ先はもう長くないから、と。こんなとき、どんな顔をすれば良い?なにを言えば良い?私の人生に対する困惑は、いつもどう振る舞えば良いのかわからない、というところにあるように思える。そもそも、正しい振る舞いというものがあるのだろうか?生きるというのは困惑するということだ。人は常に困惑している。彼女は私が去ろうとするといつも、「ありがとうございます」と頭を下げた。まるで他人のように。彼女は看護婦とのほうに、より親密に会話する。私よるはるかに。実際、私と祖母は家族というより他人だからだ。待ち時間が膨大にあるために、私は待合室で暇を潰した。古びた本と、古びたビデオがそこにはあった。そのうちのひとつを摘むと、指が埃でべとついた。どちらも誰も触れないインテリアと化していた。触れるほどの気力が彼らにはないからだ。潰す暇などないからだ。そこで待つ私はある音を耳にした。錆びた鉄が川底で擦れるような嫌な音を。あの音がいまも耳から離れない。ふとした瞬間につい思い出す。車でドライブスルーへ入ろうとする瞬間などに。スーパーで、カゴを取ろうとしたときなどに。記憶というのは、断片化されたガラスのようなものだ。常に頭上から降りかかろうとする。ひとりの男性がそこへやってきた。痩せこけた、骨と皮しかないひとりの老人が。苦しそうに、車椅子を漕ぎながら。膝のうえにウェットティッシュの箱と、一冊の時刻表を抱えながら。なぜそれを、それほど大事そうにしているのだろう、一瞬私はそう考えた。看護婦に与えられるままに、そこへ乗せ続けているのだろうか、と考えた。なぜ人はこれほど、死にかけの老人に嫌悪感を抱くのだろう?醜いと感じるのだろう?そしてすぐ、“そう考えるべきではない”と考えるのだろう?この一連の流れは一瞬にして通り過ぎる。時そのもののように。彼はまるで、おもちゃの骸骨だった。人間というより骨だった。たった今、墓場から出てきたばかりのようだった。生きているというより、死にながら呼吸している。死というのは、黒と白のどちらかというより、むしろ実際にはグレーだ。曖昧な中間というものがある。彼は死んでいた、少なくとも半分は。あれを生きていると呼べるのだろうか?なぜ人はそうまでして生きなければならないのだろう?ここに何かから与えられた暴力の徴を感じるのは私だけだろうか?生きなければならない、という巨大な妄想はどこから生まれたのか?彼の鼻に差し込まれた太い管のなかを、ときおり緑色をした痰が通過した。彼の生命そのもののような、深い緑色をした痰が。5秒に一度、彼の鼻はゴウゴウと轟音を立てた。聴いたこともないような音だ。その音を聴くと、人は自分が健康であることが恥ずかしくなる。生きることが恥ずかしくなる。彼は生きているのだろうか?生きている、と自覚しているのだろうか?自覚できる脳があるのだろうか?彼はコポコポと音を立てて呼吸をし、長い時間をかけて私の前へやってきた。なにか強い意思を持って。出来る限りの必死さで笑みを保ちながら。笑みを保つためだけで、彼の生命はへし折れてしまいそうだった。実際、へし折れているかのように見えた。取り出した一冊のノートをテーブルへ乗せると、彼はそこへ文字を書いた。手は震えていた。ノートは方眼紙で、ページが埋まるたびに彼はそれを一枚めくった。自販機でジュースを買う太った中年女性がこちらを向いた。彼女の困惑した眼を憶えている。初めまして、と彼は書いた。「初めまして、お名前は?」と。それからペンを差し出した。ペンは安っぽく、ひどい脂でべといついていた。触りたくないほどだった。男の指から滲み出る、しつこく不潔な脂だった。私が名前を書くと、彼は笑った。それからこう書いた。「ところで、お話は変わりますが、今行きたいところはありますか?」、と時刻表を開きながら。そして看護婦が呼びに来た。祖母の病室へ向かうと母がいた。母は言った。「あぁ、疲れた、もう疲れた、わたしももうはよ死なな」と足元を見つめながら。時間というのは常に足りないか余るかのどちらかだ。いずれにせよ自分のものには永久にならない。どれだけ欲しても。人は時間から離れて生きられないのに。
