猫路地さんの、いるところ
「キノコって何なの?」
彼女はいつもの口調でそう言った。
梅雨の雲は今日も絶好調。
泣きたいだけ泣いて、クラスメイトたちを恐ろしく不機嫌にした。
皆がため息をついて1日を過ごしているような、そんな気が滅入る雰囲気だった。
けれども私は皆と違う。
この季節が好きだ。
こぼれる雫を眺めるのが好きだった。
窓を垂れる雨粒が石を叩くのを見ると、心が落ち着く。
誰もいない放課後の教室だけが、私の居場所のようなそんな気がした。
それを打破したのがやたらと目立つ彼女の声。
ドアを蹴破らん勢いで入ってきたのは、隣のクラスの猫路地。
雨音が遠のく気配に小さくため息をついて、私はその猫路地に単純明快に答えた。
「菌類」
「へ〜。そっか〜」
「うん」
それだけを言うと、彼女は鼻歌交じりで私の前の席、机の上に腰を下ろす。
私よりだいぶ短いスカートの丈が揺れる。
そうして湿気た栗色の髪をいじって、抱えたおやつの袋に手を突っ込んだ。
今日のおやつは、のしたイカだった。
「え、終わり?」
「え?あ、うん。おわりだよ」
「開始も終わりも唐突すぎる」
あまりの突飛さに、思わず言ってしまった。
奴の調子に合わせるのは悪手だと分かっているにも関わらず。
「猫路地は縛られない自由な生き物ですから」
「あっそう」
「まるでキノコのほうしの如くね!」
「キノコと同じくらいヒッソリと静かにしてほしい」
始まった。
彼女はいつもこう。どうやったってペースを崩される。
「猫路地は静かでいい子だよ。その姿はまるで、湖畔に佇む一輪のブナシメジ...」
「こんなに目立つブナシメジは体に毒では?」
「斎岡さん。毒も食らわばナメコまで。そんなんじゃ、この先生きのこれないよ」
猫路地はわざわざ謎のバレエモドキのポーズを決めて、儚げに言った。
その姿はまさに、アホ以外の何物でもない。
ここで終わっていればよかったものの、思わず口を挟んでしまう私も、きっと彼女と同じアホなのだろう。
「定番中の定番な『ぎなた読み』をありがとう」
「定番薙刀読み?斎岡さんの必殺技?」
「定番な、ぎなた読み、ね。定番ってつく必殺技の弱さたるやこの上なしだよ」
「なんだ。必殺技じゃないんだ。んで、ぎなた読みって何サ?」
『ぎなた読み』
句読点の位置を間違えて読む言葉遊びの一種。
由来は「弁慶が、なぎなたを持って」を「弁慶がな、ぎなたを持って」と読み違えたところから来ているとかなんとか。それで『ぎなた読み』と呼ばれているらしい。
そう、私は説明した。
「このさきいきのこる。この先生き残る。この先生きのこる。なるほど。猫路地は完全に理解したよ」
「完全に役に立たない知識だけどね」
「完全に焼く、煮立たない知識?」
「無駄な間違いをしない。そもそも煮立たない知識って何?」
「慣用句でありそう。煮立たない知識。意味、いつまでたっても理解できない」
「自己紹介?」
「斎岡さん他にもないの?ぎなた読み」
「...ゆで卵とか」
「猫路地は卵茹でたことないよ?」
「ああ、興味はそっちなんだ」
「火は熱いからね」
「そうですか」
「ゆでたまご...あ、『ゆでた、孫?』へ〜、斎岡さんって没義道〜」
「なんだその反応」
「ちなみに猫路地は孫も茹でたことないよ」
「当たり前だろ」
「他にもある?ぎなた読み」
思わず考え込む。
奴の期待に応えてしまうのは悔しいけれど、なぜか答えずにはいられない。
「ここで履物をお脱ぎください、とか」
「ここでは着物を...、全裸強要ってこと?」
「強要ではないだろ」
「斎岡さん。欲求不満なの?」
「ちげえよ」
「他にもある?」
「...パン作った、とか」
「斎岡さん。欲求不満なの?」
「だからちげえよ」
「なら良いけどサ〜。でも、全裸強要とか無作法にも下着を貪ったとか言ってたら勘違いされちゃうよ?」
「誰もそんな事言っていないが?」
「それに、もう少しレベルの高い『ぎなた読み』が欲しいよ猫路地は。あまりにも斎岡さんの程度が低すぎるから侮蔑の視線を送るところだった」
