↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

燃やしたはずの帳面が、横領を暴いた

作者: 歩人
掲載日:2026/09/06

 秋の夕暮れは早い。

 窓の外に橙色の光が差し込んでいるあいだに、セリアは帳面の最後の一列まで目を通し終えた。燭台の炎が一度揺れ、数字の影が机の上を移動した。


 ディーツ男爵領の屋敷は小さかった。

 応接間に転用された一室は、かつて物置として使われていたらしく、羽目板の節目に鉄釘の跡が残っていた。窓枠は古く、隙間風が細く入り込む。秋の匂いが混じる——刈り取り後の麦の香と、遠くから流れてくる家畜の匂いと。けれども灯りは揺れなかったし、机も傾いていなかった。それだけで充分だとセリアは思う。


 帳面の数字が澄んでいる。

 青白く、薄い膜がかかっているような色をして整然と並んでいる。それがセリアの目に映る「正しい数字の色」だった。子どもの頃から変わらない。嘘をついている数字は赤みを帯び、輪郭がにじむ。改ざんが大きいほど色は深くなり、小さな誤差ならかすかな紅の霞が立つ程度だ。医師に見せたとき「珍しい色覚の一種です」と言われたが、それ以上の説明はなかった。


 扉をノックする音がした。


「ランドベック様、よろしいですか」


 ヴィクトル・ディーツが顔を出した。

 三束の麦を脇に抱え、右手に薄い帳面を持っている。男爵家当主にしては飾り気がなく、首元のぼたんは一つ外れたままで、長靴に土が残っていた。今日も牧草地を歩き回ってきたのだろう。農夫のような外見だが、屋敷に入るときは必ず扉を節度よくノックする。


「水路の修繕見積もりが届きました。確認していただけますか」


 セリアは作業中の帳面を脇に置き、新しいものを受け取った。

 目を滑らせる。材料費——澄んでいる。人夫賃にんぷちん——澄んでいる。日数計算——問題ない。石材運搬の欄だけが、微かに赤みを帯びていた。


「石材の運搬費が割高です。荷車一台あたり十二エルになっています。この辺境でも上限は九エルです」


「それは知りませんでした。三割も違うのですか」


「交渉すれば下がります。業者が土地勘を持っていないのか、あるいは知っていて高く出したかです」


 ヴィクトルは考えてから頷いた。


「交渉してみます。いつもありがとうございます」


「これは仕事です」


 ヴィクトルは帳面を受け取り、扉に向かった。しかしそこで振り返った。


「夕食を用意しています。厨房の者が待っていますから、終わったら下りてきてください。今夜は豆のシチューです」


 セリアは机の上に視線を戻した。窓の橙色はすでに薄れていた。


「あと少しで終わります」


「急かしているわけではありません。遅くなっても温めておきますから、無理しないでください」


 扉が静かに閉まった。

 豆を煮る匂いが、閉まりきらない隙間から入ってきた。


 七年ぶりに、帳面が信頼できるものに見えた——とセリアは気づいた。ただの数字が、ただ正直に並んでいる。運搬費の一欄を除いて、ディーツ男爵家の帳面はすべて澄んでいる。誤魔化しも、隠蔽も、積み重ねられた嘘の色もない。それがこれほど落ち着けるものだとは、この屋敷に来るまで忘れていた。


 二年目からの七年間、帳面を開くたびに赤みが目に入った。最初はかすかに、それが年を経るごとに深くなり、最後の一年は見開きが血の色で染まるように見えた。だからこそ今、ディーツの帳面の青白さが、ことのほか目に沁みた。


 作業を終え、燭台を持って廊下に出た。

 台所から豆を煮る匂いが上ってくる。秋の夜の空気が、窓の隙間から細く流れ込んでいた。




 セリアがヘルツェン侯爵家に入ったのは十八歳の冬だった。


 父、ランドベック伯爵は王都ケルダールでも名の通った紳士だったが、財務には疎かった。一方でセリアには、幼い頃から数字を読む目があった。帳面を開くと、正しい数字は青白く澄んで見え、誤りや誤魔化しは赤く滲む。その特性をどう使うかを考えたのは、父ではない。婚約の仲介役を担った遠縁の家臣だった。


 ヘルツェン侯爵家の長男フェルディナント・ヘルツェンとの婚約が整い、セリアは嫁入り前の修行として侯爵家の財務補佐を任された。正式には「将来の女主人としての研修」という名目だった。実質は帳面の管理を全面的に委ねられることだったが、セリアはそれを拒まなかった。数字の仕事は好きだった。