あるとき、私は病室へ入った。たったひとりで行った。祖母の見舞いにいくために。いまや誰も行こうとせず、誰も彼女を心の底から気にかけてはいない。だがそのことを誰が責められるだろう?人は誰もが疲れ果てている。祖母はすでに故郷を離れ、友人もいなければ、彼女を愛す家族もいない。そうなるまで生きなければならない理由というのが、果たして人間にはあるのだろうか?自分の最期を看取ろうとするのが、ほとんど会話もしたことのない孫だというのは、どういう気持ちなのだろう?私をどういう感情で見ているのだろう?見舞いにいく他の時間、祖母がなにをしているのか私は知らない。彼女は何を好み、何を嫌うのだろう?どう生き、どのようにしてここにいるのだろう?私は祖母についてなにも知らない。何も知らない人物を、なぜ人は祖母と呼ぶのだろう?彼女が長い人生のトンネルを抜けてこのベッドに眠り、私の目の前にいるというのが私には信じられない。いったい私たちは、お互いにどんな責任があるためにここでこうしているのか?なぜ私たちは互いに、互いを気遣って気まずい想いを抱いているのか?かつて、私と祖母のあいだで心が通い合う瞬間というのがあっただろうか?私にはあったと思えない。祖母は死に瀕し、人生に疲れ果てていた。疲れ果てた末の姿に見えた。彼女は、人生は私にはわからぁん、といつか語った。私が人生について尋ねたからだ。好奇心から出た質問だったが、祖母がつらそうに答えるのを見て私は罪悪感を抱いた。笑って答えてくれると思ったからだ。でもそうはならなかった。人は人生について笑いながらは語れないからだ、本心からは。その罪悪感は今も残っている。彼女はすでに消えたのに。祖母は耳が聞こえない。私はいつも文字を書いて彼女と会話した。私は文字を書き、彼女はぎこちなく話した。耳が聞こえないので、彼女の訛りは直らない。とっくに故郷は離れたのに。そのせいか、彼女の存在は常に異邦人の雰囲気があった。常になじまないからだ。彼女はいつも眠るか、起きているときでさえ眠っているようだった。目が覚めると、わずかにまぶたを開いて私を見つめた。わずかに開いたあのぞっとするような隙間から。隙間というのは、なぜこうも人をぞっとさせるのか?懇願するような視線を彼女は私へ向けた。何を求め、何を言おうとしていたのか?あの視線の訴えようとした何かが、私の頭から離れない。記憶というのは、断片化されたガラスのようなものだ。常に頭上から降りかかろうとする。あるいは“常に突き刺さっている”と言って良い。彼女の眼は、黄色いキャンディー、“チュッパチャップス”のようだった。溶けかけて、濁っていた。今にも、零れ落ちそうだった。あの眼に、なんて答えれば良い?どんな顔をすれば良い?人生に疲れ果てていない人間などいるのだろうか?子供を除いて?犬や猫や、動物を除いて?痴人や聖者を除いて?植物や太陽や、路端に転がる石を除いて?酔っぱらいを除いて?私はまだ見たことがない。見たいといつも願うのに。願いながら私はいつも諦めている。人というのは、いつも諦めながら願いたがる。願いというのは、どこかで諦めそのものだ。私には、酒の空き瓶でさえ疲れているように見える、人生に。誰の人生もその酒瓶同様に空っぽだ。せいぜい水滴があるだけだ。人は疲れ果てるために生きているように見える。