野槌 第2話
作中、フミの過去について触れたり触れなかったりしますが、それは『猫又』という話で明かされますので、「まあ、なにかあったんだろうな」程度に思っていてください。
「この山は一昔前、神隠しの山だと言われておった。ここへ安産祈願の札を貰いにきて、それっきり消息を絶った者も多い。悪いことは言わないから、来た道を通って帰りなさい」
神主は念を押すように、もう一度言った。「来た道を通って、帰りなさい」
フミは自分の手に握られた御札を無言で見つめ、やがて観念したように頷いた。神主は強張らせていた表情を弛緩させると、肩を落としてにこりと笑った。
「さあ、はやく帰りなさい。足元に気をつけて」
私はお礼のひとつぐらい言おうと思ったが、神主がせかすような素振りで手を払うので、フミと共に戸外へ出た。戸がゆっくりと閉まり、神主の姿が閉ざされる。私とフミは目を合わせてきょとんとし、やがて肩を並べて小屋から離れた。石畳をたどって鳥居の下にまで戻ってくると、小屋のほうからお経のような声が聞こえてきた。神主の声を聞いていると、背後を何物かが忍び寄ってきているような感覚を受け、はなはだ不気味だった。
そんな矢先、腕にフミの手が絡みついてきた。
「さ、行きましょうか」
私は初め、フミも背後から追ってくるお経が怖くて、私に身を寄せたのかと思った。けれど、いざ帰ろうと階段を一歩踏み出すと腕が反対方向に引っ張られていることに気付いた。
「どうしたのですか? こっちですよ」
振り向くとフミは平然とした顔で、脇の茂みへ私を誘おうとしていた。黒く塗りつぶされた草木のシルエットへ、何のためらいもなく突き進んでいく。私は慌ててフミの行動を制止しようとふんばったが、情けないことに運動不足の一途を辿る私では少女ひとりの力にも勝てなかった。
「まて、フミ、そっちじゃ、ない」
フミは自らの肩に私の腕を掛け、背負い投げをするような体勢になって遠慮なくぐいぐいと私の腕を引っ張る。どれだけふんばっても私の靴底は石畳の上を滑り、じゃりじゃりと砂が擦れる音を立てた。語らない彼女の後頭部を見て、それがむしょうに怖いものに思えた。
まさかこの場面でフミの怪奇が目を覚ましたのかと、私は思った。
かつて、彼女に憑いていた――猫又という怪奇。
けれど、そんな危惧もつかの間にフミはいつもの調子で言った。
「神主さんは、私たちが怖がって帰るようにと神隠しの山だなんて嘘を言ったのです。きっとツチノコを探して欲しくないんですよ。だって、ツチノコは捕まえると大金が貰えると聞きます。神主さんは自分で見つけて獲得金を独り占めにするつもりだったのです」
意気揚々と言うフミは、さらに引っ張る力を強くした。
「うちの事務所だって、いくらあっても足りないほどお金が必要なのですから、儲けられる場所はしっかり布石を打って置かないとっ」
「布石を打つ場所を間違っている気がするぞ」
「いいのです、そんなことは!」
フミはそう言いながら、渾身の力を込めるように、「やあっ!」と声を上げた。気を抜いていた私は引き込まれるように前のめりになり、驚いた拍子に掴まれた腕を思いっきり振りほどいた。そして、前のめりになった体勢を支えようとフミの背中に手をつき、それをそのまま押してしまった。
一瞬の出来事だった。
私に押されたフミはバランスを崩して、目の前の茂みへ頭から突っ込んだ。フミの姿は茂みに完全に呑まれ、それだけならばよかったのだが、茂みの向こうでフミの悲鳴がどんどん遠ざかっていくのだ。私は慌てて茂みへ近寄り、その茂みの向こう――神社の境内から外は急な斜面になっていることに気付いた。
フミは斜面を横転しながら、遠ざかっている。
私は何かを考える前に、足を踏み出して茂みへ飛び込んでいた。
「フミ!」
茂みの先は、また茂みだった。頬や腕、脚など身体全体に枝葉が擦れ、顔にはクモの巣が張り付いた。地は思ったよりも急な斜面になっており、私は転ばないことだけを祈った。
しかし、視界を枝葉で埋め尽くされては、走りにくいことこの上ない。それにつけ、もともとの疲労もあり、私の足はみるみるうちに言うことを聞かなくなった。自らの脚に足が引っかかり、私は走った勢いのまま前方へと転んだ。首やら腕やらふとももやら、腰やらかかとやら肩やらを強打しながら、私は茂みの中に屹立していた樹木の幹へ背中から激突した。視界が∞字にぐるぐると回り朦朧とするなか、背中の痛みだけが鮮明に響いた。
「フミ……!」
とことん運がないなと思いながら、私は掠れた声を出す。
視界のブレが治まり、まだ動けることが分かると、私は樹木を支えにしてゆっくりと立ち上がった。身体のいたる所に力が入らず、またいたる所に激痛があったが、フミの所在を確かめるまで気を失うわけにはいかなかった。
樹木を通りすぎると、すぐに坂の傾斜が落ち着いた。さらに前進するごとに平地へと近づき、茂みからも開放された。ふと気付くと満身創痍な私が立っているのは、樹木がぽつりぽつりと見受けられる一帯だった。足元には落ち葉が厚くかさばり、せめてここに落ちてこられたら落ち葉がクッションになり軽傷だったかもしれないと私は思った。
辺りを見渡してみるが、フミの姿はない。坂を落ちてきたのならば、私のように樹木に激突して止まるか、この平地で止まるしかない。けれども、坂のほうを見てみると、茂みから伸びている樹木は私が激突した一本だけだった。つまり、フミは必ずこの平地で止まっているはずなのだ。
「フミ……?」
一帯に夜風が通り抜け、揺られた樹木の葉たちが噂をするようにざわざわと鳴った。
「フミー!」
私の声は、夜の闇へ静かに溶けていった。
神隠しの山。
脳裏を、神主の言葉がよぎる。
それと同時に、私の身体も限界点に達し、不意に落ち葉へ膝をついてしまう。四つん這いの体勢になり、倒れまいと必死にふんばるが、ふとすると私はうつ伏せに寝そべっていた。頬をちくちくと落ち葉が突き、土の臭いが鼻の奥をなでる。
何も考えることができずに瞼を閉じようとした。
すると、頭上で落ち葉を鳴らしながらこちらへ近づいてくる足音があった。
ゆっくり顎を上げて、その足音の正体を見る。
「まったく。こんなナリじゃ、帰れないぞ」
私は平然と立つフミに言う。
服は土で汚れ、肌にもかすり傷がいくつかあるものの、フミは軽傷のようでよかった。
フミが何も言わず、平然としているので、私は「どうした?」と訊ねた。
「向こうに家があるのです」
フミは静かに言った。