「猫路地さんって急にナイフで刺すよね」
「そんな事ないよ。...あ『そんなことない』も、ぎなた読みだね。猫路地は閃いたよ。『そんなことない』『そんな子、都内』」
「しょーもな」
「斎岡さんよりよっぽど知的。教えて損しちゃったくらいだよ」
「『損なことない』だろ」
「お、うまいね〜。猫路地ポイント13点」
「何その半端なポイント」
「じゃあ次は斎岡さんのターンね」
「そういうシステムなんだ」
「抱腹絶倒、前代未聞、圧倒的強者なやつで頼むネ」
アホはそういってラッパーのような謎ポーズを決めた。
「私のハードル、上がりに上がって見えないんだけれども」
「今のはどこがぎなた読み?」
「違うわ」
「じゃあ猫路地の不戦勝だね。猫路地に猫路地ポイント千三百万と八十二点!」
「ひいきが過ぎるだろ」
「さあさあ斎岡選手!次の一手で逆転か!?」
「もう無理なのよ。この点差じゃ」
「まあまあ、そう言わず〜」
私の両頬に手が伸びる。
手の温もりが、湿気を通さず直接に伝わった。
まるでスクイーズでも弄ぶような彼女の手先を振り払う。
代わりにというように、味付きのイカが口内に突っ込まれた。
「...ねえちゃんとふろはいってる?とか」
「入ってるよ?」
「入ってるんだ」
「え?斎岡さん、入ってないの?梅雨なのに?汗ばむのに?」
「いや、入ってるよ?」
「斎岡さんって姉妹いたっけ?」
「君、どっちの話してんの?」
「ちなみに猫路地は一人っ子です」
「じゃあどこの姉ちゃんと風呂入ってるんだよ。怖いよ」
頬を弄ぶだけでなく、言葉でも私を蹂躙して、奴は猫のように伸びをした。
「う〜ん。いまいちだね。猫路地ポイントマイナス5億」
「もはやバグだろ」
「斎岡さん。まさか猫路地のみ、巣立って?」
「ミスだって、ね?何が巣立つのよ」
「菌糸」
「まだキノコ設定あったんだ」
「さあ、斎岡さんのターンじゃぞ」
「いまのもワンカウントなのね」
私は無言で、のしいかに手を伸ばした。
同時に猫路地もイカを食む。
多分、数分ぶりに静かな時間が流れた。
咀嚼音と雨音だけが鮮明に聞こえる。
私は一人の時間が好きだ。
だから、この季節が好きだ。
こぼれる雫を眺めるのが好きだった。
窓を垂れる雨粒が石を叩くのを見ると、心が落ち着く。
誰もいない放課後の教室だけが、私の居場所のようなそんな気がしていた。
少し前までは。
席を立つ。
おもむろに黒板まで向かって、わざと間違えてそう書いた。
千三百万点には届かないかもしれないけれど、私なりの最適解。
首をひねる彼女が、このぎなた読みの正解を導けたかは、わからない。
「...今方、のしいか持って思う?」
「うん」
「斎岡さん、持ってないじゃん。食べちゃったじゃん」
「そうかも」
私はニヤリと笑った。
しばし考え込んだ奴も、感づいたように笑った。
机から降りた彼女は、しなやかな足でこちらに向かって、そうしてチョークを手に、黒板いっぱいに文字をつづった。
『あなたお会いしてます』
その文字を見る視界の端で、猫路地はクスリと笑った。
ゆっくりと息を吐く。
「私の負けでいいや」
「ふふっ、猫路地のかちぃ〜」
そんな彼女の言葉に、私は答えない。
その答えは簡単で、今はまだ2人でおやつを分け合うことが楽しいからだ。
ただ、それだけ。
外ではまだ、雫が地面をたたいている。
静かなのに、雑踏は消えることはない。
これならきっと、私の鼓動も聞こえることはないだろう。
「猫路地さん」
「んー?」
彼女は気まぐれな猫のように、自分の頬を撫でた。
こんな時間が明日も明後日も続くのか、それは私にはわからない。
この梅雨だって、いつかは必ず終わりを迎えるときは来るだろう。
私はそれまで、この時間になったら猫路地が持ってくるお菓子を食べるのだ。
彼女がくれる酸いも甘いもを味わうのだって、悪くない。
「君はホント、煮立たない知識だな」
それに、明日も放課後は雨がふるそうだ。