疲労こそが人生だ。ほかになにもない、人生には。その日、空は晴れていた。マラルメが憂鬱を感じた青空だ。誰も見ないのに。誰も見ない空が晴れる理由はなんなのだろう?望まなくても空が晴れる意味は?なぜ人が望まない風景が世界にはあるのだろう?望んだ通りの風景だけがあれば良いのに。どこの病室もカーテンは閉められていた。重く、湿った、ベージュのカーテンだ。その隙間から差し込む一筋の光が、埃を宙で揺れさせた。TS Eliotの詩を思い出す風景だ。私の周りはいつもTS Eliot的風景で溢れている。世界とは荒野だ、どんな瞬間も。枯れ果て、目に見えないどこかで、水の音がするだけだ。地面は常に割れている。通り過ぎるとき、別の病室の寝たきりの老人と目が合った。合いたくないのに。くたびれた雑巾のような姿で老人は寝そべっている。彼は雑巾そのものだ。老人の眼は虚ろで、黄色い“チュッパチャップス”のようだった。溶けかけて濁っていた。あの視線の、その線上を通るのが嫌だった。生きているのが恥ずかしくなるからだ。私はいつも恥ずかしい、生きているということそのものが。祖母の病室へむかうあいだ、いつも私はこう願った。あの視線が廊下へ向いていないように、と。にも関わらず、彼とはいつも眼が合った。私が願うからだろうか?私は気づいていた。眼が合わないように願いながら、どこかで眼が合うように願っている自分に。人というのは、真逆のことを同時に願うものだ。彼と眼があった瞬間、嫌気を感じながら私はどこかで喜んでいなかっただろうか?彼の視線を求めてはいなかっただろうか?不幸というのは、どこかで快楽だ。病院の匂いというのは、いつも人を憂鬱に落ち込ます。あるいは、自分は部外者に過ぎないのだ、と人に思わせ、疎外する。この冷たい疎外された感覚のなか、なにをすべきなのだろう?なぜ病院で人は部外者になるのだろう?患者の親族のはずなのに。なぜ人は当事者になれないのか?親族は心配するフリをするか、下世話なジョークを廊下で交わすしかない。葬式や病院や、災害の合った日になると人は必ず下世話なジョークを交わすだろう。心が休まるからだ。なぜ下世話なジョークで人の心は癒えるのか?いずれにせよ私たちは疲れている。疲労こそが人生だ。ほかになにもない。せいぜい水滴しか。まるで空いた酒瓶のように。祖母は病室のベッドで眠り続け、ときおり伸びきった足の爪で、ふくらはぎを掻いた。肌を擦る硬い音がした。あの音がいまも耳から離れない。ふとした瞬間につい思い出す。車でドライブスルーへ入ろうとする瞬間などに。スーパーで、カゴを取ろうとしたときなどに。記憶というのは、断片化されたガラスのようなものだ。常に頭上から降りかかろうとする。あるいは“常に突き刺さっている”と言って良い。爪は歪み、黄色く変色していた。古びた樹木のように。長い年月の徴がそこにはある。彼女の疲れ果てた魂のように。魂というのは樹木だ。ただ古びるしかない。爪を切ろう、と私が言うと、彼女は切らなくて構わない、と言った。どうせ先はもう長くないから、と。こんなとき、どんな顔をすれば良い?なにを言えば良い?私の人生に対する困惑は、いつもどう振る舞えば良いのかわからない、というところにあるように思える。私は常に、この世界に戸惑っている。そもそも、正しい振る舞いというものがあるのだろうか?あるとは私には思えない。あるように見せかける人がいるだけで。生きるというのは困惑するということだ。人は常に困惑している。人生とは困惑のことだ。あるいはその連続のことだ。連続しなければ人は死ぬだけだ。彼女は私が去ろうとするといつも、「ありがとうございます」と頭を下げた。まるで他人のように。彼女は看護婦とのほうに、より親密に会話する。