 最初の一年は穏やかだった。

 帳面の数字は清潔な青白さを保っていた。領地税収と支出の帳尻も合っていた。毎月末に集計し、不審な点を指摘し、翌月には修正される。それが仕事だとセリアは思っていた。


 転機は二年目の夏に来た。


 領地税収の一覧を精査しているとき、一欄の数字が赤みを帯びた。かすかな色だったが、はっきりとわかった。実績と帳簿のあいだに乖離かいりがある。百二十エル。端数のない数字だった。セリアはその瞬間、帳面の上で赤みが広がるのを見た。ちょうど紙に一滴の赤インクが落ちたときのように、じわりと。心臓が速く動いた。


 翌朝、財務次官クラーフトに問い合わせた。


「些細な記帳ミスです。ご心配なく、ランドベック様」


 クラーフトは涼しい笑顔で答えた。中年の、丸みのある男だった。実務に通じた有能な財務官吏として評判があった。笑顔の下に何があるかは見えない。数字だけが嘘をついていた。


 セリアは自分で再計算し、別の帳面に控えを取った。

 三年目に入ると、乖離は月ごとにじわりと拡大した。百二十エルが三百エルになり、八百エルになり、年間でまとめれば千五百エルを超えた。数字の赤みは深くなっていった。セリアは記録し続けた。証拠が積み上がれば、誰かが動くと信じていた。


 四年目の秋、セリアはクラーフトを執務室に呼んで詰問した。


「三年間の乖離を計算しました。累計で三千エルを超えています。これは個人の記帳ミスでは説明できません」


「ランドベック様、財務の細かい部分は専門家にお任せするのが——」


「わたくしが専門家です」


 クラーフトの笑顔がわずかに固まった。

 それだけだった。翌月、セリアの手元にあった控え帳が一冊消えていた。どこへ消えたかはわかった。証明できなかった。


 五年目の秋、セリアはフェルディナントの書斎に呼び出された。いや、呼び出したのはセリアの方だった。帳面を持ち、数字を並べ、机の上に置いた。


「七月から今月にかけて、合計四千エルを超える出入りが帳簿に記録されていません。国庫への報告義務に関わる金額です。独立した調査が必要です」


 フェルディナントは羽ペンから目を上げなかった。窓の外を見ていた。斜光が彼の横顔を照らしていた。


「セリア、君は帳面の話が好きだな」


「これは帳面の話ではなく、王国の財務法に関わる問題です」


 フェルディナントはようやく視線をよこした。


「帳簿など女の手遊びだ」


 言葉が石のように落ちた。

 室内が、その言葉の重さだけ狭くなった。セリアは帳面を持つ手に力が入るのを感じた。四年分の証拠を、この一言が無かったことにした。


「明日からは財務の仕事をクラーフトに戻せ。それが父上の意向でもある」


「わかりました」


 セリアは帳面を閉じた。それ以上は言わなかった。


 言えなかった。何を言えば通るのかが、その場では思いつかなかった。四年分の数字を並べても、この人には並んでいるようにしか見えないのだと、たった今わかったところだった。


 翌日から、帳面は正式にクラーフトの手に戻った。


 三月みつきで、支払いが止まり始めた。石工への未払いが積み、酒商が納品を渋り、厩番の給金が二度遅れた。クラーフトは数字を動かせても、数字の順番を知らなかった。四月目に、家令がセリアの部屋の扉を叩いた。名目は「確認のお手伝い」だった。帳面は机の上に置かれ、印は押されないまま、朝には答えが揃っていることになっていた。


 六年目も、七年目も、それが続いた。

 役職はない。署名も残らない。それでもセリアは、自分の手元に控えを取り続けた。日付、金額、経路、印影の癖。表の帳面に残らないものほど、丁寧に書いた。


 誰にも読まれない帳面を七年間書き続けることに意味があるのかを、考えなかったわけではない。考えても答えが出ないので、書いた。書いていないと、一日が終わらなかった。


 八年目の冬、婚約解消の書状が届いた。

 同封されていたのは「不正閲覧の疑い」と「機密漏洩」という二つの告発文だった。セリアが積み上げてきた証拠が、そのまま逆手に取られていた。記録した側と、働いた側が、入れ替えられていた。