私よるはるかに。実際、私と祖母は家族というより他人だからだ。血が繋がっているというだけで、親密にならなければならない理由がどこにあるのだろう?なぜ人はそう思い込むのだろう?彼女と私は他人だ。そうは見せないが、祖母が内心でそう思っているのを私は知っている。彼女が私を見る眼差しは、他人を見る眼差しだ。実際に他人だからだ。その他人に、最期を見とられようとする彼女の気持ちはどんなものだろう?自分の最期を看取ろうとするのが、ほとんど会話もしたことのない孫だというのは、どういう気持ちなのだろう?私をどういう感情で見ているのだろう?見舞いにいく他の時間、祖母がなにをしているのか私は知らない。彼女は何を好み、何を嫌うのだろう?どう生き、どのようにしてここにいるのだろう?私は祖母についてなにも知らない。何も知らない人物を、なぜ人は祖母と呼ぶのだろう?彼女が長い人生のトンネルを抜けてこのベッドに眠り、私の目の前にいるというのが私には信じられない。なぜ彼女はここにいるのか?いったい私たちは、お互いにどんな責任があるためにここでこうしているのか?なぜ私たちは互いに、互いを気遣って気まずい想いを抱いているのか?かつて、私と祖母のあいだで心が通い合う瞬間というのがあっただろうか?私にはあったと思えない。待ち時間が膨大にあるために、私は待合室で暇を潰した。古びた本と、古びたビデオがそこにはあった。名作はそこにはない。たてまえで置かれているだけだからだ。そのうちのひとつを摘むと、指が埃でべとついた。埃というのはいつもべとつく。なぜだろう?どちらも誰も触れないインテリアと化していた。触れるほどの気力が彼らにはないからだ。潰す暇などないからだ。誰が残り僅かの人生を、暇を潰して過ごすだろう?あるいは、どんな行いすらも、暇つぶしにすぎない。人生とは暇つぶしだ。誰が否定しようとも。そこで待つ私はある音を耳にした。錆びた鉄が川底で擦れるような嫌な音を。ざらついたヤスリを、舌で舐めるようなあの音を。その音がいまも耳から離れない。ふとした瞬間につい思い出す。車でドライブスルーへ入ろうとする瞬間などに。スーパーで、カゴを取ろうとしたときなどに。記憶というのは、断片化されたガラスのようなものだ。数千の景色がそのガラスに映っている。そして常に頭上から降りかかろうとする。あるいは“常に突き刺さっている”と言って良い。人間というのは、記憶のガラスが刺さった間抜けなにかだ。ひとりの男性がそこへやってきた。痩せこけた、骨と皮しかないひとりの老人が。苦しそうに、車椅子を漕ぎながら。膝のうえにウェットティッシュの箱と、一冊の時刻表を抱えながら。なぜそれを、それほど大事そうにしているのだろう、一瞬私はそう考えた。看護婦に与えられるままに、そこへ乗せ続けているのだろうか、と考えた。なぜ人はこれほど、死にかけの老人に嫌悪感を抱くのだろう?醜いと感じるのだろう?感じざるを得ないのだろう?そしてすぐ、“そう考えるべきではない”と考えるのだろう?この一連の流れは一瞬にして通り過ぎる。時そのもののように。時だ、すべては時に支配されている。彼はまるで、おもちゃの骸骨だった。彼の眼の端にへばりついた黄色い目やにをよく憶えている。臭い立つような、存在感の強い目やにだった。彼は人間というより骨だった。たった今、墓場から出てきたばかりのようだった。生きているというより、死にながら呼吸している。死というのは、黒と白のどちらかというより、むしろ実際にはグレーだ。曖昧な中間というものがある。彼は死んでいた、少なくとも半分は。あれを生きていると呼べるのだろうか?人はそう呼ぶのだろうか?なぜ人はそうまでして生きなければならないのだろう?