 翌朝、七年分の帳面が書斎の暖炉で燃やされた。


 セリアは廊下に立って、煙の匂いを嗅いでいた。

 紙が燃える橙色の炎の中に、七年分の数字が消えていく。一列ずつ、一ページずつ。侍女に声をかけられてはじめて、足が動いた。荷物をまとめ、馬車に乗った。


 王都ケルダールを出て北へ向かう道で、手が震えているのに気づいた。


 止めようとして、止まらなかった。これから何を支えに立てばいいのかが、わからない。数字は覚えている。覚えていることに意味があるのかどうかが、わからない。


 馬車が二度揺れて、三度目に揺れたとき、指先の震えが止まった。


 七年分の帳面は燃えた——とセリアは思った。でも七年分の数字は頭の中にある。全部。消えない。




 雪の残る道を三日北へ揺られて、ディーツ男爵領の門前に辿り着いたのは、偶然だった。


 馬車の車輪が泥にはまって破損した。それがちょうど屋敷の前だった。扉が開き、長身の男が出てきた。農夫のような格好をしていたが、目に落ち着きがあった。


「なにかお困りですか」


「車輪が破損しました。修理できる職人をご存じでしょうか」


「職人なら一日かかります。今夜は泊まっていってください。狭い屋敷ですが、部屋はあります」


 セリアは迷わず頷いた。他に選択肢がなかった。


 夕食はシチューと黒パンだった。銀食器はなく、テーブルクロスも薄かったが、スープは長く煮込まれた旨味があった。主人は男爵家当主だと名乗ったが、食事中は使用人に丁寧に礼を言い、皿を自分で片付けようとして止められていた。


 食後、ヴィクトルが帳面を持ってきた。


「実は財務が苦手で、半年前に管理人が突然いなくなってしまって。自分でやっているのですが、どこかおかしい気がしていて。もしよければ見ていただけますか」


 セリアは帳面を受け取り、一ページ目を開いた。

 一目で、数字の三割が赤みを帯びているのがわかった。技量の足りない記録ではない。意図のある操作だ。月末に一定割合が「雑費」として計上されている。乖離のパターンに規則性がある。


「前の財務管理人が着任したのはいつですか」


「四年前です。父が亡くなった年です」


「四年分の帳面と、収支に関わる書類を全部出していただけますか。かなりの金額が帳面の外に出ている可能性があります」


 ヴィクトルの目が変わった。驚きというより、長い間ひっかかっていたことに答えが来たときの目だった。


「わかりました。倉庫にあるものを全部出します」


 翌朝から四日間、作業が続いた。

 ヴィクトルが倉庫から書状や領収書を引き出し、セリアが順に並べて検算した。複雑に見えたが、セリアの目には整然と並んでいた。正しい数字と赤みを帯びた数字が、はっきりと区別できた。


 二日目、領収書の束の中に不審なものを見つけた。

 正規の書類と書式がほぼ同じだが、印がわずかに異なる書類が混在していた。数字が深い赤をしていた。


「この領収書は偽造です。同じ取引が二重に計上されています」


 ヴィクトルは顔をしかめた。

「どうしてそれが一目でわかるのですか」


「数字の見え方が違います」


 それ以上説明する言葉を、セリアは持っていなかった。それ以上説明する必要もないと思っていた。


 四日目の夜、机に積まれた書類の前でセリアはヴィクトルに告げた。


「三年半で六千エルが消えています。この書類があれば、領主として王都に訴え出て回収できます」


 ヴィクトルはしばらく沈黙した。

 窓の外に白樺林が見えた。葉を落としきった白い幹が、雪明かりを弱く返していた。


 それから低い声で言った。

「ありがとうございます」


「感謝は要りません。数えれば出ることを、数えただけです」


「でも——あなたはここにいる必要がない。車輪はとっくに直っています」


 セリアは窓の外を見た。裸の枝に載った雪が、音もなく落ちるのが見えた。


「もう少し、いさせてもらえますか。帳面を整理するだけなら、一か月あれば充分です」


 ヴィクトルは頷いた。


 一か月が二か月になり、三か月になった。

 帳面の数字は少しずつ澄んでいった。ヴィクトルが細かく記録を付け始め、疑問点はすぐにセリアに持ってくるようになったからだ。


 数字の扱いは不器用だった。足し算を間違えることもあった。記帳の欄を取り違えることもあった。でも一度指摘されたことを、ヴィクトルは繰り返さなかった。何かがわからないとき、わからないとはっきり言った。「これが合わないのですが、理由がわかりません」と帳面を持って来た。恥ずかしそうにするでもなく、言い訳をするでもなく、ただ聞いた。


 それがセリアには珍しかった。七年間、「些細なミスです」と笑い飛ばされ続けた。七年間、真剣に話を聞いてもらえなかった。


 十月に小麦の収穫が終わった。初めて集計した収穫量をヴィクトルに渡したとき、彼は数字を三度確認して「本当に、そんなにあるのですか」と言った。セリアが「前の管理人の記録より三割多いです」と答えると、ヴィクトルは少しの間沈黙してから「ありがとうございます」と言った。前と同じ言葉だったが、声に何か別のものが混じっていた。


 秋が深まったある夜、収穫量の集計を終えたところで、ヴィクトルが湯を持ってきた。


「紅茶です。茶葉が粗末ですが」


「いただきます」


 セリアはカップを受け取った。ヴィクトルが向かいの椅子を引いて腰を下ろした。


「見ていてもいいですか」


「何をですか」


「作業しているのを。邪魔はしません」


 セリアは頷いた。ヴィクトルは、セリアが帳面を閉じるまでそこにいた。急かさず、邪魔もしない。ただそこにいる。


 それが心地よかった——と気づいたのは、作業が終わって顔を上げたとき、彼がまだそこにいたからだ。


「一つ、聞いてもいいですか」

 ヴィクトルが言った。

「どうぞ」


「あなたは王都から来たのですよね。何があったのですか」


 短い沈黙があった。

 燭台の炎が揺れた。


 セリアは帳面を閉じながら、短く話した。七年間のこと。フェルディナントのこと。証拠を積み上げ続けたこと。それが逆手に取られたこと。帳面が燃えたこと。


「証拠が燃えたから、諦めたのですか」


「帳面は燃えました。でも」


 セリアはカップを置いた。


「数字は頭の中にあります。七年分。全部」


 ヴィクトルは何も言わなかった。ただ頷いた。

 その夜、セリアは初めてよく眠れた。


 翌日から、セリアは旅の途中の宿で書き写した記憶の控えを、改めて清書し始めた。帳面は燃えたが、数字は全部覚えていた。一つも狂いなく紙に移せた。月別の乖離額。改ざんのパターン。七年間、クラーフトが使い続けた手法。証拠書を再構成するには充分な量だった。


 その帳面を、ヴィクトルは何も言わずに保管した。




 冬の初め、マリア・クレームから手紙が届いた。


 子どもの頃からの知人で、王都の社交界に通じた伯爵令嬢だ。送り状の差出人欄を見た瞬間、セリアは手が止まった。王都から手紙が来るとは思っていなかった。


 開封した。一文だけ書かれていた。

「先月から財務省に査察が入っています。ヘルツェン家が関係しているようです」


 セリアは手紙を二度読んだ。

 それから机の引き出しを開け、清書した数字の控えを取り出した。封をして、マリアへの返信に同封した。「必要なら使ってください」とだけ書き添えた。


 一週間後、二通目が届いた。

「クラーフト次官が自白しました。七年にわたる組織的横領が認定されました。あなたの控えが証拠として採用されています」


 セリアは手紙を畳み、窓の外を見た。

 雪が降り始めていた。窓枠の隅に、細かい粒が吹き溜まっていく。


 三日遅れの都市新聞が辺境に届くのは、週に一度、行商の荷に混じってだった。


 その週の紙面の一面に、財務省庁舎の名があった。王城に上げられた案件だけが載る欄だった。


 セリアは応接間の机で読んだ。査察団が冬の夜明けに踏み込んだこと。クラーフト財務次官が執務室で書類を抱えたまま壁際に寄ったこと。読み上げられた罪状——国庫横領、組織的共謀、七年間にわたる財務記録の改ざん。記者は、次官が「間違いありません」と言ったあと石床に両手をついた、とだけ書いていた。膝が折れた、とは書いていなかった。書く必要がなかったのだろう。


 セリアは紙面のその一行を、三度読んだ。


 あの人がわたくしの帳面を最初に笑ったとき、笑い方が固かったことを、覚えている。当時は、それが何なのか分からなかった。今なら分かる。分かったところで、どうにもならないことも分かる。