ここに何かから与えられた暴力の徴を感じるのは私だけだろうか?生きなければならない、という巨大な妄想はどこから生まれたのか?その妄想の果てに、ここにいる彼らが生きることそのものにひたすら苦しんでいることを知っているのだろうか、妄想を生み出したその人物は?知らないと私は信じる。だから憎む、その誰かを。彼の鼻に差し込まれた太い管のなかを、ときおり緑色をした痰が通過した。彼の生命そのもののような、深い緑色をした痰が。あの痰を見て、どう感じたら良い?どう考えたら良い?5秒に一度、彼の鼻はゴウゴウと轟音を立てた。聴いたこともないような音だ。その音を聴くと、人は自分が健康であることが恥ずかしくなる。生きることが恥ずかしくなる。彼は生きているのだろうか?生きている、と自覚しているのだろうか?自覚できる脳があるのだろうか?自分が生きている、と気付けないほど長く生きる価値は、果たして人間にあるのだろうか?あると、なぜ信じなければならないのだろう?彼は生きているというよりは死んでいる。死にながら呼吸している。彼はコポコポと音を立てて呼吸をし、長い時間をかけて私の前へやってきた。なにか強い意思を持って。出来る限りの必死さで笑みを保ちながら。笑みを保つためだけで、彼の生命はへし折れてしまいそうだった。実際、へし折れているかのように見えた。老人になると誰もが生命がへし折れる。取り出した一冊のノートをテーブルへ乗せると、彼はそこへ文字を書いた。丁寧に書いた。手は震えていた。ノートは方眼紙で、ページが埋まるたびに彼はそれを一枚めくった。一枚めくるのに3分かかった。自販機でジュースを買う太った中年女性がこちらを向いた。彼女の困惑した眼を憶えている。あの眼に対し、私はどんな顔をすれば良い?どう感じたら良い?初めまして、と目の前の彼は書いた。「初めまして、お名前は?」と。それからペンを差し出した。手を震わせながら。ペンは安っぽく、ひどい脂でべといついていた。触りたくないほどだった。男の指から滲み出る、しつこく不潔な脂だった。なぜ生命はこうも不潔なのだろう?消えかけた彼の生命すら、なぜこうも汚いのだろう?私が名前を書くと、彼は笑った。それからこう書いた。「ところで、お話は変わりますが、今行きたいところはありますか?」、と時刻表を開きながら。彼は“コミュニケーション”を求めていたのだ。こんな時、どんな顔をすれば良い?どう考えたら良い?死にかけの彼ですら、人との交わりを求めることに対し、私はどう考えたら良い?北海道、と私が答えると、彼は「では、5分下さい」とそこへ書いた。すでに時刻表に没頭しながら。死に瀕してなお、人との交流を求める彼に対し、私はどう考えたら良い?どんな顔をすれば良い?彼の、コミュニケーションを求めてのあの、必死に車椅子を漕ぐ姿を、どう感じたら良い?そして彼は笑いながら、ウェットティッシュの箱を開き、そこから一枚を摘み私へ差し出した。私の手が、彼の指先の脂で汚れるのを気遣ってのことだった。彼はそのために、大事そうにウェットティッシュを抱えていたのだった。こんなとき、どんな顔をすれば良い?どう思えば良い?私は恥ずかしかった。彼に対して感じた嫌悪感と、生きているということそのものが。そして看護婦が呼びに来た。祖母の病室へ向かうと母がいた。母は言った。「あぁ、疲れた、もう疲れた、わたしももうはよ死なな」と足元を見つめながら。こんなとき、どんな顔をすれば良い?どう思えば良い?時間というのは常に足りないか余るかのどちらかだ。いずれにせよ自分のものには永久にならない。どれだけ欲しても。人は時間から離れて生きられないのに。そうして過ぎゆく時に対し、私はどう感じ、どう考えたら良い?
言葉にできない、私にはとても。
くぅ〜w