 紙が指の下でわずかに波打った。息が浅くなっていた。


 窓の外の雪は、まだ降り続いていた。白樺の枝に積もった薄い白が、光を返していた。




 翌週の新聞に、ヘルツェン侯爵家の名が出た。


 爵位剥奪(はくだつ)と財産没収。財務省の査察報告が枢密院へ上がり、陛下の裁可を経て決定されたこと。使者が夕刻に侯爵邸を訪ね、書斎で書状を渡したこと。エルンスト・ヘルツェン侯爵が書状を読み進めるうちに椅子に沈んだこと。記事は四段で終わっていた。七年かけて積んだ富が、四段で終わった。


 同じ便で、マリアからの三通目が来ていた。新聞に載らないことが書いてあった。


「書状が落ちたとき、暖炉の火が揺れたそうです。執事が息を吞んだ音まで聞こえたと」


 セリアはその一行のところで、目を止めた。


 暖炉の火。一年前、自分の帳面を吞んだのと同じ炉だ。同じ橙色が、今度はあの人の手元を照らしている。


 それを想像しても、炉の絵は浮かばなかった。浮かんだのは炉の前の床板の傷で、自分がそこに立って何を見ていたかまでは、もう思い出せなかった。忘れていることに、今まで気づかなかった。


 セリアは新聞を畳み、帳面を開いた。ディーツ領の数字は、今日も澄んでいた。


 フェルディナントがディーツ男爵領の門前に立ったのは、その四日後だった。


 セリアは応接間の机に向かっていた。扉が叩かれ、ヴィクトルが顔を出した。


「王都から人が来ています。フェルディナント・ヘルツェンと名乗りました」


 筆が止まった。書きかけの数字の下に、意味のない点が一つ増えた。


 会わなくていい、と誰かが言ってくれるのを待っている自分がいた。誰も言わなかった。ヴィクトルは扉のところに立ったまま、判断を待っていた。この人は代わりに決めてくれない。それがこの領地の作法だと、この一年で知っていた。


「通してください」


 入ってきた男の外套には泥が跳ねていた。三日の道を替え馬なしで来たのだと、汚れ方でわかった。頬が落ち、目の下が黒い。だが背だけは、七年間見てきたとおりに伸びていた。


 フェルディナントは部屋を見た。物置を転用した一室。羽目板の鉄釘の跡。隙間風。彼の視線が机の帳面の上で止まった。


「こんなところで、まだ帳面を開いているのか」


 セリアは立たなかった。膝の上で、指が一度きつく組まれた。


「ご用件を」


「枢密院に呼ばれた。四年前から不正を知っていて黙認したという証拠が揃っている、と言われた」

 フェルディナントは一歩前に出た。

「あれは君が書いたものだろう。君が書いたなら、君が違うと言えば済む」


「枢密院の立てた監査官三名が元の帳面と照合しました。数字に一点の相違もありません」


「数字の話をしているんじゃない」


「わたくしはそれ以外の話をしたことがありません」


 その一言で、彼の口が閉じた。


 セリアは初めて彼の顔を正面から見た。四年前、机の上に帳面を置いたとき、この人はそれを見なかった。今は見ている。見ているのに、読めていない。読めないまま、ここまで三日かけて来た。


 フェルディナントの喉が動いた。


「私は——君を、終わった人間だと。そう、思っていた。ずっと」


 声が途中でほどけた。膝が折れる音は無かった。ただ、背が上から順に崩れた。伸びていた背筋が肩から落ち、肩が胸に落ち、彼は机の縁に手をついた。指が板の上を滑って、爪が鳴った。


 セリアは、その音を聞いていた。


 七年間、この音を待っていたのだと思っていた。実際に聞いてみると、待っていた形とは違った。胸の奥に落ちてきたのは、勝ったという実感ではなく、もっと重くて名前のつかないものだった。うまく息が吸えない。数えれば止まると知っていたので、机の木目を七つ数えた。


 六つ目で、声が出せるようになった。


「帳簿は、手遊びではありませんでした」


 顔を上げたフェルディナントに、セリアは続けた。


「七年前から、わたくしはすでに知っていました。あなたが見なかっただけです」


 ヴィクトルが扉を開けた。何も言わなかった。フェルディナントは外套の泥を落とすこともせず、そのまま部屋を出た。馬車の車輪が黒土を噛む音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。


 十日後、マリアからの四通目が届いた。爵位剥奪と財産没収、フェルディナントの公職追放が確定したと、四行だけ書かれていた。


 セリアはその手紙を、帳面のあいだに挟んだ。




 冬が明けた春の初め、王城から使者が来た。


 ディーツ男爵領の小さな応接間で、使者は三つのことを告げた。名誉回復。婚約破棄の無効化。そして、財務省への帰還の打診。


 セリアは最後まで聞いた。

 使者が書状を読み終えると、静かに口を開いた。


「王都に、わたくしの帳面はもうありません」


 使者が顔を上げた。


「燃えたものは戻りません。数字は頭の中にあり、それはすでに届けました。名誉については——」


 セリアは間を置いた。窓の外では白樺の新芽が風に揺れていた。朝の光が机の帳面の上に落ちていた。数字は今日も澄んでいた。


「今の仕事が、わたくしの名誉です」


 使者は一礼して去った。




 その夕刻、ヴィクトルが外から戻ってきた。

 牧草地の排水を確かめてきたといい、長靴に土がついていた。洗い場で手を洗う音がして、しばらくして応接間に顔を出した。


「使者が来たと聞きました」

「はい」

「王都に戻るのですか」


 セリアは首を振った。


 ヴィクトルはそれを聞いて、目を細めた。それから椅子を引いて向かいに座った。机の上の帳面に目をやってから、視線をセリアに向けた。


「今日は、質問ではありません。頼みごとです。先に言っておきます、断ってもらって構いません」

「どうぞ」


 ヴィクトルは少しの間、机の木目を見ていた。


「この領地の帳面を、これからも見ていただけませんか」


 セリアは顔を上げた。


「帳面だけの話ではありません——」

 ヴィクトルは息を吸った。

「この領地を、一緒に作っていきたいのです。私にはまだ経験が足りません。財力も足りません。それでも、あなたがいればやっていける気がします。それと、もう一つ——」


 ようやく目が合った。


「あなたのそばにいたいのです」


 セリアは帳面を机に置いた。

 外では風が吹いていた。白樺が揺れる音がした。七年間、炎の中に落ちていく数字を見続けた手が、今は澄んだ青白い光の上にある。


「一つ、条件があります」

「なんでしょう」

「記録の付け方を、今の倍は丁寧に覚えてください。足し算の間違いを三か月に一度以下にする。それができるなら」


 ヴィクトルが声を立てて笑った。

 笑い声が応接間に響いた。セリアも、少しだけ笑った。


 それから、間があった。


 断る理由はない。それは分かっていた。分からないのは、信じていいのかどうかだった。七年、信じた相手が数字を燃やした。同じ形の失い方を二度する自分を、うまく想像できてしまう。


 想像できるのに、口が動いた。


「喜んで」


 言ってから、指先が震えているのに気づいた。今度は、止めようとも思わなかった。

 その夜、涙が一度だけ零れた。



歩人です。最後まで読んでいただきありがとうございました。


 数字を「色として見る」という稀な感覚を持つ令嬢の物語を書きたいと思い、今回の作品を執筆しました。七年間、正直に積み上げた証拠が一夜で灰になっても、頭の中にある数字は消えない——セリアが最後まで諦めなかった理由を、そこに置きました。「数字は嘘をつかない」という静かな確信が、七年間の彼女を支えていたのだと思います。


 恋愛については、ヴィクトルの不器用な誠実さを大切にしました。財産も経験も足りない、でも嘘をつかない。わからないことをわからないと言える人間のそばにいると、数字も澄んで見えるのかもしれません。「この領地を一緒に作っていきたい」という告白が、セリアへの最高の言葉になればと思って書きました。


 ざまぁの場面では、クラーフトとエルンストは王都で自分の重さに沈み、フェルディナントだけはセリアの目の前まで来て崩れます。四年前に帳面を見なかった人が、三日の道を来て、それでも読めないまま背中から崩れていく——その場に居合わせたセリアが感じたのは勝利ではなく、名前のつかない重さでした。「七年前から、わたくしはすでに知っていました。あなたが見なかっただけです」という一言に、それでも辺境の春を選んだ令嬢の芯が出ていればと思います。


◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇


婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。


▼ 公開中

・S01-P144「「判決が、片端から誤審になっている」——回収された証言録を、誰も読めていなかった」【法廷記録型】

・S01-P145「十年の調薬録が燃え、王都に毒が回った」【薬師型】

・S01-P146「三十四羽の鳩が一羽も帰らず、密偵網は声を失った」【異能型】

・S01-P147「手控え帳の最後の一行は「第三原本、要再確認」——王位継承は、そこで止まった」【古文書型】

・S01-P148「外交会議で王子が国名を取り違え、枢密院が動いた」【家庭教師型】


毎朝6時、新作更新中!


☆評価・ブクマ・感想をいただけると次作の励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。